【番外】在沼と同棲(中)
最初の事件は――風邪だった。
それは春の小雨が降る日で、傘を持っていなかった俺は、濡れねずみになりながら帰宅したものである。エントランスに座り込み、湿ったスニーカーを脱いだ。急に振ってきたから本当にびっくりした。カバンはそばに立てかけておくことにして、スリッパをはいって中へと入り、タオルを取りに行く。それを頭からかぶりながら、大きくため息をついた。
――大学は自由だ。
本当に自由だ。そしてそこでは、高等部までのサロンの威光が霞に霞んでいる。
同時に、これまでにはいなかった、率先して話しかけてくる相手も非常に多い。
在沼はいつも誰かに囲まれている。基本的に美人に。どころか男のファンまでついている。
俺はといえばその隣で笑顔で立っていることが多い。
俺にも取り巻きのひとりやふたりできればいいのにな……! 俺の人生にはそんな経験はない。正直在沼が羨ましいのだが……だが……認めたくないが嫉妬している俺もいる。
もちろん俺たちが恋人同士なのだなんて、公には公言できない。それはまずい。
特に大学からは、女子学生もたくさん入ってくるわけだし、あの閉鎖されていた高等部までとは違うのだ。
本日は、在沼はサークルに勧誘されて、チラシをじっと見ていた。俺も、渡さないと悪いだろうというふうな顔で、チラシを渡された。全く興味がなかったが、在沼がまじまじと見ていたため、俺はいった。
「マキくん、せっかくのお誘いだし、いってきてみたら?」
というわけで、俺は行かず、本日は別々に帰宅することとなったのである。
ああそれにしても寒い。悪寒がする。
シャワーでも浴びて体を温めることにした。
俺と在沼はなんのこだわりがあるのかは知らないが、別々のシャンプー類を使っている。俺が在沼に言明されたのだ。いつも家で使っていたものを持って来いと。別に気にしていなかったから、首をひねったものである。この香りが好きなのだろうか? まぁ俺も嫌いではないが。だったら俺と同じものを在沼も使えばいいのにな。
シャワーから出て部屋着に着替え、俺はまっすぐ冷蔵庫へ向かった。
在沼がいるとすぐに乾かせとうるさいのだが、俺は結構適当な性格なのである。髪が痛むだろうと我がことのように気にする在沼は、なんだ、自分がハゲることを恐れて、周囲の頭皮具合も気になっているのだろうか? 在沼父はふさふさだったぞ?
ミネラルウオーターをのみ、キャップをしめて机の上に置いた。
ああ、シャワーを浴びたのに、まだ肩が重い。深くまたため息をこぼした時、ズキリと胸が痛んだ。嫌な予感がした。直後その予感通り、俺の口からは咳が出てきた。
軽い咳なんかじゃない。ぜーぜーいう重い咳だった。これは、あれだ。あれだな。
俺はひとり頷いた。風邪である。
まぁ一晩寝れば治るだろう。そんな風に楽観視して、二人で使っているベッドの片側に座った。寝ている間にうつるかも知れないなと思い直して、少し考える。リビングに無駄に広いソファがあるのだ。そっちで寝ておいたほうがいいだろうか? 在沼にうつったらいやだしな。ひとり頷いた俺は、毛布を引っ張り出してソファへと向かった。そこでくるまり、電気を消した。
「――れ、おい、誉」
「ん……」
頬をピトピトと叩かれて起こされた。突然明かりが点いたから、眩しくて再び目を閉ざす。
「どうしてそんなところで寝ているんだ? 風邪をひくぞ」
「マキくん今何時?」
「二時だ」
「遅かったね」
「見学の後食事にカラオケ飲み会飲み会飲み会だ。サークルがすごいのか大学生がすごいのかは知らないが、なかなか抜けられなくてな」
「お疲れ様」
大学生なんてそんなものだよと言おうと思ってやめた。俺の前世知識の大学と今の学生が同じかわからないからだ。
「それで? お前は?」
「うーん。ちょっと風邪気味だから、うつさないようにしようと思って。多分寝てれば明日の朝には治るよ」
思わず笑ってしまいながら俺が言うと、とたんに在沼の顔が険しくなった。
「熱は?」
「測ってないけど」
「測れ」
在沼はそう言うと、俺に体温計を差し出してきた。言われるがままに、測ってみる。
――9℃8。
見た瞬間めまいがして、俺はソファの上に倒れこんだ。
そんな俺を支えながら、片手で在沼が体温計を受け取る。そして眉間にシワを刻んだ。
「どこがちょっと風邪気味だと言うんだ。立派な風邪だ」
「大丈夫だって」
「向こうで寝ろ」
在沼はそういうと、ひょいと俺を抱き上げて寝室へと連れて行ってくれた。そして毛布とシーツをかぶせてくれる。そのはじを掴んで、俺は顔を出した。在沼を見守っていると、クローゼットの戸棚を開けていて、風邪薬の箱や冷却シートを取り出しているところだった。この家にそんなものがあることを、俺は全く知らなかった。
「飲め」
シートを俺の額に貼りながら、錠剤を手渡される。
近場にはちょうど良くミネラルウォーターのボトルがあった。静かに飲み込んでから、俺は大きく息をした。胸がぜーぜーと音を立てる。
「明日の朝になったら在沼のかかりつけ医を呼ぶからそれまで我慢しろ。なんならいますぐにでも」
「へ、平気だよ。眠れば大丈夫だよ。こうやってマキくんだって看病してくれてるし……ありがとう」
俺がそう言うと、珍しく素直に心配そうな顔をした在沼が、不意に屈んだ。
そして俺の額にキスをした。
「早く治れよ。心配で何も手につかなくなる」
なお俺はその後三日寝込んだ。在沼は宣言通り、何も手につかない様子で俺の看病をしてくれた。俺としては講義に出て俺の分のノートもとってきておいて欲しかったのだがわがままは言うまい。なにせ優しく看病してくれたのだからな!
それにしても在沼ってやっぱり馬鹿なのだろうか。一切在沼に風邪がうつる気配はなかった。幸いかかりつけ医の先生を呼び出すこともなく、こちら側から受診することもなく、風邪は二人で乗り越えることができた。
そんな一つ一つがちょっと嬉しかったりする。