【二十四】樹の神の力





 ――その後の俺の一生は、実にとりとめも無い日々の連続だったのだが、現在も続いている。

「まさかまだ生きているとはな。嬲り殺されたとばかり……」

 俺はエガルの家に身を寄せている。黄泉の国を知っていたエガルは――自信も甦った者だったそうで、不老なのだという。

「不死というのは、刻印があればいつでも復活できるという意味だ」

 いつかそう言って、エガルは背中に広がる青百合の刻印を俺に見せてくれた事がある。エガルに刻印を残した人物は、現在黄泉の国にいるそうだ。

「エガルは、呼び戻そうとは思わないのか?」

 この日俺は、何度目かになる質問を投げかけた。すると、またかといった表情で、エガルが嘆息した。

「俺の嫁は、体が弱かったからな。こちらの世でまた病で苦しむよりは、あちらで光として過ごす方が具合が良いらしい――と、何度言わせるんだ?」
「……俺は、今でもベリアス様を復活させたいと時に思うんだ」
「やめておけ。折角人の世が安定し始めたんだ。言っては悪いが冷酷非道な魔王などいない方が世のためだ」
「そうだな」

 否定できる要素がないから、俺はただ苦笑するばかりだ。
 きっと――これで良いのだろう。現在、俺は平坦だが穏やかな日々を送っている。というのも、一番大きな理由は、黒薔薇の刻印が疼かなくなった事が挙げられる。それは――理解したくはないが、黄泉の国で、魔王が刻印消去を行ったからだというのが、一番易い推測だ。つまり、ベリアスは、俺を解放してくれたのだろう。

「安心しろ、模様が消えない限りは、魂を見つけ出す事は出来る」
「……ああ」
「しかし魔王も、確かに元は人の子だったんだな。愛されていて良かったな」
「本当に愛があったのか、今でも俺には分からない。でも……恐らく俺は、愛していた」

 思い出は美化されるという。その記憶の中で、俺は優しい魔王の顔ばかり思い出している。確かに、俺に優しくしてくれた一時もあったのだ。失って明確に気づいたのだから滑稽だが、黒薔薇の刻印をされ伴侶になった事、その思い出には、今は後悔は無い。

「しかし子沢山だというのは、羨ましいな。お前と魔王、水の国の者との子、頻繁に手紙を寄越すじゃないか」
「もうひ孫もいる」

 思わず笑みを零した俺を、じっとエガルが見据えた。

「無理に孕まされたのに、愛せるものなのだな」
「子供は可愛い。罪は無い」

 攻め入ってきた勇者達の難を逃れた子供達もいたのだと、俺は生存していた事を知った時涙を流した。純粋に嬉しかった。今、皆は人間の国で、人に紛れて生活をしている。元々の肉体は人間であると言えるから、少しばかり魔力が強いとして押し通しているようだ。

「俺は幸福になれないのだと思っていたが、そんな事はないのかもしれない」
「ネルスの価値観は、俺とは異なるようだな。俺であれば、勇者に加担し、魔王を永久的に屠った自信があるぞ」
「……そうだな。それが、普通かもしれないな」
「絆される事は、優しさでは無い。はき違える事のないようにな」
「いいんだ、それでも。俺は、自分の手に入る幸せに、満足する事を覚えたんだ」
「それは諦めとは違うのか?」
「魔王も俺に、諦めろと言ったんだ。でも、俺は違うと思ってる。考えてみれば、物語のような幸福を、己の幸福として受け入れる者なんて少ないんだ。俺の人生は、これで良いんだ」

 自分に言い聞かせるように俺が述べると、エガルがカップを置いた。

「最近世間では、二つのお伽噺が人気だそうだ」
「お伽噺?」
「一つは、昔から大人気の、死神の話だ。黒薔薇の紋章を肌に刻んだ死神が、神の力が宿る王族達を根絶やしにしていき、魔王の妃となる悪役譚だ」
「……そうか」
「そしてもう一つ。最近生まれたお伽噺だ。お前の子孫が広めたのだろうな」
「え?」
「――攫われ、囚われの身となり、子を孕ませられた悲劇の王子と、攫ったはずが心を最後には奪われた魔王の話だという。既に魔王討伐劇から十数年が経過しているからな。魔王を別の観点から捉える物書きも現れたようだ」
「酷い冗談だな。俺が、魔王の心を奪ったなどという法螺話は、死神の物語より先に消えて欲しい」

 短く俺が吹き出すと、エガルが首を捻った。

「案外的を射ているのかもしれない。お前には辛い日々だったのだろうが、周囲から見ると、幸せもあったのでは無いかと考えさせられた」
「だから、俺は辛いだけじゃ無く、確かに幸せで――」
「ならばその幸せの記憶を、お前以外も目撃していたという事だ。良かったな」

 思わず息を呑む。いつか、俺を抱きしめてくれた魔王の腕の温もりが、甦ってきた気がした。

 ――俺は、それが嫌では無い。

「なぁ、エガル」
「なんだ?」
「とても幸せだと気づかされた。だから、黄泉の国に行こうと思うんだ」
「だから魔王の復活などやめておけと――」
「いいや、そうじゃない。俺を殺してくれ」

 もう、俺は満足だ。ただ、今では愛おしいと思えるようになった相手のそばで、過ごしたい。幸せを知った今だからこそ、悔いはない。やっと、臆病な心から、俺は解放されるようだ。

 驚いた顔をした後、すいとエガルが視線を逸らした。

「断る」
「友情を感じてくれているのならば――」
「違う。お前に害をなせば、死神の力で俺まで黄泉の国に行く羽目になるかもしれない」
「もう呪いなどないし、そんなお伽噺は……」
「まだ気づいていないのか? 結局の所、お前自身が全ての手を下しているに等しいんだぞ」
「……え?」
「お前は、樹の神の力を生まれながらに持っている。樹の神の力の本質は、脳の支配だ。お前が放っている魔力を感知し、お前に害なした者を屠るのに最適な存在が選び出され、そしてお前を救出しては、敵を滅ぼしている」

 初め、俺は何を言われているのか、理解出来なかった。

「――それじゃあまるで、俺が魔王を殺めたみたいに……」
「結果だけ見れば、そうなるな」
「違う、俺は本当に魔王を愛して――」
「お前が愛そうとも、樹の神の愛は及ばなかったのだろうな」

 嘆息したエガルを見たまま、俺は暫しの間硬直していた。