【二十六】歴史の生き証人の倖せ






「遅かったな」

 俺が島に足を踏みれてすぐ、声が響いてきた。視線を向ければ、蛍のような光が見えた。静かに手を伸ばすと、それが実体を持って、地に立った。

「……見ていたか?」
「ああ、ずっとな。我ながら躾けに成功していて自分を称えている。よく浮気をしなかったな」

 久方ぶりに見た魔王は、意地悪く笑ってから、俺の顎を持ち上げた。そのまま深く口づけられた時、俺の全身が歓喜で震えた。

「夢じゃ、無いんだよな?」
「ああ。腕輪の効果は、はっきりとこちらにまで響いてくる」
「もう何者も、ベリアス様を奪わないか?」
「可愛い言葉の語彙は増えたようだな」

 そう言うと魔王が、俺を強く抱きしめた。厚い胸板に手で触れながら、俯いて苦笑を隠した時、俺の目から涙が零れた。

「俺を愛しているか?」
「まさか。この俺が、お前みたいな存在を愛するはずが無いだろう?」
「そうか……」
「二度も俺を黄泉の国に送った罪、償えるとは思わない事だな」

 瞬間、ドクンと黒薔薇の刻印に熱が走った。俺は嬲られる事を覚悟していたのだが――その熱が、スッと引いた。布地の間に、それまで広がって見えていた黒い薔薇の模様が、消失していた。

「もうお前は、俺の伴侶ではない」
「っ」
「だから、もう俺を探すな」
「え?」
「俺を永遠に喪失する苦痛を味わえ。それが罰だ」
「な」
「――ただし、俺を忘れるな。いつも俺は、お前を見ている事に決めた。だから、幸せな顔をしていろ」

 そう言うと、魔王の体が透け始めた。狼狽えて抱きしめたのだが、そのまま光の粒子が溢れ、魔王だったものは、森の中に溶けてしまった。呆然としていると、最後に笑い声が聞こえた。

「最高の復讐が出来たようで、俺は満足だ。ただ、本当は、愛しているぞ、今でもな」

 自分勝手だとは知っていた。
 最後まで、魔王は非道だった。そのまま立ち尽くし、俺は唇を噛む。
 だが、笑顔を浮かべてみせる事にした。幸せな顔をしていろと、最後に言われたからだ。

 その後、人の国に帰還した俺は、エガルの家が朽ち果てている事に気がついた。一通の手紙が残されていて、『一人で生きろ』と書かれていた。達筆な文字は、間違いなくエガルのものだった。

 黒薔薇の刻印が消えた体で、俺の新しい生活が始まった。
 生きる術は、もう教わっていたし、潤沢な魔力もある。
 足の傷は癒えないから、ゆっくりとしか歩く事は出来ない。だが、それは俺の人生の進み方も牛歩だから、生まれつきの速度だと思う事にしている。

「賢者様ー!」

 エガルの家を勝手に修復して暮らす内、俺は賢者と呼ばれるようになった。魔法薬の知識を、街の者達は有り難がってくれるのだ。子供達が、時折こうして遊びにきては、俺の作ったクッキーを食べていく。

「今日は何のお話を聞かせてくれるの?」
「そうだな――樹の国の話をしようか」
「樹の国って、お空にあったっていう大昔の神様の国?」
「よく知っているな」

 俺は笑顔を浮かべた。心が温かい。俺は今、幸せだ。どこかで見ているのかもしれない魔王にも、誇る事が出来るだろう。子供達が帰って少しすると、弟子が顔を出した。

「師匠……ここは、子供の世話をする場所じゃないっすよね?」
「ここは俺の親友の家だ」
「勝手に住んでるというのは、理解しました。で、師匠の師匠たるそのお友達は何処に?」
「俺が知りたい」

 魔法薬を習いたいと述べて、俺の家となったこの邸宅に居着いてしまったアーキは、ふわふわの銀髪を揺らすと腕を組んだ。

「ま、師匠が楽しそう何で良いですけどね」
「――幸せだからな」

 日常を誇れるようになった俺は、笑顔でアーキを見た。すると二十三歳だという彼は、何度か頷いた。こうして続いている新たなる日々は、非常に穏やかで、その内に俺は――魔王の事もまた、思い出だと思えるように変わっていった。

 だが俺は、その後もずっと、魔王を想い続けた。
 それが、俺に与えられた罰なのだと、何度も実感させられたが、どこかでそんな俺を無様だと嗤っているかもしれない魔王について考えれば、それはそれで、明るい気持ちに想えるようになったから、これで良いのだろう。

 俺は、もう振り返らない。手を離しても、二度と。自分の道を、自分の速度で進むと決めた。その後俺は、歴史の生き証人となる。しかし戯れ言だとして、誰も俺の話は信じない。それもまた、幸福の一幕だった。



【完】