【1】混沌とした黒塔にて。



 ここは黒塔。
 本日も、室内は混沌としている。

 と、言うのも、世界最高峰の魔術師の塔である黒塔には、立ち入り制限があり、清掃をしてくれる使用人などを雇えないという現実がある。

 本来それらは、弟子の仕事だ。

 黒塔は基本的に、暗黒魔導師と呼ばれる主席が統括している。
 現在の暗黒魔導師は、第十一代のファルレと第十二代のユーグだけだ。

 暗黒魔導師はほぼ不老不死であるが、死ぬときは死ぬので、現在はこの二名しか黒塔にはいない。彼らは弟子を複数とることが許されている。

 しかしながら、現在黒塔には、ユーグの弟子であるキースが一人しか存在しない。

「汚ねぇなぁ」

 ユーグが無精髭を撫でた後、ソファの埃を拭って、腰を下ろすと背を深々と預けた。

 それを聞いたキースは、ユーグの正面のテーブルに積まれている魔導書の山を、近場のチェストの上に移動する。ただの移動だ。根本的な解決には程遠い。

 二人がいるのは、黒塔二階の居間だ。
 二階は食堂や厨房、浴室や洗面所などがある、一種の生活空間である。
 どの部屋も狭い。

 各々の自室は塔の上階にも存在するのだが、三名は研究や勉学時以外、この空間で過ごすことが多い。

 よって、居間で読むかと持参した本や巻物、羊皮紙がどんどん重なっていき、試作の魔法薬の瓶や材料が、紅茶の缶やコーヒーの豆と一緒に並んでいたりもする。きちんと稼働するのは暖炉くらいのもので、天井からぶら下がる魔法灯ですら時折不安定な動作になる。埃のせいか、油差しを忘れるからか……。

 広大な黒塔全体を、正常に保つのは、単独では困難だ。

 そのため、三階にある応接間と五つの客間にのみ、掃除をする代わりにキースは、清浄化魔術を展開している。最低限しかそれらの部屋には立ち入らないし、三階は埃が溜まることもなく非常に清潔だ。

 四階の各個人の研究室及び私室は、それぞれが掃除をすると決めている。中には許しがなければ入らないので、汚くてもキースの関知するところではない。

 五階の書庫と残り半分の倉庫は、ユーグが管理しているので、こちらも清浄化魔術がかかっている。

 六階は屋根裏だ。地下一階は、弟子が多数いる場合の居室だが現在は使われていない。屋根裏部屋も元来の用途は弟子の部屋だったようだが、現在たった一人の弟子であるキースは四階の一室を使うことを許されている。

 四階は、暗黒魔導師か、次代の暗黒魔導師の為の研究の場でもある。なお地下二階は大規模な魔術実技のための鍛錬場だ。この鍛錬場はファルレが清浄化魔術を用いている。しかし滅多に使用はされない。

 キースはチェストの上からコーヒー豆の袋を手に取った。しかしじっと見た後、豆を挽くのが面倒だったため、すでに粉にして入れてあるコーヒーの瓶を手に取る。

 それから戸棚の中にあるカップを二つ取り出して、水魔術で洗浄し風魔術で乾かすといった風に魔術を用いて、二つのカップを綺麗にした。そこに粉と水道水を入れる。

 黒塔には第三代暗黒魔導師が整備したらしく、魔術に頼らない下水道を始めとした技術がある。大体の暗黒魔導師は、天才だ。

 キースは一気に火の魔術で水を温めて、コーヒーを二つ用意した。
 それをテーブルの上に置き、師であるユーグの前に座る。

「お、有難う」
「淹れなかったら出せって文句を言うくせに」
「そりゃそうだ。弟子なんだから師匠は敬え」
「はいはい」

 ユーグとキースはそんなやりとりをしながら、それぞれカップを手に取る。コーヒーの良い香りが、室内に上っていく。窓の外は曇天で、夕方には雨が降り出しそうだ。

「しかしキース、お前はこの部屋の惨状をどう思う?」
「汚い」
「だよな? 掃除はお前の仕事だろ? どうしてやらないんだ?」
「三階に清浄化魔術を展開するだけでも、今の俺には大規模な魔力を消費するんだよ」
「何も魔術で掃除をしなくても良いだろう?」
「……」
「お前の両手はなんのために存在するんだ?」

 そう言われてしまうと言葉が出てこない。清浄化魔術と違って、手でモップ掛けをする分には、魔力の消費はない。

「だって、師匠とファルレ様が置きっぱなしの本を積み上げると、どこに片付けたのかって怒るし」
「……そ、それはまぁ……もっと内容別にまとめて欲しいというか……」
「貴重な本だから中身は見るなと言われたりするし」
「ほ、ほら! タイトルや本の持つ魔力、紙の年代から判別したり……」
「師匠にはそれができるのか?」
「……」
「手本を見せてくれ」

 ユーグの笑顔が引きつった。彼は大抵人の良さそうな笑顔を浮かべているのだが、現在は困ったように眉間に指を添えている。外見年齢は三十代半ばほどだが、実年齢はさらに百歳は上だ。膨大な魔力を持つ暗黒魔導師は、老化が止まる事が多いのである。

「俺の師匠は出来たんだけどなぁ」

 ユーグの言葉に、第十代暗黒魔導師について、キースは考えた。
 暗黒魔導師は、隔世で、一代おきに襲名していく。

 第十一代の弟子が、第十三代、第十二代の弟子が第十四代となるから、十二代のユーグの弟子であるキースは第十四代暗黒魔導師となるはずだ。しかし、第十三代が存在しなければ、第十四代を襲名することはありえない。

 しかし第十一代のファルレは弟子を取らない。

「十代様はどうして亡くなったんだ?」
「毒キノコにあたったらしい」
「……」

 ほぼ不老不死の暗黒魔導師の弱点は、外傷と毒物である。

 病気には強く老化もしないが、物理的な怪我と自然的であっても人工物であっても毒と称されるものに弱いとされている。そのため解毒用の魔法薬や傷薬の研究はだいぶ進んでいる。それでも逝く時は逝くのだ。

 そこへノックの音がした。二人が視線を向けると、軋んだ音を立てて扉が開く。
 入ってきたのは、第十一代のファルレだった。

「僕もコーヒーが飲みたい」

 ファルレはそう言うと、パチンと指を鳴らした。瞬間、空中に現れたカップが静止する。空間魔術で事前に蓄えておいたコーヒーを取り出したのだとわかる。非常に高難易度の魔術だ。ファルレは歴代の暗黒魔導師の中でも膨大な魔力を保持している。

 キースはそれを見ながらソファの上を片付けた。すると歩み寄ってきたファルレが呼吸するように清浄化魔術を用いて埃を消し去る。こうして三人で向かい合い、午後の休憩――お茶の時間が始まった。

 これは比較的よくある光景だ。

 生活のリズムがひっくり返っているファルレの寝る手前、起きるのが遅いユーグの起床直後、規則正しいキースのお茶の時間、この三つが重なるのが大体午後の三時ごろである。

 黒塔が存在するグリモアーゼ大陸の時計は午前と午後がそれぞれ十二時間に分かれている。

「ファルレ。お前もそろそろ弟子を取ったらどうだ?」

 ユーグが言うと、無機質な表情でファルレが首を振る。こちらは二十代後半の外見年齢だ。しかしファルレの方が、位はユーグより上だ。

「興味がない。面倒だし」
「それじゃあいつまでたってもキースを第十四代に出来ないだろ?」
「欠番例は過去にもある」
「第四代は確かに欠番だけどな……」

 ファルレとユーグのやりとりを聞きながらコーヒーを飲んでいたキースは、会話が途切れた時、ユーグに聞いた。

「師匠は他には弟子を取らないのか?」
「今の所、キースの他に弟子にしたいと思う人間が現れていないからな」

 それを聞くと、キースは誇らしくなった。小さな自尊心が満たされる。

「ただ、もうちょっと掃除が行き届くといいんだがなぁ……」

 ユーグのそんな呟きには、誰も答えなかった。