時は進む





 古ぼけた柱時計を一瞥しながら、俺は緩慢に瞬きをした。

 本日の昼の事を思い出す。王立学院の回廊を、同じ委員会のギルベルト先輩と歩いていた時、俺はとあるイジメの現場に遭遇した。

「エドガー様のご命令だ」
「こちらにはエドガー様がついている」

 今日も今日とて、俺の名前を出して他者を苛む愚か者がいたのである。横にいたギルベルト先輩が呆れたように目を眇めてから、助けに向かった。俺は突っ立ってそれを見ていた。何故ならば、悪辣なイジメの犯人達が、自分と同じ貴族の派閥であったからだ。その事実すら嘆かわしい。

 実際、俺は様々な悪行に手を染めているかもしれないし、悪役令息と囁かれてはいるが、稚拙なイジメなどはどちらかと言えば毛嫌いしているし、滑稽だとすら思う。そこに己の名前が用いられると、溜息が出そうになるほどだ。

 名門アーベントロート侯爵家の次男として生まれた俺は、現在ルドソン王立学院の第九学年で今年で二十一歳である。同学院を卒業した兄は、現在は外交官として隣国ベルティエ公国に赴任中だ。父はこのダウデルト王国の宰相をしている。

 実情を知らない者達は、華々しいアーベントロート侯爵家の威光を称賛する。
 そして実態を知る人間は、こう口にする。
 ――悪の華。

 アーベントロート侯爵家に生まれたる者、敵に容赦してはならないというのが、家訓である。俺も生まれ落ちたその日から同様の教育を受けてきたため、お世辞にも道徳的とは言えない行為に手を染める事も多かった。様々な対象を蹴散らして進んできた。具体例を挙げるとするならば、既にルドソン王立学院の生徒は、俺が基本的には掌握している。

 だが、その俺の名を騙って、あるいは俺を思ってなのかもしれないが、他者を害しようとする者が絶えない。俺は、やる時は己の手を下す主義なのだが……特に新入生や編入生などは、その辺を理解出来ていないようだ。

「エドガー」

 その時声をかけられたので、俺はゆっくりと振り返った。常に余裕を保持し、隙を決して見せない事、それもまたアーベントロート侯爵家に生まれし者が身につけさせられる事柄の一つだ。

「お待ちしておりました」

 俺に声をかけてきたのは、俺と同じ第九学年に在籍しているヨルク・ダウデルト第一王子殿下である。学院のはずれにあるこの黒鶫の塔に、俺を呼び出した当人だ。

 貴族とは、王族に仕える者である。
 俺は幼少時、『ご学友』という立場で、ヨルク殿下のそばに居る事が多かった。
 現在では、俺はヨルク殿下の二人いる伴侶候補の一人である。

 このダウデルト王国では、恋愛結婚が推奨されているのだが、次期国王陛下が生涯独身というのは認められていない。ご本人が望んだとしても、周囲が決して許さず、圧力をかけるのは目に見えている。その為、『万が一ヨルク殿下に結婚相手が見つからなかった場合の伴侶候補』として、俺は待機させられている。

 ヨルク殿下の伴侶候補待機者となる事にも、紆余曲折があった。

 王家と縁組したいと望む貴族は多い。その虫螻のような連中を蹴散らす事もまた、俺に課せられた義務であった。

「何か御用でしょうか?」

 率直に俺は尋ねた。本日の昼に急遽呼び出されたせいで、現在予定が著しく狂っている。敵に容赦はしないアーベントロート侯爵家にあっても、王家・王族だけは絶対的な存在なので、俺はヨルク殿下の呼び出しを無視するわけにもいかず、この塔へと訪れた。

 本来であれば、今頃はアーベントロート侯爵家において、若年層を主体とした夜会が開かれているから、第八学年から第十学年、及び卒業生といった招いた相手に対し、俺は社交をしているはずだった。柱時計を見れば、もう十八時を過ぎている。

 現在父は外遊中なので、俺が責任をもって応対しなければならないというのに……。

 俺は一刻も早く夜会に向かい、人脈造りと、『結婚相手』を探さなければならないというのに、酷い話である。

 ――結婚相手。

 というのも、待機をしているせいで、俺は公的には許婚や婚約者を持つ事が許されない。だが、待機はあくまでもただの待機であるし、俺とヨルク殿下が結婚する未来は訪れないと考えられる。それこそ親しかった、『ご学友』だった幼き頃、チュッと戯れに頬にキスをされた事はあるが、現在俺とヨルク殿下は用件が無ければ会話すらしない。

 ヨルク殿下は、恐らくは隣のベルティエ公国から、ある種の『人質』としてこの国に幼いころから留学中であるレミール・ベルティエと結婚するのだろうと俺は思っている。ベルティエ公爵子息のレミール様は、ダウデルト王国の王宮でヨルク殿下と一緒に育ち、現在もほぼ常に二人でいるほどの仲の良さで、二人が親しい事は疑いようもない。

 ちなみに呼び出された心当たりは、一つきりだ。それこそ、昼のイジメだ。イジメられていたのが、レミール様だったのである。俺はギルベルト先輩が助けに入るのを見守った後、俺の名を勝手に使っている愚か者どもを排除するべく行動したので、直接的には関わってはいないが、主犯だと思われても当然だろう。

「噂を小耳に挟んだ」
「どのような噂でしょうか?」

 暫しの間沈黙していたヨルク殿下が漸く口を開いたので、間を置かずに俺は聞き返した。

「エドガーが内々に婚約者を探しているという話だ」
「……お戯れを」

 俺は顔を背けてしまいそうになったが、堪えて首を振る。事実であるが、認めるわけにはいかない。イジメの話で無かった事が、少し意外ではある。なお、王族に対して偽りを述べる事にも、特に躊躇いは無かった。しかし、だ。ヨルク殿下だって俺と結婚するつもりは微塵も無いと思うのだし、何故その噂一つを問題視するのか疑問である。

 確かに王立学院の中では、俺が待機者であると知る者も多いし、『さすがは伴侶候補筆頭!』などとおだてて持ち上げられる事も多々あるが、そんな事実は無い。

「探しているのか? いないのか?」
「……おりません。俺は、ヨルク殿下の伴侶候補として、待機しておりますので」

 俺が告げると、ヨルク殿下が細く吐息した。蒼い瞳には、どこか探るような冷たい色が浮かんでいる気がする。黒髪を揺らしたヨルク殿下は、その後、一歩前へと出て、俺の正面に立った。昔はそう変わらなかった身長であるが、現在は殿下の方が大きい。

「その言葉に嘘は無いな?」
「勿論です。もう宜しいですか? 俺も暇ではないんです」
「いいや、本題は別だ」
「まだ何か?」

 思わず俺は、目を眇めてしまった。ヨルク殿下は普段、比較的温厚であり、俺が強い口調でこのように言えば、沈黙する事が多い。言葉を撤回してくれる場合もある。今夜もそうなるだろうと、俺は漠然と考えていた。

「――今宵、夜伽の技法の練習をしたい。付き合ってもらう」
「え?」
「閨関連の練習は、待機している候補者が担う責務だったな?」
「そ、それは……そうですが……? レミール様は今宵はおられないのですか?」
「何故レミールの名前が出てくるんだ?」
「へ?」
「俺はエドガーを希望している。不満か?」

 ヨルク殿下の声音は冷ややかだった。しかし俺が冷や汗をかいたのは、気圧されたからではない。夜伽の技法、閨の講義……それらは、王族のみが必修で学ぶ、性行為の手法だ。貴族も内々に家庭教師を雇う場合は多い。だが俺は仮にも待機者なので、過去に実地で学ぶ事は許されなかった。それでも座学における知識はある。

 男性しか存在しないこの国においては、後孔にもう一方が陰茎を挿入する、という、状況になるはずだ。ちなみに子供は、中に射精されてお互いの魔力が混じると生まれてくると聞く。この国において貴族とは、魔力を持つ血筋の人間と同義である。最も魔力量が膨大なのが、王家という形だ。

「不満そうだな」
「……いえ、その……」

 不満か不満でないかと言われたならば、不満しかない。

 それは夜会に行けなくなるからではない。最終的には俺は、待機者から外れた後、挿入する側として誰かと婚姻し、アーベントロート侯爵家の領地の一角に伯爵家を構えるという話が、既に父や兄とついている。

 だが、ヨルク殿下が相手の場合、俺は抱かれる側だ。

 この国では暗黙の了解で、処女を捧げたら、以降もその者は、抱かれる側になると定まっている。一度でも抱かれたら、挿入する側には回れなくなる。

「待機者には断る権利は無かったはずだ」
「……」

 そう、そうなのである。閨の練習相手をする事も含めての待機者であるから、俺は希望されれば、後孔を差し出す以外の術が無い。

「明日と明後日は安息日の休暇だな。校門に、馬車を待たせてある。行くぞ」

 ヨルク殿下はきっぱりと宣言すると、蒼褪めて俯いた俺の手首を握った。そして少しばかり強引に歩き始めた。足がもつれそうになったが、断る事は出来ない為、俺は必死でついていく。

 そもそも何故いきなり、ヨルク殿下は夜伽を俺に命じたりする気になったのだろうか。

 てっきりそういうのは、別の待機者であるレミール様と行っているのだと俺は思っていた。伴侶候補として待機しているのは、俺とレミール様だけである。勿論、恋愛をすれば、ヨルク殿下は他の相手を抱く事も許される。

 ……実を言えば、俺はヨルク殿下に抱かれる事自体は嫌ではない。

 幼少時に頬にキスをされてから、俺はずっとヨルク殿下に片想いをしてきたからだ。子供の頃は、本当にヨルク殿下の妃になりたいと願った事もある。

 けれど、ヨルク殿下にはレミール様だっているし、宰相の子息である俺が後宮入りするような事になれば、権力の掌握としてアーベントロート侯爵家に非難が集中するのも目に見えている。

 客観的に考えて、俺達には、結婚するという選択肢は、実はあるようで全く無い。

 沈黙したまま、手を引かれて黒鶫の塔を出た俺は、そのまま正門まで誘われた。そして御者が開けた扉から、馬車の中へと乗り込んだ。隣に座っているヨルク殿下も、道中は無言だった。何を考えているのか、さっぱり分からない。

 こうして王宮に馬車が到着するまでの間、俺達は無言だったのだが、近衛騎士達に先導されて、真っ直ぐに寝室へと通された時には、俺も既に王宮側はこの話を把握しているようだと理解していた。

 誰も、何も言わないからだ。
 俺の姿を見ても、不思議そうな眼差しすら誰も向けてこなかった。

 背後で扉が閉まったのを確認してから、俺は初めて入る部屋ではあったが造りからして浴室に通じているらしき扉を見た。緊張で体がガチガチに強張っているのが自覚できる。

「ヨルク殿下、湯浴みを……」
「不要だ」
「え? で、ですが――っ!」

 反論しようと振り返った直後、俺は室内の大部分を占める、巨大な寝台に押し倒された。呆気に取られて目を見開くと、真正面にゾクリとさせられるように獰猛な色を瞳に浮かべているヨルク殿下の顔があった。

「ん、ぅ」

 そのまま唇を塞がれて、反射的に俺は目をギュッと閉じた。口腔に忍び込んできたヨルク殿下の舌が、俺の舌を追い詰め、絡めとり、引き摺りだす。そうして甘く舌を噛まれた瞬間、俺は恐怖に駆られて涙ぐんだ。

 ヨルク殿下が、知らない相手に見えてきたからというのもあるし、実際こんなヨルク殿下の姿を見たのは初めてでもあるし、だがそれ以上に、口から広がった熱が怖かった。

 息継ぎの仕方すら分からない俺の唇を、再びヨルク殿下が奪う。
 そうしながら、俺の服を乱し、シャツのボタンを外し始めた。

「ぁ、は……ッ、っ……!」

 鎖骨の少し上に強めに口づけられて、痕を刻まれる。

 ピクンと俺の体が跳ねた。そんな俺の左胸の突起を指で挟み、右胸の乳頭に続いて口を寄せたヨルク殿下を見て、俺は思った。どう考えても、ヨルク殿下に練習など不要である。俺の方に経験が無さ過ぎて、何も出来ない。

 ただそれが少し寂しくもある。どう考えても初めてだとは考えられないから、相手が閨の講義の先生なのかは知らないが、ヨルク殿下は誰かと体を重ねた経験があるはずだ。俺の小さかった王子様が、見知らぬ所で成長していた感覚だ。

「考え事か? 余裕そうだな」
「あ!」

 その時ヨルク殿下が人差し指に水の魔術でぬめる液体を纏わせて、露わになっていた俺の窄まりへと第一関節まで一気に突き立ててきた。その指先で、かき混ぜるように動かされ、それからすぐに第二関節まで指を挿入された。

「あ……っ……ン、ッ……」
「キツいな。少し、力を抜いてくれないか?」

 無茶振りである。俺は、どうやって体から力を抜くのかすら知らない。しかし抗議しようとすると口から声が零れてしまいそうになったものだから、思わず両手で唇を覆った。

「あああ!」

 すると不意に陰茎を左手で握られて、軽く扱かれたものだから、俺は思いっきり声を挙げてしまった。一瞬だけ弛緩した体に、続いて二本目の指も入ってくる。骨ばった長い指を、ヨルク殿下が俺の内壁を広げるように抜き差しする。

「ん、あぁ――!」

 グリと知識でだけは知っていた前立腺を指で押し上げるようにされたのは、その時の事だった。二本の指先で容赦なく突かれて、俺は目を見開く。睫毛が震え、涙が眦を伝う。

「っ……ぁ、ぁ、ぁ……あア!」
「ここが好きか?」
「……」
「――これは技巧の練習だ。きちんと答えてくれ。それがお前の責務だ。違うか? エドガー」
「! う……ぅ、ぁ……っァ……あ……あ、あああ……ダ、ダメ、ダメだ。止め、そこ、そこもう突かないで下さい、ダメだ、あ、ああ……」
「つまり、嫌だという事か? ん?」
「あああああ!」

 前を何度も擦りながら、より一層激しく前立腺を刺激され、思わず俺は泣き叫んだ。

「いつもの余裕が消えたな」
「あ、ぁあ……あ、っ……あア――やぁア! ダメだ、出る、う、うあああ!」
「では終わりとするか」

 ヨルク殿下は俺が果てると、確かにそう感じた時、陰茎から手を放し、指を引き抜いた。俺はガクガクと震えながら、涙ぐんでヨルク殿下を見上げる。果てる寸前だった俺の体が小刻みに揺れている。

「果てたいか?」
「ぁ……」
「そんなわけはないか。お前は、夜会で俺ではない結婚相手を探すのだものな」

 反り返っている俺の陰茎の筋を指先でなぞったヨルク殿下が、意地悪く笑った。その刺激にすら感じ入って、俺はポロポロと泣いた。

「さて、次はエドガーにしてもらう番だ。俺の上にのれ」
「……っ」
「まだキツいだろうが、受け入れてもらうぞ」

 力の入らない俺の体を無理に抱き起し、ヨルク殿下が俺を跨らせた。

「ん、フ……っ、あ」

 菊門に屹立している剛直があてがわれる。慌ててヨルク殿下の肩に手を置いた俺の腰を支え、下からゆっくりと挿入された。巨大な雁首部分までが入りきった所で、グッと腰を掴み、俺は一気に貫かれた。喉を反らせた俺は、啼きながら髪を振る。髪が肌に張り付いてくる。押し広げられる感覚がして、指とは全く異なる硬く熱い質量に穿たれた。

 震えながら、俺はぐったりと上半身をヨルク殿下の胸に預ける。すると涙を舐めとられた。ギュッと両腕を回される。

「ぁ、あ……」
「きちんと動いて見せてくれ」
「出来な……っ、ぁ……やぁ……あ……」
「俺に逆らうのか? 待機者には、その権利は無いと思うが?」

 俺の胸の突起を弄びながら、ヨルク殿下が少し掠れた声で言った。その吐息が耳に触れた瞬間、俺は熱に絡めとられた全身を統制できなくなった。果てたくて果てたくてたまらない。だが力が入らず動けない。

 しかし――閨の練習時に、待機者が何かを要求する事は、国法で禁じられている。俺はそれを知っていた。もう脳裏は、激しく動いてほしいという欲望で一色だったが、それを請う事すら許されない。特に、射精を要求するなどすれば、それは大罪で、処刑されても文句は言えない。

 即ち、出すためには、俺が自力で動くしかない状態だ。
 頭が真っ白に染まり、バチバチと快楽が脳裏に火花を散らし始める。
 何かがせり上がってきたのは、その時だった。

 ただ繋がっているだけだというのに、俺の中が勝手に蠢き始め、気づくと動かれていないにも関わらず、俺の全身に漣のように快楽が広がり始めた。

「あ」

 俺は何が起きたのか分からなかったが、次の瞬間絶叫した。最奥をずっと押し上げられている状態だった結果、呼吸が出来ないほどの快楽に全身を飲み込まれたからだ。俺は、何度も何度も泣きながら頭を振った。まずい、これはまずい、このままではまずい。快楽が強すぎて、おかしくなってしまう。

「いや、いやぁ……」
「お前には拒否権はないと、今宵だけでも、何度も教えているぞ?」
「……あ、あ、あああああ! お願いです、お願いだから、も、もう――」
「もう? なんだ? どうして欲しい?」
「あ……ぁ……」
「動いてほしいか? それは、お前に許可されている望みだったか?」
「……ぁァ……抜いてぇ、抜いてくれ! ああ! ああああ!」
「――不正解だ。それは出来ない。正直に望みを言ってみろ。言う事を一度だけ許そう」
「もうやだぁ、動いてくれ、あああ!」
「今度は正答だが、そうしたら、俺は出してしまいそうだ。中に」
「なっ、ぁ……あ、ああ!」
「そうなれば俺達の魔力は混じるし、俺は避妊をしていないが? 王族への射精の要求は重罪だが?」
「お願いだから、もう助けて。ダメ、ダメだ、抜いて。抜いてくれ、あ! 息、出来な――ああああ!」 
「また不正解だ。俺に要求して法を侵すのが嫌だというのならば、正解ではあるが」
「あああああ!」

 直後、激しくヨルク殿下が腰を動かした。その衝撃で俺は果て、気絶した。



 ――あれは、五歳の時だった。
 木漏れ日が眩しい木の下での記憶だ。

「エド……エドガー」

 王宮の庭園での事。父に連れられて向かったその場所で、俺はかくれんぼの最中に、眠ってしまっていたようだった。頬に触れられ、ゆっくりと瞼を開けると、真正面にヨルク様のお顔があった。

「見つけた」
「……はい」

 まだぼんやりとしていた俺は、小さく頷いた。するとまじまじとヨルク様は俺を見て、そして言った。

「エドは、キスをした事があるか?」
「? キスとは、何ですか?」

 首を傾げた俺を見ると、不意にヨルク様が微笑した。同じ歳の五歳の第一王子殿下は、今度は両手で俺の頬に触れると、唇を近づけた。そして、チュッと俺の唇に、唇で触れた。その柔らかさに、俺は目を丸くした覚えがある。

「好きな相手にする行為だ。いいか? エド。俺以外とキスをしてはダメだぞ」
「どうして?」
「エドは俺だけを好きでなければならないからだ。約束だぞ」

 柔和に目を細めて笑ったヨルク様の表情がとても綺麗に思えて、暫くの間俺は見惚れてから、微笑み返して小さく頷いた。これは俺が、ヨルク様に初恋をした日の記憶だ。懐かしい。いつから俺は、『殿下』と呼ぶようになったのだったか。

「ん……」

 微睡みから覚めた俺は、後ろからヨルク殿下に抱きしめられていた。最初、自分がどこにいるのか分からなかったが、すぐに昨夜の事を思い出した。理由は簡単で、現在も下から貫かれている上、結合箇所からタラタラと白液が零れているからだった。

「目が覚めたか?」
「……ぁ……あ! あああ!」

 その時、ヨルク殿下が腰を激しく揺さぶった。俺の体も合わせて揺れる。奥深くを容赦なく刺激され、俺はギュッと目を閉じた。気持ち良い。俺の左右の乳首を摘まみながら、ヨルク殿下が突き上げてくる。朝の陽ざしの中で、俺は己の乳首が真っ赤に尖っているのを理解した。そんな俺の首筋を、甘くヨルク殿下が噛む。それから、ねっとりと俺の耳の後ろを舌でなぞり、囁くように言った。

「魔力は混じったようだし、俺の子がきっとデキるだろう。それでもエドガーは、結婚相手を探すのか?」
「あ、あ、あ」
「相手の子だと言うのか? 俺以外にも抱かれるのか? ん? どうなんだ?」
「ぁア!」

 一際強く突き上げられ、俺は放った。しかし、ヨルク殿下の動きは止まらない。

「昔、教えたと思うけどな? 俺以外とキスをしてはダメだと」
「あ、ああ……んア――っ! あ、あ、激し、っ」
「勿論、それ以外の全ても、俺以外には許してはダメだ。きちんともう一度、教えておかなければならないらしい」

 もう何を言われているのか聞き取れなかった。

 その日、一日俺は抱き潰された。泣きながら俺は何度も何度も、『愛している』と口にさせられたようにも思うが、ほとんど覚えていない。

 解放されたのは、安息日の最後の日の夜で、俺はぐったりしながら馬車でアーベントロート侯爵家に帰宅した。思考する気力が無くて、その日はまっすぐベッドに向かい、寝入って、翌週は王立学院を休んだ。

 明日で丸一週間で、明後日からはまた安息日だ。

 父の外遊日程と重なった為、誰に咎められる事も無かったが、段々意識がはっきりしてくると、俺は自分の痴態を思い出して、真っ赤になって、ベッドの上で無駄に転がってしまった。

 肌が、はっきりと快楽を覚えている。
 両手で顔を覆い、俺は何度も赤面した。

「それにしても、ヨルク殿下はどうしてあのような……レミール様をイジメたとしての仕返しか……?」

 呟いては見たものの、俺は内心では、やはり初恋そのままに、ヨルク殿下に己は恋焦がれているようだと再確認してしまい、遣る瀬無い気持ちになった。


 ◆◇◆


「エドガー、来ないね」

 隣からレミールが声をかけると、王宮のシェフが用意した豪勢な昼食を食べながら、ヨルクが視線を向けた。幼馴染というよりは、同じ歳であるが兄弟のようにして育った事もあり、人質かつ待機者という身分ではあるものの、レミールはヨルクの気持ちを良く知っている。茶髪を揺らしているレミールの悪気のなさそうな声に、ヨルクは手にしていたサンドイッチを見るようにして俯いた。

 ヨルクがエドガーを抱いて、もうすぐ一週間。ヨルクは休まず登校しているが、週明けからエドガーが学校に来ていない事は、当然理解していた。

「ちゃんと、好きだって伝えたの?」

 レミールの言葉を耳にすると、ヨルクが非常に不機嫌そうな顔に変わり、サンドイッチを噛んだ。もぐもぐと咀嚼しているヨルクを見て、レミールが苦笑する。ヨルクの片想いが長い事を、レミールはよく知っていた。いいや、レミールに限らず、気づかないのは当のエドガー本人くらいのもので、周囲はみんな気が付いている。

「なんだっけ? 五歳のかくれんぼだったっけ?」
「……天使にしか見えなかったんだ」

 ヨルクが頷くと、レミールが曖昧に笑いながら頷いた。そのかくれんぼには、レミールもまた参加していたのだが、大騒ぎになった記憶は彼にもある。

「エドガーは、自分が周囲を蹴散らして、伴侶候補の待機者になったと思ってるようだけど、実際には、エドガー以外は嫌だってヨルクが断った事は、さすがに教えてあげた?」
「……お前も待機者だろう?」
「僕の場合は、利害の一致じゃない? 君の待機者になれば、イジメも減るっていう配慮」

 クスクスとレミールが笑う。隣国からの人質として来ているレミールは、何かと立場が弱いため、特にこの国の高位貴族とその子息には嫌がらせをされたし、酷いイジメもあった。その多くは、アーベントロート侯爵家を筆頭にしている最大派閥の貴族令息だった。だが彼らは不思議なもので、イジメをする際、必ずと言っていいほど『エドガー様のご命令だ』『こちらにはエドガー様がついている』と繰り返してきたが、実態はそうではないと、既にレミールは知っている。何せ、そうやってエドガーを担いでレミールを苛んだ者達は、他でもないエドガーの手により粛清されたからだ。

 エドガーは学院内でもその美貌と才能、家柄から何かと目立つし、悪役扱いされる事が多い。けれどエドガーが直接的にレミールをイジメた事は一度も無い。寧ろ、それとなく助けてくれた事の方が多い。

 ただエドガー本人も人に与える冷たい印象を変えようとはせず、利用すらしているし、お互い待機者同士であるから言わばライバル関係でもある為、特別レミールはエドガーと親しくなろうともしてこなかったし、あちらも距離を置いているのが分かる。

 そしてそんなレミールの隣にいて、優しさから保護する感覚で守り続けてきたヨルクであるが――レミールとエドガーが距離を置いている結果、自然とヨルクとエドガーにも距離が生まれた。端緒は、多分それだと、レミールは把握しているので、時に責任を感じる。

 しかし思春期以後は、事情が変わった。

 ヨルクがエドガーを意識しすぎて、はっきりというならば好きすぎて、好き避けをするように変わったのである。結果、明確に距離が出来てしまった。ヨルクはエドガーが大好きだから、視線を合わせる事すら出来ないらしい。

 周囲はその事実に、なんとなく気が付いた。しかしエドガーは、それを『嫌われているから』だと感じた様子だ。まぁ、当然だろうとレミールは考えている。そうではあっても、ヨルクは結婚を考えられる相手はエドガーしかいないとして譲らなかったし、エドガーが相手でなければ結婚しないと内々に宣言して周囲を困らせたし、自分で告白するから縁談話は持ち込まなくて良いとしたが――エドガーにも悪い虫がつかないようにと、伴侶候補の待機者に任命する事は絶対的に譲らなかった。

 レミールはイジメ被害の件があったので、そのついでに……同時に、エドガーに気持ちが露見したら恥ずかしくて死んでしまうとヨルクが言うので、任命された形である。

「あのさ、ヨルク」
「なんだ?」
「そろそろ言っていい? はっきりと」
「……何を?」
「君、こじらせすぎ。そんなさぁ、好き避けばっかりしてたら本人に伝わらないって、僕は前に言った事があるよね?」
「ああ」
「だけどさ、かと言って、急に抱き潰されたら、それはそれで玩具扱いされてる気分にならない? 僕ならそんな相手、死んでもお断りなんだけど」
「トドメをささないでくれないか? 俺だって、嫌われたと思って落ち込んでいるんだぞ……でもな、いざ抱きしめたら、もう止める事が出来なかった」
「本当、ヨルクって自分の都合しか考えてないよね」
「……帝王学とは、そういうものだ」
「はーい。誤魔化さないように!」

 レミールが軽くヨルクの頭を叩いた。項垂れたヨルクは、それからチラリと回廊の方向を見た。そして視線を険しくする。そこには、クラウゼヴィッツ侯爵子息のギルベルトの姿がある。精悍な顔立ちをしている第十学年の生徒であり、二人やエドガーの一つ年上の二十二歳である。この学院は、十年間通う制度なので、ギルベルトは今年で卒業だ。

「あのね、ヨルク。言いたい事は分かるよ? アーベントロート侯爵家の夜会で、ギル先輩とエドガーが親しく話していたっていう噂に激怒してるんでしょう?」
「……」
「ギル先輩は跡取りだし、エドガーは次男だから嫁げるし、家格も釣り合うしね」
「……」
「でもね? 別にちょっと会話をするくらい、夜会じゃ普通なんじゃないの? 確かに、ギル先輩とエドガーは、学院内でも同じ魔法植物飼育委員会で仲良しだっていうのは、みんな知ってるけどさ」
「……」
「自分が頑張れないからって、人を羨んで、しかも好きな相手のエドガー本人に八つ当たりするとか、控えめに言って最低だよ?」
「レミール。お前は、俺の事が嫌いなのか? どうして傷を抉ってくるんだ?」
「好きだからこその助言と、一方的にエドガーにも感謝してるから擁護」
「お、おま、お前まで、まさかエドガーに惚れたんじゃ?」
「無いよ。良い? 僕はヨルクの伴侶候補の待機者だけど――仕方がないから教えてあげるよ。ギル先輩と僕、もう二年も前から付き合ってるよ?」
「へ?」
「お互い立場があるから、誰にも今まで話してなかったんだけどね。これで、安心できた?」
「もっと早く言ってくれていたならば、俺だって、あの二人の結婚の噂を信じたりせずに――」
「それはただの言い訳だよね?」
「う」
「さっさとエドガーに謝った方が良いよ。明日からまた安息日だし、来週には宰相閣下も外遊からお戻りになるから、きっとヨルクに激怒するだろうし。あの人、なんだかんだで子煩悩だから」
「……」
「最後まで、ヨルクの伴侶候補の待機者にエドガーがなるのを反対していたし、こんな状況がバレたら、ヨルクは宰相閣下に潰されちゃうかもしれない。まず、その前に、相思相愛にならないと!」

 レミールの毒舌なのか正論なのか半々なのか判断が難しい励ましの言葉に対し、小さくヨルクが頷く。本日の夕方、アーベントロート侯爵家にお見舞いと称して向かうつもりである。見舞いの品は、青い薔薇に決めてあり、既に手配済みだ。


 ◆◇◆


 ――執事から、『本日、ヨルク殿下がお見舞いにおいでになる』という知らせを受け取り、俺は慌てて入浴してから、身支度を整えた。長い髪を後ろで結び、首元を直してから、俺は応接間で待機している事に決めた。

 どんな顔をして会えば良いのか分からない。ソワソワしながら、俺は執事が淹れてくれた紅茶を飲み込む。しかし動揺が鎮まってくれない。

 その時呼び鈴が鳴る音が響いたので、俺は一気に緊張した。

 ガチガチに体を硬くしていた俺は、ぎこちなく立ち上がり、エントランスホールへと向かう。すると扉を執事が開けて、その向こうには近衛騎士が左右にいるヨルク殿下の姿があった。

「見舞いに来た」
「ど、どうぞ、お入り下さい」

 俺はらしくもなく、思いっきり舌を噛んだ。ヨルク殿下を見るだけで赤面しそうになったが、堪えようとして、そうして失敗し、真っ赤になって俯いた。世の人々は、体を重ねても、平然としていられるのだろうか? 少なくとも俺には無理だ。不可能である。

 そうして俺達は応接間へと向かった。歩きながら何度も俺は顔をあげようとしたが、頬が熱くて、それを気付かれたくなかったので、ひたすら床を見て歩いた。

 応接間に入ると侍従がカップやティースタンドを用意してすぐに退出したため、俺とヨルク殿下は二人きりになった。近衛騎士達も外で待っている。ヨルク殿下が持ってきてくれた青い薔薇の花束は、執事が窓際の花瓶に生けた。それは理解していたが、じっくり見る余裕も無い。

「……」
「……」

 会話が生まれない……。普段であれば気を遣って、こういう状況下であれば、俺から話しかけるが、俺にはそんな余裕が微塵も無い。

「……その……体は平気か?」

 ボソっとヨルク殿下に言われた瞬間、俺は完全に赤面した。プルプルと震えながら、膝の上に置いた手をギュっと握る。もう一週間も前なのだから腰から違和感だって消えているが、感覚は残ったままだ。それだけ、俺にとっては鮮烈すぎる初体験だったといえる。

「……は、い」

 それでも俺は必死に答えたが、ほとんど呟くような声になってしまった。消え入りそうだったのが自覚出来た。

「だが、顔が赤いようだ。熱を出したのか?」
「っ」
「行為の後は熱を出す者もいると聞くし、随分と無理をさせてしまったからな……」
「……だ、だ、大丈夫です」

 実際、熱など無い。だが俺は、また舌を何度も噛みながら答えるのが精いっぱいだった。ヨルク殿下の事を完全に意識してしまい、俺はどうして良いのか分からない。

「ならば良いが……実は、話があるんだ。大切な話が」
「何でしょうか?」
「頼みがある」
「俺に出来る事であれば」
「エドガーにしか出来ない事だ」
「何をお求めですか?」
「――伴侶候補の待機者から外れてほしい」

 いつもと変わらぬ声音で告げられた時、俺は下を見たままで目を丸くした。

 同時に、胸の中がさっと冷たくなった。まず最初に思ったのは、俺では練習相手には不足だったという意味か、という理性が発した言葉だった。ちなみに子供がデキているかどうかは不明だが、王族の血統保持の為、仮にデキていれば堕胎は許されないので、そうなってくると、御落胤としてその御子を、俺は内々に育てる事になる。生涯国から生活は保障されるし、そうでなくともアーベントロート侯爵家の資産的に困る事は無いが、その場合は他者との結婚は制限されるので、俺は生涯独身決定だ。理性はつらつらと、伯爵になるという計画が消えた事を俺に伝えた。

 だが、感情が冷え切ったのは――失恋してしまったと、はっきりと理解したからだ。もうヨルク殿下のおそばに居られないのだと思うと、胸が張り裂けそうなほどに辛い。

 しかし俺に断る権利は無い。そういう条件が国法で定められている。

「……分かりました」

 必死で冷静な声になるように努力し、俺は俯いたままだったけれど、答えた。今、ヨルク殿下の顔をまともに見たら、泣いてしまう気がしたから、顔をあげる事が出来ない。

「そして今後は、正式に俺の婚約者として、未来の伴侶として過ごしてほしい」
「分かりまし――……え?」

 だが続いて響いた言葉を上手く理解できなくて、俺は目を丸くした。聞き間違いかと思って、驚きすぎて悲しさも飛んで行ってしまったので、俺は思わず顔をあげた。すると真剣な顔をしているヨルク殿下が、俺をじっと見据えていた。

「好きだ、エドガー。ずっと好きだった。初めてキスをしたあの日から、ずっと」
「な……」
「愛しているんだ。俺は、お前が好きだ。頼む、どうか俺と結婚してほしい」
「!」

 目がヨルク殿下に釘付けになっていた為、俺は露骨に赤面した顔を、真正面から見られてしまった。だが、その羞恥に、嬉しさが勝った。

「俺も……あの日から、ヨルク殿下をお慕いしていましたが……え? で、でも? ヨルク殿下は、俺の事が嫌いなんじゃ?」
「いいや、大好きだ。好きすぎて、目を合わせることが厳しい程度に、俺はお前を愛している」
「……レミール様とご婚姻なさるのでは?」
「それはない。それよりも、本当か? エドガーも、俺を好きでいてくれたのか?」
「は、はい。好き、です……」

 誰かに自分の気持ちを告げた事は無かった為、口に出して好きだと述べると、無性に気恥ずかしくなった。けれど、この気持ちに嘘をつくのは難しい。胸が満ち溢れてきて、気づくと俺は涙ぐんでいた。しかし今度は悲しさからではない。嬉しさが極まったからだ。

「色気が無くて悪いのだが、これにサインをしてほしい。婚約証明書だ」
「え、ええ。分かりました」

 ヨルク殿下はそう述べると、持参していた鞄から書類と万年筆を取り出した。

 俺は幸せな気持ちのままで、自分の名前を記入する。隣には、既にヨルク殿下の名前がある。

「本当に俺が伴侶になっても宜しいのですか?」
「ああ。生涯大切にする」
「……父上が何と言うか。これでまた、アーベントロート侯爵家の悪評が高まるな」
「宰相閣下には、激怒される自信と用意がある。だがそれ以上に、俺はこれまで、いかにしてエドガーを幸せにするかしか考えてこなかったし、そちらの用意の方が万全だ」
「え?」
「既に王宮では、いつでもエドガーを迎える準備が整っている」
「……結婚準備もありますし、卒業してからの方が良いのでは……?」
「待てない。すぐにでも一緒に暮らしたい」
「ヨルク殿下……これまで俺を避けておられたのに……あの、もしかして、子供がデキてしまったかもしれないという現状に、責任を感じておられるのですか?」
「違う。エドガーとの愛の結晶は欲しいし、確かに世継ぎは必要ではあるが、俺は兎に角エドガーを伴侶に迎えたくて……もう、それしか考えられなくて、思い余ってしまったんだ。悪かったな」
「――事実であると信じます。嬉しいので。だけど、俺が殿下を好いていなかったら、確かに思い余りすぎですし、存分に反省はしていただかないとな」

 少しだけ余裕が戻ってきたので、俺は微苦笑しながらそう告げた。それから、やっと青い薔薇を見る余裕も生まれたので、窓際へと視線を向ける。花弁が、本当に綺麗だ。ヨルク殿下の瞳の色に似ている。

「それに、俺を幸せにする用意の件、詳しく伺わなければ」
「期待していてくれ。ああ、だが――お前を、ではなく、俺自身が幸せになるための用意とする方が正しいのかもしれないな」
「え?」
「俺は、エドガーが……エド、お前が毎日そばにいてくれたら、それだけで幸せなのだから」

 柔和に笑ったヨルク殿下の表情に、俺もまた両頬を持ち上げる。幸せを?みしめた。



 ――その後、外遊から帰国した父は、宰相府で知らせを聞いて、卒倒したらしい。しかしながら、反対しようとした俺の父を、婚約証明書があるとヨルク殿下が押し切ったという話を、俺は誰でもなく父から聞かせられた。

「正気なのか?」
「は、はい。俺は、ヨルク殿下の事を想っております」
「……そ、そうか。まぁ、ヨルク殿下の長い片想いに終止符がつき、無事に伴侶となる者も決定した事は望ましいが……――今後は蹴散らさなければならない者がより一層増えるだろうな。アーベントロート侯爵家出自の王妃、そしてその血を引く王子、どんな悪評が囁かれるようになるのか、今から楽しみだ」

 何処か遠い目をして、父は述べた。なお、父上は、ヨルク殿下の気持ちを昔からご存知だったらしい。どころか、正式に俺達の婚約決定の報道が大陸新聞に載ると、学院の中でも皆に自然と受け入れられた。当初俺は、派閥力で持ち上げられているのかとも思ったが、そうではなく――ヨルク殿下の片想いに、皆が気づいていたからだと、ギルベルト先輩に教わった。知らなかったのは、俺だけらしい。全く、照れてしまう。

 なお俺は節度を持って学院生活を送っているのだが、以後ヨルク殿下は俺にべったりとくっついてくるようになってしまった。最近レミール様は、ギルベルト先輩と食事をしている姿をよく見る。レミール様にも俺は嫌われていると信じていたのだが、ヨルク殿下によると、一番の応援者だったという話で、なんだか嬉しくなってしまった。

 本日は、放課後ヨルク殿下と黒鶫の塔で待ち合わせをしている。
 委員会の都合だ。

 俺が扉の前に立つと、中から古びた時計の音が聞こえてきた。これからも、俺とヨルク殿下の時は進んでいくのだろうなと感じて、幸せに浸りながら、俺はそっと扉を開けた。そして一歩、踏み出した。





     【終】