悪役令嬢の兄、閨の講義をする。
僕はエルレス公爵家に嫡男として生まれた。フェルナ・エルレスが僕の名前だ。
すぐ下には妹、二つ下には弟がいる。
父上はこの国の宰相を務めていて、母は王家の血を引いていた。
血縁関係でいうと、僕と王太子・第二王子・第三王子の各殿下はまたいとこである。
貴族社会というのも面倒なもので、僕は王太子殿下と同い年に生まれてしまったばっかりに、茶会デビュー前から、『お友達』になるべく、王宮に招かれていた。
さてこの王太子――ジャックロフト・キースワード殿下であるが、正直僕は、この人物が嫌いだ。昨日は王宮の庭で一緒に駆けっこをさせられて、僕も我ながらプライドが高いため全力で臨み、結果敗北……そこで僕の放った捨て台詞、「手加減してやったんだ!」の一言が彼の心を抉ったらしく、ジャック様は号泣して、周囲は僕を怒った。
とにかく怒りながら泣くから、たちが悪い。
僕は口で攻撃するタイプだから、相性も悪い。
……と、ここまでが昨日の僕の本心であった。そしてまた本日も、行きたくないのに王宮へと招かれて、一緒に勉強をさせられていた。
パリン、と。
そんな音がしたものだから、僕は咄嗟に窓を見た。派手に剣が飛んできていた。後に分かったのだが、外で訓練していた騎士団のミスで、その剣は運悪く窓を突き破ったらしい。窓の前には、ジャック様が座っていて、目を見開いていた。そこからは、なんというか反射的に、僕は立ち上がり、ジャック様を抱きしめてかばった。僕の二の腕をかすってから、その剣は深々と壁に突き刺さった。
このようにして王宮は大騒ぎとなった。
僕の胸中も本当にすごい動悸だ。
だが、何も恐怖からではないかった。僕はこの時の衝撃で、思い出してしまったのである。
ここは――……前世で妹が繰り返し遊んでいた乙女ゲームの世界だ、と。
大量の記憶が僕の脳裏を埋め尽くしていく。真正面にはまだ事態を理解できていない様子のジャック様がいる。僕はじっとジャック様の黒い髪と目を見て、それから……まずい、と思った。
僕の役どころは、ジャック様が後に婚約する僕の妹――その後断罪され婚約破棄され、国外追放される妹セリアーナの……即ち悪役令嬢の兄だ……。僕の記憶が正しければ、妹の行いのせいで、公爵家は潰されるし、僕も一緒に国外に追放される。妹を擁護し、こちらも悪役として登場していた。
本当に、これはまずい。
断罪してくるのは、今僕の腕の中で、目にいっぱいの涙をため始めた、この子だ。
すぐに号泣しだして、僕の服を掴んできたが、僕は腕の痛みが気にならないくらい、動揺で震えていた。剣の恐怖からではない。
僕とジャック様の仲は、お世辞にも良好とはいえない。
会えば喧嘩の日々だった。
それって、ジャック様が将来的に僕の妹を断罪する際、僕の事も躊躇う事なく葬り去れるという、最悪の方向性ではないか……。
……。
これからは、怒らせないようにしよう。あと、やはり王宮には来るべきではない。なるべくジャック様とは距離を取り、心象もよくし、な、なんとか……そう、なんとか、命だけでも助からなければ! 心象? しかし、そんなもの、既に地を這いつくばっているはずだ。今更一体、どうやって……? 僕はとりあえず作り笑いを浮かべた。すると、ジャック様がビクリとして、泣き止んだ。それからジャック様は暫く僕の顔をじっと見ていたのだが、ハッとしたように僕の腕の傷に気づくと、それまでが嘘のように、慌てた様子でこちらに着た侍従達に「医官を!」と指示を出した。
そのあとの事を、僕はよく覚えていない。
僕は気絶したそうだった。だから時系列も曖昧な部分のある記憶だが、とにかくこういう出来事があった。
決して腕の傷のせいではないだろうが、その後僕は熱を出し、数日の間寝込んだ。
次に目を覚ますと、僕はまだ王宮の離れにいた。
「……」
現在僕は、七歳だ。乙女ゲームは、ジャック様が十八歳で王立学院に入学した時から始まる。王立学院は四年生で、二十二歳で卒業だ。同い年の僕であるから、あと丁度十年間くらいは余裕がある。
まず僕のすべき事として、ジャック様と喧嘩をしない――のは無理なので、極力合わない。次に国外に追放された時に備えて外国語の習得をするしかないだろう。まだ六歳の妹がどのように成長するかは分からないが、僕は加担しないようにする。これも大切だろう。
「よし……生き抜くぞ」
目覚めた日、こうして僕は一人決意をした。
「起きたのか、フェルナ。無事でよかった……」
その日は珍しく父が帰ってきた。まじまじと僕を見ると、かなり本格的に心配した顔をした。父は今のところ名宰相と呼ばれているし、注意するべきは妹だろう。なお、母は弟が生まれた時に没している。
「陛下からも心配のお言葉を頂戴している。またジャックロフト王太子殿下が、直々にお礼にこちらへおいでくださるそうだ」
「……」
僕はその名前に、頬がひきつった。会いたくない。二度と会いたくない。だが、断ったら気を損ねるかもしれない。
「こ、光栄です……」
「ああ。明日いらっしゃるそうだ。それまで、今宵はもう少しゆっくりするとよい」
父はそう言うと、僕の頭を撫でた。非常に複雑な気分で、この日僕は眠りについた。翌朝は侍女の手で起こされて、着替えさせられた。ジャック様が来るからだ。胃痛を感じた。
ジャック様は午前十時にいらっしゃった。父は既に王宮へ仕事に出ていたので、出迎えるのも僕の役割となった。馬車を下りてきたジャック様は、立ち止まると、僕の顔をじっと見てから、腕をちらりと一瞥し、それからつま先から頭まで二度ゆっくりと観察するように眺めていた。なんだか居心地が悪い。
「どうぞお入りください」
「ああ……その、熱が出たと聞いた。もういいのか?」
「ええ」
僕は二度頷いた。緊張と未来への恐怖から、表情筋は仕事をしない。ただ、昔から僕は笑うタイプではなかったので、これは自然だろう。こうして家令に先導されて、僕達は応接間に入った。見舞いの花束を、受け取った家令が花瓶に生けた。
「その……庇ってくれてありがとう」
応接間に入ると、紅茶が置かれた後で、まっすぐにジャック様に言われた。
「――エルレス公爵家は、王家に忠誠を誓っておりますので、当然の事をしたまでです」
僕は用意しておいた回答を述べた。すると僕を見て、ジャック様が困ったような瞳をした。
「……」
「……」
いつもであれば、僕が嫌味を言うので、会話が生まれる。しかしもう、僕はそんな精神状態にはない。そして僕が話さないと、ジャック様は何か言いたそうにこちらをちらちら見るだけの状態になり、言葉は出てこない様子だ。気まずい。
その後、迎えの馬車が来るまでの間、僕達の間には、会話は見事に生まれなかった。
病み上がりという事もあったし、怪我も治っていないという事――も、あったのだろうが、周囲は僕が王宮を怖がっていると誤解しているようで、僕は無理に王宮に行く必要はなくなった。心配してくれる周囲には申し訳ないが、僕は全力でその演技もして、怖いふりをしている。
そうして半年が経過した頃、この日も珍しく早く帰宅した父上が、僕を見た。こういう時、嫌な予感しかしない。父が早く帰ってきて僕の部屋にくる場合、八割の確率で、王宮に来ないかという話だからだ。
「フェルナ。もうじき王宮主催の貴族の子供達の会があるのだが」
「そうですか。王宮……怖い……うえーん」
僕のウソ泣きもだんだん適当になってきた。だが、僕が俯いて両手で顔を覆って声を上げると、これまで父は許してくれた。
「……フェルナ。ウソ泣きはやめなさい」
「!」
しかしこの日は、つっこまれた。僕はぽかんとしたが、ちらっと父上を見てから、頷いた。仕方がない。今日は一段と適当な演技だったからな……。
「陛下直々のお願いだそうでな。フェルナが元気になった姿を、陛下も見たいから、ぜひ王宮に来てほしいそうだ」
「子供達の会なのに、陛下も参加なさるのですか?」
「……屁理屈を言わないように」
「……はい」
「実際、心を痛めておられるのは、分かってはいるだろうが、ジャックロフト殿下だ。王太子殿下は、お前が怯えているという噂を鵜呑みになさっていて、己のせいだと非常に悔いておられる」
「へ、へぇ……」
「元気な姿を見せて、安心させて差し上げろ」
「……はい」
父上が真面目な顔をしていたので、僕は断る事が出来なかった。
こうして翌日、僕は父上に連れられて、久しぶりに王宮へと足を運んだ。
既に冬が近い。大広間には、同年代の貴族令息や子女がいる。
「っ……あ」
その時声がしたのでそちらを見ると、ジャック様が目を見開いて僕を見ていた。どんどんその頬が紅潮していき、目には涙がたまっていく。泣く兆候を感じたが、今日に限っては、僕はまだ何も言ってないんだけどな? 失言をしないように発言自体をしていない。だが挨拶しなければならない相手の筆頭なので、僕は内心の溜息を押し殺し、そちらへと一歩踏み出した。すると――ジャック様が一歩あとずさり、より涙ぐんだ。こうして僕が近づき、ジャック様が後ろに下がっていき、ついに壁際に到達した。僕はちらっと全身を観察し、まだ僕のほうが背が高いことに気をよくした。
「ご無沙汰しております、ジャック様。まだ背が伸びないんですね!」
……僕の口は饒舌であるが、非常に無能だった。
「なっ、っく……フェルナのバカ!」
「悪口のレパートリーも増えていないらしいようで、安心しました。その間に、僕なんて、外国語を3カ国語も習い始めたんですよ」
「な、な、なんだと!? 人がせっかく心配して……心配……よかった……元気そうで……」
と、威勢がよかったジャック様であるが、どんどん小声になっていったので、僕は聞いていなかった。挨拶はもういいだろうと考えることに必死だった。
「では、僕はこれにて」
「え!? もう帰るのか!?」
「はい。王宮は怖いので……」
「そ、そうか……い、いや! 待ってくれ! 俺はお前を守れるように、剣の稽古の量を増やした。だからもう、王宮に不安はないぞ!」
「? お守りするのは、臣下の仕事です。つまり、僕の」
未来の国王陛下に守ってもらう存在など、それこそ王妃となる人物くらいではないだろうか。そんな事を考えつつ、僕は入り口を見た。本当にちょっと挨拶をすれば帰っていいと言われていたためだ。
「失礼します」
「っ……あ、あの」
「はい?」
「また……来てくれるよな?」
そんな予定は微塵もないが、引き止めらえるのも面倒だったので、僕は頷いておいた。
こうして帰宅してから――また僕は半年ほど、泣き真似をしていた。技に磨きをかける方向に調整をしたら、父の目がどんどん遠いものへと変わっていったが、父は半年間、何も言わなかった。だが、初夏のこの日は、またしてもつっこみをいれてきた。
「フェルナ、泣き真似はもうそろそろ卒業しなさい。お前ももう、八歳なのだから」
「……」
「ジャックロフト王太子殿下の生誕祭が行われる。出席するように」
「……贈り物のみではダメでしょうか?」
「だめだ」
「……はぁ」
今度は本心から泣きたい気持ちになりつつ、僕はその日、父が呼んだ商人が並べた玩具の中からパズルを選んで、プレゼントを決定した。
数日後。
昼間に行われた生誕祭の場に、僕は父と妹と共に参加した。セリアーナは着飾っていて、とても愛らしい容姿をしている。僕と同じ紫色の瞳で、髪の色は金髪だ。今のところ、妹には悪役令嬢らしさはない。まず僕達は国王陛下達にご挨拶をした。そして続いてジャック様のもとには、妹と二人で向かう事になった。
「ごきげんよう、ジャック様。お誕生日おめでとうございます」
さらっと人の輪に入って、妹が優雅に声をかけた。僕はその横で、早く帰りたいと思いながら突っ立っていた。
「ご要望通り、兄を伴いました」
「あ、あ、べ、別に俺は要望なんて……!! 違う、違うんだ!!」
僕は近くのシャンパンタワーを眺めていたので、会話は耳に入ってこない。
「フェルナ、そ、その……元気だったか?」
「へ? ああ、はい」
呼ばれて気づいたので、僕はジャック様を見て、本日も新調の確認をした。まずい、追い越されている。靴のかかとを念入りに見てしまったが、偽装された痕跡はない。
「お二人は親しいのでしょう? 妹として嬉しいです。久しぶりなのですし、少し二人でお話されては?」
セリアーナが微笑して続けると、ジャック様が真っ赤になった。僕は泣く兆候かと感じ、慌てて否定した。
「セリアーナ、誤解だ。僕と殿下は親しくないよ」
「っ……フェルナ、そ、そんなにきっぱり否定しなくても……やっぱり、俺の事が嫌いになったのか……?」
それは前世の記憶が戻る前から、嫌いだ! だが、そんな事を言って気分を害したら、国外追放時期が早まってしまうかもしれない。
「畏れ多いというお話です。それに今日は殿下のための生誕祭なのですから、僕がお時間を頂戴するわけにはまいりません。ほら、ご挨拶は済んだのだし、セリアーナ、あちらへいこう」
僕が告げると、セリアーナが僕とジャック様を交互に見て、何故なのか残念そうに首を傾げた。
しかしセリアーナは特に何も言わなかったので、僕は妹を連れてその場を離れた。
九歳の一年間、僕は泣き真似の腕前をさらに鍛えた。目薬を用いるように進化した。その成果なのか、王宮には呼ばれなかった。父上と妹が時折打診してくるが、断っている。かわりに、弟がついていくようになった。弟ももう六歳だ。
僕は外国語の習得にも励んでいる。何処の国に追放されるのかは分からないが、そこそこ語学は上達を見せているし、読み書きが得意になってきた。多分僕がまじめに勉強している事も、父が僕のウソ泣きを見逃してくれる理由なのだろう。
こうして十歳になった年の冬……父上がやってきた。
「王宮から聖夜の日の昼間の交流会への招待状を預かってきた」
「いってらっしゃいませ!」
「お前宛だ」
「……僕、その日は風邪をひく予定なので」
「仮病はやめなさい」
そんな内に、聖夜当日になった。今回僕は、妹と弟のアルバートの三人で参加した。礼儀としてジャック様と、後は本日は第二王子のエドワーズ殿下と、第三王子のカール殿下にご挨拶をする事になっている。ジャック様と第二王子殿下は一学年差、第三王子殿下は弟と同じ年だ。
「フェルナ……」
僕達が挨拶に向かうと、ジャック様が目を丸くした。すると第二王子殿下が腕を組んだ。
「ジャック兄上、僕はフェルナ卿とはあまりお話をしたことがないので、改めてご紹介ください」
「あ、ああ……フェルナ・エルレスだ。エルレス公爵家子息だ」
「改めまして、エドワーズ殿下」
「うん。よろしくお願いします。ええと……挨拶を受ける役目もそろそろ終わりだから、僕とカールで代行できるし、少し話をされては? 兄上、ほら」
「あ、あ、ああ! うん! フェルナ、ちょっとそ、その……」
「特にお話することはないので、お気遣いは不要です」
僕が笑顔で断言すると、何故なのか妹と第二王子殿下がちらっと視線を交わしてから溜息を零し、弟と第三王子殿下は二人で話し始めた。その場を見守っていると、父上が顔を出したので、僕はそちらを見た。
「兄上……毎日会いたいと言っておられたのに……」
「……」
「殿下……お兄様から殿下への好意を私は一度も感じ取ったことがないのですが、本当に幼少時には親しかったのですか?」
「……」
「ただ確かにフェルナ卿は、セリアーナ嬢にそっくりで、すごい美少年だね」
「ええ。兄上は顔はとても整っています。私ほどではありませんが」
「セリアーナはそれ、人前で言わない方がいいよ」
僕以外の三人と、弟たちはなにやら喋っているが、僕は何も聞いていなかった。
このようにして、聖夜の一幕は流れていった。
なお幸いなことに、十一歳から十三歳までの二年間、僕は王宮に呼ばれなかった。理由は知らないが、とても幸運だった。代わりにセリアーナと弟がちょくちょく呼ばれている。僕はその間もひたすら語学力を磨いた。
十四歳になったこの日、僕はどうしても調べたい事があり、図書館へと向かう事にした。王宮付属の専門書がある図書館で、僕は既に何度か一人でも来た事があった。せっかくだから古代語も覚えることにしたので、どうしても手に入らない本が出てくるせいだ。
しかし目的の本の位置が高くて届かない。ただ台を持ってくるほどではなく、もうちょっとで届きそうだった。だから僕は背伸びをした。
「あ」
すると声がかかった。手を伸ばしたままそちらを見ると――会いたくなかった、ジャック様がいた。
「……ご無沙汰いたしております、ジャックロフト王太子殿下」
「……ああ」
ジャック様は声変りをしていた。僕はまだなのに二次性徴も来ている。完全に身長で負けて、イラっとしたが、僕は会釈をしていた。
「どの本だ?」
「え?」
「届かないのだろう?」
「……届きます!」
僕のプライドが傷ついた。僕は背伸びを再開した。つま先立ちで手を伸ばす。
すると――ひょいっと目的の本をジャック様が取ってくれた。
「ほら」
「ありがとうございます……」
「……お前は変わらないな」
「どうせまだ背は伸びませんよ!」
「そういう意味ではなくて――っく……ああ、もう……」
「じゃあ僕は帰りますね」
「そういうところだよ!」
と、こうして僕は接近を回避した。
そんな僕に二次性徴が訪れたのは、十五歳の時の事で、それが終わったのは十六歳の終わりごろだった。来年は十七歳……十八歳になったら、僕も問答無用で王立学院へ行かなければならないので、準備期間はあと一年ほどである。
なお――まだセリアーナがジャック様の婚約者になったという知らせはない。
最近のセリアーナは、僕を見ると複雑そうな顔になる。
「お兄様」
「ん?」
「……その……お兄様は、外国語以外に興味はあるのですか?」
「え? あるけど? 急にどうしたの?」
「お兄様を紹介してほしいと、幾度か言われておりまして」
「どこの誰にどんな理由で?」
「遠隔的な縁談です」
「断っておいて」
「それは……心に決めた方がおられるから、とか……?」
「まさか」
「ですよね。ジャック様に初恋をなさったなんて言うのは、盛大なデマですよね?」
「うん? 誰が?」
「なんでもありません」
こんなやり取りが多い。
さて――いよいよ十七歳になった僕は、最後の一年何を頑張ろうか検討していた。
ノックの音がして、父が入ってきたのはその時の事だった。
最近ではめったにこういう事は無かったので、僕は首を傾げた。
「フェルナ、話がある」
「どんなご用件ですか?」
「――大切な話だ。お断りする事は不可能な、王宮からの……いいや陛下からの勅命だ」
「僕にですか?」
僕と国王陛下にはあまり接点がない。そもそも僕に出来る事など限られている。
「座ってくれ」
父がソファの方に僕を促した。僕は机の前から立ち上がり、父上と対面する席に座す。すると父が咳払いをした。
「実は、ジャックロフト王太子殿下の閨の講義に関してなんだ」
「閨の講義?」
「ああ。王族の男子は、慣例として、王立学院入学前に、子の作り方を学ぶ」
「はぁ」
「今回、そのお役目を、畏れ多くも当エルレス公爵家が引き受ける事となった」
「そうですか」
「即ち、お前だ。フェルナ、頑張るように」
「ん? え? 僕は男なので、子供は作れませんけど……? 僕? セリアーナでは?」
「セリアーナは女子だ。身ごもってしまう」
「生々しいです父上……」
「……嫁入り前の娘に、そのようなことはさせられない」
父上は冗談を言っている顔ではない。そして僕をじっと見据えた。
「筆おろしは大切な事だ」
「つまりジャックロフト王太子殿下はまだ童貞……?」
「……本人に確認すればいい」
「待ってください。僕こそが筋金入りの童貞なので、教えられる事がゼロです」
「安心していい。その……まぁ、ええと……処女への対応の仕方が主とした講義内容で、実際に童貞処女のお前がそれをお引き受けするという事だから、お前は未経験であればあるほど望ましい」
「……へ……あ、あの……父上、それって、直接的に聞きますけど、僕にジャックロフト王太子殿下に抱かれてこいって言ってます?」
「そういうことだ」
「えっ、え!?」
「断れば極刑もあり得る」
「な!?」
「明日の夜、王宮から迎えの馬車が来る。着替えだけしておくように」
僕は唖然とし過ぎて、歩き去っていく父上を引き止められなかった。
僕は半信半疑ながらも馬車に揺られ、王宮が見えてくるにつれて怯え、極刑になったらどうしようかと不安になりながら、どんよりとしていた。そんな僕を王宮の人々が先導し、ジャック様の寝室の前へと連れて行った。小さいころに一度かくれんぼのために入室したことがあるから、寝室だと僕は知っていた。
ノックをすると、「入れ」という声が返ってきた。図書館で聞いたのが最後の、ジャック様の声である。僕はおずおずと中へ入った。
「!」
すると扉の真正面にジャック様がいた。突然視界に入ってきたから驚いてしまった。僕よりもずっと背が高いので、もうこれを抜き返すのは不可能だろう。じっと僕を見たジャック様は、それから施錠した。妙にその音が大きく聞こえた気がした。
「そ、その……ご、ご無沙汰……して……」
僕があいさつしようとすると、僕の顔のわきに、ジャック様が手をついた。そして少ししゃがんで僕を覗き込んでくる。近距離すぎて、ジャック様の目に映りこんでいる自分が見えそうだ。
「んンぅ」
そのままキスをされていた。ジャック様は何も言わない。ただ焦って口を開こうとした僕に舌を差し込むと、ねっとりと口腔を貪り始めた。人生で初めてのキスに、僕は緊張して後ずさろうとし、扉に阻まれる。絡めとられた舌を引きずりだされて、甘く噛まれた時、僕はビクリとした。
「っぁ……」
息継ぎの仕方が分からない。必死で隙を見つけて呼吸をしていたから、僕はいつの間に服を開けられたのか気づいていなかった。それに気づいたのは、鎖骨の少し上に口づけをされた時だ。
「寝台へ」
「……」
いや、童貞って嘘だろう、これ……。
僕は父の言葉をよく思い出してみたが、多分、未経験者を抱く以外の講義はすでに終わっているのだろう。つまり僕は、その経験のみのために……。
しかしどうして僕なんだろうか。爵位の問題だろうか。大切なお役目らしいしな。そうでなければ会話があった幼少時など喧嘩ばかりしていたのだし、ジャック様も僕を嫌いだったと思う。
現実逃避気味にそんな事を考えながら、僕は寝台に押し倒された。既に上着は乱れていたが、そこから下衣を本格的に開けられた。僕は何かした方がいいのだろうかとも思ったが、それを訴える暇もないくらい手際よく、僕にのしかかっているジャック様が、僕の体から衣類をはぎとった。
「うつぶせになってくれ」
「は、はい……」
言われた通りに姿勢を変えた僕は、臀部を突き出す形で、ぎゅっとシーツを握った。
すると香油の瓶をたぐりよせた様子のジャック様が、それをつけた指で、僕の後孔に触れた。緊張で僕の体はガチガチだ。
「んっ」
指が一本入ってきた。香油が冷たい。そう感じた後、すぐにその温度が内部と同化した。くちゅりと音を響かせながら、ジャック様が僕の後孔を解している。緊張から、僕は喋る気にはならない。ジャック様も喋らない。お互いに無言だから、香油の音がすごくよく聞こえてくる。その時、指が二本に増えた。増量された香油がまた少し冷たくて、すぐになじむ。なんだこれ、緊張もするが、恥ずかしいな……。
「ぁ……」
そう思っていたら、中のある個所を二本の指先で刺激された瞬間、ゾクリとした。
「ここか?」
「え? え? ま、待っ……んッ」
なにがここなのかは分からないが、そこを刺激されるとゾクゾクする。ジャック様はそこばかりを刺激し始めたので、僕は必死に唇を結ぶことになった。その内に、指が三本に増えた。それをバラバラに動かされるようになった頃、僕の体は息が苦しいのもあって、熱くなり始めた。
「ぁ、ぁ、ぁ……」
そのまま――一時間近く解された頃には、僕はすすり泣いていた。体が熱い上に、いつのまにかその熱は陰茎に集まっていて、内部からのもどかしくじれったい刺激とあわさったせいで、思考が上手く働かなくなってきていた。
「んっ、ぁ……ぁァ……ああっ」
自分の口から、信じられないくらい甘ったるい声が出てくる。
「ひっ、ぁァ……んン……ぁっ……も、もう止め……あア!!」
「もう少し解した方がいい」
「っン――!!」
僕はその後も解されるうち、完全に泣いた。気持ち良すぎて、これはまずい。
「そろそろいいか」
「ぁァ……あああああ!」
その時、指を引き抜かれて、一気に貫かれた。その衝撃で僕は放ってしまった。鮮烈な射精感に飲まれていると、根元まで挿入した状態で、ジャック様が動きを止めた。硬い。それに指とは比べ物にならないくらい、長くて太い。
それからゆっくりと抽挿が始まった。この頃には、僕の体はもうぐずぐずだった。巧い、巧すぎる。人生で初めてSEXをしたけれど、童貞である僕にこれをまねできるかと言われたら、絶対に不可能だ。
「んン、ぁ……あ!! あ、あっ」
「一度出す」
「うあああ!」
ひときわ強く貫かれ、僕は内部に飛び散るものを感じた。その衝撃で、僕も再び放った。肩で息をしていると、一度陰茎を引き抜いたジャック様が、ぐったりとしていた僕の横に寝転んだ。
「少し休むか?」
「え? もう終わりじゃ……?」
「今日は朝までだ。明後日は半日ほどだな」
「へ? 朝!? しかも、明後日!? 一回だけじゃ……?」
「これから一年間は、俺が学び終わるまで付き合ってもらう」
僕は衝撃的過ぎて、目を見開いた。
宣言通りで、その日は朝まで抱きつぶされた。もう学び終わっているとしか思えないが、僕はどうすればいいのであろうか。
僕は三日に一度は王宮に呼び出されるようになってしまった……。何をしているのかと言われたならば、SEXである。特に会話もなく、部屋に到着したら押し倒されて、そのあとはジャック様の公務との兼ね合いで早く帰れる日と帰れない日はあるが、どちらにせよずっと体を重ねている。
春も夏も秋も冬も。
全然呼び出される頻度は衰えない。僕の体からはキスマークが消えないし、どころか悪い事として、あんまりにも抱かれたせいで、僕の体は快楽を覚えてしまった……。SEX、気持ちが良いのである……。
僕とジャック様は何かと相性が悪いと思っていたが、体の相性は良いようだ。
剣で鍛えたのだろう引き締まった体で、激しく抱かれたり、逆にずっと焦らされたりする内に、僕は嫌ではなくなってきた。
ただこの生活には、終わりがある。来月、僕とジャック様は、それぞれ王立学院に進学する。閨の講義は一年間だけなので、来月になれば、僕とジャック様の関係は終わる。なお、王立学院は王族であっても、入寮する。
なお僕の危惧すべき事としては、僕達が第二学年になった時に、乙女ゲームが開始するので、そちらのヒロインがやってくる事だろう。まだ現在も、妹とジャック様が婚約したという話は聞かないが。
この日も散々抱きつぶされて、僕は帰宅した。
さて、四月。
ついに入寮する日が訪れた。最後にジャック様と会った時は、実はもう一回会う予定だったのだが、急な公務の都合で最後の一回が中止となり、流れるようにして閨の講義は終了した。同じ学院内にいるから顔を合わせる事はあるだろうが、もう僕達が体を重ねる事はないだろう。しかし本当、なんで僕が担当したんだろう。考えてみたが、分からない。
「小さい頃にいじめてた仕返しかな? うん、それが濃厚だなぁ」
当時は散々泣かせた僕だが、この一年はずっと僕が泣かされていた。
寮の部屋に入った僕は、早速荷物の整理をした。これまでは使用人達にほぼすべてをまかせていたので、一人でやるというのは新鮮だが、幸いなことに僕には前世の記憶がある。だから困らないだろう。
入学式はないが、夜、入学パーティがある。この国では十八歳からお酒が飲める。
僕は夜に備えた。
備えて居たら寝てしまった。気づくと開始時刻ギリギリだったので、慌てて外に出る。春の風はまだ冷たい。会場である大広間に行くと、既に混雑していた。学内では無理に挨拶をする必要はないので、僕はジャック様に挨拶する必要もない。
ただ王宮に近づかなかったせいで、僕には知り合いがほとんどいない。
なのでシャンパングラスを手に取ってから、壁際に立っていた。
ジャック様は囲まれている。目が合う事もなく、この日は終了した。
こうして学院生活が始まった。
僕は何故なのか友達が出来ない。図書館で本ばかり読んでいる。そのせいだとは思わないが、人々に遠巻きにされているような感覚があった。やはり人脈を作っておかなかったせいだろう。
本日も図書館で、僕は外国語の本を開いていた。するとカツンと音がした。
「!」
気づくと正面の席に、ジャック様が座っていた。一体いつからいたのだろうか。
「随分と集中していたな」
「……ええ、まぁ」
「今日、話がしたい。部屋に行ってもいいか?」
そう述べたジャック様の瞳が、昨年一年でよく覚えた、完全に情欲が滲んでいる獰猛な瞳だったため、僕は警戒した。嫌な汗が浮かんでくる。
「どのようなお話ですか?」
「俺はここで話しても構わないが、お前もそれが適切だと思うか?」
「……」
絶対に閨の話だと確信した。一応機密扱いでもあるし、ここで話すわけにはいかない。僕の側の評判の問題もある。仕方がないので、僕は小さく頷いてから、視線出入り口の方を見た。
「いらしてください」
「ああ。早速、今からでも」
僕は読みかけだった本を借りることにした。こうして図書館を出た僕は、ジャック様に向かっての視線の多さに辟易した。道中は何故なのか機嫌がよさそうに笑っているジャック様の横を無言の無表情で歩いたが、寮に入った頃には疲れていた。自室に招いてから、扉を閉める。
「フェルナ」
すると鍵を閉めた瞬間、後ろから抱きしめられた。ゾクゾクしてしまったのは仕方がないだろう。去年一年間ずっと開かれていた体だ。
「そろそろ俺が欲しくなっている頃かと思ってな」
「……」
悔しいが、事実である。僕は唇をかんだ。すると後ろからジャック様が僕の服を開けてきた。
「せめて寝室で……」
「ああ」
結果、そのまま移動して、僕達は致してしまった。もう閨の講義は終わったというのに……。その日のジャック様はいつもより性急で、僕は激しく体を貪られた。
――このような流れから、結局僕とジャック様は、王立学院でも寝るようになってしまった。月に一・二度ふらっとジャック様は、僕の部屋にやってくる。そして僕を押し倒して、ヤる事をヤると帰っていく。その際、特に会話はない。
……完全に、性欲解消のはけ口にされている。
僕はそう確信している。ただ、僕の方も気持ちがいいので、それは別にいい。
ただ完全に自分が都合のいい相手にされている点だけが、嫌だなぁと思わせてくる。口の堅いセフレ状態になってしまったのだ。
こうして学院生活も半年ほどが過ぎていった。
そろそろジャック様は、妹と婚約していないと、破棄事件が発生しない状態になるなと、僕は思った。このまま事件は発生しないのだろうか? そう考えていたら、ある日父から手紙が届いた。
『王家からジャックロフト王太子殿下との婚約の打診があった。一度話がしたいので、次の休暇に戻るように』
……やはり、婚約破棄は起こるのか。
まず思ったのがそれだった。僕は陰鬱な気持ちで、その手紙を見ていた。
「フェルナ?」
すると本日も部屋に当然のようにやってきたジャック様が、後ろから僕に腕を回してきた。ソファに座っていた僕は、ちらっとジャック様を見た。
ジャック様が婚約したら、今度こそ僕達の関係も終わるのだろうなぁ。
なんだか最近では、それが少し寂しくもある。だが僕は公爵家を継がなければならないし、ジャック様は次のお世継ぎを期待されているし、どのみち長続きはしないだろう。
こうしてみると、意外と優しいところもある。外見は男前だ。
「どんな手紙だったんだ? 顔が曇ったぞ」
「……ジャックロフト王太子殿下のご婚約をお祝い申し上げます」
「ああ。その知らせなら、もっと喜んでくれ」
「そういう気分じゃないんです」
「嫌か?」
「別に」
「――そうか、嫌でないのなら、よかった」
ジャック様が微笑した。それを見たら、胸がズキリと痛んだ。僕はもしかしたら、ジャック様の事が好きなのかもしれない。
次の週末。
僕は帰宅した。すると父上が僕を応接間に促した。きょろきょろと僕は、妹の姿を探したのだが、不在のようだ。メインは妹だろうに。
「フェルナ。まずはどういう事か説明してくれ」
「はい? 僕の方が説明を受けたいのですが?」
「――王宮から、ジャックロフト王太子殿下と婚約してほしいとの打診があった」
「それで、セリアーナはなんと?」
「セリアーナは祝福している」
「祝福?」
「ああ。ジャックロフト王太子殿下の長い片思いもやっと終わるのだなと、私もまったく同じ見解だが……そうなのか? どうなんだ、フェルナ」
「? お話が見えません。どうって?」
「ジャックロフト王太子殿下とお付き合いなさっているのではないのか?」
「え?」
「ジャックロフト王太子殿下は、フェルナとの結婚をご希望なさっておいでだが」
唖然とし過ぎて僕は硬直した。何度か瞬きをしてみる。それは即ち、永続的なセフレになるという趣旨だろうか? え? でもセリアーナが婚約するはずでは? 僕と婚約した場合、僕が断罪されるのか? つまり婚約破棄は、僕がされるという事だろうか……?
そんな思考もあったのだが――なんだか、純粋に嬉しい。
やはり僕はジャック様が好きなようだ。永続的なセフレとしてであってもそばにいられるというのは魅力的だ。
「お引き受けするか?」
「……ええと……」
しかし考えてみると、僕は男である。爵位の継承もある。
「……あの、ジャック様のお世継ぎが望めないのでは? あと、公爵家の方は……まぁそれは……」
弟がいるから公爵家は大丈夫か。
「王家の血を引くお方の中から養子を取ることとなるだろう。王族は多いから、あまり気にすることはない」
「そうですか」
「気持ち的にはどうなんだ?」
……嬉しい。だが、僕が婚約破棄された場合でも、断罪される未来は変わらないのだろうか。いいや。僕がヒロインをいじめなければあるいは……? うん、いい案かもしれない。
「お引き受けしたいと思います」
「そうか。後悔はないな?」
「はい」
僕は頷いた。しかしそんなに体の相性がいいのだろうか。ジャック様も同じ考えだったとは驚いた。
こうして僕はすぐに寮へと戻った。
すると翌日の新聞に、僕とジャック様の婚約発表記事が掲載された。
なおその報道の後、僕とジャック様はまだ一度も会っていない。
会わないままで二週間ほど経過した。
この日僕は部屋にいた。まだ実感がわかない。そう考えていたら、ジャック様が訪れた。合鍵は、随分前に欲しがられて渡してあった。
「久しいな」
「そうですね」
クラスも違うので、接触することはほぼない。
「――二週間と少しで、久しぶりと思ってもらえるだけ、俺も進歩したな」
「はい?」
「年単位だっただろう、昔は」
「はぁ……?」
まぁ、確かに僕は王宮には近づかなかったし、その見解はあっているだろう。
「許婚になれて、俺は嬉しい」
「……」
「嫌ではないと言ってくれた事も嬉しかった」
それは誤解である。僕は妹とジャック様の結婚だと疑っていなかった。ただ、今となっては嫌ではない。一つ分からないのは、ジャック様の気持ちだ。
「どうして僕を婚約者に?」
「どうして、というのは?」
「というのは、といわれても……その……セリアーナでなかったのかと思って」
「……フェルナ。俺は……その……――伝わっていないのはよくわかった。ただ伝え方がわからない」
「何をですか?」
「……」
深々と溜息をついて、ジャック様が黙ってしまった。
ただ僕に歩み寄ってくると、不意に僕を抱きしめた。
「ジャック様?」
「もう少し考えさせてくれ、その……伝え方を」
「はぁ?」
よくわからないので、僕は頷いておいた。この日も僕達は体を重ねた。
その内に、僕達もついに二年生になる事になった。僕はドキドキしながら、新入生の名前が張り出されている板の前にいる。ヒロインの名前は変換可能だったが、デフォルト名はアーネだった。あとは素性として平民のはずだ。平民の入学生はほとんどいないからすぐに見つかるだろうと思っていたら、僕はその日の午後には発見した。
ジャック様が、転んだ彼女を抱きとめた瞬間、僕は真横にいたのである。セリアーナと第二王子殿下に合流する予定で、たまたま一緒に本当に珍しい事に、一緒にいたのである。乙女ゲームのオープニングで見た通りだった。完全にジャック様のルートの冒頭である。
つまり三年後、僕は卒業パーティで婚約破棄される。
ここからおとなしく過ごさなければ。国外追放されても語学力は通用するだろうが、なるべく平穏な形がいいだろう。やはり幼少時にたちかえり、僕はあんまり接触しないで過ごし、会話も控えた方がいいだろうか。なんだか寂しいなぁ。
「フェルナ、どうかしたのか? 行くぞ」
「あ……はい」
気づくと出会いの場面は終わっていたようで、アーネの姿も無かった。
僕はそのままジャック様と廊下を歩いた。
――ジャック様とアーネの接触頻度は、その後目に見えて増えていった。理由は二人とも、生徒会メンバーだからである。その内に、二人の関係について噂する声も出てきた。
「お兄様……放っておいていいのですか?」
図書館にいた僕のもとに、妹がやってきた。僕は素知らぬふりで顔を上げた。
「なにを?」
「……ジャック様に最近近づいている方が……」
「セリアーナ、なにもしないようにね」
僕はくぎを刺す事も忘れなかった。セリアーナは何か言いたそうな顔をしていたが、溜息を零して歩き去った。こうしてこの日も国外追放に備えて本を読んだのだが、全然頭に入ってこない。寮の部屋に戻ると鍵が開いていて、中に入るとジャック様がいた。その姿を見たらほっとしてしまったが、その内この光景は見られなくなるんだろうなぁ。
「フェルナ、最近落ち込んでいるように見えるぞ? なにかあったのか?」
「落ち込んでないですし、何もないです」
「そうか。俺でよければ、聞くが?」
「何もないので」
僕は断言してから、飲み物を見た。ジャック様が紅茶を淹れてくれた。
隣同士で長椅子に座り、僕はカップを受け取る。
「そういえばな、最近面白い後輩が出来たんだ。今度紹介したい」
「どなたですか?」
「アーネといって、生徒会で同じなんだけどな――」
その後笑顔でジャック様が、アーネがいかに有能かをほめたたえた。僕の胸が重くなっていったが、僕は頷くにとどめる。
「フェルナ?」
「はい?」
「なんだか今日は、やはり落ち込んでいないか?」
「別に。それで? ジャック様もやはり、男より女性の方がいいというお話でしたっけ?」
「なっ!? フェルナ……?」
「やはりお世継ぎの事を考えると、いくら身分が平民だとは言え、まだ僕よりも彼女の方がいいのでは?」
「それはどういう意味だ?」
「婚約破棄なさるおつもりなのかと」
「絶対にしない! するわけがないだろう!!」
「……」
「まさかと思うが、不安にさせたか? 嫉妬してくれたのか?」
「別に」
「……そ、そうだな。お前に限ってそれはないか」
「なんで若干嬉しそうな顔したんですか?」
僕は遠い眼をした。ジャック様が慌てたように顔を引き締めた。
「……フェルナは感情が見えにくいからな。俺の事をどう思っているんだ?」
「ジャック様こそ」
「俺は……」
そのままジャック様が無言になった。僕も無言だ。
この日の夜も体を重ねたが、特に会話はなかった。
このようにして二年目の日々は過ぎていき、ついに三年生になった。あと猶予は二年だ。ジャック様とアーネは順調に親しくなっている様子だが、まだ婚約破棄のような話は出ていない。ただ、困った事に、僕が嫉妬しているという噂が出回り始めた。実際嫉妬しているので、僕は困っている。だが命に関わるので、僕は噂の払しょくに努めた。そうこうしていると半年があっという間に経過した。
噂の払しょくを手伝ってくれたのは、エドワーズ殿下だった。僕は日中、ジャック様といる時間よりも、エドワーズ殿下と過ごす方が多い。そのくらい対処しなければならない噂の量が多い。この日も疲れ切って寮に戻った。すると不機嫌そうな顔のジャック様が、長い脚を組んでソファに座っていた。
「フェルナ」
「はい」
「最近、エドワーズと親しいらしいな」
「親しいですね」
「毎日昼食を一緒に食べているというのは事実か?」
「ええ」
「……お前は誰の婚約者なんだ?」
「ジャックロフト王太子殿下の婚約者ですよ」
「では明日からは俺と食事を」
「無理です。エドワーズ殿下と約束していますし」
「……なんでエドワーズなんだよ。俺の何がだめなんだ?」
ジャック様の声が、低くなった。疲れ切っていた僕は、顔を上げ――そして息を飲んだ。あんまりにもジャック様の顔が真剣だったからだ。それも、怒っている顔だ。
「なにがあっても、俺は絶対に婚約破棄には応じない」
「……ええと、その……でもジャックロフト王太子殿下は、だから……最近親しい方がいるのでは?」
「お前とエドワーズのようにという意味か?」
「僕とエドワーズ殿下のようにとは?」
気配に飲まれていると、立ち上がったジャック様が歩み寄ってきて、正面から僕を抱きしめた。
「誰にも渡すつもりはない」
「なにを?」
「お前を」
「僕を……?」
「もう我慢できない。お前の気持ちが俺に定まってからと考えていたが、待てない。好きだフェルナ。俺はお前のことがずっと好きだったし今も好きだ。何度も惚れ直した。最高にお前が好きだ」
「え!?」
僕はその言葉に、純粋に驚いた。嬉しすぎて顔が融解しかかったので、俯いてごまかす。
「だから早くお前も、俺を好きになってくれ」
「!!」
既に僕もジャック様の事が好きだから、心拍数が大変な事になってしまった。
「ジャック様……」
「なんだ? 久しぶりにその名で呼んでくれたな」
「……その、嬉しいです。本当に嬉しいです」
「フェルナ?」
「僕も好きです。お慕いしております!」
僕も勢いあまって気持ちを伝えた。すると僕を抱きしめていたジャック様の腕に、変な力がこもった。
「もう一度言ってくれ」
「好きです。ジャック様こそもっと言ってください」
「フェルナが好きだ。愛している」
その後僕達は顔を見合わせて、そしてどちらともなく満面の笑みを浮かべた。
翌日からは、僕はエドワーズ殿下とジャック様と三人で食事をし、噂の払しょくをしていたという説明もきちんと行った。するとジャック様が難しい顔をした。
「俺のせいで嫌な思いをさせた事をまず謝らせてくれ」
「別にジャック様のせいでは……いや、どうかなぁ」
「俺は今後、もっとフェルナを愛している事を前面に打ち出していく」
「それはやめましょう。僕が恥ずかしいです」
そんなやりとりをした。
結果――ジャック様は有言実行の人だった。噂はすぐに消えてしまった。
このようにして三年目の日々は忙しなく過ぎ、四年目に突入した。
もうすぐ、僕とジャック様の卒業パーティが迫ってくる。ただ今のところ、婚約破棄される気配もないし、断罪される兆候もない。それでも僕は、語学の習得は怠らなかった。ただ……ここまで好きになってしまったら、もう結果が追放だったら、僕は立ち直れないだろうから、勉強しなくてもいいかもしれない。
こうして、三月。
その夜、卒業パーティが行われる事となった。僕とジャック様が並んで入場すると、人々の視線が集まってきた。やはりジャック様の隣にいると視線の量が多い。
「フェルナ?」
「ああ、いえ……みんながジャック様を見てるなぁって思って」
「どちらかといえばお前を見ているんじゃないか?」
「嫉妬してるって噂、まだあるんです?」
「違う。見惚れているんだろう。今日もフェルナは綺麗だからな。外見も、中身も」
「それはちょっと医官に見てもらった方がいい案件では?」
「雰囲気をぶち壊さないでくれ。さぁ行くぞ」
幸い、この夜僕が婚約破棄される事はなかったし、断罪もされなかった。
その後も僕らの月日は巡っていったが、僕達の関係は順調で、じわりじわりと好きの量も増えていった。喧嘩をする事もあるが、僕は隣に居られて幸せである。
(終)