医療魔術師の救世





「何をしているの?」

飛び降りようとフェンスに手をかけた、その時のことだった。
唐突にかかった声に、僕は一瞬動きを止めた。
目を見開き息を飲んだ瞬間には、手首と腕を掴まれて、屋上の床の上に引き倒されていたんだ。

「俺は他人の死に慣れろとは言ったけど、自分で死ねとは言ってないよ」

僕を拘束して、腕をねじりあげているのは、僕が終末医療に携わっていた時の上司だった。口調は柔らかいのに、いつもその瞳は笑ってはいない。
あの頃の僕はーー笑っていたのだろうか?
やっぱり笑っていなかった気がする。
だけど今抱えている闇とは違った気がするんだ。あれ、僕は闇を抱えていたのかな? ルキアと過ごした日々は幸せだった気がするんだけどな。不思議だよね。


「何があったの? 最近顔色が悪いところを何度か見かけたけど」
「救命が、その、思ったよりも……大変だっただけです」
「それで死ぬの? 馬鹿じゃないの」
「別に、その……ちょっと下を眺めていただけです。離して下さい」
「無理かな。脱いだ靴と遺書の説明は?」
「嫌だなぁ、今時、そんなコテコテの自殺する人なんていないですよ、先生」
「じゃあこれは何なの?」
「……ラ、ラブレターです」
「靴は?」
「こ、告白する意思を固めるために、ちょっと素足になってみたっていうか……」
「じゃあ読んでもいいかな」
「恥ずかしいからダメです」
「妙な噂を聞いたけど。ストイックな君には似つかわしくない噂。だから一人で居るのを見かけたから追いかけてきたんだけど」
「ははは」

我ながら色々と苦しいのはわかっていた。
ただ腕を解放されて、少しだけ安堵して息をつく。
ただし手首はきつく握られたままで、離してはもらえなかった。
この上司は優しい顔をして、いつも厳しいんだ。

「戻ってきなよ」
「ーーどこに?」
「君の君らしい君だけの人生に。いつも俺たちは、その人らしい人生の終幕を見守ってきたんだから。まだ生きているのに、死ぬのは、冒涜的だし生者の傲慢だよ」
「ーー僕が死んでも誰に迷惑をかけるわけでもないじゃないですか」
「休息時間にまで、俺に仕事をさせるの? 少なくとも、俺は迷惑だよ、君が死んだら」
「生きろ何ていうことの方が、医療魔術師の傲慢だよ」
「そうかな?」
「僕は今じゃそう思うようになったんです」
「だとしたら、君は救命に行って成長したんだ」
「……」
「患者の気持ちに寄り添える医療魔術師になったんだから」
「割り切れって言ったじゃないですか」
「成長する前のーー絶望する前の君だったからね」
「絶望……?」
「愛するものを失った時。それは死じゃないかもしれないし、喪失かもしれないし、絶望かもしれないけど……僕の時は、そうだね、やっぱ絶望だったのかな」
「……何があったのか聞いても?」
「簡単な話だよ。出世コースで蹴落とされた。俺だけが恋人だと思っていて、向こうは俺の弱みを握ることに命をかけていたみたいだね。今じゃ向こうは……まぁ、内緒。俺の頃は魔導動画なんて無かったから、写真をばらまかれたんだけどね」
「っ」
「平気だよ。君の気持ちがわかるとは言わないけど、終末の時に関わる医療魔術師は、多かれ少なかれ、何か抱えているものだから。戻ってきなよ」

この人は、僕に何があったのか知っているのだと思う。
だからこれは作り話なのかもしれない。
ただそのままーー腕を引かれて、抱きしめられた時、僕は確かに泣いちゃったんだよね。
ばかみたいに、子供みたいに、ボロボロと。
声をこらえるのに必死になって。


そのまま僕はそのまま終末医療塔へと戻った。
すんなり戻れたのは、上司が手配してくれたからみたいだった。
ーー死神先生。
僕にはやっぱりそう呼ばれることの方がふさわしい気がした。
「戻ってきてくれたんだなぁ、死神先生」
「本当、先生に看取ってもらわんにゃ、逝くに逝けんかった所だよ」
「死神先生に渡して欲しいって書いた遺書を回収してこないとなぁ」
長くいる患者さんたちにそんなことを言われた。
彼らはすぐに死んでしまうのに。
危うく患者さんの前で泣いてしまいそうになったから、慌ててスタッフルームへと引き返す。すると、回転椅子の背に深々と背を預けた上司が、左太ももの上におった右足を載せて、こちらを見て回転させた。ギシギシと音がした。

「本当にラブレターだったんだねぇ」
「あ」

彼の手には、僕が書いた遺書が乗っていた。

「ルキアのことが好きです」
「や、やめーー」
「愛しているので、もう一緒に救急で働くのは辛いので、」
「っ」
「付き合っていないのかもしれないけど、別れてください」
「あああ」

僕は思わず両手で耳を塞いだ。

「どんなに数多の誰かと時を刻んでも、ルキアとのひと時だけは特別でした」

そうだ、そうだ、そうだよ。
そうなんだ、僕は。
誰に何をされても次第に何も思わなくなって行ったのに、相手が、その体を繋げる相手がルキアの時だけは、どうしようもなく心が疼いて辛くなって、いつもいつも泣いてしまったんだ。

「代わりに渡しておいたよ。救命のルキア先生に」
「なッ」
「告白する気だったんでしょう? あれ、別れの告白文みたいだったけど、まぁラブレターって君が言ったから。死神先生の時代はこういう告白が流行っているのかと思ってね」
「違ーーッ、いつ、それを? 手元にあるってことは、まだですよね、嫌でも、渡しておいた?」
「コピーを送ったんだよ。僕は渡し方にもこだわって、ちゃんと靴の上のこれをおいたんだ。そうしたら彼、どうしたと思う?」
「……笑っていたんでしょう?」
「半分正解かな」
「?」
「笑いながら泣いていてね、フェンスに手をかけていたよ」
「どうして……」
「さぁ? 本人に聞いて見たらどうかな。救命に戻ってきて欲しいそうで、直接君と交渉したいって君をご指名なんだ。無理だって断ったんだけど、まだ向こうの部屋でしつこく待ってる」
「……」
「行くのもいかないのも君の自由だよ。生きている者の特権だから」


結局僕はーーそれでもやはり最後に顔を見たいと思ってしまったから、だからこそ、会うのをやめた。


一階のロビーで、いつかのように僕はコーヒーを飲む。
すると聞き慣れた足音がした。
僕は、ああルキアだなと思いながら、カップの中身を見据えた。
「ーー昔とは逆だな」
不意に声をかけられたから、僕は萎縮した。
「お前が俺を見ない。すれ違うたびに、誰かがそばを歩くたびに、俺はお前を探して見つけてずっとその表情を見ている」
もう僕は彼の優しい言葉は信じないことに決めたから、静かに瞼を伏せた。
「そう」
「会いたかった」
「どうして?」
「……救命のスタッフは全員入れ替えた。医療魔術師だから、退職時に全ての記憶が、管理されて消えた。技術以外の、エピソードが基本的に」
「だから?」
「お前にそばにいて欲しいんだよ」
僕だって本音を言うなら、そばにいたかったのかもしれない。
肉体的な痛みと苦痛は覚えているが、ルキアの体温で抱きしめられる時、その時は僕にとっては紛れもなく大切な時間だったんだ。不思議と恨みはないんだ。僕なんてその程度の存在なんだって、むしろわかって良かった気がしたからかな。
「じゃあ、どうしてあのままそばにいてくれなかったの? あんなことしたの?」
「お前が他の奴らの前では嫌がって泣くのに、俺にだけは抵抗しない、縋るような姿を見てると、お前の気持ちが確かめられるみたいで、嬉しかったんだーー最低だな」
「うんーーじゃあ動画を流したのはどうして?」
「お前は俺のものだって、しらしめたかったんだよ」
「賭けていたんでしょう?」
「これでお前が俺のことを好きになってくれないんなら、忘れようと思っていたんだ」
「……玩具なんでしょう? 今度はそうやって遊ぶの?」

「あー流石にもうバレた?」

僕は別に否定して欲しいわけゃなかった。
好きになって欲しいわけじゃなかった。
勝手に僕が好きになってしまっただけなのだから。

「ただ一つだけ教えてやるよ。俺がついた嘘。お前が多分一生気づかないやつ」
「何?」
「俺は、本気でお前のことが好きだ」

それだけ言うと、ルキアは歩いて行った。
白衣が揺れている。
きっとまたすぐ血に濡れるんだろうなぁ。


ルキアが、自殺未遂したという話を聞いたのは、その翌日のことだった。
カルセドニーガスで自殺を図ったそうなんだけど、運がいいのか悪いのか見つかってしまったそうだ。
このガスは、延命治療を望まない患者に、痛み緩和のために本来では使うんだけど、行き過ぎると死に至る魔術ガスだ。
流石に医療塔はすぐに救命されてしまうから避けたのか、結界を張った車の中でだったとのことである。
ーー今、ルキアは、終末医療塔にいる。
他の塔のベッドに空きがないから回されてきたんだ。
ここだっていっぱいだったのに、上司がOKだしちゃったんだよね。
ルキアは今、脳にダメージを受けたため、記憶が混乱しているようで、なのに茫然自失としている。
話を聞いた時は、ルキアがまさかと思ったのに、こうして死臭が漂う場所で見ると、不思議とそばにいたいと思ってしまうのだ。

「なぁ」
「なに?」
「俺にはどうしようもなく愛していた人がいたと思うんだ」
「そうなんだ」
「俺はその人に謝らなければならないし、謝っても許してはもらえないと思う」
「謝るほどの、何をしたの?」
「わからないんだ。ただ、そんな気がする」
「その人は……誰?」
「学校の同窓生だったと思う。学校? 俺は何処かの学校に行っていたのか? この歳で?」
「ゆっくり思い出して行けばいいんだよ」

僕はそう言って扉をしめた。
そしてポケットから、彼の遺書を取り出して眺める。

『ラピス、ごめんな。愛してる』

たったの一行。本当に遺書なのかもわからない。
だけどそれを握りしめて、僕は泣いた。
あゝ、ああ。
生きていてくれてよかった。
僕は、やっぱりそれでも、何があってもきっと、ルキアのことが好きなんだ。

「先生、やっぱり僕救命救急に戻ります。ルキアが戻るまでの間、力になりたいから」
「そうーー面倒を見るのが嫌になっちゃったわけではないよね?」
「勿論です。何なら、救命のベッドに連れて行きたいくらいなんだ」
「そうだね。じゃあ俺が責任を持って見てるから」
「お世話になりました」

こうして僕は、僕の僕らしい僕だけの人生の一歩を踏み出すことに決めた。
ルキアの体調が戻ったら、言おうと思うんだ。
ーー最低最悪で大嫌いな君だけど、だけどそれでも、愛してるんだって。