【上司】医療魔術師の絶愛


冬の残り香を乗せた風が吹いていた。
寒く思って俺は、コートの襟を立ててマンション全体のエントランスを押し開く。学生時代から変わらず暮らしている部屋で、今だにオートロックもない。ギシギシと音が灰色の床にの上で伸びて行く。一階の角部屋、そこが俺の部屋なんだ。

「……」

そして今日も、扉の少し脇の壁に背を預けて腕を組み、ザイルが俺を待っていた。
俺は何も言わずに、笑みを返して扉を開ける。
ザイルはそんな俺に言う。

「ーーラピス先生は今日付けで救命に移動してもらった」

その言葉にまだ若い二人の医師の顔を思い出して、俺は珍しく手を止め俯いた。
愛しているんだなとわかるラピス先生の顔を思い出したら、少しばかり昔のことを思い出してしまった。ラピス先生から、ルキア先生の体調が戻るまで救命に行きたいと聞いたのは、今日の日中のことだった。俺はすぐに医療魔術塔総括管理官ーー要するに一番偉い知人に連絡を取った。それが、ザイルだ。

「そう。有難う」

これはあくまでも業務的なやりとりだと考えながら扉を閉めた。俺は扉の外から響いてきたため息には気づかないふりをして、長い瞬きをする。よぎったのは、かつての光景だった。





これは、学生の頃の話だ。
魔力が在る者は、皆いずれかの魔術学院へと通う。普通はその後就職するが、より才能があるものだけが大学の魔術学部に通う。その魔術学部の中に医療科は存在した。もう出生した時点で、俺たち魔術師は一定の地位を約束される。それも大学、中でも医療科の特殊外科専攻など、花形中の花形だ。内科だって、呼吸器科やーーもっというと感染症内科なんかは羨望の眼差しを集めている。
ここまで来たんだからーー最先端に行きたい。
そう考える人間が多いのか、必修の総合外科と総合内科をとりながら、大抵のものは一つの分野の講義を専攻している。どの講義を専攻するでもなく、幅広く、それこそ浅く広く単位をとっているものなんて俺くらいのものだった。
そもそも俺は、医療魔術師になりたいわけじゃなかったんだ。
ただ病弱な弟の看病をする知識が欲しかっただけなんだ。
弟は魔術師の中にごく稀に生まれる弊害児で、魔力量が膨大すぎるため体が耐えきれず、些細な魔力接触で重篤な肺炎になったり、複雑骨折したりする。だから医療魔術師で、専門的な結界技能を持っていなければ、結界外からでなければ近づけないんだ。もちろんそれを知ったのも、この医療科の講義でだ。それまでは往診にやってくる街の医療魔術師だけが弟に近づけることを不思議に思っていたんだ。両親は弟が生まれた瞬間にそばにいて亡くなった。どうすれば俺も近づけるのか、って聞いた時に、この大学を勧めてくれた医療魔術師でシモンさんという名前だった。高齢で、長い髭が印象的だった。
そんなことを考えながら、食費を節約しようと学食前を通り過ぎた時のことだった。
「ワーク。今回もすごかったな」
同窓生のザイルに声をかけられた。ザイルは、すでに臨床に呼ばれることもある凄腕の外科医だ。何外科かは知らない。この前は肺を魔力メスできったときいている。俺なんかは、魔力補強による遺伝病の治癒、だとか、魔導保育器による未成熟児の発育予測だとか、論文を書いて単位をごまかしている。
「何が?」
「総合外科も総合内科も主席。論文も見事だった」
そりゃあ幅広く講義を取っていればそうもなる。一方のザイルは、何らかの外科専攻なのに、両方次席だ。客観的に考えてその方がすごいよね。
「当然大学院に行くんだろう?」
「俺は、総合医療魔術塔に行くよ」
「っ、け、研究は?」
「研究?」
俺は研究なんてしていた覚えはない。それに先方から声がかかって内定先が決まったんだ。
「じゃあお前もやっぱり……目的は僕と一緒か」
「え?」
「いくら腕や頭脳があっても、世界は何も変えられないからな」
その言葉をたんたんと聞いていたんだけど、俺にはザイルが何を言いたいのか全くわからなかった。

そうして俺は就職した。
大概なんでもできるが専門はない俺は、なぜなのか救命救急に回されたんだ。多分初期治療の迅速さをかわれていたんだと思う。元々の俺の予定だと、一年だけ医療塔で経験を積んでから、弟のそばにいる予定だった。それまでの間だけは会う頻度が減っても、仕方が無いと我慢することにして、シモンさんに頼み込んだ。頼むどころかシモンさんは、俺に自分の余命がくるまでの間ーーできるだけ長く救命で働けと言った。シモンさんも昔は救命医だったらしい。だけど愛する立った一人の奥さんを救うことができず、息子とも絶縁状態となり、今はーー……そう、医療塔の総括の傍ら、空いた時間で街医者をしているんだったそうだ。
シモンさんには、弟の面倒を見るから許して欲しいという条件で三つ謝られた。
一つ目は、研究者としての道を奪ってしまった謝罪。
二つ目は、進路をーー学科専攻から救命に至るまで、息子に重ねて口を出してしまったという謝罪。
三つ目は、それでもこの世で一番大切なのは息子だという謝罪だった。
どれも意味はわからなかった。
ただできれば、医療塔のTOPになって欲しいという冗談を言われた時には流石に笑ってしまったんだけどね。

「久しぶりだな、僕のことを覚えているか?」

非常階段に座ってタバコを吸っていると、正面で白衣が翻った。
そこには、コーヒーを二つ持ったザイルが立っていた。

「久しぶりだね」
「ワークの仕事ぶりは聞いてる」
「俺も、この前救急からそっちに送った患者の肺を切除して魔導肺に接続したって聞いてるよ」
「そっか。そう言われると僕も嬉しいな。救急はどうだ? 忙しいか?」

僕はタバコを一度深く吸い込んでから、灰皿の中に入れた。ジュッと焦げた音と水の音がする。
そうしてカップを一つ受け取った。

「大学よりは、休みが多いし勉強しなくていいから楽かな」
「……救命を楽だなんて言う奴に初めて会った」
「君の方が大変じゃないの? 大規模な手術の前は、文献を読んだり練習したり」
「お前はそういうの得意だろ?」
「ありえないよ。ただ目の前にいる患者の生死だけ考えればいい場所が俺にはあってるみたいだ」

実際その方が気が楽だった。
その時の俺はもう、救命に来て四年目だった。大抵三年以内で皆はやめて行くから、俺は救命医療魔術師としては、三番目に古くなっていた。

「でも次の術理官指名受けるんだろう?」
「まぁ上司に言われているからね。ザイルは?」

術理官とは、この魔術塔における、中間管理職のようなものの認定資格だ。
総括管理官がTOPで、管理官、術理官長、術理官という順で来る。
大抵の場合術理官になって死ぬまで、術理官だ。

「僕の上にはまだ三百八人いるからな」
「まぁ救命は多くても三十人、今なんて六人しかいないしね」
「お前の方が先に偉くなりそうだな、僕よりも」
「かもね。嬉しくないけど」
「なんでだよ」
「また辞めづらくなる」

それは本心だった。
本当はもう、弟のところに帰りたくて俺は仕方がなかったんだ。

「ーー辞めたいのか?」
「うん」
「なんで?」
「弟と暮らしたいんだ」
「やっぱりな」
「え?」
「ん?」
「今なんて?」
「何が?」

俺は、ザイルに弟の話をしたことがあっただろうか?
だがわけのわからないと言った表情の彼を見ていると、よくわからなくなってしまった。ーーそして、わからないことを追究するくせが俺にはあるんだ。

「俺の弟は今、新しい医療魔術師を探しているんだ」
「っ」

するとあからさまにザイルが息を飲んだ。僕は直感した。彼はシモンさんの絶縁状態だけど誰よりも大事な息子でーーそれでーー僕の弟を知っていて、それは要するに、何かしたのだろうということを。
それはただの妄想でもよかった。
間違っている分にはいいのだ。

「俺が知らないと思ってた?」
「あ、ああ……」
「あんなことしたくせに?」
「それ、は」
「俺に直接同じことができる?」
「なッ」
「なんてね、冗談だよ。じゃあ、まーー」

また、と言いたち上がろうとしたら、手首を強引に掴まれフェンスへガンと押し付けられた。後頭部が鈍く痛む。そのままもう一方の手で顎を掴まれ、強引に口づけされた。

「っ、ァ」
「シて、いいのかよ?」

唇を離すと耳元で囁かれた。こういうことをしていたというのは予想の範囲外だった。何せ、弟も彼も男性だ。もちろん俺も。
某然としていると反転させられ、下衣を降ろされ、そこに強引に屹立した男根を挿入された。

「あーー、ーーーーーー!」

痛みで喉が凍りつく。生理的な涙が出てきた。
いつの間にザイルの陰茎がそそり立ったのかは知らない。
ただ俺は必死でフェンスの網を掴み、尻を突き出して、酸素を求めた。
グチャグチャと音がした。
痛みとその感触に切れて血が出たのだろうとわかる。
俺の白衣が、俺自身の血で濡れて行くのは多分初めてだ。

い、いやだ、やめーー……やめて欲しいと言おうとして俺は唇を噛み締めて震えた。弟が何をされたのか、知らなければならない。必死で嗚咽を堪えたが、涙が流れることだけはどうしようもなかった。

「お前の弟はなぁ、ワース。俺に縛られて四つん這いにされて、鞭打たれながら後ろの口にディルドぶちこまれて、それから僕にご奉仕しながら射精するのが、これまでの人生で一番、気持ち良くて嬉しくて楽しくて何にもかえられないことなんだってな。後々それを理由に脅して地位を推してもらおうと思ってたんだけどな、まさか知っていたとはな。知ってたくせに止めなかったお前も相当なやり手だ。何? 逆に僕の弱みでもつかむつもりだったのか? じゃ、これも強姦被害にあったとでも言うのか。言わせねえよ、ほら、さっさと咥えろ」

一気にそう言って僕から自身を引き抜くと、再び僕の体を反転させ、今度は跪かせて、精液と血で濡れた陰茎を、俺の口の中、喉深くへと突き入れた。
苦しくて涙が出た瞬間、使い捨てカメラのフラッシュが光った。
次に光った時は、顔に生温かい白液がかけられた瞬間だった。


俺が我に返った時、空は紫色の夕暮れで、血と精液に濡れた俺は、鉄製の床に体を預けて呆然と空を見ていた。救命からの着信音で意識を取り戻したのだ。ひどい頭痛がして、何があったのか思い出したくもなかった。
ーーただそれでも、俺を待っている患者がいるから。
気力だけで立ち上がり、気づかれぬように着替えて、俺は仕事に舞い戻った。

その日の仕事が終わり、俺がコートを着た時、歩いてきたザイルの姿に目を細めた。何故なのかーーなぜなのか全身が凍りついたようになって動けなかった。そんな俺をただじっと、歩きながらザイルは見ている。

「てっきり腕だけでなり上がったと思ってたんだけどな、体も使ってたとわな」

すれ違いざま、失笑するようにそう言われて、僕は目眩がした。
息苦しくなって咳き込みながら、近場の黒く長いソファに肘をつく。
何を言われているのかわからないのに、どうしようも無い嘔吐間に襲われた。
だけど何も食べていなかったから吐瀉物は出ない。


それから俺は、弟に電話をかけた。
何の問題もないし、毎日が楽しくて仕方が無いと言われた。
本当なのか。
俺には検証しなければならないという決意があって、魔導具を幾つか実家へと送った。弟の無事を祈っていたんだよ、心底。
代わりにザイルち会う頻度は増えた。ーー曰く、弟に何もされたくなかったら、これからは自分に従え、とのことだった。
その日は口にボールをかませられ、四つん這いで後ろから突き上げられながら、真正面にある大きな鏡を見ていた。我ながらよだれと涙でグシャグシャの顔が気持ち悪い。虚ろな瞳をしているのに、突かれるたびに震えるんだ。奇妙な生き物だ。
「ーー本当は医療魔術師を変える気なんてなかったんだってな」
「う、ぐ、はっ」
「お前は弟がなにされてるかなんて知らなかったんだろう?」
「んぅう」
「まだ気付かないのか?」
「ふ、ぁ」
「僕はただお前に嫉妬して、僕と同等かそれ以上に次の時代の医療塔総括に近いお前を蹴落としてやりたかっただけなんだよ、ずっと」
なんだろうそれ。そんなもの俺はいらないのに。
「安心しろ、あんなの口からのでまかせで、お前の弟にはこんなことしてない。ああ、僕もバカだな……僕は、お前にことを屈服させたい。なんでなんだろうな、お前が誰かのことを考えていると思うと気が狂いそうになる。こうやって休暇を全て拘束していてもな」
「ーー、ーーンーー!」
そのまま激しく突き上げられ、前は拘束されたまま、僕は出せないのに達した。
「ううンーー!」
声もうまく出ない。けれど、感覚の方が強くて、腰に力が入らなくなる。
「ああ、ダメだな。僕はイっちゃだめだと言っただろう?」
「ひ、ぅあーー! あ、あああああ」
ボールを口から外され、僕は泣き叫んだ。もう、気持ち良くて、それが苦しくて何も考えられなくなりつつあった。
「や、やだ、ザイルッ」
「そういう時はなんていうんだ?」
「あ、愛して、愛してる、愛してるからッ」
「だから?」
「もっとして、っ、ああああああああ!」
そのまま激しく突かれて、僕は理性を失ったのだった。

術理官長認定試験の話が来たのはその頃のことだった。
今回は五人選出されるところに、千五百名が名を連ねた。
この上の管理官は、何処かの塔の管理官が死ぬまで空きは出ない。
実質管理職の認定資格だ。この頃には、救命で一番古い人間はーー七年以上続いているのは俺一人になっていた。
投票制だから、みんな票工作に忙しいらしかった。
そのせいか、暫くザイルも俺のところに顔を見せなかった。考えてみれば、俺から顔を出したことはなかったんだけどね。

「いよいよだな」

再会したのは選挙の日だった。
僕はココアを片手に嘆息した。

「俺が選ばれることはないだろうけど、もしなったら辞退するから安心して」
「は? なんで?」
「投票前の辞退はできないから」
「違う。認定合格後になんで辞退するんだ?」
「席が一つ空くだろう。例えば君の」

すると舌打ちしてからザイルが、吐き捨てるように笑った。

「この程度の選挙、実力で票集めぐらいできる。僕はもっと上を見ているんだ。その時にリタイアしてくれ。その方が気が楽になる」

そういうものなのだろうか。
俺にはよくわからなかったが、ザイルは無事選任された。俺も無党派層が集まったらしく選ばれた。史上最年少の二人だと言われたが、そんなに若いとも思わない。

「んぁああ!」

俺を後ろから抱きかかえ、腰に陰茎を擦り付けながら、ザイルが両手で乳首をこねくり回す。甘い疼きが全身を走り、俺は何度も首を振って泣いた。こうされるのは、こういうことをされるのは、久方ぶりだというのに、ザイルの焦らす手は止まらない。
「あっ、ぅあ」
「どうされたい?」
「う、後ろから、つ、突いて……!」
「やだね」
「ンなぁああーーーー!」
そのまましばらく焦らされ続け、俺は口を開けて息をしていた。
覗いた舌をからめとられるように、顎を掴まれキスをされる。
体が熱い、だけど……幸せで。
多分この時俺は、それなりにザイルのことが大切だった。

病院で話すことは滅多にないし、ひと気のある場所では皆無だ。
だけど外では時折食事をして、その後はーー快楽に堕とされる。
普段は人の命を何とか救おうとしていて、だけど平時は自身の救いを何処かで求めていて、ああ、ザイルに優しくされたいなだなんて思っていた。
俺の方が圧倒的に休暇は少ないけれど、ザイルは普段の休みの日には何をしているんだろう? 票集めだろうか。少しは俺のことを考えてくれているのだろうか?

そう思いながら、休暇のある日、両親の命日だったから俺は毎年と同じように帰郷した。

「ねぇ、兄さん。なんで僕から恋人を奪ったの?」

弟にそう言われたのは、その時のことだった。
結界内にいた俺は驚いて目を見開いた瞬間ーーナイフで滅多刺しにされた。
ああ、今刺されたのは、肺だな、今度は胃だ、次は肝臓か。
冷静にそんなことを考えながら吹き出して行く血を眺めていた。
同時に吹き出した俺の血のせいで、魔力暴発を体内で引き起こしそうになっている弟の姿に、すぐに救命しなければと思う。弟の力になりたくて医療魔術師になったのに、弟を救えないなんて馬鹿げているよね。必死で、己の手首を噛みさらなる痛みで何とか起き上がり、僕は這いずるように弟に近寄った。手のひらを添えて、心臓の真上で応急処置の術式を描いて行くがーー「く」
貧血で、僕は真横に倒れ、床に叩きつけられた。

「あーあ。まさか本当に殺そうとするとはな。僕にも想定外だ。ワークもバカだな。助けようとするなんて」

そこへ哄笑が響いた。ザイルだった。横たわったまま僕はそれを聞いていた。
「はや、く、弟をーー」
「……バカが」
「っ」
「自分が今どんな状態かわかってんのかよ」
「俺は、平気だ、から」
「愛する相手一人救えないでなにが医療魔術師だよ!」
俺はいつか同じセリフを、シモンさんから聞いたことがある気がした。
やっぱり家族なんだろうな。
俺は残った立った1人を今失おうとしている。
「ザイル、お願いだからっ、くは。あ。ああ、痛っ」
「もう無理だ。救命医ならお前だってわかるだろう。僕はお前を助ける」
そもそもなんでここにいるのかだとかそういうことを聞く前に、俺は意識を失った。気がつくと俺は医療塔にいた。
目を覚ました三日後、僕の生存が知れると、全ての塔内に、俺が最初にザイルに口腔を犯され顔に射精された時の、僕だけがどアップの写真がばらまかれた。
そうして僕はもう救命救急にいられなくなった。
理由は、弟に殺されかけたことでも、弟が亡くなったことでも、写真のせいでもない。
「ーーというわけだからもうお前の居場所なんてどこにもないんだよ。わかったか、ワーク」
「……」
「ーーワーク?」
見舞いになのか嘲笑しになのかやってきていたザイルが僕を二度見した。
「おい」
「……っ、」
何か言おうとしたのに俺の喉はヒューヒューと音をたてるだけだった。
このようにして、俺は声も失った。
声帯に傷がついていたわけじゃない。精神的なものだった。


「悪いことをしたなぁ」

一人きりの実家に戻った俺のところには、シモンさんが来てくれた。
「ザイルとお前の弟が仲がいいことは知っていたんだ。自己満足だが俺にはその二人の関係を見守ることでしか、息子との接点を見出せなかったんだ。次第にザイルが顔を出す頻度が減って行ったのも、初戦は出世のためにあの子を利用していたからだとわかっていたんじゃ。なのになぁ……許して欲しい。代わりに俺がいくらでも謝るから」
別に謝ってもらう必要はなかった。
実家に戻った俺は、いつか送った魔導具で撮影してあった弟とザイルの幸せそうにしている写真を手に入れたからだ。弟から幸せを奪ったのだとすれば、それは俺だ。
それから俺は声は出なかったけれど、医療魔術塔からの出向ーーさせんという扱いで、街医者になった。診断や指示など声を必要とするのは全てシモンさんがやり、それ以外を俺がしたんだ。弟は助けられなかったけど、救命で磨いたさらなる浅く広い手腕は、街ではよく役に立ったんだ。

そうして過疎化していた街の人間は、また一人、また一人と、医療塔に搬送されて行きーー最後の患者はシモンさん自身だった。

「俺が死んだら、医療塔に戻れるてはずにしておいたからな、何も心配するな」

一人で点滴を交換しながら、俺は眉を潜めた。
冗談じゃない。

「これからまた高齢化が進む。終末医療の重要性はわが身でも感じている。救急が生の象徴であり死に最先端である時代は終わった。産婦人科とて今は生の象徴ではない。今ーー最先端にあるのは、死の医療だ。終末医療こそが、人がどう行きどう死ぬかを補助して行く未来が来たんじゃ。魔術師は特に生まれながらの才能ゆえに出生率に重点を置くが、それは違う。どう行きたか、それが全てだ」

そういう考えもあるのかもしれないとは思いったが、消えが出ない俺は同意も否定もできなかった。

「病院にあの写真をばらまいたのは俺だ。理由は三つ。一つは、出世の邪魔にワースがなると思ったからじゃ。二つ目は、孫の顔が見たかった、お前らそれぞれのな。最後はそうだな、もうザイルのそばで傷つくお前を見て居たくなかった。全部勝手な俺の理由じゃ。現像した写真店と顔なじみでな」

そう言い切った瞬間しもんさんの心臓が止まった。

「違う、別に俺はーーああ、もう、なんで、なんで」

気づくと俺は声を取り戻していて、必死で医療塔に電話していた。
だけど、搬送された時にはもう、シモンさんは冷たくなっていたんだ。


「新設された終末医療塔の管理官か」

葬儀に席で久しぶりにザイルに会うとそう言われた。
実父が亡くなったのに悲しくないのだろうか。そんなはずはないと思う。
ザイルはきっと強がりなんだ。
再開した時、ザイルは総合外科塔の管理官になっていた。

「華々しく出戻ったな」
「そう?」
「ああ。誰もなりてがいなかった場所とはいえな」

その言葉をかわしただけで葬儀は終わった。俺はシモンさんのことをなんてどんな風に伝えればいいのかわからなかった。
その後終末医療塔の中でも末期の病棟を、毎朝一人で俺は歩いて回った。
「ザイル先生に見てもらえたんだからもう悔いはない」
「あの人でダメなら仕方ない」
「あんなに偉いのに本当にいい先生だなぁ」
何度も何度もそんな言葉を聞いた。
そして思い出したーーいつか言っていたような気がする。
偉くなければ世界は変えられない、と。
こうして活躍こそ聞くけど、顔を合わせることは会議でも滅多になく、毎日は過ぎて行った。何せ俺は最も新しいのに、最も最後に位置する医療塔の管理官だからだ。すべての塔のTOPとではなく、各科含めて、最も現場に近しく死を見守っている看護師や医師との方が、ずっと接点がある。

ザイルがやってきたのは数年後のそんなある日だった。

「……久しぶりだな」
「そうだね」
「今度の総括戦には出ないんだってな」
「俺には出る理由がないからね」

また出世の話かと思いながら、俺はコーヒーを飲んだ。
いつか飲んだ紙コップのものとは違う、豆を引いた粉の。
だけどあの時ザイルが持ってきてくれた珈琲の味を俺はまだ忘れられない。

「今となっては各科と最もつながりが深くて影響力があるのは、お前だ」
「そうかな」
「俺を推してもらえないか?」

僕は小首を傾げてからカップを傾けた。

「その、昔のことは謝る。僕のことを恨んでいるか? それならそれでーー」
「分かった」
「ッ」
「君を応援するよ、ザイル」

実際別に俺は恨んでなんかいなかった。本当は、あの写真をばらまいたのだって、シモンさんじゃないって知っていたけれど、そんなの些細な問題だった。毎夜毎夜それからは、伴う人は変化したけれど、俺は高級な店で接待を受けた。
時には、そう、二人だった。
二人きりでいると、いつもザイルは言うのだ。

「もしも僕が総括になったら、頭の古い連中を一掃してやる」

ザイルが何を言いたいのか俺には相変わらずわからなかったけど、もう究明する気も起きない。もう。俺だってそこまで若いわけじゃないんだ。
そのようにしてザイルは、総括になった。
総括になった三日後、彼は俺の部屋を訪れた。

「お前のおかげだ、これで僕はーー」
「おめでとう」
「っ、ああ。お前に言われるとひとしおだな。それと、その、もう一つ伝えたいことがあって。僕はそのお前のことをーー」
「俺も伝えたいことがあるんだ」

俺は鍵を掛けた引き出しに、大切にしまっていた写真を取り出した。
それはいつか俺が実家に魔導具を送り盗撮した、幸せそうな弟とザイルの写真だ。
深々と全たの俺の弟の秘所に、ザイルのそそり立った陰茎が突き立てられている。
どちらの顔も良く見える。

「俺はこれをばらまいたりしないよ」
「!」
「たぶん、君のことが好きだからだ」

俺はそう伝えて、立った一枚の写真を半分に切り裂いた。
別に僕があんなに丁寧に優しく抱かれた過去がないからゆえの嫉妬ではないし、俺なりの誠意のつもりだった。

「君は君の願う通り総括になれた。もう俺と無理に関わらなくてもいいんだよ。だから、俺はこれからは業務連絡以外では君とは話をしない」
「……」
「用がないのなら出て行って」

それが、俺の結論だった。



以来、だ。
ザイルが俺の部屋の前で待っているようになったのは。
俺はいつも笑みだけ返して会話しない。基本的には。
最初はそれこそ中へとはいるのを引きとめられた。
ーー話がしたい。
ーーせめて食事だけでも。
ーー頼むから声を聞かせてくれ。
だけど俺は何も言わずに部屋へと入ったし、その内にザイルも諦めたのか……ただ部屋の外にいるだけになった。
そうして数年が過ぎたある日だった。

「救命のルキア先生から、ラピス先生の引き抜きがかかったぞ」
「……そう」

俺は思わず返事をしていた。ラピス先生は俺の部下だ。腕は確かだから、本来であれば究明の方が向いているだろうなと俺も思っていた。それも俺とは違って外科の専門医として。
ただそう答えただけで、俺はやっぱり扉を閉めた。

そんなある日嫌な噂を聞いたから、後を追いかけたら、俺の元部下はひどく憔悴していた。嗚呼、この医療塔は、相変わらず暗い。結局何が変わるわけでもなく暗いままだ。だけど、だからなんだ?
俺はそれでもいつまでも死を相手にして行く。

「ラピス先生は終末医療塔に戻した」
「頼みを聞いてくれてありがとう」

俺は久しぶりに病院外で業務的な話をした。

「ーーラピス先生は今日付けで救命に移動してもらった」
「そう。有難う」

また、今日もだ。
その翌月の事だった。

「ルキア先生が我を取り戻したらしいな」
「……病状に関することは院外では口外禁止だよ」

そうだ。ラピス先生とルキア先生のことをきっかけに、俺は少しずつ口を開くようになってしまったのだ。初めて頼み事をした負い目もあるのかもしれない。

「ルキア先生が救命に戻ったらしいな」
「……そうらしいね」
「ラピス先生はそれでも救命にいるんだろう?」

それが?
ザイルは何が言いたいんだろう。俺が思案したその日ーーザイルが扉に足を挟んだ。閉められなくて、俺はうろたえた。

「あの二人付き合い始めたんだってな」
「だから?」
「やりなおせないことなんてないって僕は学んだ」
「俺は心がいくら変われなくても、戻れない関係はあると思うよ」
「……もう元には戻れないか?」
「……改めて学校に入り直す?」
「……せめて、一緒に食事に行ったり、その」
「ーーSEXしたいんなら別に構わないよ」
「そういうことじゃなくて……」

苦しそうに、ザイルが唇を噛んだ。
気づくと俺は爆笑していた。それは嘲笑で哄笑で

「ハハハハハッ、俺に、俺なんかにもう、そんな普通の恋愛ごっこできるわけがないじゃないか」
「っ」
「犯りたいんならやればいい。確かに君のことは今でも好きだ。だけど、君のそれはただ俺との昔の関係や真実が露見するのを恐れているだけで、恋なんかじゃないんだよ」

俺はもう信じない。ラピス先生とは違う。違うんだよ。違ってしまった。だからかれらが羨ましい。

「……ああ、恋じゃない」
「やっとわかった?」
「バラすんならバラせよ」
「は?」
「ーー僕はお前を、愛してる」

そう言って抱きしめられた俺は呆然としてーーそしてそれから気づくと泣いていた。こんな苦しい感情、俺は知らなかった。