旧家の話



 お祖父様の訃報が届いた時、本家の環羅様は無表情だった。ただ俯き、きつく握った拳を、正座した膝の上に置いていたことを僕は覚えている。

 それが今朝のことだ。今、遺体が戻ってきて、仏壇の間にお祖父様の体は横たわっている。

 僕も慣れない和服を着付けられて、本家に呼ばれた。昨日から僕は中学校を休まされて、ずっと本家にいた。時折そう言うことはあったから、まさかお祖父様が亡くなるとは思っていなかった。

 透花院茜家が僕の生家だ。僕は病院ではなく、茜家で生まれた。小学校に上がるまでは、一歩も家の外には出たことがなかった。幼かった僕に、環羅様は度々絵本を読んでくれたものである。環羅様は、透花院本家の跡取りだ。お祖父様が亡くなったのだから、もう当主様なのかもしれない。

 山の上に透花院家はある。透花院本家を中心に、少し低い場所に、透花院橘家と透花院茜家という分家が存在する。橘と茜は、本家を支えるようにと育てられる。僕の両親は、僕が四歳の頃に亡くなってしまった。

 だから僕は、本家のお祖父様と、環羅様に育てられた。正確には、乳母の西方さんに世話をしてもらった。環羅様は、この前の夏に成人式を迎えられたばかりだから、二十歳だ。環羅様のご両親もいない。それだけではない。橘家の棗様にもご両親はいない。棗様は、橘家のご当主だ。

 先日棗様は「男にだって賞味期限がある。俺も今年で二十五だ」と仰っていたから、今は二十四歳なのだと思う。僕とは丁度十歳違うのだ。

 お祖父様が亡くなったと聞いた時、棗様は立っていた。障子に手をかけ、動きを止めた。短く息を飲み、大きく二度瞬きしていた気がする。僕は、死という事実があまり現実感を伴わずに襲いかかってきたから、ただぼんやりと畳の上に座っていた。僕がその場に呼ばれたのは、一応、茜家の当主だからだ。

 葬儀が行われるのだという。すぐに大勢の人が訪れた。主に執事の春岡が応対していた。環羅様は何も言わずに座っている。棗様は終始不機嫌そうだった。

 全てが終わったのは三日後の夕方で、白い雲が低く低く空に広がっていた。庭にある背の小さな松だけが、鮮やかな緑色をしていた。僕は仏壇の間の縁側で、まだ途切れない弔問客を見送っていた。砂利を踏む音がしたのはその時だった。視線を向けると、背の高い青年が、コートを揺らしながら足早に中へと入っていくところだった。

 振り返り仏壇の間を見ると、使用人達が息を飲んだ気配がした。動いているのはお客様達だけで、関係者は皆、立ち止まっていた。遺影の前にまっすぐたったその人は、険しい顔で眉間に皺を刻んだ。そしてにらみつけるように仏壇を見た後、お焼香を済ませた。走るように棗様がやってきたのは、その時のことである。僕が見ている前で、棗様は青年の胸元を掴んだ。棗様の方が背が低いのに、迫力があった。

「いくら仲が悪いとはいえ、葬儀にも顔を出さないなんて正気か? 恥さらし」

 吐き捨てるように棗様が糾弾した。目を細めた青年は、それから顔を背けて小さく吐息した。特に何を言うでもない。その場が静まりかえった。

「棗、やめて」

 環羅様が声をかけると、呆れたように溜息をつき、棗様が手を離した。そのまま棗様は仏壇の間を出て行ってしまった。憤怒しているのは明らかだ。一体誰なのだろう。僕が首を捻っていると、環羅様と目があった。すると手招きされたので、僕は玄関を回って中へと入った。そしてネクタイを直している青年と、その隣に立っている環羅様の前に向かう。

「こちらはね、橘の時雨君だ。棗の弟だよ」

 環羅様がそう言うと、青年が小さく僕に会釈をした。その言葉に、僕は思い出した。決して会話してはならないと教えられて育った人の名前も時雨だ。

 透花院家は全て、長男が家を継ぐから、次男からは明確に立場が違うと学ぶ。僕は嘗て、彼に会ったことがある。背が伸びているから分からなかった。茜家の当主となった幼き日に、橘へと挨拶に出かけた時だ。誰も彼とは話をしなかった。正確には、存在しないもののように無視していたように思う。

 ただ棗様だけが、怒鳴るように彼に声をかけていたのではなかったか。その後、時雨さんは家を出て軍に入ったと聞いている。軍人など下等な職業だと何度も聞いた。

「時雨くん、こちらは茜家の当主で、泰静君。まだ中学生なんだけど、よくやってくれてる」

 環羅様に褒めるように言われて、僕は少しだけ誇らしくなった。そんな僕を一瞥した時雨さんは、小さく頷くと環羅様に視線を戻した。

「遠野さんから連絡をもらいました。明日の十時にまた来ます」
「泊まっていかないの?」
「下にホテルを取っているので」

 遠野さんというのは、透花院家の顧問弁護士だ。下というのは、山の下の街の事で、僕の通う中学校もそこにある。そのまま一礼すると、時雨さんは帰っていった。
夜になると、使用人達も帰宅し、透花院本家は静かになった。

 環羅様と棗様と共に、僕は応接間の畳の上に座っている。他に残っているのは、執事の春岡だけだ。僕達にお茶を出すと、彼は雑務をしに下がっていった。

「まぁそう気落ちするな」

 湯飲みに手を添えて、棗様が余裕たっぷりに笑った。棗様は、いつも笑っている。怒ると怖い。いつも僕は棗様を頼りにしている。それは環羅様も同様だ。

 弁護士の遠野さんが顔を出したのは、午後の七時を回った頃だった。透花院家は、午後八時以降に訪れた客は、決して家に上げてはならないことになっているから、この時刻に間に合わせたのだろう。

「この度はご愁傷様です」

 遠野さんの声に、僕と環羅様は頭を下げた。棗様は腕を組むと、まっすぐに遠野さんを見た。冷たい表情だった。

「用件は?」
「遺言状と遺産相続の件です」

 真剣な表情に変わった遠野さんが、机の上に書類を広げる。

「遺言状は、明日十時に、時雨くんも交えて開封致します」
「時雨に遺産など一切やるはずがないだろう」

 不機嫌そうに棗様が強い声で言った。すると遠野さんが首を振る。

「いいえ」
「遺言状にだって時雨の名前なんかないだろう」
「彼に相続放棄をされると困るんです」

 遠野さんのその声に、棗様が驚いたように息を飲んだ。小さく首を傾げている。
 環羅様は指を組んで、机の上に置いていた。

「率直に言います。貴方達には、相続税を支払う能力がない」

 その場に沈黙が降りた。少し間をおいてから、棗様が目を細めて口を開く。

「銀行から借りれば良いだろう」
「透花院家の仕事は、無論分かっています。ですがそれは、公的には無職扱いになる。保証人もいない。借入は困難です。唯一の方策としては、土地や山を手放す事です」
「そんなことが出来るわけがないだろう」
「でしたら、少しでも負担を軽くするためには、やはり時雨くんにも相続してもらわなければならない」
「それは」
「棗さん、現実を見て下さい。それだけではない、透花院家には借金もある」
棗様が押し黙った。再び場に静寂が訪れる。時計の針の音だけが嫌に耳についた。
「とにかく、明日の十時から銀行の人間をはじめとした方々が来ます。それまでに、よく考えておいて下さい」

 遠野さんはそう言うと立ち上がった。誰も何も言わなかった。

 その日も僕は本家に泊まった。借金か。僕はそんなことは、何も知らなかった。これから僕達はどうなるのだろう。思案している内に睡魔に襲われ、絡め取られるように僕は眠った。

 翌日、僕は早く目が覚めた。顔を洗いに行こうと廊下を歩いていると、使用人の声が聞こえてきた。

「この分じゃ、お給料が出るのかも怪しいわよね」
「羽振りを良く見せておいて、相当傾いているみたい」
「まさに斜陽っていうの?」
「旧家も落ちぶれたものね」

 何となく顔を出さない方がいい気がして、僕は引き返した。

 朝食は漬け物だけだった。冷蔵庫は空っぽで、いつも運んでくれる使用人も、作ってくれる料理人も、やめてしまったという話だった。執事の春岡は申し訳なさそうに頭を下げていたが、食事が出ただけ良いのかも知れない。空腹のまま、僕らは十時を迎えた。

 弁護士の遠野さんが訪れた時、早く来すぎてしまったと言って銀行の人や、街の名士と呼ばれる人々も来ていた。春岡が皆に茶を振るまい、応接間に僕達は集まった。
しかし時雨さんが来ない。姿が見えないまま、十時半を過ぎた。

「まだかね?」

 苛立つように銀行の人がいった。柚木という禿頭の男だった。その隣で茶を飲んでいるのは、地主の遠藤だ。さらに隣には、総合病院の老獪な秋永という医師が座っている。最後、最奥にいるのは国防軍の青山中佐だ。彼らは皆、お祖父様に度々頭を下げに来たものだ。けれどその時のへりくだり媚びを売るような姿勢とは全く事なり、嫌味に皆が笑っている。

「三十分が経過致しましたので、規定に則り開封致します」

 溜息をつき、遠野さんが言った。一同の視線が集まる。遺言状を広げ、遠野さんは静かに告げた。

「本宅を環羅さん、別宅を棗さんと泰静くんに譲るとあります。また土地や山々は分割し、時雨くんも含めて四人が相続することになります」

 それからもっと細々とした事を遠野さんは口にした。僕が顔を上げると、勝ち誇ったように銀行の柚木が笑っていた。

「透花院家は歴史も古く、恩もあります。担保があればお貸ししますよ」
「担保?」

 柚木の声に、環羅様が首を傾げた。

「街の南に広がる山を二つほど」
「そんなことはできるわけないだろうが」

 棗様が声を上げた。すると地主の遠藤が鼻で笑った。

「では買い取りましょうか? 東の広大な林を」
「私の病院も出資しますよ。丁度療養所を建てたかったところでね」
「ふざけるな」

 彼らを睨め付けた棗様は、不機嫌そうに腕を組んだ。その隣で、環羅様が遠野さんを見る。

「相続税はどのくらいになるの?」
「それでは、相続税に関してのご相談ですが、総計で約七千八百万円となります」

 その言葉に、棗様が険しい顔のまま顔を背けた。環羅様は片手で唇を覆っている。

「他にも借金がある。二千万ほど、当銀行からお貸ししていますよ」

 来訪客達から忍び笑いが漏れた。

「でも、あの土地や山を手放すわけにはいかない」

 拳を握りしめて棗様が言うと、地主が笑った。

「では国に掛け合いましょうか」

 青山中佐が楽しそうにひげを撫でながら頷いていた。
 障子が開いたのはその時のことだった。遠野さんが安堵したように声を上げる。

「時雨くん」

 背の高い彼は、少し屈むようにして、中へと入ってきた。それまで空いていた棗様の隣を見ると、ネクタイに手を添えながらそこに座す。そしてコートを脱いだ。

「君が時雨くんか。君の物わかりが悪いお兄さんに伝えてくれないかね?」

 卑しく笑いながら銀行の柚木が言った。すると遠野さんが、静かに首を振る。

「まずは遺言状の内容を」

 それから遠野さんが再び遺言状の内容を説明した。時雨さんは黙ってそれを聞いている。そして長く目を伏せると、静かに開いた。

「俺は相続を放棄する」

 棗様が小さく息を飲んだ。眉を顰めている。棗様は時雨さんには相続して欲しくないようだが、相続税のことを考えると喜べないのかも知れない。

「賢い選択だ。君はお兄さんとは違うようだ」

 柚木の声に、緩慢に時雨さんが視線を向けた。

「君達には、到底相続税など払えない。土地さえ渡してくれれば、せめて邸宅が残る分だけはお金を貸しましょう」
「もっとも棗さんは、土地を売らないと頑なに仰っていますがね。このままでは、泰静くんの学費すら危うい。とても私立の学費など支払えないでしょう」

 肘をついて地主の遠藤が続けた。僕はこれまで漠然と学校に通っていたから、ここで話題になるとは思ってもいなかった。だけど僕には何も言うことが出来ない。僕はお金を持っていないのだ。何かあるとお祖父様に言ってお小遣いを貰っていたのだ。
すると時雨さんが目を細めた。時雨さんが淡々と口を開いた。

「そうか。兄がそう言ったのか」

 棗様は悔しそうな顔で俯いている。多分棗様もお金が払えないことは分かっているのだ。だけど、手放すことだって了承できないから、言葉が見つからないのだろう。その上、時雨さんと棗様は仲が良くない様子だ。それは来訪客も分かっているようで、時雨さんに対してはにこやかに接している。

 棗様に対してのあからさまな嫌味を交えて、笑いながら声をかけていた。暫くの間時雨さんは無言でそれを聞いていた。徐々に棗様が手を握る強さが増していき、震え始めた。悔しそうで、それでいてどこか泣きそうにみえた。

 僕は怒っているところと笑っているところしかこれまでには見たことがなかった。僕は動揺しながら、静かに時雨さんを見る。時雨さんは、やはり柚木や遠藤の仲間のようなものなのだろうか。僕は思い出していた。

 小さい頃、時雨さんは酷い扱いを受けていたはずだ。もし僕だったら、僕を嫌って無視し続けた人々の側に立とうとは思えないだろう。

「というわけですから、土地を手放して頂きたいわけです」

 柚木がそう言うと、棗様が声を上げた。

「だからそれは出来ないと言ってるだろ」
「ならばこれが透花院橘家の総意だ。当主の決定は絶対だ。土地は売らない」

 時雨さんが漸く口を開いた。
 その言葉に、棗様が目を見開いて、勢いよく時雨さんを見た。環羅様も驚いたように時雨さんを見た。

「では、相続税はどうなさるおつもりで?」

 不愉快そうに柚木が言う。すると時雨さんが、鞄から通帳をいくつか取り出した。それを遠野さんに向かって机の上を滑らせるように投げた。受け取った遠野さんがそれを開く。僕の正面だったから、思わず覗き込んだ。そして僕も息を飲んだ。どれをみても、僕が見たことの無いほどの額が入っていた。0が沢山並んでいる。

「俺が払う。遠野さん、手続きをしてくれ」
「払うだと? それなら借金も」
「ああ。これでいいか」

 今度は時雨さんが小切手を差し出した。受け取って確認した柚木が硬直している。驚愕したような様子で、柚木が呟くように言う。

「待ってくれ。君が払えたとしても、他の三人に支払い能力はない」
「これは透花院橘家だけではなく透花院全体の問題だ。そもそも橘家は本家を支えるためにある。よって橘の当主が決定した以上、本家と茜の分も俺が払う。第一、葬儀の後にハイエナのように群がるような銀行になど金輪際借入をする気は起きない。預金も全て解約させてもらう」

 すると狼狽えたように地主の遠藤が声を上げた。震えている。

「そんな金、どこに」
「俺の私費だ」

 きっぱりと簡潔に告げた時雨さんは、それから遠野さんを見た。

「他に問題は?」
「今のところ、ありません」

 遠野さんが満面の笑みに変わった。銀行の柚木が顔を引きつらせて笑う。

「うちから借入しないなど、この街で暮らす以上不可能だ」

 だが時雨さんは眉を顰めただけだった。そしてすらすらといくつかの銀行名をあげた。僕でも耳にしたことのある大手の銀行だ。

「いつでも貸してくれるそうだ」
「馬鹿な。無職に貸してくれるはずがないだろう」
「俺は働いている」
「まさか。透花院の人間が? どこで?」
「国防軍だ」

 すると柚木が押し黙った。その隣で地主の遠藤が苛立つように舌打ちした。それを一瞥して、時雨さんが続けた。

「それと北一体の土地は俺が買い取った」

 遠藤の顔色が変わった。それから時雨さんがつらつらと土地の名前や場所、施設名をあげていくと目を見開いたまま遠藤が硬直した。その界隈は遠藤の土地だ。

「無論、病院の敷地も含めてだ。他にも病院の経営母体の買収も終わっている」

 途中から沈黙していた秋永医師は、畏怖するように時雨さんを見た。

「透花院を相手にするというのがどういう事か、覚えておくと良い」

 淡々と時雨さんは言ったのだが、三人は震えていた。するとその時、青山中佐が鼻で笑った。

「若造、喧嘩を売る相手は良く選んだ方が良い。この軍服がみえないわけではあるまい」

 時雨さんが視線を向けると、青山中佐が続けた。

「国防軍に逆らえば、どうなるか分かっているのか? すぐに彼らの権利を戻せ。そもそもだ、上官を侮蔑したらどうなるか分からないのか? 明日にはきつい任地に送ってやる。私は、中佐だぞ」

 堂々と笑った青山中佐を、時雨さんが鋭い目で見た。

「橘少将だ」

 短い言葉だった。はじめ、青山中佐は笑ったままだったのだが、その後虚をつかれたように瞬きをして、それから時雨さんを凝視した。

「まさか、そんな馬鹿な」

 狼狽えている青山中佐が身を乗り出した。じっと時雨さんの顔を見ている。するとどんどん顔面蒼白になっていった。

「本部の、あの橘少将?」

 震える声の青山中佐に対して、時雨さんは小さく頷いた。

「青山中佐。明日からきつい任地を覚悟しておくと良い。もっとも、クビにならなければだが。癒着罪で告発しておく」

 顔色が変わった青山中佐の唇が震え始めた。睨め付けている時雨さんの気配に僕まで硬直してしまった。圧倒的な威圧感がその場を支配する。誰もが声を失い凍り付いてしまったようになった。

「喧嘩を売る相手は、確かに良く選んだ方が良いな」

 それから四人は、逃げるようにして帰っていった。
 一段落ついた時、遠野さんが通帳を閉じて、時雨さんに渡した。

「来てくれて有難うございます、時雨くん」
「こちらこそご連絡頂き有難うございます」
「他にも保証人が必要な書類がいくつかあります」
「全て俺の名前を使って下さい」

 そう言うと時雨さんが立ち上がった。棗様と環羅様は呆気にとられたようにそれを見ている。その時、僕のお腹が鳴った。安心したら、空腹を思い出したのだ。恥ずかしくて顔を背ける。そこで春岡が恐る恐るといった風に声を挟んだ。

「時雨様、実はご相談していたお食事代なのですが」
「昼には寿司が届く。それと、給料と当面の生活費も振り込んでおきました」

 目に見えて春岡が安堵した顔をした。頷くと時雨さんが再び障子に手をかけた。

「おい」

 すると棗様が呼び止めた。時雨さんが振り返る。この二人が会話をするのは、葬儀後のあの日以来だ。

「何が目的だ?」

 訝るような棗様の声に、時雨さんが溜息をつく。二人とも、顔を背けていた。

「別に」
「どこへ行くんだ?」
「ホテルに戻る」

 二人の声に、環羅様が顔を向けた。

「今日は泊まっていかない?」

 時雨さんは暫しの間環羅様を見た後、静かに棗様を見た。棗様は顔を背けて呟く。

「好きにしろ」
「まだ誰が来るか分からないし、時雨くんがいた方が安心だと思いますよ」

 遠野さんがそう言うと、時雨さんが嘆息した。

「職場に連絡を入れてくる」

 それから時雨さんは出て行った。残された僕達三人は、誰ともなく深々と息を吐いた。

「とりあえず時雨くんのおかげで助かりましたね」

 苦笑している遠野さんの声に、大きく環羅様が頷いた。

「遠野さんは、時雨くんの事を知ってたんですか?」
「勿論です。だから相続放棄をしてもらっては困ると言ったんですが、まさかこういう形になるとは」
「時雨と連絡を取っていたのか?」

 棗様が続いて尋ねると、遠野さんが首を振った。

「いいえ。単純にご活躍をニュースで拝見していただけですよ。橘少将といえば、英雄ですからね」
「英雄?」

 僕が首を捻ると、遠野さんが大きく頷いた。

「あの歳で少将になるというのは偉業なんですよ」
「そんなにすごいのか? たかが軍人が」

 棗様が困惑したように目を細める。

「ただの軍人ではありませんからね」
「全然知らなかったよ」

 環羅様が何度か頷いた。

 それから僕達は特上のお寿司を食べた。それは使用人全員の分もあった。給料が振り込まれたからなのか、大勢の使用人達が戻ってきた。世の中は、お金で動いているのだろうか。

 その日の午後にも、沢山の人が訪れた。再び、銀行の人たちもやってきたが、柚木ではなかった。環羅様と棗様、そして僕と時雨さんが応対することになったのだが、何度も深々と頭を下げていた。柚木達の非礼を詫びていた。他にも葬儀にも来てくれた人も含めて、これからもよろしく頼むというような挨拶をしていった。

 明らかに、時雨さんが来る前と後では対応が違う。そもそも訪れた客達は、皆時雨さんに会いに来たのだろう。一段落したのは、七時過ぎだった。それまでの間、時雨さんは何度か席を立ち、電話をしていた。

 夕食を食べ始めて少ししてから、環羅様が時雨さんを見た。棗様は、全く時雨さんとは口をきかない。それでも時折視線を向けていた。時雨さんは黙々と食事をしている。目線が動くことはない。

「時雨くんは、いつまでこちらにいられるの?」
「明日には戻ろうと思っています」

 その言葉に、棗様が箸を止めた。環羅様はじっと時雨さんを見ている。少し焦っている気がした。

「もう少しいてはもらえないかな?」

 環羅様の声に漸く顔を上げた時雨さんは、ゆっくりと棗様へと顔を向けた。二人の視線が合ったところを、仏壇の間の時以来始めてみた。

「久しぶりだし、色々と話もしたいし」

 慌てたように環羅様が続ける。棗様は睨むように時雨さんを見ていた。だが、小さく頷いている。

「環羅が言ってるんだ。透花院本家当主の言葉だ」
「棗、そういう言い方は」

 諫めた環羅様を一瞥して、棗様が大きく溜息をついた。僕が暫く見守っていると、時雨さんが再び夕食に視線を戻して静かに答えた。

「分かりました」

 時雨さんの声に、環羅様が安心したように笑顔になった。棗様もどことなく安堵しているようにみえる。

 その日はそのまま僕は部屋にひきあげて眠った。ほぼ同時に時雨さんも食事の場を離れた。

 ただ夜中に御手洗いに起きた時、時雨さんの部屋のあかりはまだついていて、時雨さんの影が見えた。だから寝たのは遅かったのではないかと思う。

 翌朝、僕はやはり早く目が覚めた。今日はまだ使用人達の姿も見えない。庭を眺めていると、時雨さんが池の前に立っていた。声をかけようか通り過ぎようか僕は逡巡した。その時時雨さんが首だけでこちらに振り返ったから、慌ててお辞儀をした。

「おはようございます」
「ああ。泰静様だったか」

 時雨さんが携帯電話をコートにしまうのがみえた。恐らく電話をしに外へと出ていたのだろう。僕は頷いてから、慌てて続けた。

「泰静でいいです。様なんていりません」

 すると時雨さんが目を丸くしてから、薄く笑った。初めて笑ったところを見た。精悍な顔立ちは変わらないが、切れ長の瞳に優しさが滲んでいる気がする。僕はそれまで怖い人だと感じていたが、彼のこの表情を見ていたら、その考えは吹き飛んだ。

「早起きなんだな、学校か?」
「今週はずっと休めって言われてて」

 僕が答えると、時雨さんが頷いた。それから彼は空を見上げた。今日は雨が降りそうだ。

「辛いか? お祖父様が亡くなって」
「悲しいけど、まだよく分からないです。時雨さんは?」
「少なくとも嬉しいと喜ぶ気分ではないな」
一人僕が頷くと、時雨さんが再び僕を見た。
「退屈じゃないか? 家にいるのは」
「うん。僕の家には、ゲームもないから。今はみんな忙しいからお話も出来ないし、つまらない。だけどしょうがないよ」
「ゲームか。どんなゲームが好きなんだ?」
「やったことないから、わからないけど。レベルを上げたりするんでしょう?」

 僕の言葉に苦笑するように時雨さんが頷いた。透花院家にはパソコンもない。携帯電話だっていまだにスマートフォンじゃない。ミュージックプレイヤーも、携帯ゲーム機も高価だから、お小遣いでは買えない。三千円を超えるお小遣いなど僕は貰ったことがない。

 それから僕達は中へと戻った。雨が降り始めたからだ。朝食が済むと、また来訪客がきた。時雨さんの着替えは春岡が用意していたらしい。今日は、和服を着ている。
こうしてみると、やはり時雨さんは背が高く、肩幅も環羅様や棗様よりはずっと広くて、筋肉質にみえる。太いわけではないが、どことなく男らしい。格好良い。

 僕と同じ黒い髪と目をしている。切れ長の目で、鼻梁がすっと通っている。あまり棗様とは似ていない。

 棗様は、長めの明るい髪をしている。染めているわけではないが、髪も目も小麦色だ。光の加減で金色にみえることもある。透花院にはたまにこういう色彩の人が生まれるのだ。色白で、とても細い。身長は百七十センチだと言っていた。それよりも大分時雨さんは背が高いから、百九十センチに近いのではないかと思う。

 環羅様は棗様よりもさらに背が低い。百六十七センチの僕よりも低い。百六十五センチくらいだ。僕はまだ伸び盛りだから、せめて棗様と同じくらいの身長になりたい。環羅様は明るい茶色の髪をしている。本家は特に色素が薄い人が多いのだ。環羅様の場合はミルクチョコレートのような色をしている。

 そのようにして来訪客の相手をして、三日ほど経った。次第に客足も落ち着き、今日は午前中は一人も訪れなかった。昼食を食べながら、もう誰も来ないかなと考えていた。

「時雨くん、あのさ」

 環羅様が食後、静かに声をかけた。棗様は目を伏せていた。

「戻ってきてもらえないかな、透花院に」

 すると時雨さんが環羅様と棗様を交互に見た。

「時雨くんがいてくれた方が安心できるんだ。無理なお願いだと言うことは分かっているんだけど。透花院の仕事も手伝って欲しいし、そうでなくてもいてくれるだけでいいから」

 その言葉に、時雨さんが考え込むように目を閉じた。それから目を開けると、小さく首を傾げた。

「それは」

 時雨さんが何か言いかけた時、障子が開いた。

「時雨様、お電話です」

 入ってきた春岡の言葉に、嘆息してから時雨さんが出て行った。家の電話にかかってきたらしい。時雨さんがいなくなると、環羅様と棗様がほぼ同時に溜息をついた。

「やっぱり無理かな」
「引き留めるしかないだろう。俺は嫌だけどな」
「だけど棗、僕達だけじゃ無理だよ」
「分かってる」

 僕は静かにお茶を飲みながらそれを聞いていた。

 その日の午後、時雨さんに来客があった。街の人ではなかった。軍服を着ていたが、街の国防軍のものとは違う作りだった。帽子を取りお焼香を済ませた後、来訪者は時雨さんと共に客間に入っていった。何を話すのだろうか。気になって僕は、それとなく隣の和室の障子に手をかけた。すると後ろに、呆れたような顔の棗様が立った。

 まずいと思った僕が狼狽えた時、軽く押されて中に入れられた。見ると中には既に環羅様もいた。人差し指を立てて、静かにするようにと合図してきた。結局皆、気になっていたのだ。僕達三人は一言も話すことなく、聞き耳を立てた。

「それにしても橘少将、勝手に退院しないで下さいよ。僕の身にもなって下さい」

 その言葉に、環羅様と棗様が顔を見合わせていた。二人とも首を振っている。僕も入院していたなんて知らなかった。

「いいですか、肩に穴が空いてたんですからね。ちゃんとお薬飲んでます?」
「悪かったな汀。急なことで時間がなかったんだ」
「結局間に合ったんですか?」
「葬儀は終わっていた」
「聞いてますよ。お兄様にこっぴどく怒られたとか。いやぁ橘少将を怒鳴ることが出来る人がいるなんて、すごいですね。それと、遺言状の公開には間に合ったらしいですね」
明るく楽しげなその声に、時雨さんが溜息をつく気配がした。
「よく知っているな。青山中佐か?」
「小さな街は怖いですね。他にも沢山の情報提供者がいますよ。弔問客がまだ残っていたんでしょう。他にも借金の肩代わりまでしたとかって聞きましたよ。僕はてっきり、少将には家族がいないか、とっくに縁が切れてると思ってました」
「切れているようなものだ」

 時雨さんのその声に、棗様が指の爪を掌に立てたのが分かった。兄弟としては複雑なのかもしれない。

「だったら早く戻ってきて下さいよ」

 当然のごとく続いたその声に、棗様と環羅様が硬直していた。

「いくらなんでも長すぎですよ、休暇が。まさか里心がついちゃったって言うこともないでしょう?」

 時雨さんは何も言わなかった。帰ってしまうのだろうか。そう考えると、僕まで不安になってきた。戸の向こうで、お茶を飲んでいる気配がする。

「その件なんだが、退職しようと思っている」
「え」
「退職届を持って行ってくれないか」
「待って下さいよ、軍が橘少将を手放すわけがないでしょう? 無理ですよ、無理無理。大体少将がいなかったら大変な事態になりますよ。今だって仕事が滞ってるんですから」
「尾崎中将と話しをしてみてくれ。それ次第だ」
「だとしても、一度本部に顔を出して下さい。僕はこのまま少将を連れ帰るように言われてるんです。病院にも行った方が良いですよ」

 呆れたような声に、時雨さんが湯飲みをおいたようだった。携帯電話の音がしたのはその時だった。

「あ、尾崎中将からだ。お待ち下さいね。ええと、それと頼まれていたもの、買ってきましたよ。これです」
「悪いな」

 紙袋から何かを取り出すような音がした。電話の話し声が響く間、時雨さんは何も言わなかった。僕達三人も、誰も何も言わない。勿論言葉を発すれば、ここにいることが露見してしまうのだが。

「少将、良い報せですよ。尾崎中将が、全面的にOKだって言ってました。ただ、退職はやっぱり無理です」
「そうか。仕事は続ける」
「これで安心して本部に顔を出せますよね。さ、行きましょう」
「悪いが一人で行ってきてくれ」
「少将、いくらなんでも。確かに、あんなに綺麗なお兄様に引き留められたら、帰りがたい気持ちは分かりますけどね。その辺の女性もびっくりな美人さんですから。いやぁ少将がちょっとやそっとの美人になびかないのも納得できましたよ。小さい頃からあの顔を見て育ったら、並の相手じゃ無理ですよね」
「兄に引き留められた覚えはない。本部には近いうちに行く」
「絶対ですからね」

 そのようなやりとりをしてから、二人は部屋を出た。時雨さんが玄関まで送っていったようだった。僕達三人は、その場に座り込み、俯いていた。やはり時雨さんは帰ってしまうのか。そう考えていると、部屋の障子が勢いよく開いた。

「あ」

 思わず僕は声を上げた。そこには目を細めて時雨さんが立っていた。手には小さな紙袋を提げている。聞いていたことが分かってしまった。いつから気づいていたのだろう。視線を彷徨わせていると、環羅様が困ったように言った。

「ごめんね、時雨くん。気になっちゃって」
「いえ、特に聞かれて困る話はしていないので」

 淡々と時雨さんが答えた。怒っている口調ではなかったが、僕だったら怒ると思う。だから恐る恐る様子を窺っていると、細く吐息してから時雨さんが僕の方に紙袋を差し出した。

「やる。良かったら使ってくれ。暇つぶしにはなるだろう」
「え?」

 驚いて僕は受け取った。中をあけると、黒いタブレットが入っていた。僕は一度だけこれを学校で見たことがある。ゲームをしたりインターネットをしたり音楽を聴いたり出来るのだ。その他に、Wi-Fiも入っていた。

「いいの?」
「ああ」
「ありがとう」

 嬉しくなって僕がそれを抱きかかえると、頷いて時雨さんが戸を閉めようとした。

「待て」

 棗様が声を上げたのはその時だった。障子の方に歩み寄り、棗様が睨むように時雨さんを見た。それから俯いた。

「帰るのか?」

 時雨さんは何も言わずに棗様を見下ろしている。

「退職しないと言うことは、そう言う意味だな?」

 棗様の険しい声に、時雨さんは目を細めた。時雨さんは棗様と話をしないから、今回も何も言わないのだろうかと僕は考えていた。しかしそれは違った。

「兄さんも俺が帰った方が良いんじゃないのか?」

 すると棗様が、時雨さんの襟元を掴んだ。

「ああ、そうだよ。お前なんかさっさと帰れ。顔も見たくない。早く出て行け。早く、だからさっさと」

 棗様の声がどんどん小さくなっていった。再び俯いた棗様の肩が、小さく震えていた。じっと見ていた僕は、思わず息を飲んだ。棗様が瞬きをしたら、涙が零れたのだ。

「お前なんかいなくたって」

 再び棗様は言いかけたが、その涙混じりの声は最後まで続かなかった。時雨さんを見ると虚をつかれたような顔をしていた。それからおずおずと時雨さんは、棗様の背中に腕を回した。ギュッとその腕に力がこもった時、棗様の体が震えた。それでも時雨さんの服を離すことはなく、震える手で胸元を持っている。

「泣くな」
「泣いてない」
「棗」
「気安く呼ぶな。大体、大体だ。お前は、いつも勝手にいなくなって。勝手に出て行って。どうせまた、どうせ」

 時雨さんは少し困ったように棗様を見てから、天井を仰いだ。

「今度はここにいる」
「嘘を言うな」
「嘘じゃない」
「絶対だぞ、約束だからな、責任をとって、ちゃんと、ちゃんと」
「ああ」
「出て行ったら許さないからな。嘘だったら許さない」

 僕は子供みたいに棗様が泣いているところを初めて見た。棗様は僕よりも環羅様よりも誰よりも大人で、いつも余裕そうに笑っていたから、こんな日が来るとは思っていなかった。もしかしたら本当は、棗様も不安でいっぱいなのかもしれない。僕はこれまで、そんなことは全く考えていなかった。

「大丈夫だから、泣くな」

 棗様の震える肩に顎を置き、時雨さんが目を伏せた。暫くの間時雨さんの胸に額を押しつけて棗様は泣いていた。声を殺して泣いていた棗様は、それから涙をぬぐって顔を上げた。とても綺麗だった。

「仕事はどうするんだ?」
「続ける。ただ、出来る範囲で透花院の仕事も手伝う。何も心配するな」
「だって遠いだろう」
「転属願いが受理されたから、棗さえよければ、ここから通う」

 時雨さんはそう言うと、棗様の目元をぬぐった。すると棗様が小さく何度も頷いた。

 それから我に返ったように息を飲み、棗様が時雨さんを突き飛ばすようにして顔を背けた。心なしかその顔が赤い。多分、恥ずかしいのだ。だって環羅様が吹き出すように笑ったら、掌で顔を覆ってしまった。

「僕は春岡と夕食の話に行ってくるよ。泰静くんもおいで」

 環羅様はそう言うと、時雨さんの脇を通った。頷いて僕も慌てて後を追う。

「時雨君、本当に有難う」

 微笑して環羅様が言うと、時雨さんが小さく笑い返した。
 暫く歩いてから、僕は環羅様に聞いた。

「棗様と時雨さんは、本当は仲が良いんですか?」
「少なくとも、棗は時雨君のことを言うほど嫌ってはいなかったみたいだよ。軍に入ってからの交流はなかったみたいだけど、時雨君が橘にいた頃、何度叱られても時雨君と話すのは止めなかったからね。遊んでもいけないと言われていたのに、色々と連れ回していたし。小さい頃の話だけどね」

 思い出すように言った環羅様は、懐かしそうな眼差しをしていた。

 夕食になった時、僕は棗様と時雨さんの様子を窺った。昨日までと同じで、二人が視線を合わせることはないし、話をすることもない。特に変化はないようにみえる。食後僕は、タブレットで遊ぶことにした。だがあまり使い方が分からなかったし、どうやってゲームをするのかも分からない。そこで、お風呂上がりの時雨さんを捕まえた。

「こうするんだ」

 一緒に縁側に座り、僕は時雨さんにやり方を教えてもらった。様々なゲームや音楽をダウンロードした。そうしながら、僕は時雨さんにも聞いてみることにした。

「時雨さんは、棗様の事が好き?」
「そうだな」
「仲が悪いのかと思ってた」
「そうかもしれない。けどな、俺は別に嫌いじゃない。棗は俺のことが嫌いかもしれないけどな」
「そうかな? そうはみえないよ」
「俺が金を払ったから、負い目がある。だから引き留めた。こうも考えられるだろう?」
「お金のことは分からないけど。そもそもどうして払ってくれたの?」
「俺個人としては、たった二人の兄弟で、兄さんが困っていたから何かしたいと思っただけなんだ。それ以外は、特に理由はない」
「時雨さんは優しいよ」
「それこそ棗の方が優しいんだ。俺には、棗以外の話し相手は一人もいなかったからな。言葉をかけてくれたのは棗だけだ。棗がいなかったら、俺は自分が何故ここにいて、そして存在していて良いのかも分からなくなっていたと思う」

 僕が頷いた時、真後ろから咳払いが聞こえた。

 時雨さんと共にそろって視線を向けると、そこには棗様が立っていた。珍しくお盆を持っている。コップが二つのっていた。僕は棗様が飲み物を運んでいる姿など始めてみた。

「もっと俺を敬って良いぞ」
「何か用か?」
「風呂から上がってまだ何も飲んでいないだろう、脱水にでもなったらどうするんだ。それにお前、怪我してるんだろ? 薬は飲んだのか?」

 棗様が顔を背けながらそう言って、乱暴にコップを時雨さんに向かって渡した。受け取った時雨さんは、笑いを飲み込んだ様子でそれを受け取った。

「別に問題はない。薬も飲んだ。食前なんだ」
「そうか。おい、それと、だから」
「なんだ?」
「別に負い目なんか感じてない。俺は、その、ただ」

 棗様が床を見たまま視線を彷徨わせている。僕もお盆の上からコップを一つもらうことにした。

「嫌いじゃない」
「棗?」
「別になんでもない。それだけだ、早く寝ろ」

 そう言って棗様は帰っていった。素直じゃない。

「やっぱり棗様も時雨さんの事が好きなんだよ」

 僕が言うと、時雨さんが指を唇に当てて笑った。

「かもな」

 兄弟がいるって羨ましいなと思った秋の夜だった。

 翌日、一度職場に顔を出してくると言って時雨さんは出て行った。その日、時雨さんは帰ってこなくて、遅くまで棗様は起きていた。僕が寝る直前に、家の電話を受けて春岡が、今日は時雨さんが帰ってこないと報告に来た。

 それから三日経っても時雨さんは帰ってこなかった。棗様は何度も何度も握っている携帯電話を見ていた。だが時雨さんから連絡がある時は、本家の家の電話にばかりだ。このまま帰ってこないのかもしれない。環羅様も棗様も何も言わなかったが、そう思っている気がした。

 僕は学校に行っているからまだ良いし、環羅様も最近では家の仕事で方々に出かけている。だけど家にいるのに棗様はとても眠そうだ。五日目になった時、見かねて僕は言うことにした。

「電話してみたら?」

 すると棗様が勢いよく僕を見た。

「お前が、泰静がそう言うんなら、仕方がないな。面倒だが電話してやる」

 本当は棗様が電話したいくせに、僕のせいにされてしまった。もっとも僕も話したかったので、特に何も反論しないことにする。僕と環羅様が見守る前で、棗様が電話をかけた。
暫くコール音がして、大分経過してから電話が通じた。

「もしもし」
『何かあったのか?』

 時雨さんの第一声はそれだった。棗様が言葉に詰まっている。だって僕達には何事も特に変化はないのだから仕方がないだろう。

「お前が帰ってこないことを泰静が気にしているから電話してやったんだ」
『そうか。よろしく伝えてくれ。他に用件は?』
「その、いつ帰ってくるんだ? 泰静が聞けって言ってる」
『悪い、まだ仕事中なんだ。切るぞ』

 そのまま電話は切れた。棗様は携帯電話を持ったまま険しい顔をしている。僕は、勝手に自分の名前が多用されたことを怒ろうかと思ったがやめておいた。それよりも、時雨さんが帰ってくる日を口にしなかったことが気になった。濁したのだろうか。

 明日は週末だから、僕は夜更かし気味で、現在は夜の十一時を回ったところだ。こんな時間まで仕事があるなんて、想像もつかない。

「忙しいみたいだね」

 環羅様が呟くと、棗様が目を伏せた。思わず僕は腕を組む。

「もしかしたら、職場の人に引き留められてるのかも。本当に帰ってくるかな」
「泰静くん、それは」

 僕の声に慌てたように環羅様が首を振った。見れば棗様がとても悲しそうな顔をしていた。失言だったかも知れない。だが本当にそう思っているのだから仕方がない。

「迎えに行った方が良いんじゃない?」

 僕が続けると、虚をつかれたように棗様がこちらを見た。

「早く戻ってきてってお願いしたら、きっと帰ってきてくれる」
「それいいかもね」

 すると環羅様が手を打った。棗様が視線を彷徨わせている。
 棗様が迎えに出かけたのは、次の月曜日のことだった。早く二人で帰ってくると良いなと僕は祈ったのだった。



******



 呼び鈴の音が響く。シャワーを出たばかりの時雨は、服を着る手を止めた。

 誰だ? そう考えながらインターホンを見るが、誰も映っていない。ここのカメラは不調だからかえようかとも考えている。正面しか映らないのだ。だから宅配便をボックスに入れるために業者が屈んだ場合は当然みえない。だが、宅配便が届く時刻ではないし、他にカメラの定位置である百七十五センチより低い来訪者の心当たりはない。

 一応拳銃を後ろのポケットに入れて、玄関へと立った。2DKのさして広くもない部屋だ。その間も呼び鈴の音は響いている。最悪なことに覗き窓はついていない。外の気配を窺うが、特に危険は感じなかった。

 なぜならば、来訪者が扉をノックし始めたからだ。次第にその音が強くなっていく。全く心当たりがない。同僚ならば、先に軍用携帯電話に連絡を寄越すはずだ。
息を潜めたまま、勢いよく時雨は扉を開けた。

「うわ」

 するとドアを叩いていた来客者が、無くなった扉に驚いたように前に転びそうになった。慌てて時雨は抱き留めて息を飲んだ。胸に柔らかな髪が触れ、良い香りがする。

「おまっ、いきなりあけるな!」
「棗……?」
「いたんならさっさとあけろ!」

 結局あけた方が良かったのか悪かったのか分からないが、それはいつも通りの兄の言動だった。自分の腕の中で顔を真っ赤にして怒っている棗を、時雨は驚いたまま見守る。

「何故ここにいるんだ?」
「それはお前が帰っ……」

 棗が言葉を止めた。顔を逸らした棗は、そのまま眉間に皺を刻んで難しい顔をし、俯いた。

「……来たら行けなかったのか?」
「あまり良くはないな」

 何せ治安があまり良いとは言えない。だから率直に言った時雨に対して、棗が傷ついたような顔をした。

「じゃあいい。帰る。邪魔をしたな」
「どこに帰るんだ? もう飛行機はないだろう。ホテルを取ってあるのか? どこだ?」
「こ、これから探す」
「とりあえず入れ」
「い、いい。帰る!」

 体を離そうとした棗の腕を、時雨は強引に引いて扉を閉めた。

「今からではどこも満室だ。見つけるのは絶望的だからな」

 施錠しながらそう言った弟を、困ったように棗が見上げる。昔は、こんなに身長差はなかった。今の時雨は、百八十センチを優に超えている背の高さだ。三十センチ近く身長が違うのかも知れない。

 そんな棗の背を押し、時雨は中へと引き返した。全く頭が痛くなってしまう。なにせ棗の服装と言えば、”いつも通り”なのだ。和服なのだ。ただでさえ人目を惹く容姿の兄が、この界隈では目立つ着流し姿のものだからほとほと困ってしまう。棗は手にスーツケースを持っているが、恐らく中身も和服の類だと推測できた。

「座っていてくれ」
「ど、どこに?」
「ベッド以外に客が座る場所がないんだ」

 溜息混じりにそう告げて、キッチンへと向かいコンロにヤカンを乗せる。お湯を用意しながら、インスタント珈琲の瓶を見た。恐らく兄は、このようなものを飲んだことはないだろう。完全な箱入りだ。高級な豆からひいてしか飲まない。

 時雨が振り返ると、棗が困惑したような顔で、静かにベッドに座ったところだった。両手を膝の上に置いている。白いその手と細い指先を見ていると、華奢すぎて不安になってくる。折れてしまいそうなのだ。

「それで、用件は?」

 ベッドサイドに珈琲を置き、時雨は軍部紀要を乱雑に床に置きそこに現れた椅子に座った。不思議そうな顔でカップを一つ受け取った棗は、その言葉に我に返ったように顔を上げる。

 聞かれたらなんと答えようか、ずっと思案していた問いだったからだ。

「……その」

 口ごもる棗の前で、時雨が静かにカップを傾ける。

「……泰静が、どうしてるか見てこいっていったんだ。だから」

 棗は上目遣いにそう言うと、すぐに顔を背けて珈琲を飲んだ。実の弟が相手なのだが、緊張しすぎていて味など分からない。
見守っていた時雨は、小さく頷いた。

「お前が帰ってこないのが悪いんだ……」

 ふてくされるような兄の声に、思わず溜息をつく。それからテーブルを見た。

「煙草を吸っても良いか?」
「お前、煙草なんか吸うのか? 家にいた時は吸わなかっただろ?」
「透花院は禁煙だろ。普段はかなり吸う」
「体に悪いぞ」
「そうだな」
「別に吸っても良いけどな。お前の部屋なんだから」

 それもそうだなと思い直し、時雨はマルボロを一本銜えた。オイルライターで火をつける。

 部屋に紫煙が舞う。吸い込んでいるそのひと時は、沈黙が打ち消されるようで気にならない。だが気まずそうにしている棗の様子に正直時雨は困っていた。


 ――棗と唇を重ねたのは、透花院に汀が尋ねてくる前日のことだった。

 その日棗は、夜空の白い月を見上げていた。満月に近く、他に星は見えなかった。その月が、兄を攫ってしまいそうに思えて、静かに歩み寄ったのだ。時雨がわざと音を立てて砂利を踏んだ時、振り返った棗は瞳に涙を浮かべていた。手の甲でそれを慌てたようにぬぐって、棗は無理に笑った。嫌味な笑みだったが、作っているのは明らかだった。

「さっさと寝ろ。もう遅いだろ」
「棗。お前こそ寝てないんじゃないのか?」

 兄が不調なのではないかと、時雨はずっと感じていた。遺言状の公開の日から、いつものような怒りに彩られた威勢が消えているのだ。何か言いたそうにこちらを見るのは変わらない。以前ならば、そのまま怒鳴っていたものだ。だが、ここのところはいやに静かだ。ついに口も聞きたくないほど嫌われたのか。相続税の件がそれほど屈辱的だったのか。色々と考えていた。

「べ、別にお前に心配されるような――」

 時雨が歩み寄った時、棗の体が傾いた。後ろの池に落ちそうになったものだから、慌てて手首を掴み、引き寄せる。

「離せ」
「……具合が悪いのか?」
「そんなことはない。ただ、その……」

 ピクンと棗の体が震えた。月明かりに照らし出された棗を純粋に綺麗だと思った。白い首筋と鎖骨から視線が離せない。吸い寄せられるようだった。

「……兎に角離せ」
「ああ」

 何を考えているんだ自分は。頭を振り、時雨は棗を離した。きつく目を伏せ、冷静になろうと努力する。だが目を開いた時、そこには潤んだ瞳の棗の顔があった。覗き込む形となり、今度こそ目が離せなくなる。その唇が薄く開いた時、心臓が一度大きく鳴った。キスをしてしまいそうになった。それが怖かった。

 自身の思考に動揺し、慌てて時雨は踵を返す。すると棗がギュッと時雨の服を掴んだ。震えていた。限界だった。反射的に振り向き、時雨は棗の唇を奪っていた。息を飲む気配がした時、舌を口腔にねじ込み、棗の歯列を嬲った。逃げる棗の舌を絡め取り強く吸いながら、片腕でその細い腰を抱き、もう一方の手で顎を掴んだ。

 暫くの間そうしていた。それから唇を離した時、力が抜けたように棗が倒れ込んできた。半ば無意識にその右耳に唇を寄せた時、我に返った様子の棗に強く胸を押された。

「お前……何するんだよ!」

 時雨自身も呆然としていた。自分は今、何をした? 嫌な汗が滴ってくる。

「ああ……悪かった」
「悪かった? あのな、俺達は兄弟だぞ。しかも男同士だ」
「そうだな」
「時雨、お前まさか俺の体が目的で、お金を出したんじゃないだろうな?」
「そんなはずがないだろ」

 思わず睨むと、棗が何度か瞬きをした後頷いた。

「俺は寝る」

 そう言って兄は足早に歩き出した。しかし去り際に目にした表情は、頬が蒸気し目が潤んでいて――その上嬉しそうにみえた。勿論勘違いかも知れなかったが。それでもどこかで、キスをして欲しそうだったのは棗ではないかと抗議したい気持ちになった。

 その翌日には、抱きついて泣かれて引き留められた。抱きしめた兄は、昔は大きく感じたというのに、やはりとても細く小さく思えた。

 何故キスをしたのかは、今でも分からない。兄弟愛以外の何かがあるのかと言われても答えは出ない。あるいは答えなど無いのかも知れない。だからその時のことを意識的に閉め出し、考えないようにしていた。無論、その件が理由で透花院に戻ると告げたわけではないし、逆に今、軍から帰らないわけでもない。

 気づけば一本目の煙草を吸い終わっていて、珈琲は少し冷めていた。

 見れば不安そうに、棗が時折こちらを見ていた。

「着替えはあるのか?」
「え? あ、ああ」
「シャワーは浴びるか」
「浴びたい」

 その言葉にクローゼットをあけて、バスタオルを取り出した。放り投げると、受け取った棗が立ち上がった。スーツケースをそのまま引きずってきょろきょろと周囲を見渡している。

「玄関の方だ。右。トイレが左だ」
「お前は入ったのか?」
「ああ」

 時雨の答えに、棗は頷いてシャワーへと向かった。残された時雨は、冷蔵庫にミネラルウォーターのペットボトルがあることを確認した。



 一方の棗は、自宅以外の風呂に入った経験がほとんど無いため緊張していた。シャンプーはこれだろうか、こちらは……トリートメント? それはなんだと首を傾げる。棗の髪は柔らかく綺麗だったが、棗自身はあまりそういった類に詳しくもなく無頓着だった。何度も考えてやっとシャワーを出すことに成功し、髪と体を洗う。

 不思議な気分だった。ここに弟が住んでいる。まるで異世界だ。ここへ来る間のタクシーにも驚いた。そもそも空港からはタクシーがなければ、たどり着くことさえ出来なかっただろう。そのせいで実を言えば、ホテル代もほとんど使い切っていた事は思い出したくもないが。一通り洗い終えてから、バスタオルで体を拭き、寝間着の和服に着替える。棗は洋服というものをほとんど持っていない上に、着たこともなかった。

 あがると、時雨が棗にペットボトルを渡した。水は美味しい。

「ベッドで寝てくれ」
「お前はどうするんだ?」
「ソファで寝る」

 時雨がそう言って壁際の本で埋もれたソファを指すと、棗が息を飲んだ。

「風邪を引いたらどうするんだ。こっちで寝ろ」
「じゃあ棗がソファで寝るのか?」
「? こんなに大きいんだから、二人で眠れるだろ?」

 棗の言葉に、時雨が目を細めた。寝台に座り、棗がペットボトルをおいた時、嘆息しながら時雨が正面に立った。そして軽く棗の肩を押した。驚いてそのまま後ろにのけぞると、時雨が棗の顎に手を添えた。

「お前な。危機感はないのか?」
「え……?」
「無理矢理キスしてきた相手をベッドに誘う神経が分からない。いくら兄弟でもな。このまま俺に組み敷かれたらどうするつもりだ?」
「……」
「分かったら大人しく寝ろ。明日には帰りの手配をしておく」

 手を離して時雨が溜息をつくと、棗が狼狽えたような顔をした。それから、俯いて目を潤ませた。頬が朱色に染まっている。その反応に時雨は思わず硬直した。唾液を嚥下する。こんな顔をされたら、勘違いしそうになる。

「そんなつもりじゃなかった」
「分かってる。兄さんにその気がないことくらい」
「――時雨にはその気があるのか?」

 恥ずかしそうな小さな声に、時雨の中で何かが音を立てた。プツンと、理性の糸が途切れたような音がしたのだ。時雨はベッドに膝をついた。すると起きあがった棗が慌てたように後ろに下がった。すぐに壁に阻まれた時、そんな兄の体の両脇に、時雨は手をついた。

「どうだろうな」

 棗の耳元で囁くように言う。棗は時雨の吐息に体を震わせた。ゾクリと体の奥で何かが蠢いた気がしていた。

「ン」

 その時時雨が棗の首筋を甘く噛んだ。鼻を抜ける声を上げた棗は、震える手で時雨の服を掴む。時雨の左手の指先は、棗の鎖骨をなぞっていた。

「棗。今すぐ嫌だと抵抗して逃げろ。そうじゃなければ、何もしないとは言えない」
「あ……」

 時雨の指先が触れた箇所が、奇妙な熱を孕んでいた。何かがしみこんでいくように、腰の辺りにその熱は収束していく。それが嫌ではなかった。少し怖いだけだった。自分たちは男同士で兄弟なのだ。けれどそう囁く理性の声は、かき消えるほど小さかった。

「そんな顔をするな。煽ってるのか?」

 自分をじっと見ている時雨。己はどんな表情をしているのか、棗には分からない。何か言おうと唇を開いては、何も思いつかなくて閉じる。目が潤み始める。時雨がその時舌打ちした。直後、深く唇が重ねられた。その情熱的なキスに、何も考えられなくなる。

「んッ、ぁ」

 唇が離れたのとほぼ同時に、左の乳首を摘まれた。思わず声を上げた時、首筋を舐められる。もう一方の手で帯をほどかれ骨盤のすぐ側の脇腹を撫でられると、背が撓った。体がおかしい。こんな風に声が出るなんて知らなかった。思わずきつく唇を閉じると、時雨が息を飲んだ。

「下着は?」
「ふ、普通和服の時ははかないだろ。だから夜ははいてない」

 棗が答えると、唐突に時雨が、棗の陰茎を撫でた。今度こそ嬌声を飲み込み、思わず棗は時雨の双肩に手を置いた。

「少し立ってるな。胸が感じるのか?」
「ち、違」
「へぇ」
「あ、ああッ」

 その時時雨が、棗の右乳首をきつく吸った。左手ではもう一方の乳頭をはじく。右手では緩く棗の陰茎を握っていた。舌先がいやらしく動くたびに、腰が熱くなっていく。気づけば陰茎は頭を擡げていた。ただ握られているだけなのに、だ。

「う、ぁ、やめ」

 羞恥に駆られて棗が静止すると、顔を上げた時雨が薄く笑った。その笑みに、ゾクリとした。次に時雨は、緩慢に右手を動かした。次第にその動きは速くなり、気づけば棗は先走りの液を漏らしていた。すぐにでも達してしまいそうで、熱が中心に集まっていく。

 だがギリギリの所で時雨の手は離れた。不意になくなった刺激に、棗は涙ぐむ。体を反転させられたのはその時だった。驚いてシーツを手でつく。寝間着はすっかり脱げてしまっていた。

「膝をついてくれ」

 言われたとおりに膝を折ると、骨盤の所を掴まれた。その感触だけで達してしまいそうだった。それから両手で後ろの双丘を掴まれた。

「え、ああっ、待っ」

 その時、秘所に滑った感触がした。熱くて固い。直感的に舌だと分かった。襞を解すように一本ずつ丹念に舐められ、未知の感触に体が震える。

「ッ」

 それから一本の指先が入ってきた。

「きついな」

 熱い吐息をしながら、棗はそれを聞いていた。時雨がベッドの引き出しをあける。そしてボトルを取り出した。ローションをだらだらと指先に垂らし、再び時雨は指をゆっくりと進める。今度は驚くほどすんなりと入った。

「うあ」

 内部から入り口を撫でるように指で刺激されると声が漏れた。それから抽挿が始まり、指が二本に増えた。ぐちゅぐちゅと卑猥な水音が響き、指が体の中で蠢く。最初は冷たかったローションが熱を帯び、全身の神経がそこに集中した気がした。

「!」

 そして内部の一点を強めに、そろえた指で刺激された瞬間、棗は目を見開いた。

「あ、あ、嫌だ」

 一気に射精感が甦り、ぞくぞくと体が震える。押されるだけで、達してしまいそうになり、太股が震えた。もう膝で立っているのは無理そうだった。

「そこ、そこは駄目だ、うッ、ン」
「兄さんは嘘つきだな」
「――!!」

 するともう一方の手で陰茎を掴まれた。時雨の体重が棗の背にかかる。舌で耳の後ろを舐められた時、ぎゅっとシーツを握り、棗は額をベッドに押しつけた。時雨の体のせいで後ろの双丘だけ突き出す形で身動きが取れなくなる。呼吸が苦しい。

「あ、ああ、やッ、うあ」

 涙ながらに声を上げた時、指が引き抜かれた。そしてすぐに圧倒的な質量を持つ熱が押し入ってきた。声にならない悲鳴を上げる。衝撃に声が出なかった。ゆっくりと進んできた時雨の陰茎が、棗の中を押し広げていく。全てが入りきった時、棗は熱に思考を絡め取られていた。そのまま時雨は動きを止め、棗の陰茎を擦り始める。

「フ、ぁ……っ、ッ」

 逃げようにも時雨の体重と、腰を掴まれているせいでどうにもならない。

「あ、ああっ」

 その時、揺さぶるように陰茎を動かされた。その動きは、徐々に速度を増していく。

「うあ……ああっ、うあ、や」

 前への刺激も強くなり、再び射精しそうになる。だがやはりギリギリの所で、前への刺激はとまるのだ。熱がどんどん燻っていき、棗は悶えた。その内に、時雨が抽挿を開始した。

「あっ、は、ン、ううッ、あ、ああ」

 深く抉られては浅くまで引き抜かれ、そして次には勢いよく貫かれる。こんな感覚を棗は知らなかった。もう果ててしまいたいのに、それが出来ない。

「ひっ……あああ」

 先ほど発見された場所を、その時強く突き上げられた。目を見開き声を上げた時、ボロボロと涙が零れた。今度こそ出てしまうと思った。二度突き上げられ、息を詰める。しかし無情にも、再び降りてきた手が、今度は陰茎の根本をきつく握った。

「え、嘘、あ、なんで……っ、うンッ、ああ」

 しかし中の動きは意地悪く、感じる場所だけを突き上げる。

「やだ、やだ、あ、駄目だ、やだ」

 体がガクガクと震えた。いきそうだった。いきそうで何かがせり上がってくるのに、それが出来なくて、声が出ない。

「あ」

 その時、全身が尋常ではない快楽に襲われた。達したのかと思ったのだが、その気配はない。その上、一瞬ではなく、それは今もなお続いていた。

「え?」

 困惑して声を上げる。体は震えたままだ。

「あ、あああああああ」

 事態を理解し、今度は叫んだ。

「ああ――!!」

 前で果てることは許されないまま、中でだけ達してしまったのだ。頭が真っ白になる。気持ちが良い。もう何も考えられなくなり、力の抜けた体を寝台に投げ出す。そうしていたら、繋がったまま抱き起こされた。一気に深くまで入ってきたから怖くなる。

 しかしギュッと抱きしめられると、呼吸が落ち着いてきた。そのまま動くでもなく、さわるでもなく、ただ時雨は棗を抱きしめた。

「も、もう出来ないからな」
「そうか。暫くこのままでいさせてくれ」

 それくらいは良いかと棗は小さく頷いた。だがそれが間違いだった。五分もそうしていた頃には、体が熱くなり、震え始めた。逃れようにも、気づけばへその下に腕が廻っているから動けない。いつしかぞくぞくと背筋にそって熱が這い上がっていき、全身が汗ばんだ。

「お、おい」
「なんだ?」
「離し――」
「どうして?」
「え」

 言葉を探している内に、自身の陰茎が再び立ち上がっていることに棗は気づいた。ただ繋がっているだけだというのに。腰の感覚が無くなっていく。気づけば震えていて、もっと激しく動かしたいという欲望が渦巻き始める。もどかしい。熱い。

 めちゃくちゃにされたかった。先ほどのように、激しく中を暴かれたい。しかしそんなことは恥ずかしくて言えない。だがすぐに理性は跳んだ。涙が再び零れる。

「やだぁ、ああっ、やだぁっ、うあああ」
「何もしてないぞ」
「うあああ、あ、あ。う、動いて、あ、ああ」
「もう少し我慢してみろ」
「ふあ、あ、できなっ……あああ!」

 そのまま、棗は果てていた。今度はだらだらと陰茎から白液が垂れた。少し跳び、ベッドが濡れる。何もされなかったというのに。自分の体が怖くなった。

「ま、待って……ンっ」

 直後、もう無理だと思うのに、片手で左の乳首を後ろから摘まれた。もう一方の手は口の中へと忍び込んできて、舌を嬲る。その刺激さえも気持ちいいのだが、達したばかりの体には辛かった。耳朶を噛まれ、耳の中へと舌が入ってくる。ダイレクトに響いてくる水音にグラグラした。こんなに濃密な性行為などしたことがなかった。

 そもそも棗にはほとんど経験など無かった。ずっと家のために働いてきたからだ。快楽を知らなかった体が恥辱に染まっていく。

 再び寝台の上に押し倒され、今度は荒々しく中を突かれた。皮膚と皮膚が奏でる音がした。角度を変えられ、太股を持ち上げられる。

「ああ――! う、あああああ」

 快楽から泣きじゃくる棗を見て、薄く笑いながら時雨もまた荒く吐息した。激しく腰を動かされ、後頭部をベッドに押しつけて堪える。気づけば無意識に、時雨の首に両手を回していた。すると動きはさらに早まり、もう訳が分からなくなる。

 内部に熱を感じた。時雨の精が放たれた瞬間、ほぼ同時に棗も果てた。こんなに何度も達したのも、無論初めてだ。力尽きた棗はぐったりとベッドに体を預ける。それから時雨が陰茎を引き抜いた時、どろりと精液が内部から伝った。

 棗は、兎に角気持ち良かったことしか、もう思い出せなかった。


 そのまま眠ってしまったらしかった。次ぎに目が覚めると朝で、体は綺麗になっていたし、寝間着もきちんと身につけていた。横を見ると、うつぶせで肘を突き、上半身だけ起こした時雨が、煙草を吸っていた。目があった時、棗は自分でも分かるほど真っ赤になった。

「ね、寝たばこは危ないだろ」
「そうだな」

 煙を吐いた時雨は、しかしながら煙草を消すでもなく、灰を落としただけだった。

 体を重ねたせいなのか、その仕草すら、妙に格好良く思えた。胸の動悸が激しさを増していく事実に、おろおろと棗は視線を彷徨わせる。

「体は大丈夫か?」
「平気だ、あのくらい。その……」
「熱もなさそうだし、立てれば問題ないな。腰は平気か?」
「平気だって言ってるだろ。それよりお前」
「なんだ?」
「なんでローションなんて持ってたんだよ?」

 棗の言葉に、時雨が虚を突かれたような顔をした。

「大体、お前は上手すぎだ。どういう事だ? あんなに手慣れてるなんて」

 するとじっと棗を見た後、喉で笑ってから、続いて時雨は吹き出した。

「それは、良かったって事か?」
「な」

 確かにそう言う意味になってしまうと気づき、棗は真っ赤のまま泣きそうになった。

「ローションは忘年会で貰った」
「え」
「経験はそれなりにあるけどな」
「そ、そうか」
「良かったんだとすれば、お前が俺のことをそれだけ好きなんだろ」
「……へ?」

 最初は首を傾げた棗だったがその言葉をじっくりと理解し、今度こそ涙ぐんだ。そうかもしれない。ここのところ、気がつけば時雨のことばかり考えていた。だが、時雨はどうなのだろう。恐る恐る棗は時雨を見た。

「お前は?」
「気持ち良かったぞ」
「そうじゃなくて、お前も俺のことが好きか?」
「……お前も? 要するに棗は俺のことが好きだと言うことか?」
「っ」

 硬直した棗を見て、時雨が優しく笑った。

「ああ、確信した。俺は棗のことが好きだ」

 その一言が、尋常ではなく嬉しい。何度も何度も棗は頷く。

「こ、恋人とか、いないんだろうな?」
「いない。いたら抱かない。いや、いるのか?」
「いるのか……?」
「棗は俺の恋人なんじゃないのか?」
「え、あ」

 嬉しくなって棗が微笑み返した時、煙草を消して時雨が起きあがった。そして棗の体を抱き寄せると、頬に優しいキスをした。

「時雨、一緒に帰ろう」
「そうだな。ただ、もう少しかかるんだ。だから待っていてくれ」
「そうか……」
「合い鍵を渡しておくから」
「……?」
「ここにいればいいだろ」
「で、でも俺がいたらまずいんじゃないのか?」
「どうして?」
「だって、来ない方が良かったって……」
「危ないからだ。この家からは極力出ないで欲しいのは変わらない」

 そう言う意味だったのかと、棗は少し安堵した。
 こうして、その後数日の間、二人は一緒に暮らしたのだった。



****


 時雨さんと棗様は仲直りしたようだった。元々仲が悪かったわけではないようだが、現在は目に見えて喧嘩などをしなくなった。棗様が怒鳴らなくなっただけなのだが、大きな変化だった。

 それと、二人は言葉を交わすようになったし、時折互いに笑顔を浮かべている。僕は本当に良かったと思っている。だけど、ちょっと仲が良すぎる気もする。何せちょくちょく抱き合っているし、キスもしている。それも恋人同士がするようなキスだ。というか、二人は恋人なのではないだろうか。

 少なくとも棗様は、僕がその光景を見ているとは気づいていない。だから僕は言わないことにしている。男同士だとか、兄弟だとか、あまり関係ないのだろう。愛とは偉大だと僕は思う。