鍵付きの森





 世界には、αとβ、そしてΩという三つ目の性が存在すると言うが、この区画に限っては、Ωの中にもさらに特権階級と被特権階級が存在する。Ωという存在は、優秀なαの子孫を残すことができるという一点でのみ、この区画では価値があるとされているのだが、大部分のΩは、発情期が来た段階で”牧場”に放り込まれる。そうなれば、生涯――体がボロボロになって死ぬまでの間、戯れに訪れては精を捨てていくαに体を暴かれては、子供を産み続けることとなる。

 それが、Ωの一番の幸福である。

 発情期が来る前のΩ学校で、俺はそう習った。ただし、学校や生来的な知能指数などで、より優秀なαの子を成せそうだと判断された、一部の特権階級のΩだけは、扱いが変わってくる。幸運にも、俺もその一人だった。

 なお、特権階級の中にも、さらにヒエラルキーは存在している。俺のように学業成績で規定値をクリアした場合は、”区画”の清掃業や厨房勤務の担当を許される事になるのだが、それらも免責された場合は、常に鳥籠の中で着飾り、優秀なαに見初められるのを待つ事になる。ここまでくれば、将来の優秀なαの配偶者候補であるから、ただのΩとはみなされず、場合によってはβすら傅く事もある。

 俺は別にそういったΩが羨ましいとは思わない。毎日、区画の掃除をするという仕事をこなすことを許されているだけで、俺は幸せなのだと考えている。

 区画というのは、永久植物保全区画の事だ。この惑星に氷河期が訪れてから、残った貴重な種子を保存するために設けられた鍵付きの森である。実際には建造物だというが、俺は外側に通じる壁を見たことはない。一つの世界が、この区画の中には存在している。

 種を残すというのは、α達の命題でもある。優秀なαがいなければ、このまま外の世界もひいてはこの区画も、分厚い氷に飲まれて朽ちてしまうからだ。αというのは、大多数のβ――人間とは、一線を画す、非常に優秀な存在なのである。外見才能、天才的な技能、高度な知性、人間性、様々なものを兼ね合わせている。αがいるからこそ、人間は今でも酸素を吸っていられるし、下等な価値なきΩも慈悲をかけていただいて、生存を許されているのだという。

 清掃業をしているとは言っても、俺はΩだから、直接αを目にする機会など、ほとんどない。勿論写真では、区画で有名なαについて学校で学ぶから、見たことはある。しかし直接口をきいたことはない。会話し、見初められる事――嘘か誠か、”番”と呼ばれる運命の相手と出会うことを夢見ているのは、着飾ることを許されたΩくらいのものである。

 この共通認識――とは別に、αとΩは、性的な関係で切り離す事が難しい間柄だから、体を重ねることはある。それを俺が知ったのは、清掃業の担当になって一ヶ月目の事だった。毎月月末、俺は区画の中の”研究者コミュニティ”の中で、最も優秀とされているαのシノン様の部屋に、掃除に行く。シノン様は、Ω学校時代にも何度か講演にいらっしゃった事があるため、俺が元々目にしたことがあった数少ないαだった。

 黒い絹のような髪をしていて、僅かに青味がかかった猫のような瞳をしている。この世界には、このように端正な顔の人がいるのかと、俺は初めて見た十三歳のあの日、目を疑った。そしてすぐに、αなのだから人ではなくて、それこそ神様なのだという事実に、ひどく納得したものである。圧倒的な存在感と神聖な気配、視線の動き一つで、俺の体はすぐに動けなくなった。学校時代に、遠くから見ていてそうだったのだから――実際に近距離で遭遇した時など、本当に心臓が潰れるかと思った。

 三年生の学校を卒業し、清掃業の担当になった十六歳のあの日、最後に向かったゴミ箱からの回収時……本来、清掃業者が入る場合、部屋の主であるαは不在だというのに、シノン様はそこにいた。初めは隣室にいらっしゃる事に気づかず、俺は淡々とゴミを回収していたものである。シノン様のお部屋は、他のαの人々と比べても無機質で、いつもホコリ一つ無いから、清掃業者として俺にできる唯一のことが、ゴミの回収なのだ。

 あの日、目があって、そのまま俺はシノン様に抱かれた。
 以来、俺は月末の一番最後の仕事として、シノン様の部屋に行くたびに、体を重ねている。こういう関係の持ち方については、学校では習わなかった。だが、就業許可が出ている他のΩに話を聞いたところ、意外と多いらしい。就業許可であっても、牧場行きでないΩは、気軽な性処理対象としての役目も持っていたらしいのだ。

「おいで」

 部屋に入って俺が扉を閉めた時、座っていたシノン様が振り返った。黒い回転椅子は豪奢で、そこから手招きされた俺は、たったそれだけのことだというのに頬が熱くなった。もう何度も体を重ねているのだから、いい加減慣れるべきだとは分かっているのだけれど、麗しいシノン様に見据えられる度に、俺はいちいち赤くなるのを止められない。

 入口からの階段を静かに降りて、シノン様の前に立つ。シノン様は、俺の右手を取ると、強く引いた。足がもつれそうになり、そのまま俺は、シノン様の腕の中に収まった。

「っ、ん」

 無機質な外見とはよそに、いつもシノン様は性急だし、ためらいなく俺の唇を奪う。深く口腔を貪られて、歯列をなぞられ、それから舌を甘噛みされると、俺の体の奥が疼いた。就業が許可されている俺のようなΩは、うっかり発情してαを誘ってしまわないように、発情期抑制剤を与えられている。そのため発情期自体が訪れることはないのだが、月に一度程度どうしようもなく体が熱くなる事がある。薬を用いていなければ、発情期が訪れる頃合なのだろう。俺がこの部屋に来る日というのは、大体の場合、それまでくすぶりながら溜まっていた熱が、最高潮に達する日だ。ぴったりと周期が重なっているのである。

「あ、ぁあっ……」

 キスされただけで、俺はもう立っていられなくなった。全身が震え、シノン様にしがみつく。震えた俺の唇の端からは、快楽と共に透明な唾液がこぼれた。シノン様は綺麗な指でそれを拭うと、俺の口の中に指を二本入れた。指の腹が俺の舌を刺激するたびに、尋常じゃない快楽に襲われて、俺の陰茎は反応を見せた。もう力が入らない。そう思っていた時には、ベルトを外され、ボトムスを下ろされた。そして、シノン様の上に乗せられた。椅子の上で抱きしめられながら、俺の唾液で濡れた指で、中を解される。

「やぁっ、ひっ、あ、あ」

 喉が震えた。ぐちゃりと内側から水音が響くたび、俺は前を張り詰めさせずにはいられない。先走りの透明な液が、すぐに俺とシノン様の間で垂れた。シノン様の指は縦横無尽に動いたかと思えば、時に激しく揃えて俺の前立腺を突き上げる。ついに俺は果てた。

「ああああああ、あ、あああっ!! あ、あ、あ、待ってくださっ……ひぁ!」

 すると見計らっていたかのように、下から強く突き上げられた。頭が真っ白になる。達したばかりだというのに、感じる陰嚢の裏、前立腺、そういった場所だけをひたすら突き上げられて、俺は髪を振って泣いた。気持ちいい、熱い、おかしくなる。熔けそうな体で、震える指先で、必死でシノン様にしがみつく。しかし快楽は、体に次々襲いかかってきて、俺を解放してくれない。ひときわ強くシノン様が突き上げた時、俺は絶叫しながら再び果てた。体が熱い時のΩは、αに触られたら何度でも果てることが出来てしまうらしい。

 それから体勢を変えられ、今度は後ろから抱き抱えられるようになり、繋がったままで、きゅっと両方の乳首をつままれた。

「ぁ、ぁ、ぁ」

 人差し指を添え、親指の腹で、乳頭を早く優しく刺激される。甘くこすられると、もうダメだった。だらだらと俺の前からは、再び蜜が溢れ始める。耳の後ろを舌でゆっくりと舐められ、その刺激にも堪えられなくなっていく。ガクガクと全身が震えた。幸せだった、快楽で一色になった頭で、俺はさらなる悦楽を欲した。

 ――だから、快楽が好きだから、Ωにとっての一番の幸福は、牧場で、無心に何も考えずにαに抱かれて一生を終えることなのだ。

 理性を飛ばしたらしい俺は、気づいた時には、ぐったりとした体を部屋のソファに横たえられていた。シノン様はもういなかった。時計を見れば、もう夜の七時であり、俺の就業時間は終わっていたし、シノン様はコミュニティの会議の時間だと分かった。優秀な研究者のシノン様のスケジュールは分単位で決まっていて、会議への欠席など許されていないはずである。

 こうしてその日の仕事を終え、俺は休暇を迎えた。
 休暇日というのは、発情期抑制剤を摂取する日でもある。この日に薬を摂取しなければ、そのまま発情期が訪れることが多い。

 摂取は夜なので、この翌日は、珍しく、他の区画から来たΩと話をする事になっていた。

 この惑星には、いくつかの永久植物保全区画があるのだが、普段は他の区画との接触はない。今回は例外で、俺達の区画全体で最も力あるαが、どうしてもと言って他区画から一人のΩを呼び寄せたのである。理由は俺のような下々のΩには知らされていないが、その来訪者が一人で不安にならないようにと、話をしてあげて欲しいと俺は頼まれたのである。俺の中では、この『話す』というのも、一つの仕事だった。

「名前はなんて言うの? 僕は、アルトと言うんだ」

 やってきたΩの言葉に、俺は少し困って、指で頬を撫でた。

「俺は、O-Oa3710という識別コードのΩだ。これが名前だな」

 事実である。俺は、『O-Oa3710』であり、それ以上でも以下でもない。もっとも、Ω同士や学校時代の友人との間では、数字をもじるなどして適当に呼び名をつけている者は多い。俺の場合は、そういう意味だと、『ミナト』と呼ばれている。だが、本当の名前を持っているのは、名前を持つことが許されているのは、β以上、αとβだけなのである。こればかりは、特権階級のΩであっても持ち得ない。

「そういう区画があるとは聞いていたけど……なんだか家畜みたいで寂しいね」
「これが自然だからな、俺は特に寂しいと思ったことはないよ。アルト、か。いい名前だな」
「ありがとう。だけど、普段はなんて呼び合っているの?」
「基本的に、この区画では、Ωは、Ωと呼ばれている。Ωは全てがΩなんだ」
「――そういうものなの?」
「ああ。ほら、養鶏場みたいなものだろうな。鶏は全部鶏だろう? 養豚場でも良い。豚は全部豚だ」
「……僕は、心の中で、この鶏はピッピとかコッコとか名付けるタイプかもしれない」
「区画によってだいぶ価値観は違うらしいからな――アルトは優しいんだな。俺も、友達には、ミナトと呼ばれているから、良かったらそう呼んでくれ」

 そんな雑談をしていた時だった。

「随分と仲が良くなったみたいだな」

 底冷えのするような声に視線を向け、息を飲んで俺はすぐにその場で膝をついた。そこには、アルトを呼び寄せた、この区画のトップである、ジーク様が立っていたからである。深く俺が頭を下げていると、何故なのかアルトが慌てた気配がした。

「え、ミナト……?」
「――ミナトというのか。立ってくれ。アルトと仲良くしてくれて感謝する」
「恐縮です……」

 威圧感に緊張しながら顔を上げると、驚愕すべき事に、目の前にジーク様の手があった。触れることなど決してしてはならない高位のαに、手を差し出されている。しかし手を取らないのは、不敬である。少し迷ったものの、俺はその手を取って立ち上がった。緊張で震えている俺を、呆れたようにジーク様は見ていた。

「何をしているの?」

 声がかかったのは、その時である。振り返ろうとした時、俺は後ろから誰かに抱き寄せられた。驚きながらも、俺はその体温を知っていると思った。耳触りの良い声が、すぐにシノン様のものだと気がついた。

「強い力を持つαは、迂闊に惚れさせないように、一般的にΩには近寄らない方が良いと決まっていたと思うけど」

 シノン様が冷たい声で言った。俺の初めて見る鋭い眼差しで、彼はジーク様を睨んでいた。するとジーク様が鼻で笑った。

「お前こそべったり抱きしめて接触面積多いだろ」
「僕は責任を取れるから――他者が既に複数回接触してるΩに近づくのはマナー違反だ」

 α二人の会話は高度であり、俺には意味が理解できなかった。
 首を傾げて困惑していると、ジーク様が俺を見た。

「αの配偶者候補のΩ同士の会話を見に来たという一点で、俺とお前は同じだろう。簡単に言えば、心配で心配で仕方がないから片時も目を離したくないという感覚だな」

 シノン様は何も言わなかった。俺は一人、配偶者候補のΩとは、アルトのことだというのは分かるが、文脈的にもう何人かいるのだろうと思い、周囲を見回してしまった。会話をしに来ているΩは、俺の他にはいないが、俺にはそういった予定はない。俺は時折シノン様の性処理のお相手をするだけだし、それが本当に光栄なのだ。

 実を言えば、俺はシノン様が好きだ。
 最初は部屋が綺麗なところ、そして他のαと違って俺がゴミを回収する時に、いつも一言お礼を言ってくれるところが好きになった。今では、どこが好きなのかわからないほど、そばにいると胸が騒ぐ。心臓がうるさくなるのに、不思議と安心もしてしまう。これが恋という名前をしていなかったら、俺は今後も一生、恋という感情を知ることはないだろう。

「聞くことはないよ、行こう」

 シノン様は、俺の手を掴むと、歩き始めた。慌てて俺も歩き出す。
 そうして俺は、シノン様のお部屋に連れて行かれた。清掃日以外に中に入るのは、初めてのことだった。いつもと同様、良い香りがする。柑橘系の香りだ。俺が窓際の観葉植物を一瞥した時、施錠しながらシノン様がため息をついた。

「――人が考えあぐねいているプロポーズという難題を、勝手に口にされるというのは、苛立つものだね」
「シノン様?」
「どんなふうに話そうか、いつも必死なんだけどな……――Ω学校で一目見た時から、ずっと俺は好きだったし、俺の休暇に合わせてゴミ掃除に来てもらっているけど、そういった事に、君は気づいている様子がないし。そもそも俺のことをどう思っているのかもわからない」

 つらつらとそう口にすると、シノン様がじっと俺を見た。そして俺を正面から抱きしめた。そのぬくもりに頬が熱くなる。

「どうしたらいいんだろうね」

 そのままソファに押し倒された。俺はてっきりその後は、月に一度と同じ行為が訪れるのだろうと思っていたのだが――シノン様は、俺を抱きしめたまま、動かなかった。動かないままで……四時間が経過した。この部屋に来たのは、午後の三時頃であり、すでに夜の七時を回っている。俺の発情期抑制剤の摂取期限は、夜の八時だ。

「シノン様、あ、あの……」
「……何?」
「俺、帰らないと……薬……」
「帰る必要はないし、薬? そんなものは、もういらないよ」
「っ」

 もしもシノン様のような高位のαを発情期で誘惑したとなれば、俺は処分される。牧場行きならばまだしも、悪くすれば刑事罰だ。体が震える。しかしそれは恐怖からだけではない。抑制剤が切れかかっている俺の体は、明らかにいつもとは違う熱を持ち始めていた。

「あ、ああ……あ……」

 シノン様の吐息が肌に触れるだけで、狂おしいほどの快楽が全身に広がっていく。涙で潤んだ視界が、シノン様を見るのを止められない。端正な唇に釘付けになる。抱きしめられているから身動きがとれないのだが、どろどろに熔けてしまいそうな体は、激しく暴かれたいという欲求をはっきりと抱き始めていた。

 その時通信装置の音がした。無愛想な顔で、シノン様が通話に出る。

「――会議? 今はそれどころじゃないから、全部代わりに頼むよ」

 プツンと通話を切り、そのまま電源も落としたらしいシノン様は、通信装置をテーブルに放り投げた。そして両手で再び俺を抱きしめた。常にしっかりと会議には出ると聞いていたから、こんな姿が少し予想外だと思った。まるでそれよりもずっと大切なことがあるような、そんな声音に聞こえた。だが、その大切なことがなんなのか、まだ俺は知らない。

「ねぇ、俺も君の名前を知りたいんだけど」
「ぁ……ァ、シノン様、待って、俺、あ、ああっ」
「ミナトって言うんでしょう? そう呼んでもいい? 俺、ずっと君のことが好きだった」
「!」
「――俺の配偶者になってよ。俺の運命の番は君だって、一目見た時から確信してる。それからずっと見ていて、何事にもひたむきに、勉強も頑張っていたし、今は掃除を頑張る君に惚れた。いつもどこで何をしているのか気になるのは、先程どこかの誰かに言われた通りだよ。ねぇ、俺のことは嫌い?」
「嫌いじゃ……俺もシノン様のこと、ずっと好きでした――あっ、ああ、ン」

 首筋に唇を落とされて、限界で、俺は涙した。震える手で押し返そうと試みるが、熱い体には力が入らない。

「本当? だったら――俺の子供、産んでくれる?」

 こうしてその日、俺はこれまでとは全く違う深い快楽を得た。
 以後、発情期抑制剤を飲むことはなくなり、俺はシノン様と番になる。
 振り返って思えば、いつもシノン様は優しかった。これが俺とシノン様が番になるまでの物語の記憶である。