ギルドの受付の誤想





 固い木の皿が割れる音で、僕は我に返った。
 現在は、仕事を終えて、『苔庭のイタチ亭』に夕食へと訪れた所である。

「だってそうだろ? たかだかゴブリン五・六体相手に手こずって! 本当に俺らと同じCランクかよ!」

 響いてきた声を聞いて、僕はグラスに視線を落とした。中には、山林檎のサイダーが入っている。ノンアルコールカクテルだ。僕は、お酒は、特別な日にしか飲まない。

 店主さんがCランクの冒険者達の席へ行くのが見える。僕は頬杖をついてそれを眺めていた。

 ――ひと睨み。髭が印象的だ。

 冒険者には荒くれ者も多いが、この店が比較的静かに食事を楽しむ事が出来るのは、諍いを収められる店主さんがいるからだろう。イタチの獣人のテオさんだ。この店は、僕の職場にとっても有難いお店である。理由はテオさんが、それとなく冒険者達を導いてくれるからだ。

 さて、僕の職場は――冒険者ギルドである。僕は、冒険者ギルドの受付をしている。元々は僕も冒険者だった。だからこの『苔庭のイタチ亭』の店員の一人の事も、一方的に知っている。細剣使いのウィル・アシュレイだ。彼がこの店で働いていると聞いて、僕は実は見に来た。僕も元冒険者だった為、気になったのだ。僕は弓使いだった。僕は人間であるから、兎獣人である彼の事が尚更気になった。獣人の冒険者には実力者も多い。

 それが初回であり、その後僕は、気づけば、テオさんの料理の味にも惚れ込んでしまい、この店の常連になってしまった。

 なお、一方的ではない顔見知りも働いている。
 僕の暮らすギルドの宿舎は、二階建てなのだが、二階をギルドが借り上げている。だが、一階は普通の住人が暮らしている。その一階で暮らしているのが、スカイ・オリーヴだ。

 スカイと僕は、宿舎の階段下にある灰皿の前で何度か顔を合わせる内に、話をするようになった。 ギルドの受付は、何かとストレスが溜まる。例えば、『この人のランクでは、この依頼は絶対に達成困難だ』と思うような部類のものを、『俺なら出来る』として、引き受けようとする冒険者が後を絶たない。それを諭すのも僕の仕事なのだが、上手くいかない事が多い。二十三歳の僕の話を、特に年嵩の冒険者は馬鹿にして聞いてくれない。だから僕は煙草に逃げがちだ。

 年齢も同じという事も手伝い、煙草を銜えながら、僕はスカイに愚痴る事がある。猫獣人のスカイは、黒い猫耳でしっかりと話を聞いてくれる。一見すれば、不良(ヤンキー)であるが、決して悪い奴では無い。

 彼の口からは、専ら店の話が出てくる。最初の頃は、テオさんとウィルの話が多かったが、その後、店では、ノエリオ君が働き始めた為、最近はノエリオ君の話題も多い。ノエリオ・ピノ君は垂れ耳の兎獣人だ。

「ほら、俺の勝ちだ。150リン払えよ、チビピノ!」
「チビって言うな! 俺は身長170cmあるんだからな! チビじゃないんだぞ!」
「耳まで入れれば、だろ? ほら、耳を立てて計ってやろうか」
「あ、あうぅ……強く触るなだぞぉ…………うぅ、覚えてろよー!」

 スカイとノエリオ君は、賭けをしていたのか、そんな声が店の奥から小さく響いてきた。この店は、平和だ。僕はメニューへと視線を向けた。お任せでも頼めるが、僕は比較的決まった品を注文する事が多かったりする。

 中でもお気に入りは、鶸色鱈(ヒワイロタラ)と虹灯芋のブランダードだ。バゲットと一緒にこれを食べるのが、大体僕の定番である。最初に食べるのだ。僕は淡々と口に運びつつ、ノンアルコールカクテルを飲んでいる。

 もう少しすると、この店は非常に混雑する時間帯となる。依頼を達成した後の冒険者達が多く押し寄せるからだ。僕の場合は、受付業務は一人では無いので、今日のように早めに来られる日もある。しかし早く来た場合も、遅く来た場合であっても、僕は大抵、日付が変わる間際まで居座っている。

 と、言うのも――僕は常連になってから暫くして、ウィルや、テオさんの料理の他に、もう一つの目的が出来てしまい、店に通うようになったからである。

 ……好きな人もまた、ここの常連さんだと気がついてしまったからだ。

 好きな人に会いたい一心で、僕はそれまでよりも頻繁に、この店に通うようになった。

 僕の好きな人、それはSランク冒険者のシオンである。
 Aランクまでであれば、努力と依頼の達成数で、普通の冒険者も到達可能だ。しかし、Sランクは特別である。偉業を成し遂げ無ければ決して認定されない。シオンは、弱冠二十七歳でSランクに認定された凄腕の冒険者だ。

 シオンはいつもカウンター席に座る。僕も同じだ。僕達の間には、数脚の椅子があるのみだ。しかしながら、今までの所、僕はシオンと話をした事は一度も無い。いいや、ギルドでは、会話があるのだ。シオンにしか達成困難な依頼が来た場合、僕はシオンを呼び止め、シオンに依頼書を渡している。逆にSランク限定の依頼書を、依頼板(クエストボード)からシオンが手にして、僕のいる受付に持ってくる場合もある。そんな時は、事務的にやり取りをするし――僕は、笑顔を心がけている。

 烏の濡れ羽色の髪に、切れ長の瞳をしているシオンは、整った造形と、均整の取れた体躯、長身である事も手伝い、非常にモテている(ギルドで見ている限り)。性格も良い。真摯な人物だと思う。

 一方の僕は、非常に平々凡々な人間だ。薄い茶色の髪、同色の瞳。しいて特徴を挙げるならば、痩身と呼ばれる事が多いくらいだろう。僕が冒険者を辞めて受付になったのは、中々筋肉がつかなかったからでもある。弓使いとしてやっていくには、難しかった。

 そこを行くとシオンは、大剣を揮い、魔術まで用いる実力派だ。ただでさえ憧れない方が無理なのだが――僕は冒険者時代に、一度彼に助けられてから、ずっと淡い恋心を抱いているのである。叶わない片想いだというのは、よく分かっているのだが。

 あの時僕は、三本角鹿に襲われかけていた。その前日、腕を負傷し、アルコールで消毒していた僕は、すっかり失念していたものである。三本角鹿は、アルコールの香りで暴走するという事を。そうなると……三本目の角が卑猥に変化し、三本角鹿は人間を性的に襲う危険な魔物となる。僕は、襲われかけた時、もう終わりだと思った。そこを通りかかったシオンが助けてくれたのである。

 ――回想していたその時、店の扉が開く音がした。僕はチラリと視線を向ける。靴の音はしなかった。シオンは音を立てずに歩くと、僕は知っている。そして彼がいつも訪れる時刻でもあった。

 入ってきたシオンは、僕から五つ椅子を挟んだ定位置に真っ直ぐに向かっていく。

 するとカウンターの奥から、シオンの正面に、テオさんが立った。テオさんを見ると、シオンの表情が和らいだ。普段はどこか硬い表情をしているのだが、テオさんを前にするとシオンはいつも安心したような顔をする。何を話しているのかまでは聞こえない。ただ、シオンがテオさんを信頼しているのは、よく伝わってくる。

「スカイ。キッシュと、サイダーのおかわりを」
「あ、分かった」

 その時スカイが通りかかったので、僕は二品目の注文をした。わざわざ一品ずつ頼むのも、滞在時間を長くする為の理由作りだ。この店のキッシュは、弁柄(ベンガラ)玉葱が入っていて、とても美味だ。

「お客様には、敬語を使った方が良いんだぞぉ!」

 そこへノエリオ君が声を挟んだ。微笑ましくなってしまう。スカイは片目を細めてから、ノエリオ君の兎耳を引っ張っていた。

 それから少しして、ウィルが僕に、山林檎のサイダーを運んできてくれた。

「有難う」
「――弓は得意ですか?」
「へ?」
「焼いたら美味い林檎、矢射(やい)たら上手い! っく」
「え?」

 顔を覆ったウィルの突然の言葉に、僕は耳を疑った。今、なんて? 矢? 林檎? 僕が元弓使いだと、ウィルも認識してくれていたのだろうか……? 首を捻っていると、スカイが再びやって来た。

「これ、サービスな」
「あ、有難う」

 出てきたピクルスを受け取ってテーブルに置いていると、スカイがウィルの服を引っ張って、奥へと戻っていった。一体、何だったんだろうか? 不思議な気持ちで見送っていた、その時だった。

「ダジャレだな」
「へ? ダジャレ?」

 その言葉に視線を向けて――僕は硬直した。見れば、声の主はシオンだったのだ。シオンは、僕の方を見ていた。真っ直ぐに視線が合う。この店に通い続けて、初めての経験である。過去にも何度かシオンがこちらを向いた事はあったし、その時僕は、気づいた場合は笑顔を浮かべてそれとなく視線を反らすというのを繰り返していたのだが……じっくりと目が合ったのは初めてだ。思わず僕は赤面した。あんまりにも端正なシオンの顔に、笑顔が浮かんでいる。僕には向いた事が無かったものだ。

「ダジャレは解説するものではありませんよ」

 するとテオさんがクスクスと笑った。そちらとシオンを、僕は交互に見る。突然の事で動揺してしまう。

「ロイス」

 その時、シオンが僕の名前を呼んだ。僕は、自分の名前を覚えられていた事に狼狽えた。だが、だが、すごく嬉しい……。頬が熱い。

「テオさんの料理が美味しすぎて、今日はつい、いつも以上に頼みすぎてしまったんだ。少し食べないか? 一緒にどうだ?」
「え、あ……」

 普段から僕は、笑顔こそ心がけているが、寡黙な方だ。特に店では、スカイと話す程度で黙っている事が多い。だからこんな風に滅多に無い機会だというのに、上手く言葉が出てこない。何を言えば良いのか必死に考えていると、シオンが僕の隣の席に移動してきた。テオさんが料理の皿の移動を手伝っている。僕は慌てた。

「い、良いんですか?」
「ああ」
「じゃ、じゃあ! 僕が頼んだ料理も……」

 その時スカイがキッシュを運んできたので、僕はそう告げた。変だ。テオさんはずっとカウンターにいたのに、いつの間に作ったんだろう? そう考えていると、スカイがニヤリと笑った。

 ……恐らく、僕が頼むのを見越して、焼くだけの状態にしてあったのだろう。
 スカイは僕とシオンを交互に見ると、どこか楽しそうに笑った。
 あの笑みは何だ……――と、思いつつも、僕はシオンがすぐそばにいるものだから、緊張してしまい、何も言えない。シオンからは精悍な良い匂いが漂ってくる。

「ロイスはいつからこの店に通っているんだ?」
「ギルドの受付を始めてからです」
「そうか」

 頷いたシオンを見て、僕は会話が途切れてしまうのが怖くて、必死で言葉を探した。

「シオンはいつから?」
「――俺は、つい最近だ。好きな相手が、この店にいると気がついてな」
「え」

 僕は彼の声に、目を見開いた。僕がシオンの存在に気づいたのも確かに比較的最近であるが、てっきり昔から通っているのだと勘違いしていた。が、それよりも――『好きな相手』……僕の失恋が確定してしまった。顔が曇りそうになった僕だが、必死に笑顔だけは浮かべる。元々叶わないと思っていた恋だ。動揺するなという方が無理ではあるが、こうして話せるだけでも幸せなのだ。

「え、えっと……どんな人なんですか?」
「敬語でなくて構わない」
「……」
「元冒険者だ」

 それを聞いて、僕は思わずウィルの姿を目で探した。あの麗しい兎獣人ならば、シオンに惚れられてもおかしくはない。この店にいると言っているのだから、恐らくはウィルだろう。先程、ダジャレ(?)の解説をしようとしたのも、ウィルの発言だったからなのかもしれない。

「その……上手くいくと良いですね」
「敬語になっているぞ」
「……応援してる」
「そうか。今の所、脈がありそうで無かったようだと確認した段階だが、俺も自分で自分を応援している」
「シオンなら、きっと大丈夫だよ」

 何せ、シオンほど素敵な人物は、存在しないと思う。

「俺もそう思っていたんだ。その相手は、俺と話す時だけ、いつもの無表情から笑顔になる事が多いからな」

 僕は一度も笑顔を見た事が無いウィルについて考えた。絶対にこれは、ウィルの話に違いない。

「いつ好きになったんですか?」
「約四年前だ」

 僕がシオンに助けられたのも、その頃の事である。当時はウィルも冒険者だったように思うから、やはり確定的だ。

「一目惚れだった」

 分かる。ウィルは綺麗だ。シオンの横に並んでいても相応しいだろう。

「その相手が冒険者を止めて、別の仕事を始めてからは、主にその相手に俺は、理由をつけて対応してもらうようになったし、今もそうしている」

 きっと、注文を取ってもらったり、料理を運んでもらっているという意味だろう。

「気づけば、ひたむきに仕事を頑張っている姿を見て、どんどん惚れ込んでしまったんだ。そろそろこの気持ちを一人で抱えるには耐え難くてな」
「こ、告白してみたら?」
「そのつもりだ。それで今日、俺は勇気を出して、話しかける事にした」
「頑張って!」
「――現在進行形で俺は必死だ」

 それはそうだろう。店にはウィルがいるのだから。僕は視線を彷徨わせた。ウィルは奥のテーブル席に麦酒を運んでいる。その隣ではノエリオ君が軽く躓いていた。スカイがその背中の服を引っ張って何とか床への激突を阻止している。

「……ただ、想像以上に、鈍かったらしい。あるいは、脈がゼロで交わされているのか疑っている」
「仕事中だからじゃないの?」
「? 既に勤務時間は終わっているはずだが?」
「へ? だって、麦酒を運んでるよ?」
「――ロイス。お前は一体、誰の話をしているんだ?」
「え? ウィルでしょう?」
「違う」

 僕の言葉に、グイとシオンがグラスを傾け、酒を飲み込んだ。それを見て、僕は目を丸くする。シオンは音を立ててグラスを置くと、僕に向き直った。

「好きだロイス。付き合ってくれ」
「え」

 ……?
 僕は耳を疑った。ロイスというのは、紛れもなく僕の名前だ。しかしながら、同名の誰かがいるのかもしれないと、周囲をキョロキョロと見てしまった。だがカウンター席には僕達しかいない。いつの間にかテオさんも厨房へと消えている。

「ぼ、僕?」
「ああ。ずっとお前の事が好きだった。ロイスがこの店の常連客だと耳にしてから、俺はこの店に通うようになったんだ」
「嘘……?」
「事実だ。だが、ギルドでの笑顔とは違って、お前はこの店――プライベートでは俺を視界にすら入れない。それでもたまに目が合うと笑顔になるから、俺は脈があるのではと期待し、そうして通常の視線が合わない時のお前の無表情を見ては、俺とは関わりたくないのかもしれないと落ち込み、その繰り返しだったんだ」
「へ? 本当に? 真面目に?」
「大真面目だ」

 僕は呆然としてしまった。頭が上手く働かない。
 ……りょ、両想い?
 漸くそう認識した瞬間、僕は顔から火が出そうになった。カッと頬が熱くなった。最初から赤面していた僕は、更に真っ赤になった自信がある。思わず両手で口を覆った。

 か、からかわれているのだろうか? いいや、シオンは真面目な人物だと思う。こんな冗談を言って、人の心を弄ぶような人物では無い(と、僕は信じている)。

「もう一度言う。ロイス、好きだ。俺と付き合ってくれ。俺の恋人になって欲しい」
「……僕で、良いの?」
「お前が良いんだ」

 目眩がしてきた。僕は今度は両手で顔全体を覆った。嬉しくて泣きそうだ。

「……はい」

 僕は小さな声で同意した。そして静かに頷いた。
 それからチラリとシオンを見ると、虚を突かれたような顔をした後、彼は破顔した。

 こうして――この日から、僕とシオンは付き合い始めた。恋人になったのだ。



 翌日の夕方。本日の僕は、仕事が休みだ。

「信じられない。夢じゃないよね?」

 僕は宿舎の外の喫煙所で、スカイを呼び止めた。するとスカイは煙草を銜えて火をつけた。それから煙草を人差し指と中指の間に挟むと、深々と煙を吐く。そうして、じっくりと僕を見た。

「まー、あのお客さんが、ロイスを好きなのは見てれば分かった」
「え」
「逆に、お前があの人を好きだったって方に驚いたぞ。初耳すぎる。言えよ」
「だ、だって! 絶対に叶わない片想いだと思ってたんだよ!」
「鈍……だってあの人さ、お前の事、チラチラ見すぎだっただろ、これまでも」
「全然気付かなかった……」

 するとスカイが呆れたように笑った。それから煙草を深く吸い込むと、宙に向かって煙を吐き出す。僕もまた煙草を銜えた。

「まぁこれからは、うちの店をデート先として使ってくれ」
「デ、デート……」
「恋人同士になったんだろ? じゃ、デートだろ」

 スカイはそう言って口角を持ち上げると、瞳を煌めかせた。楽しそうな顔だ。

「俺、あの人とテオさんの話、聞いた事あるんだよ。内容」
「へ? 依頼とか魔物とかの情報交換とかをしてたんじゃないの?」

 想像だったが、そう考えるのが易い。するとスカイが吹き出した。

「専らシオンの恋愛相談。いやぁ、うちのテオさんは心が広いな。俺なら二秒で『黙れ』っていうレベルの片想い相談だったからな。いいや、二秒考えてやるだけでも、俺は偉い」
「う、嘘!?」
「なんで俺が嘘をつかなきゃならないんだよ。ま、お幸せに。あーあ。俺にも春が来ないかな」

 スカイはそう言うと空を見上げた。現在は冬真っ盛りである。ちらほらと雪が舞い始めた。

「じゃ、俺は仕事に行ってくる。またな」

 煙草を消したスカイは、そう言ってニヤリと笑ってから、歩き始めた。僕はそれを見送ってから、通りの方を見た。

 さて――本日は、な、なんと、シオンが僕の家に来たいと言ったのだ。それもあって、僕は朝から掃除三昧だった。普段から綺麗にしてはいるが、シオンが来るとなったら特別である。その為、約束の時刻が近づいていた事もあり、僕は外に出たというのもある。そこで出勤前のスカイを捕まえたというわけだ。

「早く来ないかな……」

 会いたい。そわそわしながら僕は、ずっと通りの方を見ていた。真っ直ぐ行くと、冒険者ギルドがある。そのまま待っていると、人影が見えた。徐々に大きくなってきて、それがシオンだとすぐに分かった。

「ロイス」
「シオン!」
「待っていてくれたのか? 寒かっただろう?」
「平気だよ」

 嬉しくなって僕が笑顔を浮かべると、一度チラリとシオンが振り返った。

「先程、『苔庭のイタチ亭』の店員とすれ違ったぞ。確か、スカイと言ったか?」
「ああ、うん。ここの一階に住んでるんだよ」
「――ほう。いつも親しそうに話しているのを見ていたんだ」
「根が良い奴で、結構気が合うのかも」
「……ふぅん」

 シオンが僅かに目を細めた。若干その眼差しが不機嫌そうに見えたから、僕は困惑して首を傾げた。どうしたんだろう? 不安になって、僕はオロオロとしてしまった。

「……部屋に通した事はあるのか?」
「無いけど?」
「では、あちらの家に行った事は?」
「え? 無いけど?」
「ただの友人か?」
「う、うん? そうだけど?」

 シオンが何を言いたいのか、僕はよく分からなかった。するとシオンが溜息を零した。

「ロイスはモテるから、敵が多そうで困る」
「? それはシオンでしょう?」
「俺はお前一筋だ」

 その言葉に、僕は思わず照れた。するとシオンが、外だというのに僕を抱きしめた。

「細いな」
「貧相だよね……」
「貧相というか、心配になる。きちんと食べているのか?」
「食べてるけど、生まれつき筋肉がつきにくいみたいなんだよ」

 僕が頷きながら言うと、シオンが僕の後頭部に腕を回して、厚い胸板に僕の頭を押し付けた。その力強い感触に、僕は完全に赤面した。

「家、行こう?」
「ああ、そうだな」

 こうして、僕達は、僕の家へと向かった。階段を登っていき、角の部屋の扉を開ける。中に入って扉を閉めると、再びシオンが僕を抱きしめた。

「シ、シオン……今、お茶を出すから……あの、離して……」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど……あの」

 緊張してしまうのだ。何せずっと恋焦がれていた相手に、抱きしめられているのだ。その時、シオンが僕の顎を持ち上げた。そしてじっと覗き込んできた。

「キスがしたい」
「……うん」

 シオンの透き通った瞳から、目が離せない。僕は近づいてくる唇を見ているしかなかった。すると、啄むようにキスをされた。その柔らかな感触に、僕は浸る。

「ん」

 続いて深いキスをされた。うっすらと開けた僕の口腔に、シオンの舌が忍び込んでくる。そうして僕の歯列をなぞると、舌を絡めとった。荒々しいキスに、僕は息苦しくなる。これまで誰かとキスをした事など無いから、息継ぎの仕方が分からない。

「あ、ハ」

 唇が離れた時、僕はぐったりと、シオンの腕の中に倒れ込んでしまった。僕を抱きしめるようにして支えたシオンは、今度は僕の額に口づけた。

「お茶よりも、ロイスが欲しい」
「……」
「俺のものだと、しっかり確認したいんだ。正直、既成事実も欲しい」

 羞恥に駆られた僕は、ギュッと目を閉じてから、小さく頷いた。
 その後、寝室へと移動し、僕は寝台に座った。シオンは上着を脱ぎながら、僕を見ている。僕も、シオンと一緒に寝るかもしれないと考えていたから、既にお風呂には入っている。最初は僕の意識のしすぎかと思ったが、この状況になって、体を洗っておいて本当に良かったと思った。

 僕が眺めている前で、シオンが香油の小瓶を取り出した。僕は真っ赤になったままそれを見ていた。ベッドサイドに小瓶を置いたシオンは、それから僕を優しく押し倒した。

 こうして夜が始まった。

「あ、ァ……」

 じっくりと香油で慣らされた後、僕はシオンの楔を受け入れた。ゆっくりと挿ってくる陰茎は巨大で、指とは全然異なる。熱く脈動するシオンの陰茎が進んでくる度に、僕は息を詰めた。ギュッとシーツを握りながら、僕は正面にあるシオンの顔を見る。

「辛いか?」
「平気……ぁ……ぁァ……ん!」

 根元まで挿ってきた時、僕は思わず目を閉じた。睫毛が震えたのが自分でも分かる。生理的な涙がこみ上げてきた。結合部分が熱くて、全身が蕩けそうだ。じわりじわりと熱で炙られるように、僕の体は昂められていく。

 シオンは一度荒く吐息すると、僕の頬を撫でた。

「少し力を抜いてくれ」
「で、出来な……ああ! あ、ア」
「きついな――初めてか?」
「う、うん……っ、ひぁ……ん、ぅ」
「馴染むまで待つから、ゆっくりと息をしてみろ」
「あ、あ……っく」

 言われた通りに、僕はゆっくりと呼吸した。動きを止めたシオンは、指先で僕の涙を拭ってくれた。全身が汗ばんできて、僕のこめかみに髪の毛が張り付いているのが分かる。その内に、体を熱が絡め取った。

「あ、あ、あ……んッ、う……ああ、ア……」
「もう動いても平気そうだな」
「う、うん……あああ!」

 シオンが抽挿を始めた。最初は緩慢に、そして次第に動きが早くなっていく。香油が立てるグチュリという音が恥ずかしくて、僕は耳を押さえたくなった。しかしそれ以上に初めての快楽のせいで、訳が分からなくなってしまいそうで、それが怖くて――シオンの首に抱きついてしまった。だから両手は使えない。

「そのまま掴まっていてくれ」
「あ、ア――……っ、うあ、ああア、ん!」
「絡み付いてくる」
「ひゃ、っ、ぁ……あ、あ、ああ! あ!!」

 激しく打ち付け始めたシオンに、僕は必死でしがみつく。気づけば僕の陰茎も反応していて、先走りの液が零れ始めていた。

「!!」

 その時、シオンの巨大な先端が、僕の内部の感じる場所を強く貫いた。その瞬間、僕の頭が真っ白に染まった。

「あ、いやあああ! あ、あ、出る、あ――ッ!!」
「俺も出すぞ」
「ん――!!」

 激しく前立腺を突き上げられて、僕は放った。ほぼ同時に、シオンも僕の中で果てた。僕はぐったりとして、必死で呼吸をした。シオンは一度体を引き抜くと、僕の隣に寝転んだ。そして微笑した。

「初めて、か。別にこだわりがあるわけではないが、嬉しい。お前の初めてが俺で」
「あ……はぁ……ッ、うん……僕も、シオンで嬉しい。ずっと好きだったから」
「本当か?」
「うん。うん……好き」
「お前の口から、ずっとその言葉が聞きたかったんだ。俺も好きだぞ。いいや、俺こそ好きだ。愛してる、ロイスの事を」

 シオンはそう言って僕の頬に口づけてから、僕の体を優しく反転させた。

「もっとお前が欲しい」
「え、あ……待って、僕、もう……」
「優しくする」

 ――? そういう問題なのだろうか? 僕は動揺しながら、猫のような体勢でシーツを握る。シオンは、今度は後ろから僕に挿入してきた。

「う、ァ……ああ、あ!!」

 先程とは違う角度で――今度は最初から前立腺を的確に突き上げられた。僕は思わず、大きく喘いだ。体が変だ。どんどん気持ち良さが増していく。先程シオンが放った白液と香油のせいで、スムーズにシオンの陰茎が動いている。その脈打つ硬い質量に、僕はむせび泣いた。快楽が強すぎる。

「あ、あ、ああ、ッ……ん――……んン!! う、うあ、あああ!」

 シオンは僕の腰を掴むと、先程よりも荒々しく動く。肌と肌がぶつかる音が、静かな室内に響く。前を触られたわけではないのに、僕の陰茎は再び硬度を取り戻した。

「ひ、ぁ……あ、ああ!」

 感じる場所を激しく貫かれ、僕はシオンの熱に翻弄されるしかない。次第により奥深くまで暴かれ、僕は全身を震わせた。体が熱い。シオンが体を揺らし、激しく打ち付ける度に、僕は快楽からポロポロと涙を零した。まるで自分の体ではなくなってしまったかのように、統制権が離れてしまったかのようになる。

「ああああああ!」

 一際強く、グッと押し上げるように穿たれた瞬間、バチバチと全身を稲妻のような刺激が駆け巡った。快楽が強すぎて、息が上手く出来無い。何も考えられない。

「あ、ああ――!!」

 そのまま僕は、再び果てた。しかしシオンの動きは止まらない。

「待って、まだ、あああああ! やあああ! あ、ア、ぁ、ああ!」
「今日は存分に俺の事を教えてやる」
「ひ、ゃ、ぁ……ん、ン!! うああ、あ、アああ!!」

 僕が上半身を寝台に預けると、今度は太ももを持ち上げて、寝バックの体勢からシオンが貫いてきた。僕は髪を振り乱して、ボロボロと泣いた。気持ちの良い場所に、また違う角度から、シオンの陰茎が当たる。いくつもの快楽の本流に、僕の理性が霞んでいく。

「いやああ、あ、あ、あああ!」
「――嫌か?」
「気持ち良すぎておかしくなる、あ、あ、うあああ!!」

 露骨にシオンの陰茎の形を感じながら、僕は嬌声を上げた。
 その日――僕はシオンに抱き潰された。


 翌日も僕はお休みだった。それが幸いだった。目が覚めた僕は、喉がカラカラに乾いていて、全身が鉛のように重く、身動きが出来なかった。ぼんやりと瞼を開けると、隣に寝転んでいたシオンが僕を見た。そして微苦笑すると、優しく僕の頭を撫でた。

 ……初めての体験ではあるが、シオンは絶倫だと僕は確信した。

「の、ど……」
「ほら、水だ」

 いつの間に用意していたのか、ベッドサイドからグラスを手に取り、シオンが僕に水を飲ませてくれた。すると一気に喉が癒えた。一息ついた僕は、力の入らない体を必死に起こそうと試みる。しかし無理で、僕は再び寝台に沈んだ。

「無理をさせてしまったな」
「ううん……」

 実際には、確かに無理をしたとは思う。だけどそれ以上に、シオンと一つになれた事が、とても嬉しい。だから僕は、両頬を持ち上げた。シオンはそんな僕を見ると、優しい顔をした。

 シオンが処理をしてくれたらしく、僕の体は綺麗になっていた。その後僕達は、ずっと寝台の上で雑談をしていた。

「悪かったな、本当に」
「謝らないで。僕は、嬉しかったから」
「――正直な話、ずっと嫉妬していたんだ」
「え?」
「スカイに」
「どうして?」
「バリタチだと豪語しているのを聞いた事があった上に、お前と同じ方角に、一緒に帰った事があるだろう? その姿を見た記憶から、関係を勘ぐっていたんだ。家が同じ建物だとは思っていなくてな」

 確かに僕はたまに閉店まで『苔庭のイタチ亭』で過ごすので、そういった日にスカイが早く上がった場合、共に帰宅する場合もある。見られていたというのも驚いたが、何より嫉妬……僕は、そんな場合ではないのだろうが、喜んでしまった。

「僕とスカイは何でもないけど、その……そんなに僕の事を好きでいてくれたの?」
「ああ。何度告げても言い足りないくらいに、愛しているんだ」
「僕もシオンが好きだよ」

 それから僕達はキスをした。
 そうして――一度、それぞれ入浴してから、僕達はその夜も、食事の為に、『苔庭のイタチ亭』へと向かう事に決めた。


「いらっしゃいませー!」

 ノエリオ君が最初に声をかけてくれた。

「おう、ロイス」

 続いてスカイがこちらに気がついた。そうして僕とシオンをそれぞれ見ると、楽しそうな顔になった。ニヤニヤしている。するとシオンが僕の手を急に握った。そして目を細めてスカイを見た。結果、スカイが吹き出した。

「俺とロイスの関係は、誤解ですって。えっと、どうぞ、好きなお席に」
「――今日からは、ロイスの隣に座る」

 それを聞いて、僕は赤面してしまったので、顔を隠すように俯いた。座るとすぐに、ウィルが注文を取りに来てくれた。僕はいつも通り、ブランダードを頼もうと思ったのだが、僕が伝える前に、それをシオンが注文した。

「いつもこれを食べていただろう?」
「うん。知ってたの?」
「毎日見ていたからな」

 その後、他の料理もシオンが注文した。そして僕は、本日はアルコールを頼む事にした。結ばれて一夜開けた、特別な日だからだ。紅苺や黒苺と発泡性の葡萄酒で作られたミックスベリーのカクテルが、すぐに届いた。シオンはジンベースのカクテルを注文したようだった。

「乾杯」

 シオンの言葉に頷いて、僕は笑顔でグラスを合わせた。

「お前の笑顔が俺に向くようになって、すごく幸せだ」
「それ、僕の台詞だよ」
「そうか? 俺は……確かにロイスを見ると照れそうになってしまって、隠すために硬い表情をしていたかもしれないが――ずっと心の中では舞い上がっていたんだぞ?」

 冗談めかしてシオンが言う。それが擽ったく思えて、僕は小さく吹き出した。
 その後届いた料理を食べていると、スカイが外套を羽織って出てくるのが見えた。

「どこか行くの?」
「サボり――あ、いやその、麦酒を買いに、ちょっとな」

 スカイはそう言って笑うと、僕達を交互に見た。

「お幸せに」

 ……僕は頷く。実際、今が幸せだ。


 このようにして、『苔庭のイタチ亭』を契機に、僕とシオンの新しい関係が幕を開けた。その後も毎夜、僕の仕事終わり、シオンの依頼達成後には、『苔庭のイタチ亭』で食事をとるのが日課となり、食後は僕の家やシオンの家へと行く頻度が増えた。

 ギルドでシオンと顔を合わせた時、僕はもう心がけずに笑える。シオンの顔を見るだけで、心から笑顔が浮かんできてしまうのだ。なおシオンは、思ったよりも嫉妬深い。僕はそんなシオンに溺愛される日々を送っているのだが、それはまた別のお話だ。

 今夜も、『苔庭のイタチ亭』で僕とシオンは待ち合わせをしている。
 いつまでもこの幸せが続きますようにと祈りながら、僕は静かに本日の仕事を終えた。




【終】