流れ星を捕まえに行った話(仮)



 父さんと母さんが寝静まってから、僕は床を軋ませないように気をつけて家を出た。扉を開けて外に出る時は緊張したけれど、閉めて早足に歩き始めてしまえば、高揚感の方が強くなった。

「来たか」

 丘の下まで走っていくと、そこには幼馴染のジェイスが既に来ていた。このクレアシオン村において、今年十歳になるのは、僕とジェイスだけだ。本当に小さな、田舎の集落だ。

「ファルカの事だから、怖がって来ないかと思った」
「僕はそんなに臆病じゃないよ! それより、何を捕まえに行くの?」

 黒髪のジェイスを見ながら、僕は尋ねた。ジェイスと僕は、いつも一緒に遊んでいる。ジェイスはいつも面白い事を教えてくれる。そして今日の昼間、ジェイスは『夜になったら面白いものを捕まえに行こう』と僕を誘ってくれた。

「知ってるか? 流れ星を見つけたら、心の中で願い事を唱えると叶うらしいんだ」
「流れ星?」
「そうだ。だから今夜は、流れ星を捕まえるぞ!」
「どうやって?」
「視界で」
「……う、うん。分かったよ」

 ジェイスの言葉は絶対だ。物理的に虫かごに入れたりは出来ないけれど、確かに目で捉える事は可能だろう。僕の手をジェイスが握ったので、それから二人で丘の上まで進んだ。その草むらに、ジェイスが寝転がる。僕も隣で仰向けになった。

 満天の星空を眺めて、僕は大きな三角形を見つけた。川みたい散らばっている銀の星もある。

「ジェイスは何をお願いするの?」
「願い事が二つ叶うように祈る」
「それってありなの? ずるくない?」
「ありだろ。俺が決めた。俺はずるは嫌いだ。でも、どうしても叶えたい願いが二つある。これだけは譲れない」
「ふぅん」

 頷きつつ、僕は何をお願いしようか考えた。
 ……。
 真っ先に思いついたのは、『これからもずっと、ジェイスと一緒にいられますように』だった。けれど、チラリとジェイスの横顔を見て、苦笑を噛み殺す。ジェイスの夢は、冒険者として旅立つ事だと、僕は何度も聞いている。きっと、流れ星にも、旅立ちを祈るんだろうなって、分かってる。だったら、僕に出来る事は一つだ。応援する事。だから僕の願いは、『ジェイスのお願いが叶いますように』と、お星様に祈る事だろう。

「あ! 流れてきたぞ! ファルカ、早く!」
「う、うん!」

 僕はジェイスが指さした方を見て、流れ星を認めたから、心の中で必死に願った。
 何度も心の中で唱えている内に、光は流れて消えた。それを確認してからジェイスを見れば、じっと目を伏せ、熱心に指を組んで祈っているのが見えた。端正なジェイスの顔を見て、僕は少しの間だけ見惚れてしまった。

「よし、完璧だな。ファルカもちゃんとお願い出来たか?」
「うん。僕は大丈夫。ジェイスと違って一つしかお願いしてないから、すぐに終わったよ」
「俺は願いをまず二つにしてもらってから、それぞれ何回も心の中で唱えたから大変だった。けど、ばっちりだと思ってる」
「当てようか、何をお祈りしたか」
「やってみろよ」
「『旅に出られますように』でしょう?」
「――っ、悪いか?」

 僕の言葉に、ジェイスが不貞腐れたような顔をした。剣だこが出来るほど、熱心にジェイスは鍛錬をしている。ジェイスのお父さんが、元冒険者で剣士だから、稽古をつけてもらっているらしい。ただこの田舎の村から旅に出るのは中々資金的に困難だ。今は、ジェイスのお父さんが、嘗ての仲間に相談中らしい。

「ううん。応援してるよ。はっきり言って、寂しいけど」
「俺だってファルカと離れたくない。でも、俺は世界を救いたいんだ」

 魔王が世界に生じてから、もう何年も経つらしい。魔王が操る魔物が人間に害をなすこの国では、多くの冒険者が世界を救おうと旅に出ている。

「ファルカと幸せに、ずっと一緒に暮らせる世界にするんだ」
「期待してる」
「なぁ、ファルカ。そ、そのさ……もう一個も、分かったのか?」
「え? それは想像もつかないけど?」
「良かった」
「教えて?」
「無事に俺が旅から帰ってきたらな」
「まだ旅に出るって決まってないのに?」
「出るって決めてるから、旅に出るんだよ俺は!」

 それを聞いて僕は思わず吹き出した。
 ――そんな夜から三年を経て、僕達が十三歳になった年。
 ジェイスの旅立ちが決まった。村人総出で入口に向い、僕達はジェイスを見送る事にした。満面の笑みで、僕は最後に、ジェイスの肩を叩いた。

「ちゃんと世界を救ってね!」
「任せろ。必ず世界を平和にする」
「うん。でも、危なくなったら逃げてね!」
「俺は逃げない。幸せはこの手で掴むつもりだ」
「格好つけて……」

 怪我をしたり死んでしまう方が辛い。世界がこのまま緩慢に滅んでいく事よりも、今目の前にいるジェイスが傷つく方が僕は嫌だった。

「なぁ、ファルカ」
「何?」
「――約束して欲しいんだ。必ずここで、俺を待ってるって」
「え?」
「絶対に俺は帰ってくるから。俺の事、待っていてくれないか?」
「僕は村から出るつもりはないし、いつでもここにいるよ。ちょっと考えたら分かるでしょう?」

 僕はくすくすと笑った。だが、ジェイスの顔は真剣だった。そして僕の耳元に唇を寄せた。

「俺以外の奴とキスとかをするなって意味だよ。分かってるのか?」

 その声に、僕は目を丸くした。実はこの前、ジェイスに、『キスをしてみよう』と誘われて、僕は唇を重ねたのだったりする。頬が熱くなってしまう。僕は大きく頷いた。

「分かったよ」
「今、分かったんだろ?」
「そ、それはそうだけど! とにかく分かったから。いってらっしゃい!」
「おう。行ってくる」

 満面の笑みで、僕は旅立つジェイスを見送った。
 ジェイスの背中が遠ざかっていき、どんどん小さくなる。村の人々が踵を返して帰路につき始めてからも、僕はずっと街道を眺めていた。ジェイスが見えなくなっても、暫くその場に立っていた。ずっと僕は、笑っていた。最終的に、夕暮れ、僕は一人になった。

 その足で向かった先は、いつか流れ星を二人で見た丘の上だ。
 僕はそこで膝を抱えて座り、俯いた。まだ顔には笑顔が張り付いている。だって大好きな幼馴染の夢が叶って、旅立っていったのだから、これは喜ばしい事態のはずで――と、思った時、僕の頬が温水で濡れた。ここには誰もいないから、ジェイスに知られる事だって無いだろうからと、僕はそのままボロボロと泣いた。

 僕は、もう子供ではない。
 だからジェイスが『キスをしてみよう』なんて言い出した時には、とっくに彼の事が好きで、ただの幼馴染じゃなく初恋の人に変化していて、柔らかな唇の感触に舞い上がるほどだった。だけど僕が泣き喚いて『行かないでくれ』なんて言ったら、きっと優しいジェイスは困ると思ったから、今日は朝からずっと、笑顔を浮かべていた。今日のために、昨日も一昨日も、ジェイスの旅立ちが決まったと聞いた日から、僕は作り笑いの練習に必死だった。その成果が発揮できたのだし、笑顔で見送れたのだから、僕は良いと思ってる。

「どうか、無事で」

 涙で歪む視界に、僕は空を捉えながら、ポツリと呟いた。瞬きをしたら、頬が濡れて乾かなくなってしまったけれど、唇にだけは練習した笑みを浮かべ続けていた。


 †


 あれから四年、僕は十七歳になった。
 最初は、早く帰ってこないかなと思って、緩慢すぎる時の流れを残酷に思いさえしていたけれど、気が付けば日々の経過は一瞬で、随分と僕の背も伸びた。旅立ち前は、僕とジェイスの背丈は同じくらいだった。筋肉は鍛錬していたジェイスの方があったけれど。今は、どうなんだろう。そんな事を考えながら、僕は水面に映る己を見た。緑色の瞳、ありがちな色彩の平凡な僕。

 ジェイスの噂は、この辺鄙な村にまで届いてくる。
 今ではただの冒険者ではなく、『勇者』と呼ばれているらしい。国王陛下にも謁見したなんて話を聞いた。平凡な僕とは異なり、手が届かなくなってしまった存在になってしまった。

 村の日常は長閑で、僕はゆったりと畑仕事に精を出している。
 いつかジェイスが帰ってきたのならば、僕は名産品の黒苺のジュースを、真っ先に振る舞いたい。

「帰ってきたら……」

 ……帰って、来るよね?
 僕は昔必死で練習した笑顔を、無意識に今日も唇で形作った。勇者の快進撃の噂話を耳にする度に、怪我はないのかと、そればかりが気にかかる。

「馬鹿だなぁ、僕。流れ星にお願いするべきだったのは、『無事に』とか『怪我をしませんように』とかだったなぁ……今夜あたり、流れ星を捕まえに行ってみようかな」

 ブツブツと呟きながら桑の木の世話をする。
 そうだ、そうしよう。今夜は、あの丘に行ってみよう。
 日が落ちてから、僕は一度家に帰った。僕の両親が亡くなったのは、昨年の事だ。この村で疫病が流行って、二人共急逝した。口の悪い人は、『魔王の禍だ』と言った。『勇者の出身地だから目をつけられているんだ』と、悪し様にジェイスの事を話題にあげた。僕はそれが許せなかった。だから反論したら、睨まれた。

「ただいま」

 誰もいない家に、黒苺の入るカゴを置いてから、僕は外へと出る。水車のついた壁を一瞥し、それから水で手を洗った。そのまま丘を目指す。到着した頃には、宵の明星が輝き始めていた。僕は茂みに寝転がり、空を見上げる。僕以外誰もいない虚しい家にいるようりも、鴉が線を引く空を見ている方が、気が休まる。何より、空はどこにいても共通だから、同じ色をジェイスも何処かで見ているかもしれないと感じると、心が温かくなる。

 その内に、僕は微睡んでしまったようだった。

「ん……」

 気づいたのは、焦げ臭さを感じた時だった。右手の甲で、瞼の上を擦ってから、両目を開けた。バチバチと、そんな音が聞こえた気がした。すっかり空は暗くなっているというのに、妙に明るい。何だろう?

 上半身を起こし、僕は丘の上から見渡せる村全体へと顔を向けた。

「!!」

 そして目を見開き、息を呑んだ。燃えている。歪な四角を築いていた村の輪郭が分からないほどに、激しく炎が揺らめいている。夜空の紺と火の橙色が混じり合い、クレアシオンの村を覆っている。舞い散る火の粉、焼き尽くす焔、崩れ落ちていく村の皆の家々。

 背に蝙蝠のような翼がついた異形の者達が飛んでいて、緑色の人型の手に持つ松明を投下していく。魔物だ。村が襲われている。村のみんなの阿鼻叫喚を認識し、僕は震えた。逃げる人々の姿が目視出来る。

 僕はこの夜、燃え落ちていくクレアシオンの村を見たまま、ずっと丘の上にいた。呆然としたまま、蹲っていた。平凡な僕には、何も出来る事なんて無いのだと言い訳をしながら。言い訳ではあるけれど、それは事実でもあった。僕に限らず、平穏に村で暮らしていた人々のほとんどには、魔物と相対出来るような武力など無い。

「勇者の出生地は、完了だな。これに懲りて、勇者も村に戻れば良いのだが」
「ああそうだな、我らの土地への進軍を止めさせなければ」
「それもそうだが、魔王様に害なす勇者の故郷が滅ぶのは気分が良い」
「村人ども、恨むのならば、勇者を恨む事だな」

 頭上からそんなやり取りが聞こえた。けれど魔物達は、僕に気づいた様子は無い。
 その日、空が白む頃になって魔物達は飛び去った。
 村はそれから三日三晩燃え続け、四日目の朝になり、漸く鎮火した。

 村へと続く坂道を降りた僕は、全てが焼けてしまった村で、他の生存者達と合流した。元々二百名も暮らしていない村落だったのだけれど、生存者は十二名しかいなかった。僕がそれを確認していると、人々が話し始めた。

「どうしてこんな」
「聞こえた、聞こえたんだよ。魔物達が言っていた。勇者を恨めと」
「ジェイスが魔王討伐の旅になんか出たばかりに」
「昨年の疫病だってやっぱり」
「しわ寄せばかりこの村に」
「世界の平和と比べたら俺達の生活はどうでも良いっていうのか?」
「あいつ、何を考えて」
「全部焼けてしまった」
「逃げ遅れて、お父さんが死んじゃった」

 怨嗟の声が強い。泣き崩れている者も多い。
 僕は唇を噛んだ。僕だって、魔物の声は聞いた。だけど――。

「ジェイスは、平和を願ってるだけだよ。魔王を討伐しない限り、いつだってこういう悲劇が繰り返されるかもしれない。でも、ジェイスなら、きっと魔王を討伐して、そしてもう、どこの村も焼けないようにしてくれるよ」

 ――思わず僕が言うと、視線が僕に集中した。僕は下ろしたままで手を握り、必死に昔覚えた作り笑いを顔に貼り付ける。

「だから、まずは死者の埋葬と、復興を」

 胸倉をねじり上げられたのは、その時の事だった。

「綺麗事を言うな。あいつさえ、余計な事をしなければ、この村はずっと平穏だったはずだ」

 掴みかかってきたのは、僕とジェイスの二つ年下のガイルだった。
 まだ十五歳だが、ガイルは僕よりもずっと背が高く体格が良い。

「世界平和のために犠牲になれっていうのか? 馬鹿げてる!!」
「そうじゃない、ただ――」
「ただ、なんだ!? 大体、こんなに全部、無くなっちまって、焼けちまって、どうやって復興なんてするんだよ? 無理だろ!! 俺から村も、家族も、全部奪っていきやがった。ジェイスが全部悪い」
「ジェイスは悪くない。悪いのは魔物だ。魔物が火をつけたんだ。ジェイスが火をつけたわけじゃないよ」
「ジェイスが勇者になんてならなければ、魔物に目を付けられる事は無かった」
「責任転嫁だ」
「そんな事は分かってる。でもな、やりきれねぇんだよ!!」

 ガイルはそう言うと、僕を突き飛ばした。周囲の多くも、ガイルと同じ見解のようだった。僕にはそれが、辛い。ジェイスが帰ってくる場所、温かく迎えられる村でありたいのに……現実は非情だ。

 この日、クレアシオンの村の名は、王国の地図から消えた。


 †


 僕達生存者が、隣村だったスイット村に逃れてから、四年の歳月が経過した。
 二十一歳になった僕は、大陸新聞で、ジェイスを筆頭にした勇者パーティが魔王城に迫っていると知った。今は、自然と両頬が持ち上がる。ジェイスが頑張っているのだなと思うと、毎日に気合いが入る。

 快晴の空、雲は無い。
 僕は今日も一人で、嘗てクレアシオンの村があった場所へと向かっている。
 少しずつ、一歩ずつ、僕は村を立て直そうと頑張っている。

 約束したからだ、ここで待っていると。
 本音を言えば、もうジェイスには、約束なんか忘れて欲しいと思っている。村の事も僕の事も全部忘れて、何かに煩わされる事無く、思う存分夢を叶えて欲しい。

「覚えてるかどうかも分からないけどね」

 一人苦笑を零し、僕は木材を手に取った。すると正面で釘を打っていたガイルが片目だけを細めて、不審そうに振り返った。

「何がだ?」
「ううん。何でもないよ」
「どうせまたジェイスの事だろ」
「ち、違うよ!」
「ファルカは分かりやすすぎて、全部顔に書いてある」

 腐葉土色の髪をしているガイルは、この四年間でますます大きくなった。口を開けばジェイスの悪口ばかり言うのに、村の復興作業を始めた僕を見かねて、手を貸してくれるようになった。

 最初は僕一人、それからガイルと二人、その内に生存者の中で動ける者は、なんだかんだで、クレアシオンの復興に携わってくれるようになった。

「あの馬鹿も、さっさと魔王を倒せって話だよな。仕事が遅すぎる」
「そんなに簡単に倒せたら苦労しないって」
「ファルカはジェイスに甘すぎる。あいつは勇者を名乗ってるんだぞ? まったく恥ずかしすぎるだろうが! 村の恥!」

 ガイルは本当に口が悪すぎると思う。騎士ごっこの最中に、木の枝でジェイスに頭を叩かれた事を恨んでいるからなのかもしれない。

「さっさと帰ってこないと、ファルカは俺が貰っちまうぞ」
「何言ってるの?」
「ジェイスが馬鹿だって繰り返してるだけだ」

 そんなやりとりをしながら、だいぶ形になってきた村を見る。
 折角だからと、歪だった田畑は、綺麗に整形した。
 戻る予定の住人の家と――焼け落ちてしまったジェイスの家は、既に建ててある。
 ジェイスのご両親は、僕の両親と同じで疫病で亡くなっていたから、僕が勝手に管理をしていた嘗ての家の面影は……あまりない。

 帰ってきたら、これではジェイスもがっかりするかもしれない。
 ジェイスは旅をしているから、手紙も届かない。
 訃報や、もう昔の村が無い事を、ジェイスは多分知らない。正直、知らないままの方が、幸せなんじゃないかなって僕は思う。

「――今朝の大陸新聞、見たか?」
「うん。僕は毎朝新聞を見てるよ」
「魔王討伐が無事に終わったら、お姫様と勇者が婚約するかもって出てたけど」
「そうだね。これでジェイスも、王族かぁ」
「……ファルカは、それで良いのか?」
「幼馴染の大躍進は嬉しい事だよ」
「幼馴染、ねぇ。ふぅん。でもジェイスは旅に出る時、お前に『待ってろ』って言ってたのに。だからお前だってこの村にこだわってるんだろう?」
「ガイル。無駄口を叩かず、釘を叩くように」
「へいへい」

 ガイルは特別追求するでもなく、素直に金槌を動かし始めた。
 ――大陸新聞に、『魔王討伐成功』という見出しが躍ったのは、その翌年の事である。


 †


 帰ってこなくて良いと、思っていたはずだった。
 だけど僕はどこかで、帰ってくると思っていた。

 魔王討伐成功の知らせから、一年、また一年と、時間が過ぎていく。
 二十三歳になった僕は、今日も空を見上げている。今日の青には、入道雲が多い。蝉の劈く声を耳にしながら、僕は完成した村の看板を見ていた。クレアシオンとペンキで書いた。

 重荷にはなりたくない。それでも――……。

「忘却されるのは、寂しいね、やっぱり」

 ……――僕だけが、覚えているみたいだ。勇者は今、人間の国々に奪われあっているようだ。魔王がいなくなっても、諍いは終わらないらしい。大陸新聞には、どの国の王族と結婚するのだろうかというゴシップが並んでばかりだ。

 指先で唇を撫でてみる。生涯でただ一度きりの口づけの予定である記憶。旅立ち前にジェイスと戯れにしたキスを、僕は今も引きずっている。あのキスは何気ない日常の延長線上にあって、流れ星を捕まえに行く事よりも、僕達にとっては『遊び』の一つで。朧気な記憶であるから、回想も上手くは出来ない。流れ星の事は鮮明に思い出せるのになぁ。

 ジャリと、砂を踏む音が聞こえてきたのは、その時の事だった。
 何気なく顔を上げた僕は、背の高い人物が歩いてくるのを見つけた。

「字、汚いな」
「うるさいよ」

 僕は昔、何度も練習した作り笑いを、必死に顔に張り付けるべく尽力し、唇の両端を持ち上げた。目が合えば、〓帰ってきた《、、、、、》その人物は、呆れたように笑っていた。

「背、伸びたね」
「だろ?」

 僕の隣に並んでたったジェイスは、紅い瞳を看板に向けている。頭一つ分くらい、僕より大きいかも知れない。ガイルよりも大きいと思う。

「勇者様のご帰還か。みんなに知らせに行かないと」
「いらない。俺はまずは、ファルカと二人で話がしたい」
「例えばどんな話?」
「ずっと聞こうと思って忘れていたことがある。後悔していたんだ。あの日、覚えてるか? 流れ星を捕まえに行った事。あの時、ファルカは何を祈ったんだ?」

 僕の背中にそっと触れ、ジェイスが看板を見たままで言った。僕はあの夜を忘れた事なんて一度も無かったけれど、知らんぷりをする。

「なんだったかなぁ。星なんて、見たっけ?」
「嘘と作り笑いが下手くそなの、全然変わってないな」
「え?」
「約束、守ってくれたんだな。待っていてくれたんだろ?」

 待っていないと思っていたのなら、ジェイスは子供のままなのだと思う。当時、既にジェイスを恋愛対象として意識していた僕の方が、今のジェイスよりも大人かもしれない。

「村、無くなっちゃったから。約束は、きちんと守る事は出来ていないよ」
「お前が無事で良かった」
「ガイルも無事だよ」
「そうか。が――大勢が、亡くなったと聞いたぞ。すぐにでも戻りたかった。でも、俺は戻らなかった。魔王討伐の旅を優先した。ごめんな」
「どうして謝るの?」
「お前が一番辛い時にそばにいてやれなかった。そもそもその辛さは、俺という存在が原因でもある」
「けど、ちゃんと魔王を討伐して、ジェイスは成し遂げたじゃないか。夢を叶えた。僕の誇りの幼馴染だよ」
「だから泣きそうな顔で笑うのを止めろ。作り笑いが下手すぎる」
「……」
「ずっと会いたかった。ファルカを忘れた日は、一度も無い」

 それは僕の方だ。毎日毎日、僕の方こそ、ジェイスの事ばっかり考えていた。だけどそんなの重いだろうと思ったし、見透かされるのは悔しいからと、唇には頑張って笑みを浮かべる。だけど、僕の眼窩は裏切り者で、温水を垂れ流し始めた。

「っ」

 するとジェイスが不意に僕を抱きしめたものだから、体がビクリとしてしまう。最初はぎこちなく、その内に力がこもっていくジェイスの腕は温かくて、後頭部を片手で胸板に押し付けられる頃には、僕の涙腺は壊れていた。

「怪我は? 怪我はない?」
「ああ、無事だ」
「無茶ばっかりして、木から落ちてた印象しかないから心配してたよ」
「きちんとあの時だって着地しただろうが」
「それは、そうだけど」
「相変わらず心配症なんだな、ファルカは」

 僕の頭の上に顎を乗せて、苦笑交じりの吐息をジェイスがつく。おずおずとその背に腕を回して見ながら、僕は目をギュッと閉じた。涙が止まらない。どうして自分が泣いているのかも、よく分からない。自身の情動の変化についていけなくて、息が苦しくなってくる。

「ちゃんと俺以外にキスをしないで待っていたか?」
「ごめん、それは破った」
「……へぇ。詳しく聞かせてくれ」
「小さな猫を拾ってさ。毎日チューしてる」
「それは数えないでおく」

 ジェイスの腕に力が、より強くこもった。僕も気づけば強く強く抱きついていた。額をジェイスの胸に押し付けてボロボロと泣きながら、僕は目を閉じる。

「会いたかった。待ってた」
「最初からそう言え。これでも俺、不安だったんだぞ?」
「何が?」
「お前が俺の事、待っていてくれなかったらと思って」
「待っていなかったらどうするつもりだった?」
「そんなの、奪いに行くつもりだった」

 相変わらずなのはジェイスの方だし、横暴だと思う。僕は苦笑しながら吹き出した。だけど涙が混じってしまったのは間違いない。

「どのお姫様と結婚するの? それとも、どの王子様?」
「お前と結婚するために、同性婚制度を大陸全土に根付かせた俺に、それを聞くのか? 魔王討伐の報奨で、願いを叶えてくれるというから、俺は全力で『同性婚!』と述べてきたぞ」
「それ、新聞によると『勇者は某国の王子殿下と熱愛中!?』って出てたけど?」
「ファルカって王子なのか?」
「ううん。僕はただの村人だよ」
「知ってる。そして俺は、お前以外と熱愛予定は皆無だ」

 片腕で僕の腰を抱いたまま、もう一方の手でジェイスが僕の顎に触れた。涙で濡れたままの瞳を向けた僕は、ぐしゃぐしゃになっている顔を見られたくなくて横を向こうとしたのだけれど、思いのほかジェイスの手の力が強くて見上げるしかない。

「キス、しても良いか?」
「子供の頃は、勝手にキスしてから『練習!』って言ったくせに」
「今は本番だ。もう俺達は大人だからな」
「ン」

 降ってきたジェイスの唇は、やはり柔らかかった。触れ合うキスをしてから、僕達は目を合わせる。顔を少し傾けて、屈んだジェイスは、何度も啄むように僕に口付ける。その温度が無性に優しく思えて、僕の胸が満ちていく。下唇を舌でなぞられた時、思わずうっすらと口を開くと、そのままジェイスの舌が口腔へと入ってきた。

「っ、ぁ……」

 歯列をなぞられ、それから舌を舌で絡め取られ、強く吸われる。こんな濃厚なキスは人生で初めてだ。確かにもう、僕達は子供では無いのかもしれない。舌を引き摺り出されて甘く噛まれた瞬間、ピクンと僕の肩が跳ねた。

「ンは……っ、ぁ……」

 腰から力が抜けていく。全身が熱くなり始めて、ふわふわする。
 そんな僕を抱き留めると、ジェイスが再び腕に強く力を込めた。

「聞いてくれ。あの日、俺は――二個願ったと話しただろう? 一つはお前が当ててくれた通り、旅立つ事で魔王を討伐するという趣旨の世界平和、それが俺の願いだった。もう一個、今なら分かるか?」

 涙が漸く乾き始めた頃、キスを終えた時、僕はそれを聞いて小首を傾げた。

「何? 全然分からない」
「『平和な世界が来たら、ずっと、ファルカと一緒にいられますように』と願ったんだ」
「……それ、僕の捨てたお願いに似てる」
「ん? どういう事だ?」
「僕も最初は、『これからもずっと、ジェイスと一緒にいられますように』とお祈りしようと思ったんだけど、旅に出たがっているのを知ってたから、『ジェイスのお願いが叶いますように』に変えたんだよ」
「最終的には、叶ったな。そうか、俺達の想いは重なっていたんだな」

 そう言って笑うと、ジェイスが僕の額にキスをした。僕は短く吹き出した。

「本当に流れ星は、お願いを叶えてくれるんだね」




―― 終 ――