アイファーズーフトの風景
私は、声を持たない。生まれつきだ。
そんな私が、彼と出会ったのは、あるアパレルショップでの事だった。片隅で服を見ていた私に触れた彼は、笑顔だった。視線をあげた私は、すぐに彼の柔和な表情に惹きつけられた。
「良いな。可愛い」
その言葉に、私の胸が激しく脈打った。ドクンドクンと煩い鼓動。そのまま、声をかけられた私は、彼に連れられて……躊躇う事なく、彼の家に連れられて行ったが後悔は無い。そうしてその日の内に、彼は私の輪の中に体を入れた。
それが、始まりだった。
その日から、私と彼は、いつも一緒だった。雨の日、霙の日、雪の日、海に行く時、特に彼は、私を愛してくれた。私に笑いかけてくれる太陽のような彼を見ていると、それだけでいつも私の胸は騒いでいた。
なのに。
終わりは唐突だった。あの――忌々しい相手が、齎した終焉だ。
『貴方に、これをプレゼントしたいの。その、いつも身につけている防水時計じゃ、服に似合わないから』
『おう。大切にするよ。でもなぁ、これ、気に入ってるんだけどなぁ』
私は、隠れて、彼と忌々しい人物のやりとりを聞いていた。その卑しい相手は、彼の恋人なのだと名乗り始めた。先に彼の隣にいたのは、私なのに。
そんな、ある日。
私は彼と歩いていた。彼は、私では無い恋人の所に行こうとしていた。
歩道橋の上で、私は――そのまま動きを止めた。気づくと私は、フェンスに体を預けて、彼を見送っていた。風景が、変わっていく。もう、何処にも、彼の姿が見えない。彼は、動きを止めた私に気がつく事すらない。
カチカチカチカチと音がする。秒針の音だ。それは私の顔から聞こえてきた。最初、私は、意味が分からなかった。どうして顔から時計の音がするんだろう? だが、考えてみれば、それは酷く自然な事にも思えた。私は、何者だっけ? 続いてそう考えて、手を見てみる。
私の手には、大きく『X』と『]』と刻まれていた。何度か瞬きをしてみる。
すると時針が進んだ音を認識した。
そうなって初めて私は、理解した。
――私は、そうか。
人間では無かったんだっけ。だから、彼の恋人にはなれなかったんだ。ずっと一緒にいたのに、誰よりも側にいたのに。
「そうだよ、君は防水時計だ。これから僕は君を、塵芥の街に棄てに行くよ」
不意に声がしたから顔を上げれば、そこには端正な顔の青年が立っていた。緑色の髪が揺れている。木の幹色の燕尾服姿で、同色のシルクハットを被っている。瞳の色は種色で、肌は一見白いのだが、どこか薄緑と黄を透かしたような色をしていた。周囲には、甘い香りが漂っている。左の袖からは、手の甲までを覆うアームウオーマーが覗いていて、右手には白い手袋をはめていた。
「あ」
気づけば、私は持たなかったはずの、声を得ていた。瞬間、その場の風景が変化していた。私は歩道橋の地面に落ちているのではなく、見知らぬ街に立っていた。
「……貴方は?」
「今際(いまわの)と言うんだ」
「彼に会わせて。一言で良いから、伝えたいの」
「それは出来ない相談だ。ここは、もう人間の世界では無いからね。君はこの人ならざる存在の世界に生じてしまったんだよ。もう既に、終わっているし、君はもう歪んでいるから」
「歪んで……?」
「君はもう、ただのゴミだ」
その言葉を聞いた直後、私の中で何かが壊れた音がした。
◆◆◆
罅割れた文字盤、動きを止めた時計。一度は自我を得て、人型を象ったものの、すぐに元の姿に戻り、完全に停止したその『ゴミ』を、僕は暫くの間、掌にのせて眺めていた。人間の世界の物品は、いつしか――自分を人間だと錯覚する事があるし、人間じみた感情を得る事もある。
僕はそんな、本質から外れ、歪んでしまった物品を、人間の世界に迎えに行き、この人ならざる存在の世界に連れてきて、壊れてしまった場合は、塵芥の街に棄てに行くという仕事をしている。
人間の世界には、『死神』という概念が存在するらしい。
あるいは、意思を得た物品にとっては、僕もまたそのような存在となるのかもしれない。
時々そんな風に考える事もあるけれど、誰も僕を死神だとは呼ばない。
多くの場合、僕は、今際と呼ばれている。
これは僕が、この人ならざる存在の世界に生じた時に、物紡ぎがくれた名前である。物紡ぎは、僕の友人だ。
時計を片手に、僕は路地裏を進んでいく。ゴミになり、塵芥の街に棄てられる物品ばかりでなく、僕や物紡ぎ、そして拍子木君のように自我を持っても歪まなかった人ならざる存在は、この世界には相応数いて、いくつかの街を築いて暮らしている。
塵芥の街の入口を通り過ぎると、回収者不在の集積場のゴミ袋を漁る茶トラの猫が見えた。人の世界の茶トラの猫に似ているというだけで、この人ならざる存在の世界にいる以上、あの仔も生命ある猫というわけではない。猫の形で生じているだけの、物品だ。本質は、どこかの猫が身につけていた、首輪である。
そのまま進んでいくと、見渡す限りゴミが積もっている場所が出現した。
ここが、塵芥の街だ。
そしてその正面に、物理法則など無視して存在している、飴色の扉が見えた。扉だけが、地面から立っている。僕は迷うことなく、その扉の丸いノブを捻る事にする。
すると、ギシリと音を立てて開いた扉の向こうに、正方形の室内が見て取れた。僕は後ろ手に扉を閉めながら、天井を仰ぐ。真っ白だ。それは床も、四方の壁も同様である。窓はない。光源は照明を含めて何もないのだが、無機質なその部屋は、明るい。
突き当たりには、扉の外にあったものと同様のスクラップの山がある。違いはといえば、ここが室内である事を除くならば、その正面に、古びた椅子がある事だろうか。他の家具はといえば、扉の左手に古びた寝台が、右手には干からびかけている観葉植物と古めかしいソファが存在する事か。いいや――違うかな。一番の差異は、椅子に座ってスクラップ達を眺めている青年がいる事だろう。
扉の音がしたのだから、僕の来訪に気づいていないとは思えない。なのに、彼は振り返るでもない。知ってる。いつもそうだから。
「やぁ、カチンコ」
「――正式名称は、『clapboard』だけどな」
「同じ品じゃないか」
「なお言うのであれば、俺はその上部の部分から、物紡ぎに『拍子木(ひょうしぎ)』という名を与えられてる。お前が『今際』という命名をされているのと同じ事だ」
興味が無さそうに、拍子木君が、僕に述べる。こんな会話は、僕達の、比較的いつものやりとりだ。特に、僕が久方ぶりに拍子木君の元を訪れた場合、八割はこのやりとりをする。理由は簡単。至極明瞭だ。緊張してドキドキするから、話題探しに僕が躍起になるせいだ。いつだって僕は、拍子木君にかける言葉を探している。
僕は、拍子木君に恋をしている。もう、長い間。そう言って差し支えないだろうと思うのは、僕が人間の世界に触れて、時の流れといった概念に触れてしまったからなのだろうか。どんどん僕は、人間じみた価値観や感情を抱くようになってしまった。この人ならざる存在の世界には、時刻なんて存在しないというのに。
そこで僕は手にしている時計の事を思い出した。何も僕は、恋する相手に会いに来たわけではないのだ。仕事を果たしに来たのだ。この防水時計を、この塵芥の街に捨てるという職務――拍子木君は、この街の管理人という仕事をしている。
彼が見ているのだから構わないだろうと、僕は何気ない素振りで、正面のスクラップの山に、先程回収した時計を放り投げた。ガシャリグシャリと音がして、山の一角が崩れたが、僕は気にしない。無秩序、それがこの、ゴミ山の景観だ。
それを眺めている拍子木君は、本当に格好良い。ただ、眺めているという表現が正確なのかを、僕は知らない。拍子木君は、カチンコがカンと音を響かせた直後に回り始めるようなカメラが本質だからだ。
黒い髪に、切れ長の黒い眼をしている拍子木君は、非常に長身で肩幅が広い。僕だってそう女性的という訳ではなく、人間で例えるならば、ごくごく平均的な成人男性の姿なのだけれど、拍子木君は僕と比較するならば巨人とでも言うしかない。
僕の身長が百七十六cmとすると、拍子木君は二m以上ある。僕と彼では、三十cmは背丈が違うという事だ。僕は大きめのシルクハットを被っているのだけれど、その一番上部と比較しても拍子木君の方が背が高い。
拍子木君は、僕と違って人間の好む衣類という意味では、ボトムスと下着、ベルトしか身につけていない。黒い細身の下衣と、それを留める大きめのベルトだ。上半身は裸である。それは――彼の右の脇腹に、巨大なカメラのレンズがはまっているからなのかもしれない。時折レンズは回転し、動く。肌に接着するように同化していて、いつもジジジと音を立てている。その脇には引き締まった腹筋が見える。細マッチョ……そういうのが相応しいんだろうなと思うのだけれど、元々が大柄だから何とも評し難い。
いつも気怠そうな顔をしている拍子木君は、その時、首だけで僕に振り返り、視線を流すように向けてきた。その漆黒の瞳を見て、僕の胸が疼いた。精悍な顔立ちの彼に見据えられると、鼓動が煩くなる。
「今日は物紡ぎの所には、遊びに行かないのか?」
「――? どうして?」
僕は首を傾げた。仕事終わりに、一番に見たいのは、愛する人の顔だ。そして僕の、時計を捨てるという仕事は、たった今終了した。今から、友人の所に遊びに行こうという気にはならない……というよりは、折角会えた愛おしい拍子木君の顔をずっと見ていたい。
改めて思うが、僕はやはり拍子木君に恋をしている。
もう長い間、恋煩いをしている。
拍子木君を、愛している。大好きで大好き、時々苦しくなるほどに、僕は拍子木君が大好きだ。彼の眼差し一つとっても、いつも変わらない気怠そうな瞳に宿るどこか呆れたような色も、変化に乏しい表情も、あまり笑わない薄い唇も、どこか冷たいけれど本当は優しさが滲んでいると知っている性格も、何もかもが好きだ。共にこの街に生じ、どれくらいが経ったのかは分からないけれど、気づいた時には惚れていた。彼に撫でられるだけで、自分の髪さえ特別なものに思えるほどに。
「いつも向こうに行ってんだろ」
「そう? ……暗に帰れって言ってる?」
不安に思って、僕は微苦笑した。すると拍子木君が椅子から立ち上がり、チラりと扉の脇の古びた寝台を見た。それから左目だけを細めた。
「溜まってんのか?」
「っ、あ……その……」
拍子木君は、戯れに僕を抱く。最初に誘ったのは、無論僕だ。その時の僕の口実は、『人間の性欲を覚えてしまったみたいだ』だったから、拍子木君は、僕が性欲を我慢出来ない時に、ここに長居すると勘違いしている。本当はただ、拍子木君に会いたいだけなんだけれども。
彼もまた、人間の世界から僕が拾ってきては棄てるゴミに触れる内に、幾ばくか、人間じみた感覚を理解するようになってきたようで、どうやら性欲があるらしい。それを知ったからこそ、僕は当初、拍子木君を誘ってみたというのもある。教えてくれたのは、物紡ぎだったかな。どうして物紡ぎが拍子木君の性欲について知っているのかを、僕は小一時間は問いかけたかったけれど、止めた過去がある。物紡ぎはなんでも知っているから、聞くだけ愚問だと思ったのだ。
「来いよ」
拍子木君が真っ直ぐに寝台へと向かい、腰を下ろした。ギシリと軋んだ音がする。僕は赤面しそうになるのを必死で制して、そちらへと歩み寄る。すると僕の腕を引いてから、拍子木君が僕の燕尾服を手際良く脱がし始めた。すぐに服をはだけられた僕は、いつもと同様、アームウオーマーと右手の白手袋だけは外さない。それらの下には、僕の本質の一つがあるからだ。
「優しくしてね?」
「……」
「冗談だよ」
僕が上目遣いに拍子木君を見ると、相変わらずの仏頂面で、彼は僕を寝台に縫い付けた。
拍子木君は、愛撫するでもなく、僕の両方の太股を持ち上げると、じっと僕の菊門を見据えた。そうされるだけで、僕の内側が熱を帯びる。僕の本質は蜜を持つから、繋がれる期待からそれらが後孔から溢れ出す。
「ぁ、ア……ッっ」
いつも荒々しい拍子木君は、巨大な剛直の先端を僕にあてがった。僕の肢体を見るだけで彼が勃起する事が、僕は嬉しい。僕の体でも欲情してくれるというのが伝わってくるからだ。挿ってきた彼の楔の衝撃に、僕は体を反らせる。喉が震えた。
「ンぅ、ぁァ……あああ!」
一気に最奥まで、拍子木君の陰茎が進んでくる。身長同様、巨根としか評しようがない巨大な楔に貫かれ、僕の中は満杯になってしまう。ギュウギュウと僕の内壁は蠢き、拍子木君の肉茎を締め上げている。それが自覚できて、僕は涙ながらに頬を染めた。この穿たれる感覚に、僕はいつまで経っても慣れないのだけれど、同時に無性に幸せなのだ。
「きつい」
「あ、あ、あ! ああァ! ン――!」
「――ここだったか?」
「ひゃッ!」
拍子木君が、その時、グリと僕の感じる場所を先端で抉った。瞬間、僕の本質が持つ蜜が、じわりと内側と陰茎から溢れる。僕には人間のような身体構造は無い。外見だけ、そのように、人間の男性のように象っているだけだ。だから陰茎や菊門こそあるが、臓器があるわけではない。代わりに、本質に由来する蜜が溢れてくる。
「ああああ!」
満杯の僕の中で、激しく拍子木君が動きながら、不意に僕の首元に噛み付いた。
「甘い味だな、相変わらず」
そう述べた拍子木君の瞳に、僅かに獰猛な色が宿った。
すると僕の体の奥からは、より多くの蜜が溢れ、周囲に甘い匂いが広がった。あんまりにも気持ちが良くて、無我夢中で僕は首を振る。緑色の僕の髪が、肌に張り付いてく。汗、ではない。これもまた、蜜だ。人で言うところの、汗、涙、精液、腸液、それらは僕の場合は全て、蜜である。本来それは、潤滑油の代わりではない。
しかし人間らしい情動を覚えていく中で、僕はヒトの得る快楽を覚えたのだ。
そのため、今では僕の本質の一つである蜜は、性交渉を容易にするモノの一つになってしまった。
――SEXは、気持ちが良い。
僕は、必死に、拍子木君の首に腕を回す。すると僕の腹部に、彼の腹部のカメラのレンズが当たった。彼の体温とは異なり、ヒヤリとしていてゴツゴツと固いから、すぐに分かった。
「んン、ぁ――……ひ、ぁ……あああ、あ、ア!」
「中、ドロドロだぞ」
「言わないで、うあああ。あ、あ、好き。拍子木君が好きだ……あ、ン――!」
その時、獣のように荒々しく動き、拍子木君が僕の中に白液を放った。その衝撃で、僕もまた果て、ビクンと肩を跳ねさせてから、ベッドに沈んだ。
――恐らくではあるが。
この行為に、愛は無いのだと思う。切ないほどの、一方通行。僕が拍子木君を好きなだけの関係だ。きっと純粋に、単純に、拍子木君は、性欲の解消に僕を抱くだけなのだろう。
だけど、それでも構わない。僕は、大好きな拍子木君と一つになれるだけで幸せなのだから。そう考えた直後、僕は睡魔に飲まれ、そのまま微睡んだ。
「ん……」
次に目を覚ますと、既に拍子木君は寝台の上にはいなかった。隣に体温が無いのが、とても寂しい。寂しいなんて感覚も、人間らしい。僕は本当に、沢山の人間らしい感情を覚えてしまったようだ。例えば、先程捨てた時計の感情だって、僕は吸収していると思う。
まぁ、拍子木君がいないのは、いつもの事なのだけれども。
そう考えながら、僕は気怠い体をシーツで覆い、スクラップの山の方を見た。するとその正面にある椅子に座した拍子木君が、煙草を銜えていた。長い指先、茶色のフィルターを銜える薄い唇、その全てが格好良く見える僕は、恋に狂っていて末期的なのかもしれない。
――拍子木君に、心から愛されたい。
けれど僕と違って、外見と性欲以外の大部分においては、一切人間らしさの無い拍子木君には、そもそも、『愛』や『恋』なんていう感情は無いんじゃないだろうか。それは寂しくもあるけれど、当然の理でもある。僕達は、人間ではないのだから。
「何見てるの?」
僕が声をかけると、煙草を指に挟んで、拍子木君がこちらを一瞥した。
カメラの能力で、拍子木君は、様々な人間の世界の光景を、この人ならざる存在の世界にいながらも、目にする事が出来る。今も、スクラップの山の前に、カメラ映像を表示する薄型のモニターを出現させ、何かを見ている。
拍子木君は何も言わずに、画面に視線を戻した。僕もまた、そちらを見る。
『――あ。防水時計を落としてきた』
『やだぁ。私があげたお洒落な時計はどうしたの?』
『いやさ、今日は雨が降りそうだったから古い方を……何処やったんだろうな』
『もうボロボロだったじゃない』
『そうだな。もういいか。忘れる』
そこには、僕が先程棄てた防水時計の持ち主である青年と、その恋人の姿が映し出されていた。僕は今では、あの時計の想いも記憶していたから、無性に胸が痛む。ズキズキとジクジクと、嫌な感覚が内側に広がっていく。
「今際」
不意に拍子木君に声をかけられて、気づくと俯いていた僕は顔を上げた。
「お前にとってあの時計は、そんなに特別なゴミだったのか?」
「そうじゃないけど……どうして?」
「随分と傷ついたような顔をしてるからな」
「傷、かぁ。傷ついてるのかな、僕。愛する人に、忘却されるというのは、辛いと思ってさ……」
苦笑しながら僕が述べると、拍子木君が、緩慢に瞬きをした。そして、煙草の煙を吐き出してから、じっと僕を見た。
「お前は誰かを愛しているのか?」
「? いつも、拍子木君の事を大好きだって言ってると思うけど?」
愚問である。僕は会いに来る度、彼に好意を伝えている。
だから不思議に思って首を傾げたのだけれど、拍子木君は、そんな僕に、何も言わなかった。そのまま、暫くの間、彼は煙草を吸っては、煙を吐いていた。僕達の間には沈黙が横たわり、ただモニターから人間達の声が聞こえてくる。
その静寂を破ったのは、煙草を消した拍子木君だった。
「本当に?」
「え?」
「お前が好きなのは、本当に俺か?」
何を言われたのか分からず、僕は目を丸くした。だがこの日、それ以上拍子木君が僕に対して何かを言う事は無かった。
◆◆◆
数日後、本日も仕事帰り。
今日はビニール傘を、塵芥の街に棄てに来た。扉の外で、ゴミの山に放り投げてから、僕は飴色の扉の前に立ち、深呼吸をした。この向こうには、拍子木君がいるのだ。
本日、僕は決意をしている。
やっぱり、恋愛とは行動あるのみ――だというのは、物紡ぎにいつか恋愛相談をした時に言われた事である。今回担当したビニール傘は、デート時の相合傘を担当後、強風で壊れてしまって捨てられた品だった。僕にとって重要なのは、『デート』という概念である。
「拍子木君を、デートに誘おう。誘うぞ! 頑張れ、僕」
一人そう決意し、改めて大きく吐息してから、僕はドアノブを捻った。中を見れば、そこにはいつも通り、拍子木君の背中が見えた。その大きな背中には、カメラのフィルム、ネガとでも言うのか、そんな白と黒の模様の線が見える。こちらも皮膚に接着・融合している。まるで人間世界でいう刺青のように見える。しかし表面では、それぞれの四角の中で、風景が動いている。動的な映像が彼の背中にはいくつも見える。
「カチンコ!」
「――俺は、拍子木と呼ばれる事の方が多いと何度言わせれば気が済むんだ?」
「ねぇねぇ、デートしよ!」
僕が単刀直入に述べると、ゆっくりと拍子木君が振り返った。
「……なんだって?」
「だから、デート! デートしたいよー!」
「……」
僕の言葉に、いつも同様気怠い瞳で、拍子木君は僕を暫くの間見ていた。呆れられているのだろうかと、僕は引きつった笑みを浮かべる。するとたっぷりと沈黙をとってから、拍子木君が顔を背けた。
「何処へ行くんだ?」
「え? あ……えっと……カ、カフェとか!」
この人ならざる存在の世界において、塵芥の街に棄てられなかったモノ達は、いくつかの街を築いているわけであるが、その中には、住宅街や飲食店街も存在する。人間の世界で生じてこちらに来た、人で無いものが多いから、人間らしい文化を知るものも多く、ある程度は人間じみた生活が根付いているのだ。僕がドキドキしながら提案すると、小さく顎で拍子木君が頷いたのが見て取れた。僕は、今こそ押すべきだと確信した。
「行こうよ!」
「今からか?」
「ダメ?」
「別に」
拍子木君は、そう言うと立ち上がった。そして僕の前まで歩み寄る。僕は彼を見上げた。拍子木君は、腕を組んで僕を見下ろす。
「着替える」
そしてそう言うと、ソファの上に無造作に置いてあったシャツを身に付け、外套を羽織った。いつも上半身には何も纏っていないから、きちんと服を着ている姿が逆に意外に思えた。
「行くか」
「う、うん!」
普段も格好良いが、服を身につけた今も格好良い。
僕は思わず、満面の笑みを浮かべてしまった。
二人で扉から外へと出て、塵芥の街を後にする。
そして裏路地を抜け、正面にある、紙片の街へと、とりあえず進んだ。
ここは、塵芥の街から一番近い、自我が残っていて歪んでいない人ならざる存在の街だ。僕は歩きながら、チラチラと拍子木君の大きな手を見た。手を繋いでみたい。だけど、緊張するし、振りほどかれたら悲しい。だから、一人で、手を握ったり閉じたりしていた。
「どこか行きたい場所はあるのか?」
「え? あ、ああ……んー、そ、そうだね! お茶でも飲もう!」
ぶらぶら歩く内、声をかけられて、僕はそう答えた。というのも、目視出来る距離に、物紡ぎが常駐しているカフェが見えたからである。僕の視線を追いかけた様子で、拍子木君がその時、目を細めてから、瞬きをした。その横顔を見て、僕は尋ねる。
「あそこは、珈琲も紅茶もその他のドリンクも美味しいし、ケーキとかお菓子も良いよね」
「随分と熟知しているんだな」
「え? まぁ、よく行くからね」
逆に言えば、他のカフェの知識が僕には欠落している。飲食といった人間の感覚には、僕はあまり馴染みが無いのだ。僕が吸収しているのは、主に感情だから、味覚は範囲外である。けれど、物紡ぎという友人がいるので、あのカフェには足を運ぶ事があるのだ。
その時――不意に、拍子木君が下ろしたままの手で、僕の指先を握った。ドキリとして、僕は息を呑む。瞬時に赤面した僕は、ゆっくりと彼の手を握り返してみた。
こうして僕達は、そのまま進行方向にあったカフェへと向かった。
鐘の音がして、扉が開く。
正面にあるカウンター席に、物紡ぎの姿が見えた。彼はこのカフェのオーナーでもある。
「いらっしゃい」
白い羊皮紙に触れていた物紡ぎが、振り返った。丸椅子に座している。その隣に進み、二つ椅子を空けて、僕は座った。するとすぐ隣の、左の奥の席に、拍子木君が座った。僕は隣同士で座るだけで、胸が高鳴ってしまう。
僕がそんな事を考えていると、物紡ぎがちらりとこちらを見た。
「今際。今日は、新しく生じた存在が多いよ。人間の世界にゴミ拾いに行ったら?」
「明日あたり回収するよ。今日は、気分じゃないんだ」
何せ本日は、デート中なのだから! それに繰り返すが、最低限の本日の仕事は終わっている。僕はきちんとビニール傘を棄てたのだから。
「そう」
眼鏡をかけている物紡ぎは、無表情だ。それが物紡ぎの常である。紙のように真っ白な髪を揺らした物紡ぎは、それから古くなったインクのように青味がかかった瞳で、僕越しに拍子木君を見た。物紡ぎの本質は、万年筆だ。
「珍しいね」
その言葉を聞くと、小さく拍子木君が頷いた。何故なのか、眉間に皺を刻み、睨めつけるように物紡ぎを見ている。明らかに険悪な空気を感じる。物紡ぎはいつも通りであるが、拍子木君は普段、無表情に近いのに、今はあからさまに険しい顔つきだ。
「それにしても今際は、可愛いなぁ」
僕と拍子木君の前に水が置かれた時、物紡ぎがそんな事を言った。平坦な声だった。実際には、心にもない言葉だというのがすぐに分かる。僕はココアを注文しながら、吹き出した。何故なのか目を閉じながら、拍子木君はアイスティを注文した。
「今際みたいな恋人がいたら、きっと幸せなんだろうねぇ」
それを聞いて、僕は思わず両頬を持ち上げた。物紡ぎは僕の気持ちを知っている。僕の拍子木君への想いを知っている。だから、拍子木君にも、そう思うようにという意図だと感じたのだ。拍子木君も、僕が恋人だったら幸せだと思って欲しい。
そう考えながらチラリと拍子木君を見ると、忌々しそうな顔をしていた。
――え? なんで?
「今際の良さに気づかないなんて、本当に愚かだよねぇ。僕なら、今際が恋人だったら溺愛して離さないんだけどなぁ」
「物紡ぎ……」
物紡ぎが僕を愛する姿は、全く想像出来ない。揶揄されている気分になっていると、ココアとアイスティが運ばれてきた。生クリームがのるココアを一口飲んでから、僕は細く長く吐息する。
「物紡ぎこそ、本当に恋人だったら、優しそう」
「うん。僕は優しいという自負があるね。好意も率直に伝えるし」
「ふぅん。いいなぁ」
「僕の恋人になってみる?」
不意に物紡ぎが口角を持ち上げた。完全にからかわれていると理解し、僕は吹き出す。
ガシャンと音がしたのは、その時の事だった。
驚いて視線を向けると、拍子木君が、非常に険しい顔で、叩きつけるようにグラスをカウンターの上に置いた所だった。
「拍子木君……?」
「帰るぞ」
「え? で、でも、まだ残ってるよ?」
「お前、俺の事が好きなんじゃなかったのか?」
「そうだけど……?」
「だったらついてこい。帰るぞ」
勢い良く拍子木君が立ち上がった。困惑しつつも、僕もまた立ち上がる。すると物紡ぎが、これもまた珍しい事にクスクスと笑った。
「拍子木君で遊ぶのは、本当に楽しいね」
「……」
拍子木君は、何も言わずに、じろりと物紡ぎを睨むと、僕の手を握り、扉へと向かった。こうして僕達は、再び外へと出た。
一体、拍子木君は、どうしたのだろう?
それに物紡ぎも、拍子木君『で』遊んだと話していたけれど、二人には会話もなかったと思うから不思議だ。そもそも、『で』とは、なんだろう? 普通は『と』だと思う。
謎だらけだなと感じつつ、拍子木君に腕を引かれるままに、僕は早足で歩いた。歩幅が違うから、必然的にそうなる。すると、塵芥の街へと通じる裏路地に差しかかり、人通りが途切れた所で、不意に拍子木君に腰を抱き寄せられた。
「っ」
そのままもう一方の手で強引に顎を掴まれ――深々と口を貪られた。僕の口腔に侵入してきた拍子木君の舌が、僕の歯列をなぞる。それから僕の舌を絡めとると、引きずり出して、甘く噛んだ。
「ん、ぁ」
ピクンと僕の肩が跳ねる。すると角度を変えて、再び拍子木君が僕にキスをした。
何度も何度もそのまま僕は、口付けられた。
唇同士が離れた時には、僕の体からは力が抜けていて、僕は思わず拍子木君の厚い胸板に倒れ込んでいた。ふわふわした体で、涙ぐみながら、僕は拍子木君を見上げる。
「ど、どうかしたの? こんな、急に」
いつも、キスをするのは、僕からだった。過去、拍子木君の方から口付けられた事があったのか、僕は思い出せない。
――ネガが宙に舞ったのは、その時の事だった。
拍子木君の背中から、僕の正面いっぱいに広がり、それは僕の体を絡め取るように収束した。フィルム部分には、動く数多の風景が映っている。僕が瞠目した時、それらが僕に絡みついた。狼狽えた瞬間、僕はネガに拘束されて、裏路地の壁に押し付けられた。
「拍子木君……?」
彼の瞳は険しい。オロオロしながら、僕は自由にならなくなった手を確認する。決して途切れないそのフィルムが、僕の両手首を頭上で拘束し、壁に縫いとめている。無数のコマには――僕が笑っている姿が映し出されている。物紡ぎと談笑している僕が見えた。それは先程の光景も含まれていたが、その他に過去の光景、拍子木君が不在の場面もある。
「物紡ぎの前で、お前は本当に楽しそうに笑うんだな」
冷ややかな声でそう言いながら、長い指と大きな掌で、拍子木君が僕の燕尾服を乱し始めた。慌てて、僕は左右を確認する。相変わらず人気は無い。顕になった僕の首元に、拍子木君が冷酷な顔をしたままで噛み付いた。すると僕の体から蜜が溢れた気配がし、甘い匂いが充満する。
「拍子木君? 一体、どうし――」
「物紡ぎが恋人だったら良かったのか? へぇ」
「な」
「お前、俺の事が好きなんじゃなかったのか?」
ポツポツと僕のシャツのボタンを外し、拍子木君が僕の右胸の突起に噛み付いた。瞬間背筋がゾクリとした。藻掻こうとしたのだけれど、拘束されている僕は身動きが取れない。この頃には、ネガが僕の全身を絡めとり、壁に貼り付けられていた。無論本物のフィルムではなく、拍子木君の意思で蠢き、物質と同化する力を持つものだ。これは拍子木君の本質の一つだ。例えば人を象った人体の背中に接着したり、カメラが癒着しているのと同様に、何にでも貼り付く事が可能だ。それが映像に残せる存在がいる世界であれば、人間の世界にあっても、人ならざる存在の世界でも、拍子木君の意思で自由に動くらしい。それもまた拍子木君の本質の一つであり、今回の場合はネガの特徴だ。
「ぁ……ァ……っ、ッ……ん」
左胸の乳頭は強めに摘まれ、右胸は甘噛みされている。僕は自由にならない体を震わせる。それから拍子木君の大きな手が、僕の下衣の中へと入ってきて、僕の陰茎を握った。
「ああ……ぁ、ァ……なんで……ッ」
いつも僕が誘ってばかりだから、何故現在このように触れられているのかが、全く理解出来ない。
「物紡ぎの前では、こういう顔はしていないらしいな――『今の所』」
「へ? ぁア……っ、ぅ、ぅああ」
地に落下した僕の下衣、はだけてしまった僕の正面。ボタンが外された状態の僕は、外気が肌に触れるのを感じていた。
「今際」
「ぁ、は……っ、ぅ」
「俺が誘いやすいから、だからお前は、俺を物紡ぎの代わりにしてんじゃないのか?」
「? 何言って――……ぁ、ぁ、ああ!」
手を輪にして、激しく拍子木君が、僕の陰茎を扱き始めた。
「物紡ぎの事は、俺と違って大切すぎて、手出しが出来ないんだろ?」
「な、何それ? んン……ぁ、ア」
「早く否定しろ。じゃなきゃ――許さない」
拍子木君はそう言うと、地に膝を突き、僕の陰茎を口に含んだ。そして口淫を始める。その感触に、すぐに僕の太股が震え始める。すぐに射精欲求が募り始めて、僕は涙ぐんだ。気持ちが良い。
「あ、ぁァ……僕、僕は……っ、いつも言って……僕、拍子木君が好きだよ」
僕が答えると、拍子木君の口の動きが早くなった。そのまま昇められて、呆気なく僕は射精した。すると僕を拘束していたネガが外れ、僕はそのまま地面に崩折れそうになったのだが、拍子木君に抱き留められた。
「ひ、ぁ」
拍子木君は、片手の指で僕の耳の後ろ側をなぞりながら、囁くように言う。
「本当に俺の事が好きなら、それ相応の行動をしろ」
「え? ァ……」
彼の指の感触に、まだ敏感だった体が跳ねる。これじゃあ、満足に一人で立つ事が出来ない。そう思っていると――拍子木君が、僕を横に抱き上げた。驚き、慌てて僕は、拍子木君の首に両腕を回す。
「帰るぞ」
「え? お姫様抱っこなんて……え?」
「歩けないだろ」
「それは……うん」
腰に力が入らないのは事実だが、こんな風に扱われるとは思わなかった。拍子木君なら僕を背負うか、肩に抱えそうなイメージだったからだ。気づくと僕は真っ赤になっていた。塵芥の街には、それこそ例の猫くらいしかいないから、誰かに見られるという事は無いのだが、仮に目撃されたら、僕は恥ずかしくて暫くこの界隈に来られない気がした。
「行くぞ」
拍子木君はそう言うと歩き始めた。僕は小さく頷いた。好きな人に抱えられているという嬉しさと羞恥から、普段とは違い、僕の口からは言葉が何も出てこない。拍子木君も何も喋らなかったから、僕達はそのまま無言で、塵芥の街に戻った。
彼は足で扉を開けると、いつもの白い空間に入り、僕を寝台に下ろした。そして扉に視線を向ける。すると拍子木君の意思に沿うように、扉は勝手に閉まり、鍵がガチャリと回った。ソファの前へと移動した拍子木君は外套を脱いでから、上半身の服を脱ぎ捨てた。
そのまま僕は、微睡んだ。
初めてのデートは……なんだか拍子木君を怒らせてしまったみたいだし、失敗だったのかもしれない。ただ一つ明確に理解不能なのは、どうして拍子木君は、そんなに物紡ぎにこだわるのだろうと言う事だが、それについて深く考える前に、僕は眠ってしまったようだった。
目が覚めると、いつもと同じように、拍子木君は椅子に座っていた。
◆◆◆
――それから、人間の世界で言う所の一週間ほど、僕の仕事は多忙だった。
物紡ぎが話していた通り、新しく生じた歪んだ物品が多数いたから、僕は何度も人間の世界に迎えに行き、そして拍子木君の前に棄てるほどでも無かったから、塵芥の街の扉の外のゴミの山にそれらを投げ捨てるという仕事に励んでいた。
だから暫しの間、僕は拍子木君に会えなかった。本当だったら、毎日会いたかったけれど、僕には僕の仕事がある。本来睡眠を必要としない体であり、睡眠は単純に人間の感覚に触れて覚えただけの僕は、寝ずに仕事をした。人間の世界と人ならざる存在の世界をひたすら往復していた。僕が会いに行かなければ、拍子木君が僕に会いに来てくれる事は無い。それが無性に寂しい。
「会いたいなぁ」
時にそう、僕は呟いた。
さて、そんな僕の仕事が一段落したのが、一週間後、即ち今日である。
この人ならざる存在の世界には、基本的に天候は無い。ただ、時折、天候に関係のある物品を棄てた後、その歪みが強いと雨や雪、霙や霰が降る事はある。ゴミ山に棄てた後も、暫くの間歪み続ける物品は存在する。本日、僕が前に棄てたビニール傘の歪みが強くなっていた。結果として、しとしとと冷たい雨が降っている。
シルクハットを片手に取り、僕は濡れた緑の髪に触れた。シルクハットもじっとりと濡れてしまっていて、僕の髪はこめかみに張り付いている。俯けば、濡れた前髪が落ちてくる。燕尾服も下のシャツも、どんどん濡れていく。
全身が冷たくなっていったその時、不意にそばにあった飴色の扉が開いた。
僕が開けないのに、扉が開いた事は、過去には一度も無い。
だから驚いて目を丸くすると、煙草を銜えている拍子木君の姿が見えた。
彼は、深く煙を吸い込み、右手の中指と人差し指の間に煙草を挟んでから、煙を吐き出すと、気怠い色を浮かべた瞳を僕に向けた。
「入れ」
「え、あ」
「濡れ続ける事を望むんならそこにいろ」
「行く! 拍子木君、中に入れて」
愛する人に会えた事が嬉しくて、僕は思わず満面の笑みを浮かべた。
小走りに僕は、拍子木君の方へと向かう。
すると――不意に、飴色の扉に入った直後、抱きしめられた。そして拍子木君が、僕の耳元に口を寄せた。
「目を瞑れ」
「え?」
「早くしろ」
言われた通りにした僕は、直後、周囲の雰囲気が変わった事を理解した。気配が、いつもの部屋とは全然違ったからだ。いつもの白い空間には、温度というものが存在しない。しかし今、僕の瞼の外の空間は、どこか暖かい。
「もういいぞ」
その声に目を開くと、拍子木君が両腕から僕を解放した。無くなった温度は寂しいが、それよりも見知らぬ場所が気になって、僕はキョロキョロと周囲を見渡す。四方天井床が、白ではなく、スクリーンやモニターのようになっていた。中央にあるテーブルの表面もそれは同じだ。そのいずれもに、様々な光景が映っている。そして宙には、無数の薄型モニターが展開されていて、その大小それぞれの中には、いくつものウィンドウが展開されていて、そのいずれにも、風景や人物が映り、動いている。
「どうぞ」
そこへ拍子木君が、奥のチェストの上にあったポットとインスタントコーヒーの瓶で用意したカップを二つ運んできた。促されて僕は横長のソファに座す。隣には拍子木君が座った。そのコーヒーの水面にも、映像が見える。僕らが座るソファの表面だけが白色だ。
「拍子木君、ここは?」
「俺の家だ」
「!」
「室温をあげた。さっさと乾かせ」
拍子木君の家に来るなんて、初めての経験だ。ここ、が……愛する人の家なのか。そう考えて僕は、思わず両頬を持ち上げる。頷いて、僕はシルクハットをテーブルの上に置いてから、上着を脱いで、シャツ姿になった。
「拍子木君、ここにはベッドが無いけど、二階もあるの?」
「――別に寝る必要は無いからな。ただ、そういう『気分』の時は、このソファで寝てる。何も不自由は無い」
「このお部屋だけが、拍子木君の家?」
「ああ」
「じゃあ、僕は拍子木君の家の全部を知る事が出来たんだね」
それが無性に嬉しい。一人頷いた僕は、周囲の風景を見渡した後、改めて拍子木君を見た。
「この部屋の全ては、カメラが捉えた風景なんだね」
「ああ、その通りだ」
「拍子木君の体って、人型をしている所も、本当は全部カメラなんでしょう?」
「そうだ」
「髪も目も皮膚もその全てが、レンズなんだよね?」
「それが?」
「僕さ、拍子木君が見てる世界が見てみたいなぁと、ずっと思ってたんだ。この部屋は、その一部に数えられる?」
何気なく僕が尋ねた時、不意に僕を拍子木君が押し倒した。
「――見せてやろうか?」
「え?」
ソファの上に縫い付けられた時、周囲の風景が変化した。展開されていた風景が全て、ありとあらゆる角度からの、僕と拍子木君の姿に変化したのだ。僕の手首を握って、僕にのしかかっている拍子木君。上半身が裸の彼と、濡れたシャツ一枚の僕。
「ん、フ」
拍子木君が僕にキスをした。すると今度は、全ての映像が、僕達のキスの光景を映し出す。手際良く、拍子木君が、片手で僕のシャツのボタンを外していき、僕の乳首に吸い付いた。左手では僕の左の乳輪をなぞり、右胸の突起は唇で挟んで舌先でチロチロと嬲り始める。それだけで、僕の奥底がジンと疼いて、蜜が溢れ出す。周囲に甘い匂いが漂っていく。
「今、自分がどんな顔してるか分かるか?」
拍子木君が、どこかいつもよりも、意地悪に聞こえる声で言った。
僕はチラリと横側の壁の映像を見て、泣きたくなった。真っ赤な――赤いリンゴのごとく頬を染めた僕の上気した顔は、蕩けきっている。
いつだって僕の体は、拍子木君に触れられるだけで、グズグズになってしまうのだ。
羞恥に駆られて、思わず僕は、拍子木君の体を押し返そうとした。けれど拍子木君の力は強く、ピクリとも動かない。
拍子木君が僕に挿入したのは、それからすぐの事だった。僕は、映像を見る限り、デロデロに熔けた顔でそれを受け入れた。
「ああああああああああああ!」
蜜が溢れ出す僕の中を、果肉にナイフを入れるかのように、拍子木君が進んでくる。嬌声を上げた僕は、ギュッと目を閉じる。涙状の蜜が、僕の眦から零れていく。拍子木君がそれを舐めとった。
「甘い」
「……っ、あ」
「目を開けろ。そして、見ろよ。きちんと。今、誰にどうされて、どうなってるんだ、今際は」
「や、やだ」
「見ろ」
僕は好きな人の言葉には、逆らえない。だから涙が滲む目を開けて周囲の壁を見て――僕は目を見開いた。左手の壁には、相変わらず蕩け切った僕の顔が映っている。右手を見れば――蜜が溢れた、僕と拍子木君の結合部分が大きく映し出されていた。チラリと床を見れば、真っ赤に尖った僕の両方の乳首が映っている。キスマークがつけられた首や鎖骨も見える。だが、問題は、最初に目に入った天井だ。
「え、あ、嘘――や、やだ」
そこには、僕の体内が映し出されていたのだ。収縮する僕の中が、中に挿っている拍子木君の陰茎に、絡みつくように蠢いているのが分かる。まるで何かを搾り取るかのように、ギュウギュウと締め上げている。
「お前の中、俺の形になってんだろ?」
「あ、ああ、ン……っ、う、うあ」
その通りだった。満杯になっている僕の中は、ぴったりと拍子木君の形に馴染んでいる。僕が震えていると、意地悪く喉で笑った拍子木君が、突き上げてきた。最奥を貫かれた時、頭が真っ白になる。
「あ、あああ、そ、そこは――ん……ン――!」
「お前が一番好きな所、だろ?」
「あ、あ、あ」
「こうなってんだよ」
僕の中から蜜が溢れ出していく。僕の人で言う結腸に当たる部分を、何度も拍子木君が突き上げ始めた。
「うああああああああああああ!」
そのまま僕の体は、ガクンと跳ねた。人間で例えるならば、ドライオルガズムの波が、僕の全身を襲う。同時に、ギュッと僕の中が収縮したからなのか、それとも激しく打ち付けたからなのか、拍子木君が僕の中へと放った。すると僕の体内で蜜と白液が交じり合うのが、頭上の映像に映っていたが、強すぎる快楽で頭が真っ白の僕は何も考えられない。
「っ、ぁ……は」
肩で息をしながら、僕はぐったりとソファに沈む。チラリと横の壁を見れば、拍子木君が陰茎を引き抜いた所で、僕の内側からは、蜜と白液が混じりあったものが、ダラダラとこぼれ落ちていく所だった。ドロドロだ。羞恥と快楽の狭間に囚われてるような心地のまま、僕は意識を落とすように、そのまま眠り込んでしまったらしかった。
――次に目を覚ました時、僕は驚いた。
いつもであれば、隣に、拍子木君の姿は無い。だが、本日は僕を腕枕するようにして、ソファの上、僕の隣に拍子木君がいたのである。それを不思議に思っていると、更に珍しい事に、拍子木君が微笑した。僕は、拍子木君が笑った顔など、数えるほどしか見た事が無い。拍子木君を僕がぼんやりと見ていると、彼がその時、壁を見た。つられてそちらを見れば、そこには、僕の寝顔が映っていた……。
「こ、こんなの撮ってどうするの?」
僕の言葉に、今度は拍子木君が苦笑した。そして長めに瞬きをすると、各地のモニターの風景が変化した。いずれも、僕の寝顔や、時に笑顔が映っている。いずれも、僕と拍子木君の情事後や、情事前の僕が愛を囁いている風景だ。僕は、驚いて目を丸くした。
「拍子木君、こ、これ……?」
「いつも――……本当は、お前が綺麗だと思ってて沢山、撮ってたんだ」
「え、それってどういう意味……?」
反射的に僕は問いかけた。胸がドクンドクンと煩い。だが、拍子木君は何も答えず、更には僕の言葉を封じるかのように、僕にキスをした。触れるだけのキスだった。
拍子木君は僕の言葉を封じるようにキスをしたのだ。
だから僕は何も聞けなくなって、この日はそのまま帰宅した。
――それから数日の間。
相変わらず仕事が忙しかったから、僕は拍子木君の所に行く事が叶わなかった。だからその間中、ずっと考えていた。
「拍子木君の言葉って、どういう意味だったんだろ……」
悩んでも答えが出ない。だから僕は、友人の意見が聞きたくなって、この日、一段落ついたから、物紡ぎの元へと向かった。物紡ぎは、僕の顔を見ると楽しそうに吹き出した。
「恋に悩むって素敵だねぇ」
「僕は真剣なんだけど。どう思う? 拍子木君は、何が言いたかったのかな?」
「さぁねぇ。本人に直接聞いてみたら?」
物紡ぎは、いつも僕の背中を押してくれる。だから僕は笑顔を浮かべた。確かにそれが、最良だろう。思わず笑みを浮かべて頷いてから、僕はその足で、拍子木君の元に向かう事にした。
拍子木君は、普段と同じように、塵芥の街の扉の先で、椅子に座りスクラップの山を眺めていた。
「カチンコ!」
「……」
「ひょ、拍子木君!」
「……なんだ?」
「あ、あのね、今、物紡ぎの所に行ってきたんだけどさ」
笑顔で僕は、努めて明るい声で述べた。すると拍子木君が、僕へと振り返った。その表情は――あからさまに不機嫌そうだった。なんだろう? 前も物紡ぎの所に行った直後、こういう顔をしていたけれど、もしかして拍子木君は、物紡ぎの事が嫌いなのだろうか?
物紡ぎは僕の友達だから、険悪な仲にはなってほしくない。
……ちょっと、物紡ぎの長所を伝えてみようか。
我ながらそれは良い案に思えた。
「物紡ぎって、本当に友達思いっていうか、僕の事を、真剣に考えてくれるんだよ!」
「……」
「物紡ぎみたいに性格が良い人、中々いないよ! 本当に優しいし」
まぁ、僕の中では、拍子木君ほど性格が良い人がいないというのが本音で、僕にとっては拍子木君が一番優しいのだけれど。僕はその後も、物紡ぎを褒め続けた。すると……何故なのか、どんどん拍子木君が不機嫌そうな顔になっていった。眉間に皺を刻んで、睨むように僕を見ている。あれ? どうしたんだろう? 僕は笑顔を浮かべたままだったが、思わず首を傾げた。すると、直後目を細めた拍子木君が言った。
「お前は俺が好きなんだよな?」
それを聞いて、いきなりだったから、僕は思わず照れた。その通りだ。
「――物紡ぎじゃなくて?」
「え?」
最初、何を言われたのか分からなくて、僕はきょとんとした。拍子木君は、どこか暗い瞳をしている。ただ口元には、幾ばくか残忍そうな笑みが浮かんでいた。怒っている顔だ。いつも無表情で気怠い顔だから、怒っている顔も、その上での笑顔も珍しい。
「今際。お前、いっつも物紡ぎの話するよな」
「? 共通の知り合いが他にはいないし……それが?」
「俺と物紡ぎのどっちが好きなんだ?」
「へ? え、どっちも好きだけど」
無論、恋愛対象は、拍子木君だけだ。だが、友人としては物紡ぎは特別だ。親友と言っても良いだろう。
「――俺だけを好きになれ、俺だけを見ろ、俺だけを映せ、それ以外許さない」
すると拍子木君が、非常に不愉快そうな顔でそう述べた。
僕は目を見開き、その声を咀嚼する事に努める。
「お前は俺を大好きだと言うが、俺の方が愛してる」
「!」
「嫉妬で気が狂いそうなほどにな」
僕は思わず赤面した。本当にこれじゃあ、まるで赤リンゴみたいだと思う。
「お前の全部が欲しい、全部見せろ」
「全部って――」
「いつも隠してるアームウオーマーと手袋、取れよ」
「え、え?」
「俺はお前の本質を知らない。今際は、俺にはどんな物品だったのかを、一度も教えてくれないからな。物紡ぎは知ってるというのに――それにすら嫉妬してる」
立ち上がった拍子木君が、僕の手を取った。率直に言って、嬉しい。僕は握られた手首を見て、小さく頷いた。頬が熱い。
頷き、僕は言われた通りにした。僕の左腕は、木の枝だ。右手は木の根が五本の指を形作っている。
「お前は樹木なのか? それにしては、甘いな」
「樹木に実るモノだよ」
「噛むと蜜が出る、甘い――果実か」
「正解。僕は嘗て、生命の果実と呼ばれた事もあるよ。知恵の果実が赤いリンゴで、僕は――……うん。似て異なるモノとして、潰されかけたその時に、この世界に生じたんだ」
「抽象的だな。お前は、一体何なんだ?」
「青リンゴ」
僕の答えに、満足そうに頷いた拍子木君は、それから両腕で僕を抱きしめた。僕の肩に、彼の顎がのる。
「今際」
「何?」
「愛してる」
「っ、あ、僕も――」
「お前が本当に俺を好きなら、俺の恋人になってくれるんだろうな?」
耳元で囁かれた僕は、本質が青リンゴだというのに、やはり赤いリンゴさながらに真っ赤になりながら、小さく頷いた。
「言葉にしろ」
「な、なる! 僕は拍子木君が好きだし、恋人になりたい! なる!」
すると、僕の肩に手を置き、じっと拍子木君が僕を見た。そして不意に、柔和な笑みを浮かべた。不意打ちの笑顔に、僕は目を見開く。あんまりにも綺麗だった。胸がドクンドクンと煩くなる。拍子木君の笑顔自体が貴重なのだけれども、今回見た柔らかな笑顔を、僕はずっと忘れないだろう。
◆◆◆
僕達が恋人同士になり、それから暫くの時が流れた。この世界には、正確には時など無いから、あくまで人間の世界を基準にした場合なのだが。
「なぁ今際」
「ん? どうかした?」
「物紡ぎに会いに行こう」
本日、非常に珍しい事を拍子木君が言った。仲が悪いわけじゃなかったのかと考えながら、僕は静かに頷いた。こうして二人で出かける事になった。
物紡ぎが常駐しているカフェに到着した時、扉を開ける直前、不意に拍子木君が僕の肩を抱き寄せた。驚いて目を丸くした僕には構わず、拍子木君がカフェの扉を開けた。
中へと入ると、物紡ぎがすぐに顔を上げて、僕達をチラリと見た。
そして――半眼になった。
「誓って僕は今際に恋愛感情を持っていなかったから、巻き込まないで欲しい限りなんだけどね――まぁ、なんというか、長い両片想いが終わって何よりだよ」
それを聞いて、僕は驚いた。
両片想い……? 拍子木君も、僕の事を好きだったという理解で良いのだろうか?
「ただ今際は気づいてないけど、嫉妬心も執着心も――愛情も、拍子木君の方が強いみたいだから、頑張ってね」
物紡ぎの声を聞いて、僕は嬉しくなって両頬を持ち上げた。物紡ぎの言葉が事実ならば、とても嬉しい。
「応援してるよ」
物紡ぎがそう述べた時、不意に拍子木君が、僕を抱きしめた。
ビクリとして、僕は彼の腕に手で触れる。人前で、こんな風にされたのは、初めての事だった。そのまま拍子木君は、僕の額にキスをした。このように甘い行いをする拍子木君にびっくりしっぱなしだし、ポカンとしてしまう。
「溺愛するのは自由だけど、よそでやって。二人きりで。僕、これでも忙しいんだよ」
そう言うと物紡ぎが、僕達を見て吹き出した。溺愛という言葉が気恥ずかしくて、僕は拍子木君の厚い胸板に額を押し付けて、赤面している顔を隠す事に決める。そんな僕の髪を、暫しの間、拍子木君は撫でていた。本当に、甘く、優しい。
――このようにして、カメラな彼と、青リンゴな僕の恋は、実を結んだのである。
【完】
拍子木君と恋人同士になって、人の世界でいう所の一ヶ月が経過した。人間の世界には四季などがあるようだが、この塵芥の街やその周囲には、あまり無い。ある場所もある。例えば、物紡ぎが『四季がある』と定めた場所には、桜が舞う事もある。
「今日は何処に行く?」
拍子木君と繋いだ手に、ギュッと力を込める。恋人繋ぎだ。何せ僕らは、恋人なのだから! 明確に恋人同士になってから、僕達は様々な場所に行くようになった。この人ならざる存在の世界の中においてではあるけれど、こちらにも沢山の場所がある。
「お前の家に行きたい」
「え?」
「まだ、一度も今際の家に行ってないからな」
そう言った拍子木君は立ち止まると、僕の腕を引いた。よろけた僕は、彼の腕の中に収まる。頬が熱くなってくるから困る。最近の拍子木君は、ちょっと僕に甘すぎると思う。顎を掴まれ、深々とキスをされる。その感覚に浸りながら、僕は目を閉じた。睫毛が震えたのが自分でも分かる。
ああ、死にそうだ。拍子木君が好きすぎて死にそうだ。
屈んで僕にキスをしている彼に、僕は腕を回した。そして少しだけ背伸びをする。拍子木君がそばにいてくれるのならば、僕は何処に行くんだって構わない。
「行こう!」
唇同士が離れてから、僕は両頬を持ち上げた。胸が温かさで満ちている。それから、手を繋いで二人、暫く歩いた。僕の家は、塵芥の街を出て、紙片の街を抜けた先――原初(ハジマリ)の街に存在する。
そこに住んでいるのは、僕だけだ。人間の世界の物品から見たら『死神』に等しいのだろう僕だけど、嘗ては生命の果実と呼ばれた事もある程度には、最初から生きている。生もまた与える存在だったはずなんだ。そうでなくなったのは、あるいは『歪(ゆが)み』の結果なのかもしれないけれど、幸い自我は保っている。だからこうして、拍子木君と恋だって出来る。僕には、拍子木君しかいない。
白い一軒家。
その前に立ち、僕は拍子木君に振り返った。
「ここが僕の家だよ」
「へぇ」
「ど、どうぞ!」
幾ばくか緊張しながら、僕は拍子木君を家の中へと促した。そしてフレーバーティを用意して、ソファに座している彼と、対面する席に座る予定の自分のカップを置く。そしてトレーを片付けてから、腰を下ろして、拍子木君と視線を合わせた。
「言われてみれば、本当に青リンゴだな」
「そう?」
「ああ。良い匂いがする。このお茶も、家も、それにお前も」
拍子木君はそう言うと、柔らかな表情になった。微笑している彼を見たら、僕の胸が疼いた。物紡ぎは拍子木君の方が、愛が重いみたいな話をしていたけれど、とてもそうとは思わない。僕の方が、僕こそが、拍子木君を想ってる!
「嬉しそうな顔をするんだな」
「嬉しいからね」
「何を考えていたんだ?」
「物紡ぎの事」
僕はありのままに答えた。すると一気に拍子木君の目が据わり、表情が消え、顔が怖くなった。どうやら僕は、失言をしたらしい。
「お前な。俺を好きなら、俺の事だけを考えてろよ」
「え? それは常に考えてるよ? 違うよ、物紡ぎが話していた拍子木君についての事柄を思い出していて――」
「なんて?」
「愛が重いって。絶対に、僕の方が、愛が重いよね?」
「――ま、許す。及第点の回答だった。そうだな、今際。俺をきちんと愛せ」
「これ以上? 無理だよ。限界まで僕は、君が好きなんだからね」
喉で笑ってからそう告げて、僕はカップを傾けた。そんな僕を、拍子木君はじっと見ていた。そして、カップを置いた彼は、徐(おもむろ)に立ち上がると、僕の方へと歩み寄ってきた。
「拍子木君?」
「分かってないな、お前は」
「え?」
「俺の方が、全身全霊で今際を愛してる」
それを聞きながら、カップを置く。瞬時に赤面した僕は、すぐに両手で顔を覆った。卑怯だ、ずるい、甘い言葉をはく拍子木君なんて犯罪級に格好良すぎる!
「今際」
「……ん」
名前を呼ばれて目を開けると、掠め取るようにキスをされた。それから視線を合わせると、深い口づけが降ってきた。舌を追い詰められて、絡め取られて、僕は幸福感に飲まれていく。ああ、本当に拍子木君の事が好きすぎる。
「っ、ぁ……」
「ちゃんと俺の事だけを考えるようになれよ。覚えろ」
「う、ん。うん。そんな……言われなくてもずっと……ァ」
首を縦に動かした直後、再び顎を掴まれて深々と唇を貪られる。口腔を蹂躙する拍子木君の舌の温度が、僕は嫌いじゃない。拍子木君に、嫌いな所なんて、一個も無い。
――僕らの新たなる関係は、まだ始まったばかりだ。だから、この世界では貴重な春夏秋冬といった季節の風景も、もっと短い単位の一日一日も、一分一秒も、きっと新しい経験で満ち溢れていると思うのだけれど、僕はずっと拍子木君の隣でその景色を見ていたい。
悩める時、病める時、泣きたい時、その全部を。
楽しい時、嬉しい時、笑った瞬間、その全部も。
僕は拍子木君と一緒に見ていたい。共に過ごしたい。
漸く唇同士が離れた瞬間、僕は瞳を濡らして、拍子木君を見た。
「大好き」
「おう。信じるからな。俺も……お前が好きだ。愛してる」
これは――僕達の、新たなる、そしてずっと続いていく日常の一コマである。
人間でないといえど、僕は、愛は必要だと思う、生きる上で。寧ろ、他には何もいらないくらいだ。僕は、拍子木君からの愛情さえあれば、それで良い。
「だからこそ、俺以外を見たら許さない」
「大丈夫。僕には拍子木君しかいないから」
そんなやりとりをし、改めてキスをして、この夜は僕の家で交わった。
尋常ではない幸福。僕はそれを知り、今とても幸せである。ああ、僕は生きている。
(終)