塩評判は当てにならない。
僕のお祖父ちゃんが腰を痛めたのは、吹雪が冷たい二月の事だった。
「悪いのう、ジル。代わりに、家賃を貰いに行ってきてくれ……」
「良いよ。そんなのは全然良いから! だから寝て!」
お祖父ちゃんの腰に、魔法薬をたっぷり染み込ませてある湿布を貼ってから、僕は告げた。僕の言葉を聞くと、素直にお祖父ちゃんは横になった。
僕の祖父のフリッツ・ベッケルトはいくつかの借家の大家さんをしている。
一方の僕は、次の五月に王立騎士団の魔術師団の採用試験を受けるまで、暇だ。昨年の十月には世間一般の平均と同様に王都魔術学院を卒業し、一月に王国認定魔術師試験を受けて合格した。そして残りの四ヶ月は、騎士団の何処へ配属希望をするかなどの猶予とされているが、暇だ。今年で二十三歳、ごくごく平凡な小市民である。
「ジル、頼んだぞ」
「分かったから! 兎に角無理をしないようにね!」
お祖父ちゃんに念押ししてから、僕は家賃の回収に向かう事に決めた。
――以後、三日かけて、僕はお祖父ちゃんの代理として各地に足を運ぶ事になった。
長屋から一軒家まで様々な借家があったが、地図と居住者の名簿を貰っていたので、順調に回収は進んだ。外套を着こんでいる僕は、雪を踏みしめつつ、一番最後とした、王都郊外の邸宅の前に立った。
実際には、一番早く、朝にも訪れたのが不在だった為、星が輝き始めた現在、出直した次第である。週休二日制のこの王国で、本日は日曜日であるし、既に時刻は八時である上、邸宅には灯りが点いている。不在とは考え難い。だがこの邸宅の人間は、昨日の日中も不在であったから、迷惑かもしれないとも思ったが、ちょっと遅い時間に声をかけさせてもらう事に決めた。
「すみませーん!」
呼び鈴を何度鳴らしてみても、応答がない。輪っか状のドアの金具を握り、僕は豪快に声をかけた。
「あのー! すみませーん! 夜分遅く申し訳ありませーん! どなたかー!」
その後は直接ノックを繰り返した。手袋ははめているものの、指先が冷たくなってきた。そのまま――十五分。僕は粘って、声をかけ続けた。例えば、入浴中だとか、トイレに入っているとか、そういう事も検討したのだが……最終的に不安になってきた。
「もしかして倒れていたりしますか? 大丈夫ですか? ど、どうしよう? 騎士団に連絡した方が良いのかなぁ」
ブツブツと僕が呟いた、まさにその時。
静かに扉が開いた。真正面にいた僕は激突しそうになり、慌てて後退ったが、扉自体がゆっくり開いた為、それは何とか免れた。
「何か?」
出てきたのは、上質な黒衣を纏った、長身の青年だった。艶やかな髪と瞳も同色で、夜色をしている。随分と端正な顔立ちをしていたが、眼光鋭く冷ややかな色を目に浮かべているせいか、どこか独特の威圧感がある。
「あ、おられましたか! ロベルト・シュヴァーベンさんですか? 家賃の回収に参りました!」
「確かに俺はロベルトだが……大家は、ベッケルト氏のはずだが?」
「僕はそのフリッツ・ベッケルトの孫で、ジル・ベッケルトと言います。実は、祖父が腰を痛めてしまって――これ、委任状です!」
怪訝そうな青年に対し、僕は詐欺ではないぞと証明するべく、証書を見せた。すると小さく息を呑んでから、何度か青年が頷いた。
「失礼した。すぐに用意する。待っていてくれ」
「はーい!」
踵を返した青年を見送り、待つこと五分。
戻ってきた主の青年は、家賃の金貨が入った麻袋と、それとは別にカゴに入った雪苺という果物を僕に渡してきた。
「家賃、確かに。ええと、こちらは?」
「ベッケルト氏への見舞いの品だ。渡してほしい。それと――何度か来てもらったようなのに、押し売りや詐欺師かと誤解し、ドアを開けなかった詫びの品だ」
「全然お気になさらないで下さい! ただ、お気持ち、本当に有難うございます」
僕は雪苺が大好物なので、嬉しくなって両頬を持ち上げた。青年は表情を変えるでもなく、ただじっと僕を見ていた。
「多分、来月も僕が来るので、宜しくお願いします!」
「……そうか。覚えておく」
「有難うございます。それでは、失礼します!」
一礼し、僕は受け取ったものを手に、その場を後にした。
これで今月の家賃の回収は全て完了だ。僕は祖父の元へと戻り、雪苺のカゴを渡して、その事を報告した。するとお祖父ちゃんが目元の皴を更に深くした。
「ロベルト様は好青年だったじゃろう? 一見冷たいが、そうか、見舞いの品か。相変わらず、気を遣って下さる」
「そうだね。この雪苺、すごく美味しいね!」
二人で雪苺を食べながら、僕達はその日を終えた。
――この王国の人間は、基本的に、全員が魔力を持っている。なので、魔術師は全然珍しくない。一方の、剣や槍、斧の使い手というのは、訓練やある種の才能も必要だとされ、尊敬されているし、地位も高い。
なお世界は平和であり、大陸内部で、人間同士の戦争などもう三百年は発生していない。王立騎士団が討伐する相手というのは、基本的に魔獣であるし、活躍する場はそういった魔獣や自然災害への対応となる。
僕が採用試験を受けようと考えているのは、王立騎士団の中の、第五騎士団である。第五騎士団は、魔術師のみが所属する。主に裏方任務が多くて、華々しく魔獣討伐をする第一から第三の騎士団や、王都の警備専門の第四騎士団、国境沿いの警備をする第五騎士団、災害対応の専門家の集まりである第六から第八騎士団の全てに対して、人手が足りない時は助っ人として向かうが、平時は一番規律が緩い事で評判の――何でも屋的な存在が、第五騎士団だと聞いている。
一ヶ月の間に、僕は一度だけ職場見学に向かい、その場で第五騎士団のロルフ団長に、直接そのように聞いてきた。曰く――『一番楽だぞ!』との事だった。その言葉に惹かれ、僕はその場で履歴書を提出してきた。なんでも『第一騎士団のシュヴァーベン団長なんて鬼だからな? 俺のように優しい団長がいる騎士団は最高だぞ?』と、自分でいうタイプで、ロルフ団長は明るそうな人物だった。シュヴァーベンという名はどこかで聞いたなと思ったものの、まぁ第一騎士団は有名だし、新聞で見かけたのかなぁと漠然と思った。
このようにして一ヶ月が過ぎ、三月末が訪れた。
お祖父ちゃんの腰はだいぶ良くなってきたようではあったが、長く歩くのはまだ辛い様子であるし、僕が今月も家賃の回収を代行する事になった。今回は手紙が届いていて、ロベルトさんは仕事の都合で、月末の十五時頃が良いと事前に申告してくれた為、助かった。
お見舞い品のお礼というのも変かもしれないが、僕は冬梨という果物を用意した。お祖父ちゃんも、持って行けと言って笑っていた。
「こんにちはー! 家賃の回収に参りましたー!」
指定された日時に僕が邸宅に向かうと、前回同様青年が顔を出した。今度はすぐに出てきた。僕を見ると、細く長く吐息してから、彼は麻袋を取り出した。
「確かに。それとこれ、雪苺のお礼です。それと祖父もお礼を伝えて欲しいとの事でした! 本当に有難うございました!」
僕がカゴを渡すと、青年が緩慢に瞬きをしてから、唇の片端をごく小さく持ち上げた。
「こちらこそ礼を言う。逆に気を遣わせてしまったようだな」
「いえいえ! それでは、失礼します」
「ああ――っ、く」
その時、不意にロベルトさんが、右手で左の二の腕を押さえた。辛そうに吐息したのを見て、帰ろうとしていた僕は、目を丸くした。
「どうかなさったんですか?」
「少し、仕事でミスをしてしまってな」
「え?」
「この程度問題は無い」
「だ、大丈夫ですか? お怪我ですか?」
「ああ、どうという事は無い切り傷なんだが……」
「痛み止めの魔法薬、医療院から貰ってきます?」
咄嗟に僕が提案すると、思案するような瞳をした後、ロベルトさんがじっと僕を見た。
「頼めるか? 丁度、魔法薬が切れてしまったんだ」
「ええ。待っていて下さいね!」
こうして僕は、急いで王都の医療院へと向かい、市販の魔法薬を購入した。そうして戻ると、ロベルトさんが僕に言った。
「有難う」
「いえいえ! お大事に! 困った事があれば、いつでもご連絡下さい。それが、大家の仕事でもありますから!」
「――そうか、仕事か。助かる」
「いえいえ。それでは、また!」
僕は元気にそう告げ、その場を後にした。こうして、三月末も、無事に家賃を回収した。
だが、怪我というのは、やはり気になる。
そこで、魔法薬の瓶が空になると考えられる三日後に、一応訪ねてみる事に決めた。切り傷ができる仕事という事は、刃物を扱う職人さんか何かなのだろうかと考えつつ、お見舞い用にクリームスープと、念のため魔法薬を持参した。
「こんにちはー!」
そして邸宅の前に立ち、声をかけてから呼び鈴を鳴らした。
不在だろうかと考えながら、僕はまだ庭に残っている雪を見る。だが、今月中にはすべて消えるだろう。この王国は雪が深いのだが、だからこそ一瞬の春がより際立って美しい。
「――君は……」
「あ、ロベルトさん! お怪我は大丈夫ですか? これ、念のための魔法薬と、あとはお見舞いのスープです」
僕が持参した品を一瞥してから顔をあげると、ロベルトさんが目を瞠った。それから、ちょっと目を惹く柔和な笑みを浮かべた。
「有難う。上がってくれ」
「いえ、そこまでは! 大丈夫かなぁって思って見に来ただけなので」
「仕事、か?」
「まぁ、そうですね。祖父の代わりに、頑張ります」
「そうか」
「お大事にして下さいね!」
笑顔で告げてから、僕は見舞いの品を渡した。すると優しい眼差しに代わったロベルトさんが、受け取ってから、僕に言った。
「ああ。もうほとんど俺も癒えているんだ。だが、心配した周囲が、完全に傷が塞がるまで休めと煩くてな」
「僕も休んだ方がいいと思うけどなぁ」
「しかし常日頃多忙だと、不意の休みが暇でならない」
「あ、それはすっごく分かります」
「だから、少し話し相手になってくれないか? これは――仕事として、ではなく。ただの俺個人の願いだ」
「僕で良ければ、いくらでも! そういう事なら、お邪魔します」
採用試験やその結果が分かって働き始めるまで暇なのは、僕も同じだ。こうしてこの日、僕は初めて邸宅の中へと入った。まずはスープが入った鍋を厨房に置かせてもらった後、案内された応接間で向かい合ってソファに座った。
「ジル、だったか?」
「はい」
「君は、何歳だ?」
「二十三歳です。ロベルトさんは?」
「敬語でなくて構わないし、『さん』も不要だ。俺は、二十七歳だ」
「意外とフランク! 僕より四歳年上ですね」
僕が両頬を持ち上げると、ロベルトが喉で笑った。
この日は、その後夕食時になるまで、二人でずっと雑談をしていた。
「明日も来てくれるか?」
「僕で良ければ喜んで」
丁度暇をしているのは同じなので、親近感を抱いてしまったし、ロベルトの話は面白かった。こうして、以降僕は、ロベルトの家に日参して、雑談をするようになった。
毎日、沢山の事を話した。趣味や、好きな料理、嫌いな食べ物、動物について。専ら僕が話す事が多くて、ロベルトは質問を投げた後、笑顔で話を聞いてくれた。その内に、一ヶ月があっという間に経過し、四月末が訪れた。
「ロベルト、今日は家賃の日だよ」
「ああ、そうだったな」
「僕が家賃を受け取るのも、今日が最後かぁ」
何気なく呟くと、ロベルトが驚いたような顔をした。
「最後? どういう意味だ?」
「うん? ああ、お祖父ちゃんももう全快したから、今月からは自分で家賃を貰う仕事を半分は再開してるんだ」
「……それは喜ばしいが、この邸宅はジルの管轄外となるという事か?」
「ううん。僕も来月からは、別の仕事をする予定だしね」
「――ジルは、フリッツさんの跡を継いで、大家をするのかと思っていた。そうか……」「ロベルトも、来月から仕事に復帰すると話していたよね?」
「ああ……」
「そうなると、これからは会えないね。でも! お休みの日とか、タイミングがあったら、また話そうね!」
別れは寂しいが、いつまでも暇というのも困るものだ。それに僕らは、もう良い友人になったと思うので、会おうと思えば会えるはずだ。
「約束だ。必ず会おう。休日は、全部会いたいほどだ」
「大げさだなぁ。うん、約束しよ!」
「ところで、ジルは来月採用試験とすると、仕事は騎士団か?」
「うん」
「どの騎士団の試験を受けるんだ?」
「第五騎士団だよ」
「そうか」
頷いたロベルトは、それからそっと僕の頬に触れた。
「ジルならば、きっと大丈夫だと信じている。だが、無理はしないようにな」
「有難う」
こうして、その後家賃を受け取り、僕はロベルトの家を後にした。
ただ正直、あんなにも外見が端正で性格も良く、優しいロベルトと、平凡を絵にかいたような僕では、それこそ暇という共通点が消失したら、今後人生で交わる事は無いようにも感じていた。寂しいが、仕方のない事である。実は最近の僕は、このまま一緒にいたらロベルトに惚れてしまいそうで怖いというのもあったので、その部分では少し安堵もしていた。優しいロベルトのそばにいて、惚れない人なんて、絶対いないと僕は思う。だが、フラれたらもう友人としてすら話せなくなってしまうので、それが怖かったし、きっとこういう終わりで良いのだろう。
「そういえば、結局ロベルトの仕事の話って一回も聞かなかったなぁ。怪我をしたみたいだったから、職人さんかなとは思ったけど、あんまり聞いても悪いかなって思って忘れてたんだった……次に、またもし本当に会えたら、聞いてみようかな?」
そんな事を一人呟きながら、僕は帰宅した。
そして祖父に家賃の入った麻袋を渡してから、この夜はじっくりと眠った。
その数日後に受けた採用試験の結果は無事に合格――僕が、五月の半ばから、第五騎士団の一員となる事が決まったのだった。
「新人騎士の諸君! まぁ、あんまり気合いを入れすぎずにファイトだ」
第五騎士団勤務の初日、全体挨拶でロルフ団長が笑顔で拳を握った。
僕も含めて今回入団したのは三名との事だった。多くの魔術師は、華々しい第一から第三や、その他に落ちてから、第五騎士団の採用試験を受けなおすらしい。最初から第五騎士団を希望する者というのは、実はそこまで多くはないそうだった。
「知らなかったです」
休憩時間に僕が述べると、ロルフ団長が良い笑顔を浮かべた。
「いやほら、ジル。お前みたいな平凡な感じって、本当にうちの騎士団にあってると思ってさ。つい勧誘に熱が入っちゃってな」
自他共に認める平凡である僕は、曖昧に笑うにとどめた。
こうして始まった第五騎士団の仕事であるが、平素はお茶を飲んでいるだけの、本当に気が楽な騎士団だった。鍛錬は、基本的には、「いかにうまくお茶を淹れて出すか」という内容であるからして、お茶を飲んでいて許されるのである。後方支援組の実態は、僕にとっては最良だった。
「そういえば、第一騎士団は、今月の頭から魔獣討伐に出てたんだが、明日帰還するそうだ」
ロルフ団長がお茶を飲みながら、僕を含めた新人魔術師三人に語った。そちらに同行した第五騎士団の先輩との挨拶や、一応各騎士団の団長には挨拶をする決まりがある為、都合の良い日取りに顔合わせがあると聞いた。
「第一騎士団の団長は、実力はあるが、氷のように冷たくて、基本的に怖い。が、根は良い奴だ。頼りになるし、冷静だ。王立騎士団総団長の後任は、あいつしかいないだろうと噂されてるが――実際そうなると俺も思う。本当、強いしな。剣士なんだが。あと基本的には塩対応派なんだが、まぁ……うちの騎士団が関わる事はあんまりないだろうな。俺、魔術学院に進学する前の、義務学院で同窓だったんだが、名前が似てるから、出席番号のせいでいつも前後の席でなぁ……しいていうなら、俺は怖がらずに奴と喋るタイプ。あいつも怒ってるように見えて、本気で怒ってる事は基本的には少ないな」
つらつらとロルフ団長が教えてくれるのを、新人組の僕達は興味深く聞いていた。
その二日後、僕達は初めて会う第五騎士団から出向していた先輩魔術師達に挨拶をした。みんな良い人々だった。第一騎士団の団長とは、金曜日の昼間に挨拶をし、そしてそのままその夜、祝勝会が催されると聞いた。当日まで、みんなソワソワしながらお茶を飲んでいた。もうすぐ、六月が訪れる。梅雨の季節だ。月末が近づいてくると、僕は家賃の事が気になるようになってしまっていたが――結局、何の仕事をしているかも聞いていなかったし、ロベルトの休暇日を僕は知らないと思い出して、ちょっと寂しくなった。お祖父ちゃんに後で聞いてみようかな? 何か知っているかもしれない、と、そんな事を考えながら、僕は金曜日の朝を迎えた。
第五騎士団の正装であるローブを羽織って、首元のリボンに魔法石がはまった留め具をつける。こうして、本日も、僕は王宮へと向かった。
時刻は、朝九時半。その後、五分ほど朝礼があってから、僕達は十時に訪れるという第一騎士団の団長の姿を待った。シュヴァーベン団長というらしいが、ロベルトと同じだなぁと僕はやっと気づいた。
「あ、来たみたいだな」
皆が緊張した面持ちで、当然僕もドキドキしながら、氷の騎士団長と名高い人物の来訪を待っていると、一人だけいつもと変わらない気怠そうだが明るい声音でロルフ団長が言った。その視線を追いかけると、扉が開き、そして――。
「!」
僕は目を見開いた。
副官を伴い入ってきたシュヴァーベン団長であるが、どう見ても、ロベルトである。あの端正な顔を見間違えるはずはない。しかし、僕に対しては非常に明るくて優しい友人であり、噂に聞いていた性格とは著しく違う印象しか、僕の中には無い。だが、何処からどう見ても、凍てつくような鋭い眼差しで入ってきて室内を見回したのは、ロベルトだった。
目が合う。
瞬間、ロベルトがふんわりと微笑んだ。一気に僕の肩から力が抜けた。僕が良く知るロベルトの表情はこちらだ。
「会いたかったぞ、ジル」
「ぼ、僕も……え? ロベルトが、シュヴァーベン団長なの?」
思わず聞くと、隣からロルフ団長に軽く頭を叩かれた。
「口調に気を付けるように」
「君こそ、俺のジルに気やすく触るな」
すると直後、歩み寄ってきたロベルトが僕を両腕で抱きしめた。僕の認識だと、何かとロベルトは僕を抱きしめるのが好きな人ではあったが、僕は幼子では無いため、若干気恥ずかしい。
「お前の? いいや? ジルは第五騎士団の新人だから、俺の部下だぞ? どういう事だ? というか、ロベルト。お前、顔が緩んでたし、何を……さらっと抱きしめてるんだ? え? ま、まさかとは思うが、何やら知り合いらしいが、あー、そのー、え? どういう関係だ?」
ロルフ団長が引きつった笑みを浮かべている。そちらを見るロベルトの眼差しは、非常に冷たく険しく、室温が下がったような錯覚に陥るほどであり、僕は梅雨に近づいていたはずが冬に逆戻りしたかのような気分になった。
「ジルと俺は、プライベートで非常に親しい間柄だ」
きっぱりと冷淡な声音で、ロベルトが断言した。僕が嘗て耳にした事の無いような声音だった。ま、まぁ、僕達は親しい友人なので、間違いではないが、ちょっと語弊がある気もした。その予想は当たっていた。
「え? なんだよ、ロベルト。お前、ジルとデキてたのか? 言えよ! 俺達親友だろ!」
そこにロルフ団長が、さらりと魔術でティーポットとカップを宙に浮かべて、美味しいお茶を淹れてくれた。さりげなく座るように促された。すると最後にギュッと再び僕を抱きしめる腕に力を込めてから、ロベルトが僕を解放してくれた。
「出会いは?」
満面の笑み?に変わったロルフ団長の前に、ロベルトが座った。
「あ、ジルも座ってくれ」
「え? ぼ、僕はご挨拶する側の新人で――」
「いやいやいやいやいや、こんな面白い話を聞かないでどうするっていうんだよ?」
「へ?」
「恋愛のレの字も無かったお堅いロベルト・シュヴァーベン団長の恋バナ! 聞かずしてどうする。なぁ、みんな?」
その言葉に、室内にいた雑談大好きの第五騎士団のメンバーはみんな頷いた。なんと、ロベルトの副官である第一騎士団の騎士まで頷いて、目を輝かせている。僕だけが気まずさを覚えている状態となった。
「許しも出たし、座ると良い」
ロベルトが僕を見て柔和に微笑んだ。僕にだけ笑顔だ……。
「それで? うん? いつから付き合ってるんだ?」
「あの……ぼ、僕とロベルト……シュヴァーベン団長は、そ、その……」
恋人ではない。友人だ。そう、僕は伝えようとした。すると肩を抱き寄せられて、ロベルトに耳元で囁かれた。
「好きだぞ、ジル」
「!」
「明日は休暇だろう? 俺も久しぶりの休暇だ。朝から来てくれるのを家で待っているぞ」
僕は硬直した。『好き』だと、この言葉……これは実際、雑談時にも度々言われたが――友人としてでは、無かったのだろうか? 僕は大混乱後、ボッと顔から火を噴きそうになった。頬が熱い。
「今、口説き落としている最中なんだ。水を差さないでくれ、ロルフ」
そんな僕をよそに、ロベルトが双眸を細くして、ロルフ団長を睨んだ。するとやはり室内は凍り付く。しかしロルフ団長は慣れているのか、気にしていない様子だ。
「まさかの、ロベルト側の片想いという衝撃的展開に、俺は唖然だよ」
「悪いか?」
「いや、別に? 恋は恋だからな。いくら顔良し・頭良し・地位有り・実力有り・家柄良しのロベルトであっても、フラれる事はあるだろうしな。相手が、ド平凡を絵にかいたような第五騎士団の魔術師相手であっても、ジルにも選ぶ権利は存在する」
「ジルは俺にとっては平凡なんかじゃない。いいか、ジルがいかに優しくて愛らしくて――」
ロベルトが語り始めた。氷のようだった表情は再び融解し、俺を見て頬を染め、うっとりとしながら、語りに語るロベルトに、僕は真っ赤になってしまった。周囲は明らかに呆れている……。
「痘痕も靨とはよく言うしな」
「とにかく、ジルの全てが愛おしいんだ。もう俺は、ジルがいなければ生きてはいけない」
「ロベルトの口から惚気……いやぁ、人間って奥が深いなぁ」
ロルフ団長が吹き出すのを堪えている様子で、頬をピクピクさせながら笑っている。
「そういう事だから、ロルフ。くれぐれもジルに変な虫がつかないように見ておいてくれ」
「任せろ。ま、お前に肩を抱かれてプルプルしているうちの魔術師くんは、どうやら脈があるようだし、あとは自力で口説き落とせよ、頑張れロベルト」
「ああ、出来る限りの努力をする」
僕は完全に赤面してしまっていた為、何も言葉が出てこないままで、ギュッと目を閉じていたのだった。
――翌朝。
僕は久方ぶりに私服の袖に腕を通した。
向かう先は、ロベルトの家である。僕は、待っているという言葉を真に受ける事に決めた。
「それに、聞かなきゃ。も、も、もし本当にロベルトが僕の事、好きなら……」
まさかの両想いである。そう考えただけで、顔から火が出そうになる。
何度も一人で照れながら、僕はロベルトの邸宅に向かった。ついでに家賃も貰ってきて欲しいと、祖父にも頼まれているので、仮に『冗談だった』と言われても、僕も『本気じゃなくて、家賃を貰いに来た』と返せる。僕はきちんと言い訳まで用意して、ロベルトの家を目指した。
そして庭に入ってから、深呼吸をして、呼び鈴を鳴らした。
するとすぐに扉が開き、黒い私服姿のロベルトが出てきた。昨日の騎士装束とは異なる、こちらの方が見慣れた姿だ。僕を見ると、ロベルトが両頬を持ち上げ、満面の笑みを浮かべた。
「来てくれて、有難う。入ってくれ」
「お邪魔します」
つい見惚れそうになったが、そんな自分を抑えて、僕は久しぶりにロベルトの家の中へと入った。応接間に促され、僕の目の前には以前と同じように、ロベルトが淹れてくれたお茶が置かれた。ティースタンドには、シュークリームや小さなサンドイッチがのっている。
「ジル、元気だったか?」
「うん。僕は元気だよ。ロベルトは? 怪我とかはしなかった?」
「ああ。今回の討伐は比較的易かった。ただ――ジルとほぼ一ヶ月も会えなくて、寂しくてならなかった。好きだ」
「……僕も会いたかったけどさ。そ、それって、その……友達としての好きじゃないの?」
「友達だと思われている事は分かっている。最初は仕事だったしな。だが、俺はジルに対して恋愛感情を抱いている」
「っ、な、なんで僕に? 僕の何処が良いの?」
卑下するわけではないが、僕は自他ともに認める平凡だ。それを、どうしてロベルトのように素晴らしい人が好きだと言ってくれるのだろうか。僕にはそれが、よく分からない。確かに恋愛は身分でするものではないかもしれないし、僕だってロベルトを好きかもしれないと思うのは、彼の性格に惹かれた事が大きいからではあるが……客観的に考えて、つり合いは取れないと僕は思う。
「仕事であっても気遣ってくれた事が、まず嬉しかった。だから、もう少し話がしたいと思って、当初俺は家に招いたんだ。だが――話せば話すほど、惹かれていった。自然体で俺と話してくれるのなど、ジルくらいのものだ。ジルだけは、俺を冷徹な騎士団長として恐れる事もせず、俺を怖がる事もなく、雑談に興じてくれた。幼い頃から知っているロルフは特殊だが、俺にとって、こういった経験は初めてだった。結果、好きになっていた」
「待って。だって、僕に対して、ロベルトは最初から怖くなかったよ? みんなの前でも笑っていたら、普通に気やすく話せるんじゃないかな?」
「好きでもない相手の前で、笑顔を浮かべることに俺は意味を見出せない。俺は、ジルと話している時は、自然と笑顔が浮かんでくるが、他の場合、そう言った事は無い。ジルは俺に、笑顔をくれる。俺に人らしい心をくれる。そんな存在なんだ、俺にとっては。それが、たまらなく愛おしい。愛している、ジル。好きだ」
ロベルトが僕を見て、真剣な顔をして述べた。僕はやはり赤面してしまった。こんなの、照れない方が無理だ。しかも平々凡々な僕を、じっくりと見て、導出してくれた答えなんだなという感じがする。
「ジル、俺を好きになってくれないか?」
「……もう、なってるよ」
「本当か?」
「うん……僕は、ロベルトみたいにきちんと言えないんだけど、一緒に話していたら、楽しくて、ロベルトは優しいし、それで、その……好きだなって思ってて……」
「まずもって、俺と話していて楽しいや優しいという感想を抱いてくれるのは、ジルだけだ。誰にも言われた事がない」
「それは、みんながロベルトの事を知らないからでしょう?」
「――俺は、ジルにだけ、知ってもらえたら十分だ。愛しているのは、ジルだけなのだから。ジル、俺の恋人になってはくれないか? 結婚を前提に、付き合ってほしい」
明確な問いに、僕は真っ赤のままで、硬直した。
この王国では、好きになった相手と伴侶になる事が推奨されているので、恋愛に性別は問わない。同性同士の場合は、養子を取る事が多いが。
「本当に僕で良いの?」
「ジルが良いんだ。ジル以外の何者も、俺は必要とはしていない」
真摯なロベルトの言葉に、僕はこの日囚われた。答えなんて決まっていた。
僕が頷くと、ロベルトが小さく息を呑んでから、破顔した。
こうして、この日から、僕とロベルトは恋人同士となった。
――翌、月曜日。
第五騎士団勤務の僕は、本日も王宮へと向かった。
すると本部に入ってすぐ、ロルフ団長に奥の部屋へと招かれて、その場で質問攻めにあった。他にも先輩達も大勢いた。僕がボソッと、『一昨日から付き合ってます』と正直に答えると、その場で拍手された。
なお、毎週末は、僕はロベルトの邸宅で過ごす約束をしたと述べたら、お祝いだとして、ロルフ団長に香油をプレゼントされて、震えてしまった。僕は、完全にいじられている……。
まだ付き合ったばかりで、そんなのは、気が早い……よね? と、思うのだが、僕にはどのタイミングで体を重ねるのかというのは、ちょっと分からない。
それがより一層分からなくなったのは、その後梅雨を越えて夏が訪れ、僕らが付き合って三か月の記念日を迎えても、一向にロベルトが手を出してこなかった時だった。僕を両腕で抱きしめてロベルトは甘い言葉を囁き溺愛してくれるが、同じベッドで眠った事は、まだ一度も無い。第一騎士団は、第五騎士団とは異なり、毎日激しい剣技の鍛錬があるというし、ロベルトの寝つきは良いから、疲れているのかなと思って、僕側も誘えないでいる。
本日も、金曜日から泊まっている僕は、客間で土曜日の朝を迎えた。
身支度をして階下に降りると、夏苺のデザートを作っているロベルトの姿があった。食卓には、他にも様々な手料理が並んでいる。ロベルトは、いつも僕に食事を用意してくれる。
「おはよう」
そして僕に気づくと歩み寄ってきて、僕を抱きしめ、僕の額にキスをする。いちいち赤面する僕は、まだその温度に慣れないでいる。少し体温の低い右手で、僕の頬を撫で、続いてロベルトが僕の唇に、触れるだけのキスをした。左手では僕の腰を抱き寄せ、啄むようにキスを繰り返す。幸せすぎる週末の朝である。
「おはよ。今日も美味しそう」
「ああ。ジルの事を想うと、つい手が込んだものを作ってしまうんだ」
その後は二人で朝食とした。僕は穏やかなキスをされてからずっと、体の奥がじわりじわりと熱かったのだけれど、何も言えなかった。食後はずっと話をしていた。だが、そろそろ意を決する事にした。
「――ね、ねぇ。ロベルト」
「なんだ?」
ソファの隣で僕を抱き寄せ、僕の耳の後ろをずっと擽っているロベルトに対し、僕はつい熱っぽい目を向けてしまう。
「明日もお休みだよね?」
「ああ。ジルもそうだろう?」
「うん。だ、だからさ、その……その……寝室に……」
「シーツならば洗ったものがあるが、確かに今日は他の寝具を干すにも最適だな」
「っ! そ、そうだよね? ものすごく快晴だもんね!」
意識しているのが僕だけみたいで悲しくなる瞬間だ。
だが僕は性欲だって平均的なので、ねっとりと耳の後ろ側を指でなぞられたりしたらゾクゾクしてしまうのは仕方がないと思う。
「……そ、そうだ、ロベルト」
「ん?」
「一緒にお風呂……」
「風呂掃除なら、朝しておいたぞ」
「あ、そ、そっか! たまには手伝おうと思ったんだけどね! う、うん、それだけ!」
どうしよう……全然伝わらない。僕は泣きたい気分になってしまった。
その時、不意にロベルトが喉で笑った。
「結婚するまで、待とうと思っているんだ。我慢しようと思っているんだ。だが、もしかして不安にさせているか?」
「! え……あ……あの……」
急に悟られて、僕は言葉に窮した。
「抱いても良いというのであれば、俺は今すぐにでも欲しい。ジルの事が」
「っ」
「ジルを、俺にくれるか?」
「う、うん。僕も、その……ロベルトと一つになりたいよ」
我ながら、誘おうとしていたくせに、僕の声は小さくなってしまったのだった。
するとロベルトが、いつもよりも深いキスをしてきた。
「ん」
ねっとりと舌を追い詰められて、絡めとられて、僕は目を閉じ、こみ上げてきた快楽に耐える。その後、僕らは寝室へと移動した。初めて入るロベルトの寝室には、僕がロルフ団長から貰った品と同じ香油があった。思わず目を据わらせた時、気づいたようでロベルトが苦笑した。
「ロルフは余計な気が回りすぎるな」
「うん。同じ意見」
後ろから僕の体に腕をまわし、ポツポツとロベルトが僕のシャツのボタンをはずしていく。緊張しながら、僕はされるがままになっていて、気づいた時には、一糸まとわぬ姿になっていた。
そうして寝台の上に押し倒された。ロベルトは、丹念に僕の全身を愛撫していく。その指先が齎す快感に、僕は何度も熱い吐息と嬌声を零した。僕の後孔を二時間もかけてロベルトが解しきった時には、僕は汗ばむ熱い体を震わせ、涙ぐんでいた。
「ん、ン……気持ち良すぎておかしくなる……っ」
「挿れても良いか?」
「う、ン、っッ……早、く……ぁ、ア!」
ロベルトの陰茎の先端が、僕の菊門を押し広げた。そして実直に巨大で長いロベルトの陰茎が、僕の内側へと入ってきた。指で散々解されていた内壁だが、質量が違うから、痛みこそないが押し広げられる感覚がする。
「あ、ああ、ぁ……っ、ァん!」
「絡みついてくる」
「あ、あああ、ぁ……っゃ、気持ち良――あああ!」
緩慢にロベルトが抽挿を始めると、屹立した陰茎が僕の内部の感じる前立腺を擦り上げるように刺激する形となった。思わず両腕と足をロベルトの体に回す。すると腰を持たれて、より深く穿たれた。深々と交わった状態で、一度ロベルトが動きを止めた。
「大丈夫か? 辛くはないか?」
「うん、平気だよ、あ、あ、ああ……ロベルト、もっとぉ!」
快楽と幸福感にポロポロと涙を零しながら、僕は告げた。すると腰を揺さぶってから、ロベルトが激しく打ち付け始めた。僕の快楽がどんどん昂められていく。
「あああ! アぁ……んン――!」
「一生大切にすると誓う、出すぞ」
「ああああああ!」
そのまま一際激しく貫かれて、中に飛び散るロベルトの白液を感じた瞬間、僕も同時に果てたのだった。僕の陰茎は擦れたロベルトの腹筋を放った精子で染めてしまった。互いの呼吸が落ちつくまでの間、暫しその状態で繋がっていたのだが、射精がお互いに終わると、一息ついてから、ロベルトが陰茎を僕から引き抜いた。そして隣に寝転がり、僕を抱き寄せた。
「愛している。本当に、最高だ。ジル、好きだ」
「っ、ぁ……僕も、ロベルトが好きだよ」
こうしてこの日から、僕とロベルトの週末の逢瀬には、性行為が加わった。
そんな日々を過ごし、結婚式の日程などの打ち合わせが本格的に始まった。
毎日が幸せで、なんだか夢を見ているような気分になってしまうが――幸い、夢ではないらしく、日々僕は、ロベルトに溺愛されている。僕とロベルトの関係を知ったお祖父ちゃんも応援してくれているし、僕の両親もニコニコしっぱなしだ。また、ロベルトのご家族にもご挨拶したが、『最近少し息子が柔らかくなった』として、僕のおかげだと褒めてくれた。そんな事は無いと思うんだけれど、ロベルトの優しさを誰よりも知っているのが僕らしいというのは、ちょっと過ぎたる幸福である。
このようにして、僕とロベルトはその後婚姻も結び、同じ家で暮らすようになった。今度は、僕もまた家賃を払う立場に代わったので、祖父が訪れる度、僕はロベルトと折半している家計から、金貨を払っている。家事はほとんどロベルトが行ってくれるのだが、僕の方が圧倒的に暇なので、最近の僕は、少しずつ料理を覚えようと心掛けている。溺愛されている僕だけれど、僕だって愛情を返したいからだ。特に、ロベルトが魔獣討伐の遠征に行く時は、不安な心情で見送りつつも、帰ってきた時にホッとしてもらいたいから、ロベルトが好きだと言ってくれたクリームスープを作るようにしている。
そのようにして――僕らは、結婚後初の新しい春を迎える事になる。
季節は、四月。
王国の新緑が美しい季節だ。僕は、庭の花をロベルトと共に眺めていた。すると、抱きしめられた。ロベルトの顎が、僕の肩にのる。
「大好きだ、ジル」
「僕もだよ」
惜しみない愛を注いでくれるロベルトの腕の中で、僕は幸せに浸る。
その後も毎年、僕達は庭に芽吹く花を春が来る度共に見る事となる。
ロベルトの溺愛は止まらない。僕は、満ち溢れた日々を歩んでいる、ロベルトと共に。僕もまた、ロベルトを愛しているからだ。毎日が、幸福だった。
【完】