双廻


『この愛を受けたるの不幸の外に、この村に生れたるの不幸を重ぬるものと云ふべし』




 帝都、灯京。
 元号は大正となり、次第に異国との戦禍の気配が近づいてきている。
 灯京帝国大学で精神医学を学んでいる俺は、現在私宅監置の資料を取り纏めている。
 私宅監置とは、江戸頃まで遡る座敷牢といった風習を、法制度化したものであるというが、近代化を謳うこの国を思えば涙が出てしまうくらい劣悪なものだ。端的に言えば、精神病者――古い言葉で言えば瘋癲人などを、自宅で看るという制度である。

「確かに精神病院は足りないが……」

 思わず俺は溜息を押し殺した。正面の窓の硝子に、俺の黒い髪と目が映り込んでいる。机の端に積んだ手紙の中に、俺は期待する差出人の名前が無い事を、頭から意識して締め出した。仕事に集中しなければ。そうだ、今考えるべき事は、私宅監置の現状だ。

「こんな環境は、とても『看る』とは言いがたい。ただの監禁だ」

 俺は病者がこんな境遇に立たされる事を許容しがたいと感じる。だが内務卿お抱えの医学者連中は、民族優劣を唱えて推奨している始末だ。頭痛が酷くなる。それほどまでにこの国は、遅れている。これは決して不平等条約の改正で解消出来るような問題では無い。

「近代化の為に必要な事が戦争? 馬鹿げているな。住まう民の環境を整えるべきだ」

 ブツブツと呟きながら、俺は改めて窓を見た。映る俺の向こうに、よく目をこらせば夜景が見える。豪奢な建物が並ぶ豊かな土地の帝都ですら、病床は足りない。それは俺の出身地である田舎ならば、尚更だ。

「……」

 俺は、嫌な記憶を思い出してしまった。
 あれは、十歳頃の事だっただろうか。想起しながら、俺はきつく瞼を閉じた。

「お父さん、あそこは何?」

 俺が尋ねると、小学校の教員をしていた父の体が一瞬硬直した。その腕に触れていた俺は、首を捻るしかない。
 ――お寺の隣の林の奥。
 そこは予てより『足を踏み入れてはならない』と、繰り返し言われてきた場所だった。この日山菜採りの為に、その林道に入り込んだ俺は、父に聞いたのだったと思う。遠目に見えた小屋について。すると父の顔色が青褪めた。

「……座敷牢」
「え?」
「……いいか、廣埜。あそこには、何も無いんだ」
「?」
「行くぞ。見なかった事にするんだ。『呪われる』」

 父はそう言うと、俺の手を引き、慌てたように引き返した。
 しかし――俺は、好奇心が旺盛な子供だった。だから翌日には、一人で木々の間を抜け、昨日見た小屋を目指して歩いた。小さな背丈の俺は、時折上を見て、木の葉の合間から漏れてくる光を目にした。落ちている枯葉を踏む度に、湿った土の匂いがした事を強く記憶している。
 到着後、小屋の扉に迷わず手をかけた俺は、当時から信心深くは無かった。迷信を信じる大人を馬鹿にしている子供だった。

「!」

 けれどその中にいる者を見て、目を瞠ったのは間違いが無い。
 そこには真っ白な髪と緋色の瞳をした青年がいた。白い着物を纏っていて、右側の首には、ガーゼと包帯が見える。人が居た事に驚いていると、彼が俺を見て小首を傾げた。

「――子供? ここに入ってはならないと、まだ教わっていないのかな……君は、入っても良いの? 名前は?」
「絢戸廣埜! 俺は迷信なんて怖くないからな」

 俺が唇の両端を持ち上げると、その青年も微笑した。

「そう。僕はヒヨクと言うんだよ」
「ヒヨクはどこの家の人だ?」

 この節巳村では、住人は皆が顔見知りだ。俺は初めて見る青年の姿に、不思議に思いながら曖昧に問う。

「僕の家は、ここだよ」
「家というのは、お父さんとお母さんがいるんだぞ? ほとんど、全員!」
「親、か……親はいないんだ。兄弟ならいるんだけどね。ただ切り離されてしまって」

 それは、亡くなってしまったという事なのかと、尋ねようとして俺は止めた。辛い事を問うのは悪い気がしたからだ。

「僕を切り離したところで、蛇神の力を持つのは弟なのだから、無意味な事をするものだよ」
「蛇神?」
「廣埜。勇気があるのは誇らしい事だよ。だけどね、科学は全てを説明出来ない」
「?」
「そして困難や不可思議に遭遇してしまった時、逃げる事もまた勇気だ。何も恥じる事は無い。もし今度、蛇神に遭遇したら、次こそは逃げるようにね。廣埜、大切なものを守ってあげて」
「俺は、ヒヨクが何を言いたいのか、よく分からない……」
「いつか、分かる日が来る気がするんだ。きっと蛇神は、廣埜を気に入るように思う。それは執着ではなく紅の味に対してなのかもしれないけれど」
「ふぅん? その蛇神というのはどこにいるんだ?」
「今は分からない。けれどきっと、こういう感じの社じゃないのかな」
「社? このボロ小屋が?」
「生かしてもらえるだけでも、有難いと言うこともあるんだよ」

 ヒヨクはそう口にすると、苦笑していた。まだ幼かった俺には、その意味が上手く咀嚼出来なかった。

「蛇神は狡猾だから、本当に執着していて欲しい存在を手に入れるためには嘯く事があると思うんだ。決して、手放さないようにね」

 こうしてその日は、少し話した後、別れて帰った。それ以後、俺は学校帰りに、時々ヒヨクに会いに行くようになった。今ならば分かる。ヒヨクは、『色素異常』で見た目を忌避されて、隔離・監禁されていたのだと。
 ある日、いつもの通りにヒヨクの元に向かったら、既に小屋が無かった。

「お父さん、お寺の横の林の小屋は……?」
「……」
「お父さん! ヒヨクは?」

 純粋に尋ねた俺の頬を、父が叩いた。バシンと音がして、右頬が熱と痛みを訴えた。

「誰もいなかった。座敷牢という存在は、そういうものなんだ」
「でも、ヒヨクが――」
「あれほど近づくなと言っただろうが!」

 普段は温厚な父が、激昂していた。俺はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
 その後医大に進学し、私宅監置や座敷牢について知見を得て、俺は悟った。
 ――座敷牢は、家屋に常に付属して建設されるわけではなく、対象者が生まれた時初めて造られる。そして、その『対象者がいなくなったら、速やかに解体される』。
 即ち、ヒヨクはもう生きてはいないのだ。ヒヨクが死んだから、あの小屋は解体され、無くなったに違いない。それが自然死故だったのか、俺と話していたから――考えたくも無いが、村人を惑わしたとして処罰・処刑されたからなのかは分からない。
 兎角、以後俺は、ヒヨクとは二度と会う事が無かった。
 これが、俺の座敷牢……転じて、私宅監置関連の最古の記憶だ。
 ギリリと右の掌を握り、俺は唇を噛んだ。もう、あのような監禁行為を許容すべきでは無い。そして俺は中でも、最も監置例が多い、精神病者の処遇改善について研究している。

「人間だ、同じ。だから、生きる権利はあるはずなんだ」

 そうだ、人間には生きる権利があるはずだ。人間ならば、誰にでも。



 大正三年――異国との戦争が始まった。

「廣埜さん。瘋癲人限定の医学など、お国のためにはなりませんよ」

 母が繰り返し俺に言う。実際、帝大でも同様の見解が主流だった。研究室の同輩達は、従軍する者も目立ってきている。

「ですが、廣埜さんが命を散らしてしまう事、母は不安なのです。どうか、節巳に戻って下さい」

 危険な情勢下にあって、上京した母が、俺に懇願した。母は節巳村の地主の娘であり、父は入り婿だ。俺に望まれている事も、医学ではなく、村の管理だというのは知っている。祖父はもう長らく村長をしている。

「……でも、俺は」
「廣埜さん」

 この日俺は母に、一度だけでも良いから帰郷するようにと諭され、押し切られた。鬱屈とした心地で研究室に休暇を願い出て、俺は結局その足で、母と共に節巳の村へと戻った。
 村は何も変わっていなかった。閉塞感がある。
 俺は荷物を置いてから、山腹にある家を出て、横に見える、『お寺の脇の林』を見た。そうしていたら、木の葉を踏む音が耳に入ってきた。俺が視線を向けると、ゆったりとした足取りで、軍服姿の青年が一人歩いてくるのが分かった。

「廣埜か?」
「あ……碕寺の時生か?」

 碕寺時生は俺の同級生であり、幼馴染である。紺青寺の次男だ。紺青寺は、村のはずれにある碕石の横にあるため、碕寺と呼ばれていて、それをそのまま苗字に登録したらしい。
 俺の声は少々わざとらしかったかもしれない。何度か手紙を書いたのだから、俺側が忘れているはずがないと、時生は知っていたはずだ。だが時生は俺を見ると、静かに頷いてみせた。

「ああ」
「お前、その格好――」
「神仏習合の流れから、この田舎でも、寺は厳しいからな。安定を考えて、軍属になった」
「そうだったのか」

 短い髪をしている時生は、昔と変わらず、形の良い切れ長の目をしていた。その瞳には優しい色が浮かんでいる。

「廣埜、村に戻るのか?」
「いいや、母にはそう希望されているけどな……俺は、医者として生きていきたいんだ」
「今、この村には、医者は一人もいない。廣埜が帰ってきてくれるのならば、安心なんだが」
「そうなのか?」
「ああ、そうだ」

 時生は頷くと、薄い唇の両端を小さく持ち上げた。その表情を見て、俺の胸が疼いた。最後に俺達が顔を合わせたのは、俺が帝都に進学する前の十七歳の事だった。村長である地主の息子の俺と、寺社戸籍の関連から古くより家同士の付き合いがあった寺の時生は、ある意味村の名士の子供同士として、並べられて育ってきたというのもある。物理的に家の距離が近いだけではなく、様々な面で俺達はいつも共にいた。
 その関係が明確に変わったのは、俺が進学すると述べたあの日だと思う。
 時生は俺を抱きしめて、何を思ったのか、口づけをしたのだ。
 だが今現在、そんな事を時生は、覚えている様子も無い。

『俺は離れたくない。俺の事が好きならば、行かないでくれ』

 確かにあの日こう言われた。俺もまた時生を好きだったが、どうしても医者になりたくて、結論から言えば村を出た。代わりに俺は、時生に手紙を書いたものである。けれど、一度も返信は無かった。研究室の机に詰んだ封書の、虚しい風景を思い返す。俺はもう村には戻るつもりが無かったし、連絡が取れない以上、関係は切れたと思っていた。だから逆に、このように自然と話せる事が、不思議でならない。

「ゆっくりと話がしたい。廣埜、少し寺に来ないか?」
「ああ。俺も時生と話したい」

 俺が微笑を返すと、時生が柔らかい表情に変わった。昔はあまり笑わない印象だったから、そこに見て取れる余裕を感じ、離れていた年月を意識させられた。俺達は今年でお互いに二十七歳だ。背が高い時生の隣に、並んで立つ。それからどちらともなく歩き始めた。なだらかな林の合間の坂道を、二人で進んでいく。

「廣埜は大人びたな」
「二十七にもなって子供では困るだろう?」
「艶が増した」
「男に対する褒め言葉では無いな」

 そう返答しつつも、最後に顔を合わせた日の口づけを、思い出さないと言えば嘘だった。時生は一体どのようなつもりで、こんな事を言うのか。揶揄されているのだろうか。結果として拒絶したのは俺という形であるが、今なお俺は時生が特別だ。縁談もあったが、いずれも乗り気になれなかった。既に俺の妹の早耶には、子供もいる。順番がおかしいと散々母に嘆かれたものだ。

「あ」

 そんな事を考えていた時、俺は視界に入ってきた小屋を見て、足を止めた。
 幼少時に、ヒヨクと出会った場所。そこと同じ場所に、全く同一に見えるものが存在したのだ。解体され、無くなったはずなのに。

「時生、あれは……」
「蛇神様の社跡がどうかしたのか?」
「蛇神様の社跡?」
「昔話にあるだろう? 節巳村の村人の輪廻転生を司る双頭の蛇の話が」
「あ、ああ」

 俺は頷いた。そう言われれば、俺にも朧気に思い出せる。今ではお伽噺の形態を取っている、この村の土着信仰の話だ。仏教の輪廻転生とも異なるようで、この村の人間だけの輪廻転生を司る蛇の昔話だ。二つの頭がある白蛇で、右の頭が尾を始めとした体を動かして輪廻と呪いを司り、左の頭は人心と愛を理解するらしい。二つの頭が一つの胴を同じくしている白蛇なのだという。

「少し前に、村で色が白い蛇が見つかってな。あの社を建てて、壺に入れておいたようだ。白いモノは、蛇神様の子だとされ、見ておかなければならないという」

 元々は蛇神の土着信仰への対処も、碕寺が担っていたから、時生は俺よりもずっと詳しいのだろう。俺は小さく頷きながら、ヒヨクについて思い出していた。

「昔、俺達が小さい頃……あそこには、ヒヨクが住んでいただろう?」
「ヒヨク?」
「白い髪をしている、色素異常の人物だった」
「記憶に無いな。俺が覚えているのは、小さい頃はあの林には入ってはならないと言われていた事だけで、俺は忠実にそれを守っていた点だ。そして廣埜が時々林に入っていくのを見た思い出も確かにある。言いつけを破っていたな、お前は」

 時生の顔が呆れたようなものに変わった。事実なので、気まずさを覚え、俺は視線を逸らす。

「しかし色素異常の人物、か」
「ああ」
「それこそ俺には、それに該当するのは蛇神様当人しか思い当たらないが」
「え?」
「人の姿形をしていて、色素が無いんだろう?」
「俺が話しているのは現実の話で、蛇神伝承や迷信じゃないんだ」
「俺も現実の話をしているつもりだ。碕寺の座敷牢の中にいる、蛇神様の話だ」

 座敷牢と耳にして、俺は思わず息を呑んだ。すると顔だけを俺に向け、僅かに時生が目を眇めた。

「見に行くか?」
「行く」

 こうして俺達の行き先は、碕寺の一角にある座敷牢に決定した。


 ――座敷牢とは、解体されるものだ。しかし、碕寺の裏の旧本尊脇に建築されているその庵は、俺が遊びに来ていた幼少時から、変わらずそこに存在していたものだった。これまで風景の一つだと考えていたその庵に、人が住んでいるとは思ってもいなかった。

「……」

 鍵を開けた時生が、戸口に立って、中を見ている。俺はその横から、内部を見た。戸の内側に、もう一つ、鉄格子のはまる扉がある。その先には、黒に近い木製の床、柱、それらで構成された空間は、六畳といったところか。右の奥の木の床が外されている。糞尿を処理するための場所だろう。布団も無い。

「こんな……」

 俺は思わず震える声を出した。そこには、白い髪に緋色の目をした少年が、一人裸足で座っていた。少年は退屈そうな顔をしていて、俺の声に気がつくと、緩慢に視線を上げた。それから何を言うでも無く、再び俯いた。彼の視線を追いかければ、漆塗りの食膳がある。
 ……ヒヨクによく似ている。
 二十代だったヒヨクと目の前の子供では、年齢は違うのだが、どこか顔立ちも似ていたし、何より色素異常である点が、俺の記憶を刺激した。纏う白い和服も同じに見えた。ただ、そこにはガーゼや包帯は無い。代わりに、左の首元の皮膚が、象の肌のように灰色である事を俺は見て取った。怪我の痕に見える。

「何が理由でここに?」
「蛇神様は、俺が知る限り、最初からここに居るが」
「馬鹿を言うな。まだ十にもならないんじゃないのか? まさか色素異常が理由で、生まれた時からここに居ると言うのか?」
「いいや。俺が生まれた時から、蛇神様はここに居る。最初は俺達よりも年嵩の見た目をしていた」
「それは別人なんじゃないのか? 兎に角、こんな場所に押し込めておいたら、人間は生きてはいけない。すぐに解放しろ。あの首の痕はどうしたんだ? まさか折檻したわけでは無いだろうな?」

 思わず俺は、時生を糾弾した。すると時生が俺の腕を取り、強く引いた。足が縺れかけた俺は、そのまま外へと連れ出された。目の前で時生が庵の戸に施錠する。南京錠が重々しい音を響かせた。

「時生!」
「廣埜、あれは人間では無い」
「非科学的な事を言うな。外見の差異など――」
「若返る人間が存在するというのか?」
「それは存在しない。だが……」
「折角久しぶりに会ったんだ。元々俺達は話をしようという趣旨でここへ来た。酒と肴を用意させるから、家の中で話そう」

 時生はそう述べると、そのまま俺の手を引き歩き始めた。言葉を探しながら、俺はその後に従った。社務所の脇を通り過ぎ、碕寺の母屋に向かう。玄関で靴を脱ぐと、客間に案内された。幼少時と全く変わらない風景に懐かしさを覚えたのは一瞬で、俺は窓からも見える座敷牢の事で頭がいっぱいだった。

「兎に角時生、非人道的すぎる」

 給仕をしてくれた手伝いの者が下がってから、俺は猪口に触れた。すると正面で、熱燗の徳利を片手に、時生が片目だけを細める。

「人間だ、同じ。だから、生きる権利はあるはずなんだ」
「では、人間で無かったならば?」
「え?」

 時生の声に、思わず俺は聞き返した。だが時生は、手酌をしながら先を続けた。

「仮に、『アレ』が人間だとして、その上で病人だとした場合だが」
「ああ。俺は人間だと確信している。これでも医者だ」
「この村には、現在常駐している医者はいないと話しただろう?」
「それが?」
「もし蛇神様を解放するにしろ、それ以前に……解放して構わないただの病人なのかを確認するにしろ、それが可能な者が誰も村にはいない」
「それは――」
「俺もあの存在が病人だと言うなら、外で介抱すべきだと思うぞ。だがその判断が可能な者は、現状この村にはいない。だから廣埜に会わせたんだ。お前がこの村に戻って、じっくりと診てくれるのならば、安心だからな」

 それを耳にして、俺は息を呑んだ。虚を突かれた俺が大きく目を見開いていると、再会した時と同様に時生が柔らかく笑った。

「俺もお前がこの村に戻ってくれたら、何よりも安心だ」
「時生……」
「俺は廣埜に帰ってきて欲しいんだ。俺の寺は兄が継ぐし、俺も別段、庄屋家業を廣埜が継いで村長になれば良いと言いたいわけじゃない。医学が好きなら、その道で良いだろう」
「……、……」
「ただ戦争も始まったばかりで、いくら田舎とは言え、この村にだって何があるかは分からない。だから逆に医者が居てくれた方が有難いと言うのもあるが――俺は国を守る。ひいては村も、お前も」

 俺の持つ猪口にゆっくりと熱燗を注いでから、時生が俺の目を見た。

「廣埜は村に居て、村を守ってくれないか? 戦が終わった時、帰る場所が無くなっていたのでは、やりきれないからな」

 すぐには答えを導き出せないと、俺は感じた。だが、時生にそのように考えてもらえる事が、嬉しかったのは間違い無い。


 ――結局俺は、節巳村へと戻る事に決めた。家族は喜んでくれたし、小さな診療所を構える許しも得た。

「本当にお人好しだな。ああ言えば、お前は戻ると思ったんだよ、俺は」
「ん?」

 この日も碕寺へと向かった俺は、微苦笑してから吹き出した時生を一瞥した。あまりよく聞いていなかった俺が顔を向けると、軽く首を振ってから、時生が鍵を俺に見せた。

「宜しく頼んだぞ」
「言われなくてもな。すぐに人間だと証明してみせるさ」

 俺はしっかりと鍵を受け取り、この日から単独で座敷牢に入る事になった。
 座敷牢の中には、不思議な匂いが漂っていた。香がある様子は無いが、汚物の臭いも無い。鉄格子のはめられた窓が高い位置にある。まず外の戸を閉め、次に内側の格子戸を開けた。そして中へと入る。時生は仕事へと向かった。

「初めまして」
「……」
「絢戸廣埜と言うんだ。君は?」

 俺が尋ねると、座っていた少年が、気怠そうに視線を上げた。

「連理」
「レンリ? どのような字を書くんだ?」

 識字の程度を調べる意図での質問だった。どの程度の学があるのか、正確に知りたい。現時点では会話には不自由は無さそうだと、そう判断しながら見守っていると、少年が小首を傾げた。

「比翼連理の連理だよ」
「……なるほど」

 ヒヨクと聞いて、俺は幼少時の事を一瞬想起した。

「連理は、親の名前は分かるか?」
「僕に親はいない」

 その言葉に苦しくなった。自分の失言を悟った心地になる。ヒヨクの声とも重なった。ヒヨクも親がいないと話していた。

「同情する必要は無いよ。寂しくは無いからね」
「寂しさに慣れる事は、良い事ではないと俺は思う」
「絢戸は優しいんだね」

 大人びた事を言う連理に苦笑してから、俺は持参した柿を見た。

「食べながら話そう」
「うん」

 俺は連理のそばで膝をつき、柿を剥きつつ続けた。

「いつからここに?」
「天保の頃かな」
「江戸だと? こら、大人を揶揄うものじゃない」
「信じないのは勝手だよ。その前は、別の座敷牢に居たんだ。寺の前は庄屋の家で、そこも『絢戸』だった。ああ、村長の家だった事もあったかな」
「……」
「僕の事を大層嫌っていて、寺に押しつけたんだよ。特に君の妹が、僕を嫌いみたいだ」
「どうして俺に妹がいると?」
「見れば分かるよ。僕は、蛇神だからね。特に節巳の血に纏わる事象と輪廻は、僕の専門だ」

 なるほど――確かにこれは、精神病を患っているのだろう。自分を神だと思い込むのは、特に多い症例だ。外見だけが理由では無く、精神疾患も併せて、座敷牢へと入れられたのだろうか。

「そうだった。あの時も、僕が君を喰ったから、君の今の妹が怒って、今の碕寺の次男も怒って、僕をここに閉じ込めたんだったなぁ。ああ、懐かしい」

 妄言に付き合うべきでは無いから、俺は柿を皿にのせて差し出しながら、静かに頷いておいた。そしてひとしきり懐かしそうな顔で語っている連理を見てから、改めて診察をする事に決める。

「連理、君は何歳だ?」
「さぁ? 気付いた時には、生じていたから」
「数えで十二、実際には十歳前後だろう?」
「それは外見の話だよね?」
「人の外見は、年齢で変化するからな。どんどん大きく育つんだ」
「人は、ね」
「連理、君は人間だ。それは、分かるか?」
「ううん、僕は人間では無いよ。絢戸こそ、理解出来ていないんだよ」

 この日、俺達の話は平行線を辿ったが、精神病の者との対話というのは、こういった形式となる事も珍しくは無い。耳を傾ける事、そして投薬、それらが肝要だ。
 このようにして、俺の新たなる村での日々が始まった。


「――そうか」

 陸軍の仕事から戻ってきた時生に、この日も俺は連理との話を聞かせていた。ネクタイを緩めながら、時生は俺を見て頷き、あぐらをかく。毎日俺は、日中は村医者として皆の診察をし、午後からは時間を作って連理の元へと通っている。

「どう見ても人間だ、時生」
「神を自称する子供、という事か? 俺は、そうは考えないけどな」
「何故?」
「あの蛇神様は、俺達が一年に一つ歳を取るのとは逆で、毎年若返るからだ」
「そんな戯れ言を……」

 碕寺の客間で、俺は徳利を傾け、時生の猪口を満たしていく。俺が村に戻ってから、三年が経過していた。もうじき俺の妹には、三人目の子供が生まれる。俺は返答しつつ、正直内心でドキリとしていた。この三年……最初の時点で考えたならば、連理は実年齢で十三歳程度に成長するはずだった。だが明らかに、連理の体は細くなり、背丈は縮み、現在では七歳前後に見えるようになった。

「……」
「廣埜?」
「……栄養状態が悪いとは思えないんだ。ただ、連理は育たなくてな……」
「だから何度も言っただろう? 蛇神様は、若返るんだよ。老人まで育ったら、次に赤子まで還る。そして再び乳児から老人まで、今度は人間と同じように育ち、そうして、永劫繰り返していると聞く」
「そんな馬鹿な話が……」

 信じられないし、信じる気も無い。だが、連理本人の主張と、時生の話は同じなのだ。そして実際、この三年間、俺が目撃した状況とも一致するのは間違いない。

「……そう考えるよりは、若返る新種の病気だと想定する方が易い」
「新種と言うのならば、解明までは長い時間がかかるという事だろう? その間廣埜は、じっくりこの村で研究したら良い。あと五年もすれば、いずれにせよ若返るというのは分かるだろう」

 喉で笑うと、時生が徳利を傾けた。再会して三年が経過し、より時生は精悍な人物になった。
 ――まだ嫁を貰わないのか。
 これは最近、俺と時生が共通して、周囲からかけられる言葉の一つだ。

「廣埜。少し休もう。もう仕事は終わりだ。今は、二人で食事中だろう?」
「ああ……そうだな」

 頷き、俺も己の猪口を傾ける。すると一度立ち上がり、時生が俺の隣に座り直した。そして卓に猪口を置くと、俺の肩を抱き寄せる。

「なんだよ」
「最近、『連理』の話ばかりだな。俺と居る時くらい、俺を見ろ」
「……」

 不思議と手を振り解こうという気にはならなかった。チラリと時生を見ると、そのまま顔を覗き込まれ、俺は頬が熱くなってきた。そのまま時生の唇が近づいてくる。俺は目を伏せ、顔を傾けた。唇が触れあったのは、それから少ししての事である。

「ずっと変わらず、俺は廣埜が好きだ」
「時生……」
「何度生まれ変わっても、変わらない自信がある」
「ひ、非科学的だな……」
「どうだろうな?」
「ぁ、っ……」

 そうして再度、唇を唇で塞がれた。ドサリと音がしたと思った時には、俺はその場で畳の上に押し倒されていた。骨張った時生の手が、俺の髪を梳く。

「ん、ッ」

 その時、首元を強く吸われて、俺の背がピクンと跳ねた。ツキンと疼いたから、シャツの間際に鬱血痕をつけられた事が分かる。カッと俺の頬が熱を帯びた。

「ダメだ、時生」
「どうして?」
「俺達は男同士で、それで……これ以上は……」

 弱々しく抵抗しながら俺は、自分でも説得力が無いだろうと理解していた。黒い瞳に獰猛な色を宿している時生は、唇を舐めると、どこか残忍な顔をした。

「ぁ……」
「嫌か?」

 シャツのボタンを外されながら問われ、俺は目を閉じる。
 ――この夜、俺は時生と体を重ねた。


「首、どうしたの?」
「!」

 翌日、座敷牢へと行くと、連理が俺の首筋に指先で触れた。ビクリとしてしまった俺は、慌てて距離を取り、昨夜つけられた鬱血痕を手で覆う。

「ああ、そうか。寺の血筋は、輪廻の記憶を失わないからね。寺以外にも、時々そういう者は現れるけど」
「?」
「相変わらず愛されているんだね。僕も今では、負けていない自信があるけど」

 立っていた俺の胴に、連理が両腕で抱きついてきた。受け止めた俺は、片手でその背中を撫でる。

「僕も絢戸が喰べたいな」
「食べる?」
「うん。喰べる」
「食べるって……」

 まるで時生との事が知られているように思えて、俺は気恥ずかしくなった。確かに昨日の俺は、時生に食べられたと表しても良いだろう。体を重ねてしまった羞恥と悦びに、俺は上手く対処出来ないでいる。

「絢戸はいつ生まれてきても、美味しそうだよね」
「どういう意味だ?」
「それにいつも僕に優しい。ねぇ、絢戸」

 俺の体をギュッと抱きしめて、連理が満面の笑みを浮かべた。

「絢戸を頂戴。もう――我慢出来ないんだよね」

 連理はそう言うと、不意に俺に対して足払いを仕掛けた。突然の出来事に、俺はその場に倒れ込む。すると動揺している俺に馬乗りになり、大きく連理が口を開けた。現実感が薄れていく中で、俺はその赤い口を見ていた。白い犬歯が妙に尖って見えた気がした。
 ズキリ、と。
 鈍い痛みが走った直後、俺の視界に紅が散った。左の首元、昨夜時生に痕をつけられた皮膚の上を、酷い熱が駆け抜けていく。

「あ」

 紅は、俺の首から吹き出していた。視界を赤と緑と灰色の砂嵐が襲う。

「やっぱり美味しいなぁ。また生まれてくるのを、待ってるよ」





◆◇◆


 母の早耶に手を引かれ、俺は坂道を歩いていた。

「廣埜伯父さんは、立派なお医者様だったのよ。瑞孝も、きちんとお勉強をするようにね」
「うん」

 初めて行くはずなのにどこか見覚えのある、寺の脇の林を母と歩きながら、俺は小さく頷いた。

「それとね――絶対に、『蛇神様』に、近づいてはダメよ」

 ちらりと寺の方へと振り返った母は、険しい顔をしていた。幼かった俺には、その視線の意味は分からなかった。



 絢戸早耶の三男として生まれた俺は、幼少時から、『廣埜に似ている』と言われて育った。絢戸廣埜は、亡くなった俺の伯父だ。医者だったのだという。碕寺の敷地で、熊に噛み殺されたらしい。同時に、事態に気付いて助けに入った、寺の時生という人物も、噛み殺されたという話だった。この一件以来、碕寺と絢戸の家の仲は険悪なのだと聞く。
 だから俺も、碕寺の住職の五男である同級生の秋生とは、話してはならないと言われている。俺達は同じ歳で、今年で十七歳となるのだが、今まで一度も話をした事が無い。俺は時々秋生に視線を向けるのだが、秋生が俺を見る事は一度も無かった。

「瑞孝、そろそろ寝なさい」
「はーい」

 母の声に、俺は頷き、布団に入った。
 その夜――俺は、夢を見た。白い髪に緋色の瞳をした子供が、俺を喰い殺す夢だ。夢の中で、息も絶え絶えに天井を見ている俺を、抱き起こす誰かがいて、その相手の顔は、秋生に似ていた。知っている、これは夢なのだ。昔から繰り返し見るから分かっている。秋生を大人にした姿の人物を、俺は夢の中で、『時生』と呼ぶ。時生は、震える手で鎌を片手に持っていた。けれど俺が絶命する直前で、それを取り落とすのが常だ。

『連理を殺さないでくれ』

 俺の声に、ハッとしたように時生は動きを止め、そして――逆に連理に噛み殺された。俺があの時、止めさえしなければ。時生は今頃きっと生きていたのに。

「もう朝よ、起きなさい!」

 布団を剥ぎ取られて、俺は目を開けた。同時に、何度も見ているはずなのにいつも忘れてしまう夢を、この日も忘れた。



 その後、俺は進学した。そして、第二次世界大戦が始まった。
 俺も徴兵により戦地へ赴いた。出兵前には見合いをし、結婚して子も設けた。多くの人間が、同様だったと思う。
 終戦後、俺は節巳村へと戻る事にした。
 俺が戦地にいた内に、妻は病を得て亡くなったと聞いた。
 この村で、流行性感冒が広がった結果である。蛇神様の祟りだったなどと言う風説の流布まであったそうだ。
 だが、一人息子はすくすくと育っていた。それが幸いである。母の早耶が面倒を見てくれていた。
 本日俺は、母と息子を連れて碕寺の墓地へと向かい、妻の墓に花を手向けた。

「後添えは貰わないのですか?」

 母の声に、俺は曖昧に笑って返したと思う。決して愛のある結婚では無かったが、時流の中において、珍しい形では無かったはずで、その範囲において、俺は子供を守り育ててくれた妻を大切に思っていたからだ。
 戦後。
 昭和という元号は変わらないが、新たなる世が始まった現在。
 子供には、平和な世界を見せたい。
 その後、法事の代金を住職に支払う為、俺は母と息子を先に帰す事にし、社務所へと向かった。暫しの間歩いて行き、奥に庵があるのを一瞥してから、俺は井戸の前に、碕寺秋生の姿を認めた。

「ご無沙汰しております」

 俺がそう声をかけると、剃髪の元同級生が振り返った。切れ長の瞳をしている。あちらも徴兵の後帰ってきたそうで、家族と共に暮らしているそうだ。妻帯はしていないらしく、彼の戦死した兄の残した子達を、養子として育てていると、風の噂で聞いていた。

「絢戸か」
「ああ。今日は、法事、有難うございました」
「仕事だからな」

 そう言われると複雑な気持ちになる。故人を偲ぶ気持ちを、仕事として片付けられるというのが、なんとも言いがたい。

「お互い無事に戻る事が出来て良かったな。これからは、村に居るのか?」
「まだ分からないが――秋生は、住職様だものな?」
「そうだな。弔いながら余生を過ごす。そして、監視をしながら」
「監視?」

 不意に響いた物騒な言葉に首を傾げると、目を伏せた秋生が軽く首を振った。

「こちらの話だ。兎に角、絢戸――寺には極力近づくな」
「そう邪険にしないでくれ。過去には色々、碕寺と絢戸にはあったかもしれないが、これから仮に一緒に村で暮らしていくのだから、親しくしよう。子供達のためにも。それに今は、新しい時代も来たんだからな」
「……相変わらずお人好しだな」
「え?」
「具体的に言い直す。そこにある庵にだけは近づくな。もし万が一近づく必要がある場合、必ず俺を伴ってくれ」

 そう言って庵を見た秋生の視線を追いかけてから、俺は頷いた。

「あ、ああ。分かった」
「それさえ守ってくれるのならば、親しくする事は、こちらから願い出たいほどだ。本当にそれが叶うのならばな」
「……? そうなのか? そうだ、良かったら今度、家に酒でも飲みに来てくれ。あ、住職は生臭はダメなんだったか?」
「名目上は、な。別段気にせず、この寺では口にするが」

 そんなやりとりをしていると、不意に秋生が微笑した。初めて見たはずの笑顔だったのだが、妙に心に響いてきた。既視感がある気がしたから不思議だ。俺はこの時、この笑顔が無性に好きだったはずなのにどうして忘れていたのかと、自分に対して問いかけそうになっていたが、そもそもこのように長時間話をした事自体初めてのはずだったから、すぐにその思考は打ち消した。
 この日から、俺と秋生は少しずつ話をする仲になった。
 俺が節巳村の村長になる頃には、幼少時が嘘のように、親友と言っても良い仲に変わっていた。ただ、お互い寄る年波には勝てない。秋生が七十二歳の時、病床で峠と言われた夜、駆けつけた俺は、じっとその横顔を見ていた。秋生は親族がいたその場で、『瑞孝と二人にして欲しい』と人払いした。その為残った俺は、必死に彼の手を握った。

「瑞孝」
「なんだ?」
「頼みがある」
「お前の家族の事なら任せろ。皆、俺にとっても――」
「違う……それは有難いが……違うんだ、『廣埜』」
「意識が混濁しているのか?」
「……寺の敷地の、庵の中の座敷牢には、絶対に近づくな」
「え?」
「頼む。約束してくれ。あの中にいる蛇神にだけは、絶対に近づかないでくれ」
「秋生……?」
「死んだら、仮に生まれ変わるとしても、俺は暫くお前を守れない。俺はもう二度と、蛇神にお前を害されたくないんだ。頼む、約束してくれ。後生だから」
「……」
「頼む。お願いだ、約束してくれ。また、俺がお前を守れる日まで、俺がそばに行くまで、頼むから――絶対に一人では、近づかないでくれ」
「秋生? 分かった。約束すれば良いんだな? うん、分かったよ。俺は、庵には近づかない」

 俺は安心させようと、頷いて見せた。するとギュッと俺の手を握ってから、頷いて秋生が目を閉じた。この夜、俺の親友は、生涯を終えた。俺はそれから更に四年ほど生きた。平穏な生涯だった。秋生の言葉を忠実に守り、一度も庵にだけは近づかなかった。



「――絢戸瑞孝、享年七十六歳」


 ◆◇◆




 緑色の看板のファミレスで、ドリンクバーで選択したメロンソーダに白いストローをさして、俺は椅子に座った。四人がけのテーブルだが、俺と正面に座る碕寺紫生しかいない。ガラガラの店内だからなのか、するっとこの席に案内された。
 紫生は、俺の四歳年上の、県警のエリートだ。俺はといえば、しがない大学生である。節巳村の家が隣だから、幼少時より何かと構ってもらった。俺は現在、二十三歳の医大生だ。紫生は警察官として過ごしていて、俺が大学に入る事になってすぐに保証人になってくれた。

「青唯」

 絢戸青唯が俺の名前だ。今日は二人でファミレスに来たわけだが、普段は俺が家賃代のせめてものお礼に、家事をしている。一応医大に通っている俺だが、まだ専攻が決まらない。日々の生活と国試の勉強でいっぱいいっぱいだ。

「あまり根を詰めすぎるなよ」
「え?」
「目の下。真面目なのは良い事だけどな、クマが出来てるぞ」

 それを聞いて、俺は思わず苦笑してしまった。紫生は優しい。

「そうだ、次の連休は帰って来いって言われてるんだった。紫生は帰る?」
「節巳に?」
「ああ。勉強もあるし、これを逃すと次にいつ行けるかも分からないからな」
「青唯が帰るなら、休暇を取る。いいか? 絶対に一人で節巳に行くな」
「前からそう言うよな。俺も子供じゃないんだから、帰省くらい一人でも出来るぞ?」

 苦笑してから、俺はたらこパスタをフォークで巻き取った。しかし仏頂面に変わった紫生が首を振る。

「ダメだ。節巳に戻る時は、必ず俺を連れて行け」
「うん? じゃあ――次の週末には帰ろうかと思うけど」
「空けておく」

 この日はそんなやりとりをした。そして、二人で待ち合わせをしていたファミレスを出て、一緒にモノレールに乗り、マンションへと帰宅した。エントランスの扉を開けてすぐ、紫生は後ろから俺を抱きしめた。
 実を言えば、俺と紫生は、恋人同士である。男同士なのだが――紫生は、性別なんか気にならないくらい、俺を好きだと言ってくれる。
 明確な契機があったわけではない。共に暮らしていたら、自然と距離が縮まった。気づいたら俺は紫生の事しか考えられなくなっていた。

「ん、っぅ」

 顎に手を添えられて唇を塞がれて、俺は幸せに浸る。その後、暫しその場で唇を重ねてから、俺達は中へと入って、寝室へと移動した。

「青唯」
「ァ、ぁ……」
「何度生まれ変わっても、俺は必ずお前を見つけ出すし、ずっと愛してる」

 この夜も、俺は紫生に抱き潰された。



 紫生の車で帰省した節巳村は、全く変化が無いように見えた。俺の実家の絢戸家まで送ってくれた紫生は、車の窓を開けると、じっと俺を見た。

「いいな? 絶対に碕寺には来るなよ?」
「――浮気の予定でもあるのか?」
「お前以外を見るはずが無いだろ」
「でも」
「でも?」
「会いたくなったらどうしたらいい?」
「迎えに行くから、事前に俺に言え」

 俺の言葉に、紫生が優しい顔で笑った。俺も微笑み返してから、実家の中に入る。家のしきたりとして、まずは仏壇で手を合わせた。上を見上げ、大伯父さんだという廣埜という人物や、祖父の瑞孝の遺影を見る。絢戸家は、そこそこ古くから続く農家みたいだ。

「でも、どうして碕寺に行ってはならないんだろうなぁ」

 それは、昔から紫生に言われてきた言葉だった。好きな相手の家に行きたいと思うのは、自然な事だと俺は思う。精神医学の参考書を開きながら、くるりと俺はシャープペンを回した。丁度、私宅監置について触れている、旧世代的な精神医療についての頁だ。
 ちなみに、サプライズ……――突然出向いたら、怒るだろうか。行ってみようか。
 この夜は、家族に帰省を祝ってもらったのだが、俺は眠るまでの間、ずっとその案を忘れなかった。
 こうして翌日、俺は碕寺へと向かう事にした。
 お寺の脇の林を眺め、そちらは近道らしいが、足を踏み入れるなと言われていたので、素直に石段を登っていく。そして敷地に入ると、井戸や社務所、そして、その向こうに旧本尊や庵が見えた。

「ん?」

 コンコン、と。
 音が聞こえた気がした。顔を向けると、庵の鉄格子の硝子が、小さく揺れていた。
 なんだろう。誰かいるのだろうか?
 そう考える内に、自然とそちらに足が向いた。
 進んでいくと、庵があって、鍵が――開いていた。勝手に入ったら悪いかとは思ったが、不思議と惹きつけられて、俺は手をかけてしまった。中にはもう一つ扉があり、格子越しに中が見える。なんだろう、ここは? そう考えながらチラリと覗くと、中には黒い木の床が見えた。

「やぁ、廣埜」
「え?」
「ああ、もうそれは昔の名前か。知ってるよ。確かその次は、瑞孝だったんだね。秋生が話していた」
「?」
「秋生は、今は紫生か」

 中には、二十代くらいの、白い髪に緋色の瞳をした青年が一人座っていた。白い和服を着ている。左肩のところに、何かが切断された痕のようなものが見えた。

「『初めまして』かな。君の名前は?」
「え? あ、俺は……絢戸青唯です」
「青唯。青唯、か。相変わらず、『美味しそう』だね」
「?」

 何を言われているのか分からず、俺は首を捻る。

「でも――喰べるのにも飽きたな。僕もそろそろここを出たい。ねぇ、青唯。僕と交換しない?」
「交換?」
「僕の代わりに、これからここにいてくれない? うん。いいね、そうしよう」

 後方からキツく肩を掴まれたのは、その時の事だった。

「!」

 反射的に振り返れば、そこには険しい顔をしている紫生の姿があった。俺を抱き寄せた紫生は、真っ直ぐに青年を睨めつけながら、俺に言う。

「来るなと言っただろう」
「あの……この人は?」
「出るぞ」
「待って。ここ、おかしいよね。座敷牢みたいな――」

 昨日参考書で目にした写真と似た構造の室内を一瞥し、俺は思わず言った。すると、紫生が舌打ちした。

「助けて、青唯。僕は、碕寺の人間に、監禁されているんだよ」
「え」
「耳を貸すな、青唯」
「でも――」
「俺とコイツのどちらを信じるんだ?」

 そう言われると、返す声が無かった。そのまま俺は、庵から連れ出された。

「いいな、青唯。お前は何も見なかった」




 そのまま母屋まで連れて行かれた俺は、玄関で靴を脱ぎ、その後、紫生の部屋へと連れて行かれた。紫生は部屋に入るなり施錠すると、俺を抱きしめ――そして、床の布団に押し倒した。

「し、紫生?」
「何故言いつけを破った?」
「……ごめんなさい」
「ああ、存分に懺悔してもらおうか?」

 不機嫌そうに述べた紫生は、いつもより乱暴に俺の服を開けた。狼狽えて、俺は藻掻く。

「ま、待って? 家の人とかが来たら――」
「今日は葬式が入っているから、皆出てる」
「そ、そうか……」
「二度と蛇神に、お前を害させたりはしない」

 紫生はそう言うと、俺の首筋に噛みつくようにキスをした。片手で胸の突起を刺激しながら、舌では俺の肌をなぞっていく。その感触にゾクゾクしながら、俺は震えていた。どうして紫生がこんなにも焦っているのかは理解出来ないが、いつもよりも激しく求められているのは理解出来る。

「ん、ン」

 指を二本、紫生が俺の口の中へと入れた。覚えさせられていたから、俺はそれをしゃぶる。紫生は指先で俺の舌を嬲った。そうして引き抜くと、俺の片側の太股を持ち上げて、ゆっくりと唾液で濡れた指を二本、俺の後孔へと挿入した。

「ぁ、ぁ、ぁァ」

 そのままじっくりと解されていく内に、俺の体が熱を孕んだ。全身が小刻みに震え始め、びっしりと汗をかいていく。必死で息をしていると、指を引き抜いた紫生が、俺の菊門に陰茎の先端をあてがった。

「ああ! あぁ……っく、ぅあ」
「辛いか?」
「ひ、ぁ……平気だけど、ぁ、ぅ……んン――ッ」

 緩慢に、けれど実直に差し入れられ、俺は必死で息をする。思わず紫生の首に腕を回した時、一気に根元まで挿入された。その状態で、紫生が体を揺さぶる。俺は声を上げた。

「あ、ああ、ァ……ん、っ、ぁ……紫生……ああ」
「ダメだと教えた事を守らないのは、悪い事なんだぞ? 確かに『昔』からずっとお前は好奇心旺盛だったが――猫をも殺すというだろう?」
「あ、あ、うっ、ン――ああ! もっと動いてくれ」
「いくらでも」

 俺が求めると、紫生の動きが激しく変わった。俺は快楽に涙ぐみながら、嬌声を零した。この日、俺は意識を飛ばすまでの間、紫生に貪られていたのだった。



 事後。
 気怠い体で目を覚ました俺は、自分が紫生に抱きしめられている事に気がついた。紫生の厚い胸板に手で触れて、チラリと彼の顔に視線を向けると、黒い瞳と目が合った。

「青唯。もう心臓に悪い事をしないでくれ」
「――……あの人は、誰だったんだ?」
「蛇神だ。それ以上でも以下でもない。追及するな」

 俺を抱き寄せ、髪を撫でながら、紫生がスッと双眸を細めた。
 それを見た直後、再び俺は睡魔に襲われ、眠ってしまったらしかった。



 ――銃声がしたのは、早朝の事だった。
 俺は、一人きりの布団で、その音により目を覚ましたが、猟友会の者が獣を撃ったのだろうかと漠然と考えるだけだった。同時に、紫生はトイレにでも行ったのだろうかと思った後、すぐにまた微睡んだものである。
 なお、節巳村の碕寺の離れ――庵の中の座敷牢で見つかった白髪のシャム双生児の遺体に関する記事は、村人の誰の目に触れる事も無かった。何故ならば、そこで一度、『終わった』からである。


 ◆◇◆



 大正という時代の始まり。
 帝都、灯京は迫り来る戦禍の気配に包まれている。医師を志して上京した俺は、私宅監置の資料をまとめながら、実際には一度もそう言ったものを目にした事が無い己について考える。座敷牢など、本当に存在するのだろうか? 少なくとも、節巳の村では見た事が無い。

「絢戸先生、お手紙ですよ」

 声をかけられ振り返ると、研究室の中へと使いの者が手紙を運んできたところだった。更なる資料の追加だろうかと考える。届いた一通の手紙には、『絢戸廣埜』という俺の名前が確かに記されていた。差出人を見れば、『碕寺時生』と書いてある。俺の幼馴染だ。

「やっと返事が来たか――いや、待て。どういう事だ?」

 過去、俺は手紙を送った事は無いはずだ。家が近所で狭い村であるから相応の付き合いはあったが、上京してから俺は時生に手紙を書いた記憶など無い。なのに、無意識にそう呟いていた。開封しながら、俺は首を傾げる。

『時間は前にのみ進むのではなく、輪廻の巡りは過去にも及ぶようだ。俺はここで監視をする。殺す事は出来ないと理解した。閉じ込めておくしかないという理由を知った。二度と節巳には戻るな』

 そんな短い手紙だった。

「どういう意味だ?」

 呟きながら俺は、酷い焦燥感に襲われていた。すぐにでも節巳へと戻らなければ、俺は永遠に喪失してしまうのではないか、奪われてしまうのではないか、そんな恐怖に駆られた。自分でも論理的に説明する事は困難だったが、俺はその日の内に休暇を願い出た。
 節巳へと戻り、俺は生家に荷物を置いてすぐ、碕寺へと向かった。
 すると視界に、庵が入る。強い既視感がある。俺は、あの場所を知っているような気がする。気づけば真っ直ぐに、そちらへと進んでいた。

「!」

 そして目を見開いた。南京錠と御札にまみれた外扉、内扉、格子戸――見える中には、白い着物の少年がいる。一人か、いいや、二人とすれば良いのか。中には、二つの首を持つ色素異常の少年達が座っていた。左の首が『比翼』と言い、右の首が『連理』と言うのだと、何故なのか俺は、知っていた。その正面に、俺に気づいた様子の無い時生が立っている。

「――だから何度も教えてあげているのに。僕と比翼の代わりに、絢戸をここに入れて、ずっと眺めて、守っておけば安心だって」

 連理の声がした。俺は息を呑みかけ、気づかれないように後退る。しかし左の首である比翼が、直後真っ直ぐに俺を見た。そして麗しい唇を動かす。そこに音は無かったが、俺には読み取る事が出来た。過去にも同じ言葉を聞いた事があるからだ――初めて見たはずなのに。

『廣埜、大切なものを守ってあげて』

 そうだ。俺はいつか、幼少の頃に、確かに聞いたはずだ。
 あの時はその他に、逃げる事もまた勇気だとも聞いた。
 だが、そんな現実は存在しないはずだ。俺は、林の脇にある座敷牢など目にした事は無いはずだ。では、この記憶はなんだ?

「いいや、俺はここで、お前達を見張る」
「そう。じゃあこれからは、ずっと僕達と君が一緒だね」

 ――蛇神が、本当に執着し、欲している存在。果たしてそれは?

「時生」

 俺は決意し、嫌な冷や汗をこらえ、震えを押し殺しながら声をかけた。

「廣埜! どうしてここに?」
「出るぞ」
「あ、ああ。お前をここに置いておくわけには行かない」

 時生が俺を連れ出そうとした。俺もまた時生を連れ出したかった。そうしなければ、奪われる事を本能的に理解していた。一瞥すれば比翼は優しい顔で、連理は退屈そうに、だがどちらも唇には弧を貼り付けて俺達を見ている。

「何故この村に戻ってきた?」
「時の流れが一方向では無いように、愛もまた双方向だからとだけ伝えておく」

 ――人間には生きる権利があるはずだ。人間ならば、誰にでも。だが、人間では無かったならば? その上、その存在が、殺せず繰り返す理の中で生きていたならば? 輪廻の中に閉ざされた村の内側、そのまた内の座敷牢。ただ、そこに閉じ込めておくほかない。歪みを正せぬ以上、押し込め、見えないようにしておく以外の術は無い。
 俺は村に戻り、その後、座敷牢を絢戸家の敷地へと移した。時生は大反対したが、俺が押し切った。
 永遠に解体されないと決定している座敷牢の扉をきつく閉ざし、鍵をかけてから、俺は一人頷く。決して、時生を害させない。決意し、俺は家を継ぎ、村長として励みながら、蛇神の監視を始めた。
 ――その前は、別の座敷牢にいたんだ。
 ――寺の前は、庄屋の家で、そこも『絢戸』だった。
 ――ああ、村長の家だった事もあったかな。
 結局のところ、柿の表面に傷をつけた時、そこに布をかぶせておけば、一時的には傷は見えなくなるが、腐敗は進んでいく。いくら内の内に閉じ込めようとも、歪な流れ、螺旋状の輪廻の配列は、村の血脈の中で繰り返す。それが、呪いなのだろう。しかし比翼が教えてくれた愛の形の一つでもあるように感じる。

『この愛を受けたるの不幸の外に、この村に生れたるの不幸を重ぬるものと云ふべし』

 そう書いた日記の扉を俺は閉じた。


                                      【完】