セーフワードは、愛してる。




 コツン、と。
 膿盆の上に、ピンセットで銃弾を置いた時、静かな室内に音が響いた。
 患者の肩からそれを摘出した時、苦痛の声が僅かに漏れた。貫通していれば良かったのだろうが、わざわざ闇医者の俺のもとまで来るのだから、最初からこの状態を想定はしていた。縫合し、患部に包帯を巻いていく。消毒薬の香りが、俺は嫌いではない。なお局所麻酔が切れた時、きっとこの患者は痛みに泣くのだろうが、鎮痛剤を処方する予定も皆無だ。俺に依頼された内容は、『銃弾を摘出して欲しい』という行為のみだからだ。

 そもそも医師免許を持たない俺には、処方箋を出す事が出来ない。
 だが問題は無いのだろう。今回の患者は、俺に、国内未認可のSub不安症の薬を密輸入して卸してくれる組の人間だ。合法・違法を問わず、彼らは薬に不自由していないはずだ。逆にそちらから、俺側が必要な医薬品を分けて貰う事さえある。

 帰っていく患者と付き添いの人間を、俺はその場で見送った。白いテーブルの上には、彼らが置いていった分厚い茶封筒がある。中身は二百万といったところか。口止め料も含んでいるのだろう。別段金に興味があるわけでは無いから、そのまま無造作に持ち上げて、適当に棚へと封筒のまま放り込んでおいた。

 ここはマンションの一室だ。
 看板が無い、無認可のクリニック。俺の職場であり、家でもある。
 処置室を掃除してから、俺は居住スペースへと戻り、窓の外を見た。港の灯りが見える。いくつも停泊しているあれらの船舶のいずれかには、今回の『客』達が扱うような非合法の薬もあるはずだ。赤い灯りが点々と光るこの港の夜よりも、この世界はずっと仄暗い。

 目を伏せる。瞼の裏には、飛行機避けの赤い灯りがこびりついたままだ。
 無機質な赤が、俺は嫌いだ。例えば総合病院の救急の灯りや、救急車のランプなど、冷たい赤は、意識してみれば街の各所に存在している。

 インターホンが鳴ったのはその時の事で、俺は思考を振り払い目を開けた。エントランスへと緩慢に振り返る。予約診療などしていないから、突然来る患者は別段珍しいわけではない。俺にとって、患者と客は同じ意味だ。

 白衣のポケットからPTPを取り出して、錠剤を三粒、掌にのせる。それを口に含んで噛み砕きながら、俺は外を映し出しているモニターを見る。今口にしたのは、Sub不安症の薬だ。既に慣れたが、薬を飲む時ばかりは、己のSub性を嫌でも想起させられる。

 俺は、Subだ。だが、普段はそれを隠して生きている。尤も闇医者の俺の人付き合いなど最低限であるから、滅多に露見するような事は無いのだが。

 静かに外を映すカメラへと歩み寄り、マンションの扉の外に立っている人物を見る。そこには前髪を後ろに流している、眼鏡をかけた見知らぬ人物がいた。いかにも高級そうな小物まみれで、裕福そうな出で立ちだ。応対するか、無視を決め込むか。思案していると、再びインターホンが音を立てた。

 怪我をしている可能性。
 長めに瞬きをしながら検討し、俺は一応話だけは聞いてみるかと決意する。

「はい」
『開けろ』
「どちら様ですか?」
『薬が欲しい』
「病院に行かれては?」
『だからここに来た』

 不機嫌そうな声音に、俺は目を眇める。俺は相手を知らないが、先方はここが闇医者のクリニックだと知っている様子だ。

「……何の薬だ?」
『中で話す。さっさと開けろ。早くしろ』

 横暴な客が俺は好きではない。その上、急いでいるようにも負傷しているようにも見えない。だというのに、何故ここへと訪れたのか――疑問ばかりが浮かんでくる。しかし自力で来院出来ない急患の発言を、この来訪者が代理で行っている可能性を考えて、俺は幾ばくか逡巡した後、エントランスへと向いオートロックの扉を開けた。

「……」

 改めて男を見る。上質なスーツ、腕にはスイスの高級メーカーの時計、纏う香りはアーク・ロイヤルのバニラ。背が高い男は、俺と同世代に見える。三十前半といったところか。グレアを放っているわけでは無いが、眼鏡の奥の切れ長の目が放つ鋭い光には、独特の威圧感がある。ひと目見ただけでも、カタギでは無いと分かる。

「入れ」

 どこかの組の関係者の可能性が非常に高いと判断しながら、俺は踵を返した。
 そしてリビング兼待合室に、男を促す。値が張りそうな革靴を脱いだ男は、素直に俺の後をついてきた。

「座れ。それで?」
「珈琲の一つも出ないのか?」
「ここは喫茶店じゃない。お前は薬が欲しいんだろう? 具体的に、どんな?」
「――Sub不安症の薬だ」
「ドラッグストアにでも行ったらどうだ?」
「先生は持っていないのか?」

 低い声音には笑みが含まれていた。俺は反応を返さずに、傍らにあった安っぽい、黒く丸い灰皿を差し出す。薬の売買自体は俺の仕事では無い。だから濁す為の話題を探す。

「Normalの俺には不要の代物だ」
「Normal? お前、名前は?」
「|常磐《ときわ》だ」
「おかしいな」
「何が?」
「――Subと聞いていたが?」

 それを耳にして、俺は眉を顰めそうになった。何故俺がSubだと知っているのだろう。この事を知るのは、ごく限られた者のみだ。

「お前は何者だ?」
「俺は|霧生《きりゅう》。本名だ」
「どこの組だ?」
「組? 大学時代の必修クラスは、一組だったが」
「馬鹿にしているのか? 今の所属を聞いている」

 俺が眉を顰めると、霧生と名乗った男はこちらを馬鹿にするように見ながら吹き出した。
 そしてスーツの内側に手を入れると、煙草の箱を手に取り、一本抜き取った。アーク・ロイヤルを銜え、ブランド品のオイルライターで火を点けている。洒落た猫のデザインが彫り込まれていた。終始、余裕ある笑みを浮かべているのが忌々しい。紫煙が天井へと登っていく。

 灰皿に煙草を置いた霧生は、改めて俺を見ながら、ポケットに手を入れた。
 そして続いて彼が取り出したものを見て、俺は息を呑んだ。

「刑事部捜査第一課。現在の所属だ。ああ、警視とまでは呼んでくれなくて良いぞ、常磐先生」
「……」

 黒い警察手帳を凝視してしまう。嫌な汗が浮かんできた。だが、闇医者家業の終焉なんて、こんなものなのかもしれない。

「別段、お前が非合法な薬の密輸入に関わっているからといった理由でここに来たわけでもない。それはマル暴と麻取の管轄だ」
「薬が欲しいなら、D/S専門医に診てもらったらどうだ? 霧生警視」
「俺が使うわけじゃない。ここに入れてもらう為の口実だ」

 そんな事は分かっている。俺は細く長く吐息をしてから、組んだ手を己の膝の間に置いた。霧生と名乗った男は、俺を見て相変わらず意地の悪い顔で笑っている。

「聞きたい事がある」
「令状は?」
「残念ながら。個人的に来ただけだからな。最悪の場合、薬の不法所持で、任意同行をお願いしようとは思っていたが」
「拒否する。俺に聞きたい事があるのならば、きちんと捜査令状を持参してくれ」

 俺が伝えると、霧生が喉で笑った。

「それにしても珈琲が飲みたいな」
「無い」
「――今日の昼、お前は駅前の珈琲専門店で豆を買っただろう?」

 尾行されていたらしい。この場から逃げようという気は起きないが、珈琲を素直に淹れる気分でもない。

 その場に強いグレアが溢れたのは、俺が彼の希望を拒否しようとした、その直前だった。

「《|Take《取ってこい》》」
「な」

 驚愕し、俺は目を見開いた。ダラダラと汗が溢れていく。言われた通りに俺の体が動く。コマンドを理解した瞬間、最悪な事に俺は――悦んでいた。自分のSub性が憎い。久しぶりに与えられたコマンドが心地良くすらあって、ドクンドクンと鼓動が三半規管を麻痺させるように強く何度も啼いた。

 気付けば俺は隣室へと向かっていて、その後すぐに豆の入った袋を開封していた。手動のコーヒーミルに豆を入れ、ハンドルを動かす頃には、理性では沸々と怒りを覚えていたのだが、その間もずっと歓喜としか名付けようのない情動が、俺の内側に存在していた。

 自分が何故従っているのか……それが、理性では分かっても、やはり感情的には納得出来ない。警察官が、このように強制的にグレアでSubを従わせる事など、違法だ。これだから俺は、基本的にDomが嫌いだ。なのに、そのコマンドに愉悦を感じる己が一番嫌いだ。

 豆の良い匂いがする。
 カップを運んで戻ると、霧生がじっと俺を見据えた。

「《|Good boy《良い子だ》》」
「……」
「セーフワードを決めておかないとならないな。俺は優しいDomだから」
「巫山戯るな。強制的に今――」
「決めるのを失念していた。そうだ、こんなのはどうだ? 『愛してる』」
「は?」
「嫌がって拒否しながら俺に愛を叫ぶお前が見てみたくなった」
「とんだ変態だな」
「《|Strip《脱げ》》――お前には、白衣の袖に腕を通す資格なんて無いだろう?」
「っ」

 霧生の言葉は事実だ。医師免許を剥奪されて久しい俺が、白衣を着ている事は愚かしい事だろう。だがそんな思考とは別の部分で、体が勝手に動く。強いグレアに俺は当てられている。

「きちんと全部脱げ」
「……全部?」
「物分りが悪いらしいな。俺は、裸になれと言っているんだ」
「断る」
「セーフワードは、教えたばかりだろう?」
「……っ」

 脱ぎたくはなかった。だが、死んでも『愛してる』なんて言いたくない。葛藤している内に、俺の手は動き始めた。脱ぎたくない理由は簡単だ。Sub不安症による首の掻き傷を見られたくないだけだ。

「酷い傷だな。《|Present《よく見せろ》》」
「……」
「折角綺麗な体をしているのに勿体無い。《|Crawl《這い蹲れ》》」
「……」
「抱いても良いか?」
「……」
「沈黙は肯定と受け取る主義だぞ、俺は」
「……」
「信頼関係の構築には、体を繋ぐ事が一番だというのが俺の持論でな」

 霧生が俺の臀部に触れた。菊門を押し開くようにして、じっと見ているのが分かる。羞恥に駆られながらも、本当に最悪な事に、俺はやはり悦んでいた。それを口に出さないのが、俺に出来る意識的な精一杯の抵抗で、だが既に体は先を望んでいる。

「ん、っぅ」

 指が二本、一気に俺の中へと挿入された。その異物感に声を零すと、楽しそうな声が響いてきた。

「その首を見る限り、パートナーはいないように思えるが、こちらの相手はいるのか? 随分とすんなり入ったが」

 一人で自慰に耽っていた事を、見透かされている気がした。実際、特定のパートナーはいない。それでも体を暴かれるのが好きで、けれど専門の店に出て他者と関わるのは躊躇があって、結果一人で快楽を得ようとしてしまう事がある。己のSub性をわざわざ確認に出向く勇気が俺には無い。俺にとってSubという性は、どちらかといえば忘却したい事象の筆頭だ。それ以前に、例えSubで無かったとしても、俺は他人と積極的に関わる気が無い。

「あ、あ、あ」

 しかしその後、ゆっくりと指を抜き差しされる内、間断なく俺の口からは声が漏れ始めた。すぐに俺の陰茎は反応を見せる。それに気づいた霧生が、もう一方の手で、俺のものを擦り始めた。

「ひ、っッ、ぁア」
「《|Stay《まだ出すな》》」
「や、嫌だ、っン……あ、あ……で、出る、あ……」
「挿れるぞ」
「ああああ!」
「声が大きいな、嫌いじゃないが」

 霧生が引き抜いたベルトが、床にぶつかって金属音を響かせた。巨大な亀頭が挿ってくる。雁首まで入った時、その熱に俺の全身が震えた。もう四つん這いの体勢など維持できなくて、俺はフローリングの床に上半身を預ける。すると根元まで突き入れて、俺の背中に霧生が体重をかけてきた。そしてねっとりと俺の耳の後ろを舐めると、小馬鹿にするように笑いながら囁いた。

「淫乱なんだな。勿体無い、きちんと体を慰めて労われ」
「や、ぁ、あああ」
「嫌? 面白い事を言う。本当は、気持ち良いんだろう? 《|Say《答えろ》》」
「あ、あ、気持ち良、っ、う、うああ」
「どうして欲しい? 《|Say《聞かせてくれ》》」
「もっと、あ、あ、もっとしてくれ――うあああ」

 俺が夢中で答えると、激しく霧生が動き始めた。頭の中が痺れたようになり、全身がぐずぐずに熔けていく。荒々しい交わりが、俺に強い快楽をもたらした。霧生の激しい動きは、俺を支配するかのようで、それが……嬉しい。無性に、満たされてしまう。汗ばんだ俺の肌には、黒い前髪が張り付いてくる。快感由来の涙で滲んだ瞳で、俺はなんとか振り返ろうとしたが、全身から力が抜けてしまい、上手くいかない。

 そのまま散々貫かれ、気づくと放った後、俺は意識を飛ばしていた。
 目が覚めると俺は白衣をかけられた状態で、ソファの上に寝ていた。
 霧生の姿は既に無い。強いグレアを利用して、堂々と俺を抱いて帰った奴こそ、訴えたら俺が勝てそうだ。だが職業柄もあって、俺にはそうする権利も無いだろう。

 こういう事は、実を言えばたまにある。俺をSubだと見抜くようなハイランクのDomが、口止めを兼ねて俺を抱いて帰る事は、別段珍しくはない。拒むほど、俺も潔癖ではないし、欲求不満は常だ。

 結局、霧生が何を聞きたがっていたのかは知らないが、知りたくもない。
 患者の個人情報は、話せないというより、聞かないようにしているから俺は答えられない。

「忘れるか」

 ――次に霧生の姿を見たのは、その三日後の事だった。


「やぁ、常磐先生」
「!」

 スーパーから帰った俺がエレベーターに乗り込むと、続いて霧生が乗り込んできた。気配などまるでなく、どこから尾行されていたのかも分からない。軽く背中を押され、気付いた時には、扉を閉じるパネルを押している霧生が俺の正面にいた。

「今日は一人で鍋か?」
「……」
「美味しそうな海老を見つけたから、買ってきた」
「……」
「お前は野菜ばかり買っていたから、入れたら丁度良くなるな」

 そのまま俺のマンションまでついてきた霧生は、堂々と中に入ろうとした。俺は踵を返し、睨めつける。

「令状は?」
「無いが?」
「不法侵入と見做す。帰れ」
「怖いな。《|Come《来い》》」
「!」

 その声を聞いた瞬間、俺は霧生の腕の中に収まっていた。憎らしいほどにその体温が心地良く感じる。バニラの香りを嗅ぎながら、俺は唇を噛んだ。すると顎をクイと持ち上げられて、少し屈んだ霧生に覗き込まれる。もう一方の腕は、俺の腰に回ったままだ。

「噛むな」
「……離せ」
「離したら、鍋を振る舞ってもらえるか?」
「……」
「言い直す。作れ、俺のために」

 本当に横暴すぎると感じ、俺はこめかみに青筋が浮きそうになるというのは、こういう事かと理解した。だから引きつった顔で笑った後、吐き捨てるように吐息した。

「兎に角離せ」

 すると霧生は、勝ち誇ったような顔で笑った。俺は作るだなんて一言も口にはしていないが、後続のエレベーターの音を耳にし、苛立ちながらマンションの扉を開けた。中に一歩俺が入ると、扉を閉める前に霧生も堂々と入ってくる。霧生もエレベーターには気付いていたらしい。

「先に珈琲をくれ」
「自分で淹れろ」
「俺はお前の淹れる珈琲が気に入ったんだ、常磐先生。さっさとしろ」

 また、勝手に俺の胸が、ドクンとした。
 Domに褒められる時、無性に嬉しくなる。それはコマンドと同じくらい、俺の精神を一喜一憂させる。無言でキッチンへと向かってビニール袋を置くと、隣に常磐も袋を置いた。俺の視線は、自然とコーヒーミルへと向かう。

「煙草が吸いたい。灰皿を持ってこい」
「リビングにある。自分で持ってきたらどうだ?」
「それもそうだな。お前には、珈琲を淹れるという仕事と鍋作りがあるからな」

 霧生が楽しげな声で言う。俺は何も答えず、ティカップを棚から取り出す。
 その後俺が珈琲を淹れ終わる頃になって、霧生は黒い丸灰皿を手に戻ってきた。

「お望みの珈琲だ。そこに座っていろ」

 少々乱暴に、俺はテーブルの上にカップを置いた。頷き霧生が、堂々とその前に腰を下ろす。カップを傾けた霧生は、大きく吐息してから、煙草を取り出した。

「鍋はいつ出来る?」
「二十分もあれば――……おい、本当に食べていくつもりなのか?」
「ああ。何か問題が?」
「職務質問や任意捜査の一形態に、鍋を共に食べるような行為が追加されたとは、刑事ドラマも驚きの展開だな」
「単純にお前と食べてみたかっただけだが?」
「……は?」
「良いからさっさと作ってくれ。腹が減った」

 霧生は偉そうだ。俺は両眼を極限まで細くした自信がある。
 だが結局その後、俺達は一緒に鍋を食べた。
 俺は確かに野菜や、キノコと豆腐ばかりを買っていたなと思ったのは、久しぶりに海老の出汁の香りを感じた時だ。一人では、気づけない。

「……美味しい」
「ああ、優しい味がするな。これがお前の中身か?」
「鍋の具材の問題だ。優しい味が出せる人間が皆優しいのなら、料理人は天使だらけだろう?」
「中々言うな。確かに――命を救うからと言って、医者が必ずしも光の徒と言えないように、職業では人は判別できないか」
「そうだな。今俺の目の前には、傲慢な警視様が堂々と座っている事も根拠となる」

 俺が嘆息すると、霧生がクスクスと笑った。そして箸を置くと、浴室の方を一瞥した。

「借りるぞ。ごちそうさま」
「は?」
「大人しく待っていろ、《|Good boy《良い子でな》》」
「!」

 不意に放たれたコマンドに、俺は目を見開く。その後霧生は、立ち上がって浴室へと消えた。俺は取り落としそうになった箸を、静かに皿の上に置く。

「何を考えているんだか……」

 さっぱり分からない。だが、既に俺の体の内側は、熱を孕んでいた。霧生の眼差しが、少し低い声が、全てが、俺に鮮烈な印象を与える。俺は残った鍋の中身を、暫しの間眺めていた。その後、自分を落ち着けようと、皿を洗う。

「お前の立ち姿は、絵になるな」

 気付いた時、いつの間に戻ってきていたのか、霧生に声をかけられた。反射的に振り返り、俺が驚いた顔を向けると、気配無くそこにいた霧生が、片手で髪を撫で上げた。

「家事は明日にしてくれ、《|Come《来い》》」

 明確な始まりとして線を引くのならば、ここだったのかもしれない。

 俺は引き寄せられるように、手をタオルで拭いてから、霧生のもとへと歩み寄った。そんな俺を抱き寄せると、俺の肩に霧生が顎をのせる。

「明日は非番なんだ。ベッドに行きたい」

 抱きしめられたままで、俺は言葉に窮した。そうしていたら、両頬を手で挟まれ、上を向かせられた。霧生の瞳がまじまじと俺を覗き込んでいる。

「ダメか?」
「っ……そういう気分なら、お得意の命令をしたらどうだ?」
「同意を求めている」
「そんなの、俺が同意なんてするわけが――」
「言い換える。不安症の錠剤を囓るよりも、俺の下で啼いて天国に逝く方が楽なんじゃ無いか? 常磐先生」
「な」
「好きな方を選べば良い。その権利は、お前にもある。《|Say《言え》》」
「抱いてくれ」

 俺は欲求に素直だった。口走った俺を見ると、薄い唇の両端を、霧生が持ち上げる。

「良いぞ。同意、だからな。俺としても、お前とはもっともっと、親睦を深めたいと思っていた所でもある」

 こうして、俺達は、ベッドへと移動した。まさか俺の意思を確認されるとは思っておらず、僅かに戸惑ったままで、俺は寝台に腰掛けた。そんな俺の前で、霧生が服を脱ぎ捨てた。よく引き締まったその肉体を目にした俺は、その直後、押し倒された。

 眼鏡を外した霧生が、ベッドサイドに片手でそれを静かに置く。見上げていた俺の首を、もう一方の手でなぞった霧生は、それから舌で唇を舐めた。

「目を閉じろ」
「どうして?」
「キスをする時は閉じるものだろう?」
「純情な警視様だな。だったらキスなんてしなければ良いだろう?」
「――《|Corner《向こうを向いていろ》》」

 霧生のコマンドに、俺は反射的に壁側を見た。すると顎を掴まれた。そして唇の代わりに、首元に強く吸い付かれた。ツキンとその箇所が疼く。

「そうだな。唇は取っておくか」

 こうして、この日の行為が始まった。言葉は横暴な癖に、霧生の手つきは優しい。前回のような荒々しさもなく、丹念に左胸の突起を愛撫される内、俺は舌打ちしたくなった。別に酷くされるのが、好きなわけでは無い。だが、俺は霧生に、愛情や優しさを求めているわけでは無い。霧生自身が言った通り、薬より、そして――自分の手よりはマシかというような、そんな認識しか、この時点で無かった。

「さっさと挿れろ」
「常磐」
「なんだ?」
「お前、慣れてないな」

 殴ってやろうかと思った。実際、それは事実だ。人付き合いが欠落している俺は、時に患者の付き添いとして訪れる人間と寝る程度の経験しか無い。

「もっと、可愛がられる事に慣れろ。俺が、存分に教えてやる」
「結構だ。そんな善意は不要だ。だから早く――」
「本当に欲しい時、どんな風になるか、そこから教えてやらないとならないようだな」
「え……ッッ、ぁ……」

 霧生が不意に俺の陰茎を口に含んだ。そうしながら、俺の菊門に指を挿入し、内側と外側から同時に刺激を与え始める。

「んン……っ、は……」

 この夜、霧生は散々俺を焦らした。人生で初めて俺は、コマンド無しの、SEXを知った。そして事後になって、俺の頬を撫でながら、やはり勝ち誇ったように笑って言った。

「《|Good boy《良い子だったな》》」

 ――以後、霧生は俺のもとへと訪れて、食事をしてから俺を抱いて、勝手に帰っていくようになった。急患がいても、俺が診察中でも、お構いなしに、最近は俺のベッドがある部屋で煙草を吸っている。そのせいで、俺の私室にはバニラの香りが染み付いた。

 じわり、じわりと。
 霧生は俺の生活に入り込んでくる。それが鬱陶しい。

「土産だ」

 本日霧生は、白い箱を手にぶら下げて、俺のもとへと訪れた。丁度診察が終わって一段落した所だった俺は、己の珈琲を飲みながら、随分と不似合いな品を携えてきたなと考える。

「なんだ、それは?」
「苺のショートケーキ」
「皿は棚だ。いつもの場所だ。もう覚えただろう?」
「常磐に食べさせたくて買ってきたんだ。俺は甘いものは苦手だ」
「は?」
「早く食べろ」

 皿を取り出し、ケーキをのせた霧生は、それを俺の前に置く。困惑を流し込むように、俺はカップを傾けながら、それを見ていた。

「お前は細すぎる。きちんと食べろ」
「……」
「医者の不養生など全く笑えないからな」

 俺に医師の資格は無いと言いかけたが、フォークにケーキを突き刺して霧生が俺の口の前に持ってきた瞬間、何も言えなくなった。

「……どういうつもりだ?」
「食べさせてやろうと思ってな」
「なんだ、その不必要すぎる気遣いは!」
「正直、照れるお前が見たかった。予想通りの反応が返ってきて、俺は満足している」
「あのな……」
「俺はパートナーは愛でる主義でな」
「――は?」
「好きなものは好きだと、愛しいものは愛しいと、きちんと主張する主義でもある。お前も見ていれば分かるが、俺の事を相当意識し始めたな?」
「言ってろ。精神科は範囲外だ」

 その後霧生は、俺を抱いて帰っていった。目を覚ましてから俺は、気怠い体で、テーブルの上にあるケーキを見た。思わずその隣にあった、ケーキの箱をたたき潰す。苛立ちが募ってくる。

 最近、霧生は俺に甘い。俺には、甘やかされている自覚がある。

 これではまるで、本当にパートナー関係になってしまったみたいだ。俺は、Domが大嫌いだ。だから絶対にパートナーなどいらない。

 次に霧生が来たら、明確に拒絶しよう。そう決意し、俺はケーキをゴミ箱に捨てた。


 ◆


「ぁ、ァ……あああ」

 しかし決意など脆くて、霧生を見て、少し低い声でコマンドを告げられる度、俺は悦んでしまう。不甲斐なくて、涙が出てくるのに、セーフワードを言う気にはならない。

「常磐」
「あ、っ、ッ、ハ……」
「――聞きたい事があると最初に話しただろう?」
「う、う……ぅァ……」

 焦らしに焦らされ、俺はすすり泣きながら、その声を聞いた。そうだった。霧生は、俺に話が聞きたいから、俺を体から絆しにかかっているだけだった。言動もケーキのように甘い所がある霧生のせいで、すっかり失念しそうになっていた。俺は滑稽だ。

「五年前。常磐、お前が医師免許を剥奪される事になった医療ミスとカルテの改竄についての話を、俺は聞きに来たんだ」

 それを聞いた瞬間、俺は全身に冷水を浴びせられた心地になった。

「《|Say《話してくれ》》、真実を」
「『愛してる』」

 反射的に、躊躇する事もなく、俺はセーフワードを告げていた。
 すると霧生の体が強ばった。

「……、何故だ?」

 探るようなその声音に、俺は開きかけていた心を封じる事に決める。
 霧生には、霧生の目的があるのだからと考え直す。
 そんな思考を巡らせる俺を、長い間沈黙し、霧生は見ていた。
 だが、呼吸を落ち着けると、霧生が不意に腰を揺さぶった。

「あ、待て、動くな、っッ――んン!!」
「まぁ良い。お前の口から、俺に対して『愛』という言葉が出るのを聞くのは、存外胸が満ちる」

 結局この日は、そのまま普通にSEXした。セーフワードの効果は絶大だったらしく、俺を抱き潰す事はしても、霧生は俺に発言を強制は出来ないようだった。

 肉体関係だって、セーフワードを用いて拒めば良いのだろうが、そちらに関しては、俺は心から嫌だとは思っていないのだと、こちらもこちらで自覚させられる。

 だがこれを境に、霧生は俺に訊いてくるようになった。俺はその度に、『愛している』と告げている。だから、いつも普通に体を重ねる事になる。

 本日は、初霜が降りた。
 俺はニュースの地域情報でそれを知った。
 今日も、霧生は来るだろうか? ここの所の俺は、そればかり考えている。そんな自分に気付く時、とてつもなく、胸が痛むようになってしまった。

 何故俺は、霧生の事をこんなにも意識しているのだろう? 霧生が、Domで、俺が、Subで、それで、なのだろうか? いいや――違うと俺はもう、理解している。

 いつの間にか俺の内側を侵食していた霧生。その目論見は大成功だとしか言えない。体が契機の俺達の関係だが、あっさりと俺は、当初の奴の持論の通り、絆されつつある。いいや、絆されている。俺は、明確に霧生の事が……好きだ。

 だからセーフワードを口にするその瞬間は、俺にとって辛くもあれば、実を言えば幸福でもある。背徳的な幸福感では、あるが。

 この日訪れた霧生は性急で、ネクタイを乱暴に引き抜いてから、ソファに俺を押し倒した。

「霧生、せめて電気を消してくれ」
「断る」
「眼鏡、曇ってるぞ」

 俺の言葉に、荒々しく吐息をしてから、霧生が眼鏡を外した。そこに現れた端正な顔を見て、俺は苦笑しそうになる。霧生の唇に、目が吸い寄せられる。最初に拒んで以後、霧生が俺にキスをする事は無い。だから――試しに俺は、誘うように目を閉じた。

「ん」

 望んでいた柔らかな感触は、すぐに与えられた。

 こんな日々が続くのも悪くは無い。俺は、どこかでそんな風にすら、思い始めている。俺の内側で、霧生という存在が、次第に大きくなりすぎていたのだろう。

 その後も、俺と霧生は何度も何度も、街路樹の葉が色を変えるまでの期間、交わった。体を重ね、食事をし、時には何もせず雑談だけをして、夜を過ごした事もある。職業柄、朝の四時前には、霧生は帰っていくが、俺は別段それに関しては寂しさは感じない。ただ時折、俺とは歩く場所が違う存在だと痛感させられる事がありはしたが。


「どうしても話してくれないのか?」

 本日は、曇天だった。先ほどから雨が降り出したのだが、霧生のスーツの肩が濡れていた。俺は命令されたわけでもないのに珈琲を差し出しながら、顔を背ける。

「その……どうして今更、そんな話が聞きたいんだ? 俺に聞くより、当時の捜査資料でも読んだ方が良いんじゃないか?」
「資料があてになると考えていれば、当然そうしている。何があったんだ?」
「……ニュースの通りだ。それ以上でも以下でも無い」
「アオヤマ総合病院における医療ミスにより、一人の少年が亡くなった。携わっていた医師臨床研修制度中の――研修医の過失。研修医は、それを隠蔽しようとカルテを改竄した。その医師の名前は、常磐ではないが、お前だ。華頂医師」

 俺は俯いた。確かに常磐というこの名前は偽名だ。生家の華頂家からは絶縁された。もうあの家の名を名乗る事も許されないだろう。そして俺が述べたニュース、それは少年の死であり、亡くなった者は帰っては来ない。

「聞かせてくれないか?」
「だからニュースの通りだと言っているだろうが」
「ではそれを、お前の口から」

 カップに両手で触れ、俺は俯いた。


 ◆


 ――あれは懐かしき、いつかの春。
 アオヤマ総合病院、広く研修医を受け入れている病院の一つだ。医学部を卒業し国家試験に合格した俺は、公園で日向ぼっこをする白と黒の模様の猫を見ていた。

「おお、豆大福」
「ベルって言うみたいですけどね」

 俺の正面に立った|仁科《にしな》先生の声に、思わず吹き出す。仁科先生は、何度か大学に公演に来た、D/S専門医だ。たまたま家が近かったから、俺は普段から先生の事を知っていた。もっと言うのならば、先生のような医師になりたいと感じて、俺は医学部を目指した。

「こんな所で油を売っていていいのか? 研修医」
「明日からです」
「フェローになったら、何を専門にするんだ?」
「D/Sですかね。雇ってくれます?」
「華頂君は一番弟子だからね。ま、今のところお前しか私の弟子志願者なんていないが」

 冗談めかして笑った仁科先生を見て、俺は『本気なんだけどな』という言葉を飲み込んだ。Subに生まれた俺は、何度か不安症に襲われ、先生に診てもらった事もある。俺も、先生のように、困難があるSubを救いたい。

 ただそのためには、実力をつけたいから。
 だからそれが叶ってから。
 いつか胸を張って、俺は仁科医院の門を叩きたい。

 希望に満ち溢れていた俺は、昼下がりの公園で、暫くの間、仁科先生と話をしていた。

 そして翌日から始まった研修医としての生活、これが中々充実していた。各科を回りながら、沢山の事を勉強した。

「明日からは、小児科かぁ」

 俺はそんな充実した日々が続く事を、微塵も疑っていなかった。ただ早く、仁科先生のそばに行きたかったし、近づきたかった。多くの人々の力になるためにも。

 アオヤマ総合病院の小児科には、長期入院中の患者も多かった。各科との連携をしながら、闘病している子供が多い。俺はその中で、一人の心疾患の少年と出会った。俺の指導をしてくれる先輩医師の担当患者で、簡単な手術をすれば無事に退院できるだろうと聞いた。カンファレンスの時、俺はいつも持参しているノートに、様々な事をメモした。

 事態が急変したのは、手術を無事に終えた日の夕方だった。残っていた俺は、血相を変えた先輩医師が、心臓外科に連絡をしているのを見ているしか出来なかった。

 ――手術にミスがあったらしい。
 漏れ聞こえてくる声に、俺はハッとした。

「|華頂《かちょう》、カンファレンスの時に取っていたメモはあるか?」
「はい、あります。すぐに医療過誤について――」
「破棄しろ」
「――え?」

 少年の死に浸っていた俺に、指導医が詰め寄ってきた。俺は何を言われたのか分からず、目を丸くしていたと思う。

「医療ミスの証拠になってしまう」
「……」
「どこにある?」
「……その、ロッカールームに。すぐに行ってきます」

 俺は、口頭ではそう答えた。だが、内心で、絶対にあのメモを渡してはならないと決意していた。メモを無事な場所に隠してこなければならない。ミスの隠蔽など、あってはならない。必死で平静を装いながら、俺はロッカーを目指した。薄暗い室内には、幸いひと気は無く、俺は無事にメモを教本類の中に隠す事に成功した。

「破棄しました」

 先輩医師のもとに戻ってそう告げれば、目に見えて安心した顔をされた。院長が入ってきたのは、その時の事だった。

「どこにどのように破棄したんだね?」
「っ、あの、切り刻んでゴミ箱に」
「――本当に? 《|Say《答えたまえ》》」
「!」

 威圧的なグレアに飲み込まれたのは、その時の事だった。セーフワードの取り決めなど、勿論無い。一方的な暴力に等しいグレアに晒された俺は、ただ震える事しか出来ず、立ち尽くしていた。

「《|Take《持ってくるんだ》》」

 ブツンと音がした気がした。俺の体の統制権が、完全に自分から外れた感覚だった。俺はロッカールームを目指してフラフラと歩き始め、その後をゆっくりと靴の踵の音を響かせながら院長がついてきた。俺が薄暗い室内に入ると、中へと続いて入ってきた院長が扉を施錠した。そして白衣のポケットからボイスレコーダーを取り出すと、片手で弄んだ。

「《|Say《復唱しろ》》、『手術前日の投薬量を間違えました』」

 そこからの事は、記憶が曖昧だ。
 俺が自分を取り戻した時、そこはアオヤマ総合病院のD/S専門病棟の特別室で、外側から施錠されていた。俺は長い間、ドロップ状態にあったらしい。

 退院前、両親が俺の見舞いに来た。その時手にしていた週刊誌には、俺の発言の全文が記載されていたが、俺には発言自体の記憶が無い。退院したその日に、華頂家という実家からは絶縁された。退院後、週刊誌のデジタルサイトでは、俺の音声が流れてきた。

「手術前日の投薬量を間違えました――」

 そこから始まる俺の懺悔。医師免許は剥奪され、俺は人殺しと誹られた。最初は事態が飲み込めなかった。最後にと実家が俺に与えた小さな家には、毎日石が投げ込まれた。酷い落書き、庭には汚物が投げ入れられる。外に出れば罵詈雑言。どんどん俺の感情は摩耗していった。

 違うのだ、と。
 俺は言おうとしたけれど、出来なかった。誰も信じてくれる者がいないと確信していた。だからある日公園に出かけたのは、『最後』に幸せだった頃に見た風景を目に焼き付けたいと思ったからだった。

「……」

 公園には変わらず、ベルがいた。

「やっと来たか」

 そして、懐かしい声がした。ハッとして顔を上げると、そこには以前と変わらない笑顔の仁科先生が立っていた。

「いつ来るかと思って、待ってたんだけどなぁ」
「……」
「私は華頂君を信じてる。大丈夫か? 死にそうな顔、してるが? ほら、立て。美味しい和菓子があるんだ」
「……っ」

 優しさが、辛かった。けれど同時に救いだった。
 信じてくれる人がいた。無論大丈夫では無かったし、死を決意していたのだが、俺は笑ってしまった。差し出された豆大福を受け取りながら、本当にベルに似ているなと考える。それは楽しい思考のはずなのに、俺は久しぶりに泣いていた。

「少し寄っていかないか?」
「――帰ります」
「そうか。生きろよ。約束してくれ」
「……はい」

 俺にはこの約束があるから、今も呼吸をする権利があると思う。
 そして、他の誰が信じてくれなくとも、仁科先生が信じてくれたのだから、良いではないかと考えられるようになった。

 俺にはもう、光の下を歩く公的な資格は無くなってしまった。
 けれど、俺に縋る人々の存在に、それからすぐに気がついた。ある日、家がノックされたと思ったら、見知らぬ男が立っていて、『診て欲しい』と俺の前に怪我人を連れてきた。後で知ったのだが、この界隈を根城にしている組の若頭だったそうだ。

 以後、俺はカタギではない世界に足を突っ込み、公的な医療に預かれない怪我人を診ている。中には、Normalと称して生きているから、D/S専門医にはかかりたくないといった悩みの持ち主もいた。俺には俺なりに、出来る事が存在したらしい。

 今は、これで良いと思っている。
 あるいは今の俺の所業を知ったら、今度こそ仁科先生は俺を見放すかもしれない。
 だが――あの事件から五年も経った現在、既に俺は子供では無い。


 ◆


 もう、俺は一人で立っていられる……そのはずだった。例えば海老の出汁の味になんて気付かなければ、バニラの香りさえしなければ。霧生がいなければ。一人だと気付かなければ。そこに寂しさを覚えたり、愛されたいと感じ願う事が無かったならば。けれど、俺が犯した罪は重い。決して、あの少年は帰ってこない。葛藤と諦観と絶望と――……ああ、自分の思考がまとまらないのが嫌になる。俺は唇に力を込めた。

 指先からどんどん温度が消えていく。気づけば珈琲は冷め切っていた。

「じきに、アオヤマ総合病院に一斉捜査と摘発が入る」
「っ」

 霧生の言葉で我に返った俺は、慌てて顔を上げた。

「お前にも証言して欲しい。院長が、違法にグレアを用いて、冤罪を被らせたのだと」
「……今更、誰がそんな事を信じると――」
「お前の指導をしていた医師が証言した。ボイスレコーダーを入手した出版社の記者も、院長の秘書から手に入れたと話している」
「……」
「常磐。もう一度言う。真実を《|Say《教えてくれ》》。お前は被害者だ。俺は、お前を信じてる」

 その言葉が、仁科先生の声と重なった。俺は震えながら霧生を見た。
 真摯な色が宿る彼の瞳を見ていたら、俺は思わず頷いていた。


 ――アオヤマ総合病院への一斉捜査のニュース、及びその後の院長の逮捕について、テレビで見てから、俺はリモコンを手に取り、電源を落とした。霧生の話は本当だったらしい。だが俺は、霧生には話をしたけれど、法廷での証言は拒否した。

「ただいま」

 インターホンは鳴らなかったが、扉が開いて霧生が入ってくる。合鍵を強請られたのは、先日の事だ。渡してしまう俺も俺だが。

「お前の医師免許、戻りそうだぞ。詳しい話は、俺には分からないが」
「別にいい。俺はここにいるからな」
「きちんと研修医からやり直して、専門医になれ」
「俺の人生に口出しするな」
「したっていいだろ、パートナーなんだから」
「いつ俺が同意したって言うんだ?」

 辟易しながら俺が言うと、ソファの後ろに回った霧生が腕を回してきた。抱きしめられる温度が嫌いではない。

「いいんだよ、俺には闇医者があってる。ここには、俺の患者がいる」
「だがお前が闇医者をしていた証拠も、密輸入されていた薬を勝手に処方していた証拠も無い。このシマの若頭はやり手らしいな」
「――あいつらは、意外と恩に厚いんだよ」
「妬けるな」

 霧生は俺の頬に触れると、口角を持ち上げた。

「《|Look《俺を見ろ》》」
「なぁ、霧生」
「なんだ?」
「愛してる」
「セーフワードは卑怯だ。キスしたかったのに」
「違う。愛してる」
「だから――……ほう。それは、コマンド無しでもキスして良いというお許しか?」
「お前は?」
「俺は最初からお前が好きだ。尾行中に一目惚れした」
「不埒な警視様だな」

 吹き出してから、俺は目を閉じた。すぐに柔らかな感触が降ってくる。
 幸せ、として良いのか、否か。それは俺には分からない。人生は続いていくものだから、いつ何があるかも分からない。だが現在、俺は霧生がいて幸せであるし、今ならば仁科医院に顔を出して、ゆっくりと話も出来るような気がしている。

「セーフワード、変えないとな」
「元々お前が一方的に決めただけだろう」
「今度は話し合って、きちんと。俺は常磐から、もっと愛の言葉が聞きたい」
「言ってろ。二度と言わない可能性が高いけどな」

 俺と霧生が首輪選びに出かけるまでは、もう少し。
 正式なクレイムより先に、俺達は恋人同士になってしまった。Domが大嫌いだったはずの俺だから、本当に人生、何があるかは分からない。

 もう不要になった不安薬の錠剤を、この日俺はゴミ箱に捨てた。けれどケーキを叩き潰したあの日とは異なり、俺は今、霧生を大切だと確かに感じている。






     (終)