【5】




 翌朝揺り起こされた時、僕は全身が気怠い事に気がついた。

「これは俺の連絡先だ」
「……」

 そう言って僕に紙を渡しながら、マーカス団長は、首元のリボンを直していた。

「この俺の連絡先を知る事が出来たんだから、もう少し喜んで見せろ」
「……」
「店まで送る」

 こうして、力が入らない体で、僕は西地区の宿屋から外へと出た。僕の背を支えるようにして、マーカス団長は歩いている。考える事すら億劫で、僕は太陽の眩しさに辟易しながら、酔っ払った昨夜の己に内心で呪詛を吐いた。

「付き合ってやってもいいぞ」

 店に着いた時、マーカス団長がそう口にした。意味が分からず、視線を向けてから首を傾げた。

「この俺の恋人になれる事、幸運だと思え」
「――は?」
「また来る」

 帰っていったマーカス団長を眺めながら、この日は仕事をする気分では無かったため、扉にそのまま鍵をかけた。シャッターは昨日から下ろしたままだ。

 体が泥のように重い。寝台に倒れ込むようにして横になり、僕は眠る事にした。
 目が覚めたのは、鍵をかけたはずなのに、階下に人の気配を感じた時だ。
 何度か瞬きをしていると、階段を登ってくる気配がして、扉が開いた。

「寝ていた? ごめんね、起こして」
「ユリス……? 何か用?」

 大家といえる彼は、当然合鍵を所持している。盗人で無かった事に安堵しつつも、勝手に入られる事は、あまり気分が良くはない。

「僕というものがありながら、マーカス団長と朝帰りをしたというのは、どういうつもりなんだい?」
「――へ?」

 ベッドで半身を起こした僕に、歩み寄ってきたユリスが言った。
 口元こそ笑顔だが、彼の瞳は冷たい。

「まさか君は、自分が誰のものか分かっていないわけじゃないよね?」
「……?」
「君は僕のものだ。僕は浮気を許さない」

 そう言うと、ぎしりと寝台に手をつき、ユリスが僕の後頭部にもう一方の手を回した。

「っ」

 そのまま唇を貪られる。思わず目を閉じた時、口腔にユリスの舌が忍び込んできた。絡め取られ、強く吸われる。

 ようやく唇が離れた時、僕は肩で息をしていた。

「とにかく今後、僕の許可なしに二人で出かけたりしないでね」

 ユリスは酷薄そうな表情でそう呟くように言うと、部屋から出ていった。
 残された僕は、呆然とした後、寝台に再び全身を預けた。
 何も考えたくない。例えば、決して僕はユリスのものでは無いというのに、いつからそんな誤解を彼がしていたのか、だとか。考える事が億劫だった。

 右手首を額にあて、僕は嘆息してから再び眠った。

 その翌日も店を開けなかった。定休日だったからだ。仮に休みでなかったとしても、開けたかは分からない。この日僕は、週に一度の買い出しに出かける。いつもそうしている。食料品などをまとめて買う。簡単に食べられるものばかりを選んでは、露店街を歩き、紙袋の中身を増やしていった。魔術紙で出来た紙袋は、買い物の時に重宝する。大陸全土に広がっている生活用魔導具の一種だ。長いパンとチーズを袋に入れ、トマトを続いて購入する。僕の毎日の食事は、豆とトマトのスープ、パンとチーズ、ピクルス、このメニューで固定してしまっているに等しい。週に一度スープを作り、月に一度ピクルスを作り、あとはそのままだ。決してそれらが少なわけではない。ただ特別に嫌いでもないだけだ。

 露店街を抜け、角を曲がった。この裏路地に、僕の暮らす東区角への近道が存在している。買い物の前後、僕がここを通るのも、常だった。

「来たか」

 その時、声をかけられた。見ればそこには、先日怒鳴り込んできて、被害者だと喚いた、人のミスを許さぬ他人が立っていた。他にも数人――皆、頭に赤茶けた布を巻いている。彼らは、この街で目立つ悪漢だ。同じ色の布を巻いている同士で、つるんで僕から見ると奇っ怪な事を行っている。簡単に言えば、軽犯罪となるのだろう。

「お前のせいで、こっちは怖くて夜も眠れなくてなぁ」
「――そもそも、お前みたいなやつ、目障りなんだよ」

 そこから、口頭による罵詈雑言が始まった。紙袋を両腕で抱えていた僕は囲まれ、さんざん口から汚い言葉をぶつけられた。気づいた時には突き飛ばされ、後頭部を壁に打ち付けていた。

「どうする?」
「マワしちまうか?」
「えー? 俺、勃つかな」
「もう勃ってんだろうが」

 ニヤニヤと卑しく彼らが笑った。後ずさろうとしたが、僕の後ろは壁だ。

「何をしている?」

 そこに――凍てつくような声音が響いた。
 反射的に視線を向けると、マーカス団長が立っていた。彼を見た瞬間、僕を囲んでいた人々は、方々に走り去った。僕は、剣を鞘にしまい直しながら歩いてくるマーカス団長を見ていた。

「大丈夫か?」

 声をかけられた瞬間……僕は紙袋を取り落としそうになった。膝が震えていた。前に転びそうになった僕を、マーカス団長が両腕で抱きとめるように支えてくれた。

「ああいう何に対してでも言いがかりをつけてくるおかしな連中に絡まれるというのは、災難極まりない事ではある。だがな、自衛をしろ。隙を見せるな」
「……」
「……」
「……」
「……貴様でも、そんな風に怯えた顔をするんだな。悪い、言いすぎたか。送る」

 マーカス団長が、僕の肩に手を置き、紙袋を奪った。そして歩き始めたから、僕はひと呼吸おいてから、追いかける事にした。

「あの」
「なんだ?」
「助けてくれて有難うございます」
「――自分のものを守るのは、当然の事だ。お前が気にする必要はない」

 僕は、マーカス団長のものでは無い。だが、この時の僕には、これ以上他者と会話をする余力が無かった。だから、黙々と歩いた。