【*】目眩




 肩が重い。尋常じゃなく重い。完全に両肩に不快感があって、真上から誰かが力を入れて押しているような感覚がする。それは俺にとっての天使のマッサージとは異なる。いつもの肩こりだ……いいや、いつもとは違う。いつもよりも酷い。

 岩をドンと俺の方に乗せて、誰かがギューッと押しているような、どうしようもないこり具合だ。頭痛と目眩が、肩から這い上がってくる重みに喚起されているらしく、歩くだけでもグラグラする。ついには吐き気まで感じ始めた……。

 これは、かなり危険だ。これまでの人生でも、ここまで肩がこった記憶は、ほとんど無い。

「変だな……もう、この前のお化け屋敷は、ただの民家になっているし、不審な気配はしないのに……」

 俺は肩こりをこらえ、必死に道を歩きながら、思わず呟いた。今日の除霊のバイトだって、それほど嫌な感じはしなかったし、経文を読んだらすぐに、清々しい空気が満ちた。だと言うのに、家へ帰ろうと歩き始めて少ししてから、俺はずっと肩の重さに悩まされている。

 肩の内側に、直接、石が入っていて、俺の筋肉を押していると聞いても、今なら信じられる。歩く動作で手を動かすのすら辛い。関節まで痛んでいる気分になる。

 フラフラと歩いていると――今ではもう、微塵も嫌な気配を感じなくなった、Cafe絢樫&マッサージの看板が視界に入った。俺にとっての天国……心の天使、ローラがマッサージをしてくれる、奇跡の店だ。

「……このままじゃ、絶対に寺まで帰るのは無理だ」

 思わず俺は呟いて、引き寄せられるようにしながら、店の扉へと向かった。

「いらっしゃいませ」

 すると、入ってすぐに、砂鳥くんにそう声をかけられた。少年の朗らかな笑顔を見ると、いつも俺は少しだけ安心するのだが、現在、肩がこるあまり、目眩がしていて、何も言う気力が起きない。

「本日は、Cafeですか? マッサージですか?」

 声を出すのも辛かったので、俺は無言で、マッサージの予約表に名前を書いた。そして俺の前の客の数を数えてみる……と、十七人もいた。これでは、相当待たなければならないだろう。本日は、いつもより早く、午後三時に俺は店の前を通りかかったのだ。

 それにしても、辛い。
 俺は椅子に座り、膝の間に、両手を組んで置いた。
 そして思わず首を下げて、俯く。こうしていると少し楽だ。

 いや――ダメだ、首まで重くなってきた。俺、これ、死ぬかも知れない。

 肩こりで死ぬなんて聞いた事が無い。けれど現在、頭痛・吐き気・目眩・全身の痛み――とにかく、体が悲鳴を上げている。ああ、気持ちが悪くなってきた。まだだろうか。いつまで待てば良いんだろう。思考が上手く出来なくなってきて、視界がぐらついている。


「藍円寺さん、どうぞ」

 その時、ローラの声がした。重い首を上げると、俺の正面には、優しい笑顔のローラが立っていた。もう、他の客は終わったのだろうか? それとも、俺が見た事の無い、他のマッサージ師が対応中なのだろうか? ぼんやりとそう考えたのだが、俺は――それ以上は、何も考えられなくなった。

 必死で立ち上がる。呼吸まで苦しくなってきた。立ち上がるのが、こんなに重労働だなんて、俺はこれまでに感じた事は無い。まるで、風邪を引いた時のような――……そう考えた瞬間、俺は正面に倒れた。

「藍円寺さん?」

 ローラが俺を抱きとめてくれた。俺の胸は、普段ならば高鳴ったと思う。しかし今は、体が妙に熱いのに、震えが走って、骨が振動するように、ガクガクと歯が鳴る。熱いのに、寒い。悪寒がする。寒気がする。

「藍円寺?」

 俺の前で、天使の唇が動いているが、俺は上手く聞き取れない。三半規管が麻痺してしまったような感覚だ。その時、ローラが、俺の額に触れた。ひんやりとしたその感触が心地良い。しかし、普段のマッサージの時は、もっと彼の手は温かかったような気がする。

 そう思って俺は瞬きをしようとしたのだが、瞼を開ける気力が無かった。
 そのまま――俺の意識は、暗転した。


***


「完全に、藍円寺は風邪だな」

 ローラの声に、僕は顔を向けた。ローラの腕の中では、荒い吐息をしている、顔が赤い藍円寺さんがいる。虚ろな瞳が潤んでいて、直後、瞼を閉じたまま、藍円寺さんは、ローラの腕の中で動かなくなった。

 そんな藍円寺さんを、後ろから抱きしめているローラは、少々不機嫌そうに見える。

 とはいえ、藍円寺さんが来た途端、他のお客様全てに、「マッサージが終了した」という暗示をかけて追い返し、真っ直ぐローラは藍円寺さんの所に向かっていたのだから……やっぱり、大好きなんだろうな。

 食事ができないから不機嫌――という顔にも見えない。
 ローラがこういう表情をしている時は、心配している時である事も多い。

「全く。自己管理くらいしっかりしろと言いたい」

 そう言ってあからさまに溜息をつくと、ローラが藍円寺さんを両腕で抱き上げた。意識を落としている様子の藍円寺さんは、暗示をかけられているわけでもないのに、素直にそのままにされている。

「人間はこれだから――どうしてこんなに弱いんだろうな」

 確かに、僕達妖怪は、基本的には、人間のような風邪といった病気はしない。
 随分と高熱らしい藍円寺さんを見て、僕も少なからず心配になった。

「どうするの? ローラ。救急車を呼ぶ? 人間は、普通病院に行くんでしょう?」
「――まぁな。いや、良い。この辺は、ヤブ医者しかいないからな」
「藍円寺さんのお兄さんは、お医者さんじゃなかった?」
「だったらなんだ? 俺の方が、看病には向いている」

 ローラは当然だという顔で、断言した。まぁ、実際、ローラはなんでも出来るから、その言葉は適切なのかもしれない。しかし……ローラが自ら、看病か。よっぽど藍円寺さんの事が大切なんだろうな。心配で心配で仕方がないんだと思う。

「ここじゃなんだ。住居スペースに連れて行く」

 藍円寺さんをお姫様抱っこしたまま、ローラがそう言って歩き始めた。

 僕は正直驚いた。これまでにも、ローラが食事……から、一歩進んだ好意を抱く姿は数多く見てきたし、中には風邪をひいた人もいたが――僕や火朽さんが暮らす家に、ローラが人間を入れた事は、一度も無かったからだ。

 一応、警戒しているのだと思う。妖怪だと、バレないように。実際、これまでにローラが人間に、正体がバレた所を、僕は見た記憶が無い。まぁ、藍円寺さんは、気がつかないかもしれないけど……。

 そう考えながら、僕はローラが開閉した扉の音を聞いていた。

 独りきりになった店内を見渡してから、僕は外の札をクローズに変えて、閉店作業をする事に決めた。どうせ、もう、今日はローラは戻ってこないに違いない。

 ――僕のその予想は、当たった。


***


「ン……」

 短く呻いてから、俺は瞼を開けた。すると視界に、ローラの顔が入った。
 あれ? 俺はどうなったんだ?
 記憶を辿るが、椅子から立ち上がって倒れた所までしか、記憶が無い。

 いつもの夢とも違う。ん? いつもの夢とはなんだっけ?

「目が覚めたか――……全く、手間がかかるな」
「ここは?」

 なんだか、俺が知る天使の口調とは違って聞こえた。だが、俺には違和感は無い。ローラの表情もいつもとは異なり険しいのだが、俺は彼の笑顔以外を見た事が無いはずなのに、どこか既視感がある。

「――藍円寺さんは、熱を出しておられて、倒れたんですよ。なので、休憩出来る場所にご案内させて頂きました」

 だが、俺の気のせいだったのか、続いたローラの声は非常に柔和で、表情も優しく微笑していた。いつも通りの天使がそこにいた。

「熱?」
「風邪ですね」
「っ、あ」

 俺はハッとした。なるほど、あの尋常じゃない体の苦痛は、肩こりが原因では無かったらしい。考えてみると、頭痛・吐き気・目眩・全身の痛み……これらは、全て風邪の症状と合致する……。

 慌てて俺は、起き上がろうとした。しかし、目眩がして、上手くいかない。
 そんな俺の体を優しく支え、ローラが寝台に改めて横たえてくれた。

「――悪いな。手間をかけた。すぐに帰る」
「いいえ、そんな。藍円寺さんは、大切なお客様ですから」
「俺はただの客だ。マッサージ店の世話になるつもりは無い。すぐに病院に行く。一介のマッサージ師ごときが、俺を看病できるとも思えないしな」

 折角看病してくれているというのに、俺の口からは『有難う』の一言が出てこない。
 失礼だろう、俺……。

「藍円寺」

 その時――急に、俺の思考に霞がかかった。これは、いつもの夢が始まる前と同じだ。
 ローラが俺の名前を呼び捨てにしたような気がしたが、それも何故なのか、俺の中では――いいや、夢の中では、当然の事に思える。

「ゆっくり休め。そして……早く治せ」

 そう言うと、ローラが俺の頬に触れた。ひんやりとしたその手は、夢を見ていなかった時分と同じで、とても心地良い。ぼんやりとしながら、俺は端正なローラの顔を見上げる。

「心配させないでくれ」
「……」
「――この俺が、まさかこんなに心配する日が来るとはな」
「……」
「これが、『好き』って感情なら、俺は今まで、それを知らなかったらしい。つまり、今までの相手は、ただの肉欲――食料だったのか。確かに恋だと当時は錯覚していたが、まさか、ここに来て、この俺が、初恋なんて感覚を思い知らされるとはな」
「……」
「とにかく、今はゆっくり、眠れ」

 そう言って、ローラが俺の頭を撫でた。その感触が非常に心地よくて、俺は思わず呟いた。喉が少し痛んで、声が掠れてしまったが。

「ローラ……」
「なんだ?」
「……そばにいてくれ」

 何故なのか、夢の中では、俺は素直になれる。
 正直、心細くて仕方がない。
 すると、俺の言葉に小さくローラが、息を飲んだ。

「ああ。ずっと一緒にいてやるよ。治るまで」

 微笑したローラの表情は、普段見る接客時の笑顔とはまるで違った。
 俺を安心させるような、そんな顔に見える。
 そう考えた直後、俺は襲ってきた睡魔に飲まれて、再び微睡んだ。

 ――だから、最後に聞き取ったローラの声は、夢なのだと思う。

「治った後も、ずっと一緒にいる。俺はもう、お前を離すつもりはない。愛しているからな」

 ああ、なんて幸せなんだろうと感じながら、俺はそのまま眠ってしまったようだった。もう、これが夢でも良かった。何せ、俺もローラを愛しているからだ。

 そんな一幕。俺は、その後――目を覚ましてから、お化け屋敷(本物)に恐怖する事になるのだが、それはまた別のお話だ。