【1】いくら俺が否定派とは言っても……。




 ――ここ最近、俺はローラに恋焦がれているわけである。

 だが、そんな俺が、いくら(怖いがゆえに)怪奇現象否定派(を装っている)とはいえ、好きな相手の事だ。最近、気づいてもいる。

 思い返せば、そもそもお化け屋敷(民家)に、ローラ達を連れていこうと考えた時点で、少なくとも彼に、何らかの除霊・浄霊能力……霊能力がある事は、想像していたのだったと思う。

 少なくともローラは、普通の人間ではない。
 特殊な才能を持っているのだろう。

 好きな相手の事だから、俺はもっと、ローラの事が知りたい。

 同時に、最近、やはりマッサージ中に頻繁に記憶を飛ばすのは、寝てしまっているからでは無いと感じている。いくらなんでも、俺は寝すぎだし、卑猥な夢を見過ぎである。

 ――夢。

 というのも、最初の頃は、ぼんやりした後の記憶が、マッサージ後には一切なかったのだが、ここのところは、覚えている事も多いのだ。

 俺はその夢の中で、大抵の場合――ローラに貫かれている。
 一人赤面した俺は、慌てて唇を覆った。

 そんな経験は無いはずなのに、生々しい感覚を体が覚えている気がする。
 ちょっとこれは、異常事態だ。

「――夜、享夜!」

 その時、次兄の声で我に帰った。
 どうやら本日は、救急のバイトが休みらしく、昼威は朝から家にいた。
 クリニックも休診日だというのに、珍しい。

「聞いているのか?」
「金なら貸さないからな」
「違う。お前、その首、一体どうしたんだ?」
「へ?」

 不愉快そうに俺を見た後、嘆息して昼威が言った。
 首? 一体何の話だろう。

「首ってなんだ?」
「何って……風呂に入ってないから、汗疹でも出来たのか? 鏡を見ていないのか?」

「毎日入ってるに決まってるだろう」

 最近は、マッサージにも行くし、ローラの前で良い顧客でいたいから、以前よりも念入りにシャワーを浴びている自信すらある。

「お前のことだからキスマークではありえないし、虫刺されに見えなくもないが……いや、もっと深いな、牙か何かでグサグサと刺されたような痕に見える」

 仮にも医師である昼威の声に、俺は目を見開いた。

 瞬間、そんな表情は見た事が無いはずなのに、いつもの天使のような柔和な笑みとは異なり、残酷なニヤリとした笑顔のローラの姿が脳裏をよぎる。

 咄嗟に首筋を押さえて、俺はその場で蹲った。
 頭の中で、酷薄そうな笑みを浮かべたローラに、噛まれている光景が再生される。


 そうだ――俺は、これに関しては夢の中でもほとんど意識していなかったのだが……いつも、ローラに噛まれていた気がする。いいや、吸われていたような気がする。そして、尋常ではない快楽を得ていたのだ。

「享夜?」

 テレビを消しながら、兄が俺を見た。
 リビングの畳の上でしゃがんだまま沈黙している俺を、立ち上がりながら見据えている。

「――悪いな、今日はちょっと約束があって、これから出なければならないんだ」
「……」
「玲瓏院のご隠居の所に、すぐに行くことを勧める。そもそも、俺にどうにか出来るかもわからないからな」

 昼威はそう言うと、出かけて行った。

 残された俺は、何度も何度もローラについて考えた後、本家である玲瓏院へと向かう事にした。



「して? 儂に話とは?」

 案内された玲瓏院家の客間で、俺は正座をしながらギュッと膝の上で拳を握った。
 嫌な汗が垂れてくる。

 家を出る前に鏡で確認した限り、俺には痕は視えない。

 だが、昼威に指摘された部分を、先日マッサージに出かけた際に、噛まれた記憶があるのだ。記憶といっても、あくまでも夢の記憶だが。

「しかし酷い痕じゃな。その件か?」
「……」

 ご隠居にも見えているらしい……。
 俺は、これまでの間、ローラが特殊な力を持つ人間だと考えた事はあった。
 だが、人間ではないと考えた事は、一度も無かった。

「随分と気を抜かれておるようじゃが、体調は?」
「……あの、ご隠居」
「なんじゃ?」
「これは、その……気を抜くというのは、あの……」

 一体俺は、何をされたのだろうか。そう聞きたかったが、こちら側の事情は言いたくない。男との情事について語るのが嫌だとか、同性への恋心を話すのが嫌だというよりも、万が一ローラが人間ではないと露見した時に、ご隠居に除霊されてしまうのが怖かったのだ。

 ローラがいなくなってしまうなんて、俺には耐えられない。

「様々な呼び名があるが、玲瓏院では鬼の一種として扱う、妖(アヤカシ)――一般的には、吸血鬼として知られる存在。知っておるだろう?」

 ご隠居の嗄れた声に、俺は俯いたまま、小さく頷いた。

「奴らは、我が玲瓏院一門に連なる強き力を持つ人間から、その霊能力が宿る血や精気、体液を抜き取り、糧として存在している。別段取られたからと言って、己もまた吸血鬼になるという事では無い。そうなるには、逆に彼らの秘匿された知識が必要らしい。基本的に、彼らの吸血行為により、儂らは――餌とされる」

 その言葉に、俺は小さく身震いしながら、必死に顔を上げた。

「餌……?」
「いかにも。奴らは、我々を、儂らにとっての豚肉や牛肉、酒といった飲食物と同一だと認識しておるようだ」
「……」
「甘い言葉で近づき、こちらが気を許した所で、奴らの食事が始まる」

 俺は、何も言えなくなった。言葉が見つからない。
 天使のようなローラの笑顔が蘇るし、彼の優しさを思い出す。

 あれは――接客のための笑顔ですらなく、食事のためだったという事か?

「奴らは食事中に暗示をかける。この念珠や数珠を身に付け、以後は、きちんとした玲瓏院ゆかりの正装――袈裟を身につけて過ごすが良い。決して気を抜いてはならんぞ」

 ご隠居はそう言うと、俺に木の箱を渡した。中には、念珠などが入っていた。



 その後俺は、どうやって帰宅したのかは、あまりよく覚えていない。

 打ちのめされたような気分で、藍円寺へと戻り、リビングに入った。
 日中には戻ったのだが、気が付くと周囲は薄闇に覆われていた。

 ようやく動く気になったのは、昼威から泊まってくるという連絡があった時だ。

 気を取り直して、俺は本日から和装で過ごす事を決意し、着替えてから最後に、木箱を開けた。それを首から下げ、俺は洗面所へと向かい、鏡を見た。

「!」

 そこには、ザクザクと明らかに噛まれた痕が、何箇所もあった。
 瞬きをすると、獰猛なローラの笑顔と、口元から覗いた犬歯が過ぎった気がする。
 つまり……つ、つまり……ローラにとって、俺はご飯だったのだ……。

 男同士だし、別にこの俺の淡い想いが叶うと思っていたわけではない。
 時々、あんまりにも優しいから、脈があるのかと誤解しそうになる事すらあったが。
 違ったのだ……俺は、ローラにとって、ご飯だったのだ……。

 吸血されていただとか、そういった事実よりも、俺はそれが一番悲しい。

 俺は、怖いものが大嫌いだ。吸血鬼だって、そりゃあ怖い。
 でも――俺は、ローラが好きだ。

 念珠を身につけると、暗示は解けるという話だったし、今後も身に付けていればかからないと聞いたが、今、きちんと首から下げていても、俺の気持ちに変化はない。

 暗示で惚れさせられているわけではないのだ。
 そもそも、惚れるような暗示をかけなくても、吸血行為は可能だろうしな……。

 大体、ローラはあんなにイケメンなのだから、俺に恋をさせる必要もなく、そもそも暗示などかけずとも、多くの人間にモテるだろう。

「そもそも、どうして俺は、ローラを好きになってしまったんだろうな……」

 ポツリと呟いてみる。

 最初は、あんまりにもマッサージが上手いから、天使だと思った。
 それからは、除霊のバイトが終わって、ローラの顔を見ると、ほっとする事に気がついた。
 そして、お化け屋敷の大規模なお祓い案件があった時は、会いたいなと思った。

 夢を見て、気持ち良いとも思うが、ヤりたいな、ではない。
 会いたいなって、思ったのだ。うん。
 顔が見たいというのも、イケメンが見たいという意味ではない。

 俺はやっぱり、基本的には、同性のイケメンなど爆発すべきだと思っている。

 やっぱり、優しいから好きなのだろうか?

「でも……俺がご飯だから、優しかったってことなんだよな……」

 不覚にも、良い年をして、泣きそうになった。
 心がジクジクと痛む。

「……」

 いいや、待てよ? 俺が、きちんとご飯でいたら、これからもローラは俺に優しいのだろうか? 俺が素直に噛まれている限り、ローラは俺に優しくしてくれるのか?

「……じゃあ、俺の気持ちがバレても、俺が美味しいご飯でいれば、拒絶されない? 出禁にならないということか? ん? あれ、意外と悪くないんじゃないか?」

 考え込んでいたら、俺は前向きになってきた。