【17】両片想いのハッピーエンド


 藍円寺さんのお兄さん、藍円寺昼威先生がやってきたのは、その日の午後の事だった。

 藍円寺さんによく似た面立ちだったが、髪型が違うせいか、メガネのせいなのか、頭が良さそうだ。決して藍円寺さんが馬鹿そうな見た目という意味ではない。藍円寺さんも、心を読まなければ、頭がお花畑には見えない。

「申し訳ございません。本日は閉店しておりますが?」

 にこやかな笑顔で、扉を開けた昼威先生に、ローラが言った。
 久しぶりに見る、接客用の作り笑いだ。
 すると――昼威先生もまた、微笑した。

 ローラが目を見開いている。ま、まぁ、藍円寺さんによく似た顔で、微笑みかけられて、嬉しいのはわからなくはない。しかし、完全に昼威先生も、作り笑いだ。

「こちらに弟が伺っていると耳にしまして――ご迷惑をおかけしているのではないかと、迎えに参りました。お休みの所、申し訳ございません」

 穏やかな口調で言った昼威先生を見て、ローラがスッと目を細めた。
 結果、昼威先生も作り笑いを消した。

「俺の弟は、吸血鬼の餌では無いんだ。即刻、返してくれ」
「――ここにはいない」
「ではどこにいるんだ?」
「さぁ?」
「まさかもう、喰い殺したとでも言うのか?」

 昼威先生の眼差しが険しくなった。藍円寺さんに、非常に良く似た表情だ。
 しかもこちらは、藍円寺さんと違って、誤解ではなく、本心から糾弾している。
 藍円寺さんに責められているみたいに、ローラは感じているようだった。

『俺こいつ嫌い』

 と、僕の頭の中に声を響かせてきた。

「安心しろ。お前の弟は、幸せにしている」

 ローラが続けた。すると、昼威先生は腕を組んだ。

「幸せというのは――」

 そして、何か言いかけた時、昼威先生のスマホが鳴った。一瞬硬直した後、昼威先生は取り出しながら、嘆息した。

「――出直す」

 そのまま帰っていった。何を言いかけたのか心を読んでみた結果、「まさか両思いになったということか?」と考えていたものだから、僕は衝撃を受けた。藍円寺さんの恋心を、お兄さんは知っていたらしい。え。すごい。

 なお、電話の主は、御遼神社の神主さんらしかったが、何か急用だろうか?
 そう考えつつローラを一瞥すると、泣きそうな顔をしていた。

「絶対……俺のほうが幸せにできる」
「え?」
「迎えに来たといったくせに、すぐ出て行ったしな」
「う、うん?」
「俺なら、俺ならば、絶対に藍円寺を置いていったりしないし、藍円寺に家事をさせたりしないし、お金を稼がせたりしない……!」

 ローラが泣き叫ぶように言った。八つ当たりだ。

「なのに、どうして、どうして! どうしてだ。家族というだけで、兄弟というだけで、やつは藍円寺と一緒に暮らす事が許され、公的に保証され、認められ、引き取りに来る権利を持つんだ!? 藍円寺に心配してもらったり、クソ、羨ましい。俺も藍円寺の家族になりたい」

 子供のように我が儘を言っているローラを見て、僕は生暖かい気持ちになった。

「俺のほうが藍円寺の事を想ってる」
「家族愛と恋愛は別なんじゃないの?」
「だとしても、俺はきっと家族になったとしても、藍円寺を誰よりも想い続ける自信がある」
「妖怪にも結婚制度があれば良かったのにね」
「茶化すな!」

 僕の言葉に目を細めてから、ローラが藍円寺さんの部屋へと戻っていった。


 それからしばらくしての事である。
 その時、僕はひとりで紅茶を飲んでいた。

 すると――パリンと音がした気がした。

 あんまりにも強い思念で、それもここの所全く感じなくなっていた藍円寺さんの自発的な感情だったものだから、僕は驚いて透視した。するとローラに支えられながら藍円寺さんがボロボロと泣いていた。そのままローラの腕を振り払い、藍円寺さんが走り出した。

 すごい……あの強さの薔薇香を使って、ずっとそこにいるようにと囁かれていたら、普通はもう、人間は動けない。一体何があったんだろう? すごく悲しそうな事だけは伝わってきた。

 そのまま見ていると、カフェスペースの方で、藍円寺さんがポロポロと泣き始めた。

 藍円寺さんは、『俺だからダメなんだ』『ローラは俺の事が嫌いだ』『ローラに好きだってバレた』と、考えてボロボロと泣いている。

 ……まだ好きらしい。すごいなぁ。僕なら、こんなに酷い目にあったら即座に嫌いになると思う。しかし暗示や肉体的な快楽や苦痛をなしにして、このように感情を顕にして涙している藍円寺さんを始めて見た。綺麗だった。


 それから立ち上がって、藍円寺さんが扉の前に立った。

 バスローブ姿だが、その格好のまま出ていくのだろうか?
 噛み傷というより、首なんてキスマークだらけだし、僕はまずいと思う。

「光熱水費……払わないとな」

 ――へ?
 しかも藍円寺さんは、わけのわからない事を呟いた。
 ローラが現れたのはその時だった。

「行かせるか」

 言葉は格好良かった。ぐいと腕で藍円寺さんを引き寄せたローラを見る。

 ただ、僕も思う。薔薇香を使ったり、肉体的快楽方面を頑張ったり、ローラはローラなりに、道を誤りつつも努力して、藍円寺さんをここに引き止めてきたのに、光熱水費を払いに行くという理由で出て行かれたら、たまったものではないだろう。僕がローラでも、行かせない。

「おい……あの強度の薔薇香を破って、そこまで泣くほど、人間にとって――いいや、藍円寺、お前にとって、光熱水費は大切な存在なのか?」

 ローラがもっともだと思える質問をした。
 すると藍円寺さんが瞬時に赤面した。
 貧乏なのがバレたと考えている……が、ローラはそんな事は一切考えていない。

 光熱水費の重要性について悩んでる。吹いた。

 ローラの前では格好良くいたかったという藍円寺さんの思いが伝わってくると同時に、ローラが必死に人間の平均的な光熱水費について思い出そうとしているのが分かる。ローラは、

『もし俺が光熱水費を払ったら、藍円寺は喜んでくれるだろうか!?』

 と、考えている。養う気、満々だ。真剣に検討しているらしい。
 まぁ、僕と火朽さんの生活費も全て、ローラが基本的に出してくれているしね。

 藍円寺さんの分――いやまぁ、藍円寺さんの兄弟とか甥っ子さんの分くらいまでなら、藍円寺さんが喜ぶと聞いたら、喜んで支払いそうだ。ローラは、変名で霊能学研究をしているから、実を言えばお金には困っていないはずだ。

 ただ、ローラは、研究は仕事ではないというから、あれは働いて喰うには入らないらしい。
「なんで赤くなったんだ?」
「……忘れてくれ」

 藍円寺さんが恥ずかしそうに言った。
 それを聞いて思考を戻し、僕は二人を透視で見守る。

「あー、っと、その……あー、だから、その」

 ローラが必死に言葉を続けている。藍円寺さんは、首を傾げているだけだ。

「傷つけるつもりはなかったし、あれで傷つくとは思ってなかった。泣いてたって事は、その……だから……」

 あ、珍しい。ローラが謝ろうとしている!

 これはもしかしたら、二人が両思いになって、僕が当初想像していたような恋人同士になれる、最後のチャンスなんじゃないのだろうか?

「……離してくれ。振り込みに行かないとならないんだ」

 しかし直後、藍円寺さんが、雰囲気をぶち壊した。

 これには、ローラも引きつった笑みを浮かべた。

「だから、行かせないと言ってるだろうが――あのだな。俺がもう、この際体だけで良いと決意して、お前を囲ってるのに、どういう事だよ。あ?」
「どういう意味だ?」

 すると、藍円寺さんがきょとんとした。純粋な瞳で、本気で分かっていない様子で、子供のように見える。それを見ていたローラも、毒が抜かれたようで、半ば投げやりな感じで続けた。

「――お前を快楽堕ちさせて、俺無しじゃいられないようにしてやろうと思ってな。嫌でも俺と一緒にいるしかないようにしたいと、な」

 諦めが覗いている。これを言えば、嫌われるのは確実だと考えているようだったが――ローラは、悲しそうな藍円寺さんや傷つく藍円寺さんを見ているのが辛いらしく、本日帰宅させてあげようと考えているようだった。その時に、光熱水費のお金も持たせてあげようと考えているのが分かる。う、うん。監禁はまずいから、解放してあげたほうが良いだろう。

 それから、つらつらとローラが続けた。

「お前が悪い。藍円寺が悪い。あんなに俺の事が好きそうで、脈がある風だったのに、俺が吸血鬼と知った途端、心を読めないようにして、俺から距離をとっただろう? ま、お前は怖いのが苦手だろうし、俺の事は怖いんだろうけどな」

 ローラが藍円寺さんを抱きしめた。藍円寺さんは目を見開いている。
 自分に、食料としての価値があったのかと考えているらしい。

 そして、ついにローラが言った。

「俺は、藍円寺の事が好きなんだよ」
「え?」

 藍円寺さんがぽかんとしていた。

「なんだよ? 俺が、藍円寺を好きになったら悪いのか?」

 振られるのを覚悟しているらしいローラは、ふてくされるようにそういった。
 しかし、驚いたように首を振り、慌てたように藍円寺さんが続ける。

「い、いや、待ってくれ、ま、ま、まさかの、両思い!?」

 その場に奇妙な沈黙が降りた。

 ローラは体を緊張させたようにしながら、恐る恐る藍円寺さんを抱きしめたままだった。本当かどうかと確認している。そうして、告げた。

「え……藍円寺、正真正銘にそれが本音なら、手首の数珠を外してくれ。絶対に暗示はかけないと誓う」

 その言葉に、僕も数珠の存在を思い出した。そうか、ローラも心が読めない理由をきちんと見つけ出していたのか。そう考えながら続きに耳を傾ける。

「それだけは、身につけた本人でなければ外せない代物で、心を読む専門の妖怪でもなければ、お前の心は視えないようになっていたんだ。だから、まぁ『砂鳥は別として』――俺には、お前が俺を嫌いだとしか、感じられなかった」

 そして……僕は響いてきた声に、冷や汗をかいた。

 明らかに、僕の名前に力がこもっていた。
 ローラは、僕が心を読める事に気づいていたらしい。

 しかしこれまで、何も聞いてこなかった。多分それは、ローラが臆病だからだ。
 僕の口から、『藍円寺さんに嫌われている』と聞くのが怖かったのだろう。
 藍円寺さんは、ローラの事が好きだから、そんな言葉は出ないんだけどね……。

 そのまま見守っていると、ローラがキスをしてから言った。

「――俺の、恋人になってくれるんだろうな?」

 藍円寺さんが、嬉しそうな顔をしている。見ているだけで、僕まで幸せになってくる。

「――ローラも、俺のものになるんだろうな? 俺も大切にしてやる」

 続けて出てきた藍円寺さんの照れ隠しの言葉は、今回はそう悪いものではなかった。
 なにせ、ローラがこちらもまた、非常に幸せそうに笑顔を浮かべたからだ。

「初めて言われた。期待してるぞ」

 確かにローラは、誰かを自分のものにすることはあっても、自分が誰かのものになるといった経験――というより、発想がないだろう。同じくらい、誰かを守ると考えても、自分が守られるだとか、大切にされると考える機会をもっていないはずだ。


 その後、嬉しそうに、ローラは藍円寺さんが僧服に着替えるのを手伝い、噛み傷は見えないようにしたが、キスマークは全開で見える状態で、お寺まで送っていった。藍円寺さんは、幸か不幸か、キスマークの存在に気づいていないらしい。

「良かったね、ローラ」

 帰ってきたローラに、僕はそう声をかけた。
 するとローラが非常に照れくさそうに、何度も何度も頷いた。

「藍円寺に嫌われていなくて良かった。いいや、好きなままでいてもらえて良かった。本当に良かった。いやぁ、あいつがあんなに俺を好きだなんて、うわぁ!」

 非常に幸せそうである。
 そこへ火朽さんが顔を出した。

「本当に良かったとは思いますが、僕から見ると、何とも言えないですね。普段のローラであれば、体のみなどとは考えずに、実力で心を手に入れそうですが」

 それを聞いて僕も思った。

「うん。今回に限っては、藍円寺さんは、中身がヘタれじゃなかった。愛のためならなんでもできるって感じで、格好良かった。寧ろ、薔薇香なんか使ってたローラのほうが、ヘタれだね。闇落ちしかかってたし」

 僕達の言葉に、ローラが首を振った。

「恋は妖を臆病にさせると、俺は今回初めて知った。俺は、初恋をしたらしい。今になって!」

 今までの恋人はなんだったんだろうかと思いながら、僕は火朽さんと顔を見合わせる。
 その日は、遅くまでローラのノロケが続いた。



 それからの毎日は――もう、ローラが藍円寺さんを溺愛して大変な事になるのだが、それはまた別のお話である。