【1】ローラのお誘い




「藍円寺」

 バイトの帰り道、ローラが俺の手首を取った。静かに振り返ると、ローラが相変わらずの麗しい顔で微笑していた。

「なんだ?」

 俺が首を傾げると、猫のような瞳に優しい色を浮かべて、ローラが笑みを深めた。

「たまには、俺の家に来ないか?」

 それを聞いて、目を瞠った。
 付き合いだしてから、早三ヶ月――この間、俺とローラは、専ら絢樫Cafeで顔を合わせるか、最近では俺の家……藍円寺で過ごしている。

「……」

 ローラの家というのは、絢樫Cafeの後ろに広がる洋館の事だろう。俺はこれまでに二度ほど足を踏み入れた記憶がある。その内の一度は、俺達が付き合うに至った経緯の事件の時で、光熱水が停止した頃だ。

 あの際俺は、自分で考えていたよりもずっと長い時間を、ローラの家で過ごしていたらしい。だが明確に記憶があるのは、最終日だけである。それ以外は、甘い香りに包まれて、大半が夢現だった。ローラ曰く、「愛のあまり監禁してしまった」らしい。全く、照れてしまう。って、喜んでいる場合では無いだろう。

 さて、他の一回であるが、それは付き合い始める前の出来事だ。
 俺が風邪をひいた時の話である。

 酷い肩こりに襲われていた俺は、それが風邪の症状だとはついぞ気付かず、仕事帰りに藍円寺まで歩くのが困難だと判断して、絢樫Cafeの扉を開けた。目眩がしていたあの日、結果として最終的に、俺は意識を落としたらしい。

「藍円寺、ダメか?」

 ローラの声で、俺の意識が引き戻された。慌てて顔を上げ、ローラを見る。そこには悠然と微笑むローラの顔がある。俺の大好きな顔だ。無論、ローラのお願いは、出来る事ならば全て叶えたい。

「あ、ああ……そ、そうだな……」

 なので頷きつつも――本心を言えば、はっきり言って、嫌だった。
 俺は、ローラの家に行きたくない。

 大好きなローラの家だし、ローラの好みの品なども分かるかもしれないし、ゆっくり遊びに行きたいという思いも、勿論ある。でも……怖い。怖いのだ。怖いから、行きたくないのである。

 決して、監禁されるのが怖いという意味ではない。
 絢樫Cafeに対して最初の頃に感じていたような――”恐怖”だ。
 なんとなく嫌な感じがする、あのお化け屋敷のような空気が、俺は怖いのだ。

「決まりだな。今日は、俺の家に帰ろう」

 しかし、ローラの頼みは、断れない。それに、怖いだなんてバレたくない。ローラが俺の手を握ったまま歩き始めたので、慌てて俺も歩く。周囲に人気は無いし、手を繋いでいるみたいだが、構わないだろう。

 ローラの隣に並ぶと、ちらりと彼が俺を見た。そして、ニッと唇の片端を持ち上げる。

「泊まっていくよな?」
「そ、そうだな……」

 夜を想像して、俺の恐怖はさらに増した。ただでさえローラの家は怖いのだから、夜になったらもっと怖いに違いない。だ、だけど……! ローラが一緒にいてくれたら平気かもしれない。俺が必死に内心でそう考えた時、ローラが楽しそうに笑った。

「最高の客間を用意する」
「え?」
「藍円寺はそこで寝てくれ」
「ローラは一緒じゃないのか!?」

 思わず俺は声を上げた。それくらい、切実だったのだ。本当に怖いのである。するとそんな俺を見て、ローラが猫のような瞳を丸くした。

「藍円寺は、そんなに俺と一緒に寝たいのか?」
「っ、そ、その……」

 本心を言えば、土下座してお願いしたいほどに、一緒に寝たい。しかし不器用な俺の口からは、その一言が出てこない。そのため言葉を探していると、ローラが俺の腕を引いた。結果、俺の足がもつれた。

「!」

 そのままローラに、俺は抱きしめられた。慌てて俺は、周囲に視線を走らせる。良かった、通行人は誰もいない。こんな、公衆の面前で抱きしめられるなんて……誰かに見られたらと思うと羞恥が浮かんでくる。

「俺も藍円寺と一緒に寝たい」
「ロ、ローラ、離してくれ。誰かに見られたら――」
「見られたら? ん? 何か問題があるか?」
「……変に思われるかもしれない」
「変に?」

 なにせ、俺達は男同士だ。仮にそれを取り置いたとしても、俺とローラでは釣り合わないのは、火を見るよりも明らかだ。俺は兎も角、ローラが誰かに何かを言われてしまうかもしれない。俺のせいでローラが酷い目にあったら、俺は絶対に、自分を許せなくなる。

「俺は、藍円寺が一緒にいてくれるんなら、誰になんて思われても構わないけどな」

 するとローラが、唇を触れ合いそうなほど俺の近くに寄せて、囁くように言った。

「ローラ……」

 すぐ目の前にローラの顔がある。覗き込まれて、俺は硬直した。どんどんローラの顔は近づいてくる。思わず目を伏せると、すぐに唇に柔らかな感触がした。頬が赤くなったのが自分でも分かる。ああ……誰が通るかも分からないのに、外でキスしてしまった……そうは思うのだが、俺はローラとキスするのが好きだ。キスというより、ローラが好きすぎる。

 俺とローラが、初めて意識ある状態で、きちんとキスをしたのは、俺がトマトの気持ちを理解できるようになった頃である。だが――挨拶のキスに関しては、実はその前にも一度した事があった。それも、そういえば、初めてローラの家に行った時の出来事である。

「帰るぞ、藍円寺」

 唇を離すと、ローラが笑顔を浮かべて、俺を腕から解放した。真っ赤になったままで頷き、俺も再び歩き出す。


 こうしてこの日――俺は、お化け屋敷(本物)へと、遊びに行く事に決まった。