【25】初雪
――新南津市に、この年初雪が降ったのは、十二月の頭の事だった。
最近では、日程を先に伝えて、昼威は御遼神社に出かけている。寧ろ次第に、『行けない日』を伝える日が増えてきた。藍円寺には、帰っている。決して洗濯物を、洗濯機の隣のカゴに、それとなく放り込むためだけでは無い。享夜の失踪事件があってからは、最低でも三日に一度は、安否確認をしている――と、昼威本人は、考えている。
「……」
空から舞い落ちてくる綿雪を、総合病院前で、昼威は困ったように見上げた。
今日は、『行く予定』であるが、己はバイクだ。
あまりにも不意打ち過ぎて、タイヤを交換していなかった。そもそも普段から、雪が深くなると、昼威はあまりバイクに乗らない。危険は回避する主義だ。
昨年の冬はどうしていたかと言えば――仮眠室に泊まる頻度が増えた意外には、実を言えば、享夜の車を拝借していた。
「車、か……」
都心にいた頃は、地下鉄やバスがあった。バスは、この新南津市にもあるが――藍円寺から総合病院には、簡単に利用できるものの、クリニックや……御遼神社への経由を考えると、あまり便利だとは言えない。
「……車を購入するなら、総合病院とクリニックの間に家を借りる方が良いんだよな」
ポツリと、これまでにも繰り返し考えてきた事を、昼威は口に出した。続いて吐いた息は、白く闇空に溶けていく。そんな事を考えていた時だった。目の前に一台の車が停る。
「先生、お疲れ様です」
助手席の窓が開いたと思ったら、運転席にいる侑眞が見て取れた。いつもと変わらないにこやかな笑みだったが、驚いて昼威は歩み寄る。
「侑眞? 風邪でもひいたのか?」
「先生の迎えに来たんだけど」
その言葉に驚いて、昼威は目を丸くした。それから人目をはばかるように、周囲へ二度、視線を這わせる。
「享夜を呼ぼうと思っていたんだが」
「うん。そうじゃないかと思ったから、享夜くんには、俺から、俺が迎えに行きますって、伝えたよ」
「……そ、そうか」
「たまたま今日の昼間、絢樫Cafeで一緒だったんだけどね。その時に、ローラさんだったかな――例の吸血鬼に、『今後は藍円寺ではなく、貴方が是非、義兄さんを迎えに行ってあげて下さい』と言われてさぁ」
「は?」
「俺は快諾したけど、享夜くんが真っ赤だったよ。一応、報告。早く乗って。バイクは、置いていっても大丈夫なんでしょう?」
昼威は、ローラに対して、非常に言いたい事を色々と思いついたが、取り敢えず頷いて、助手席の扉を開けた。シートベルトをすると、すぐに車が走り出す。
「しかし、義兄(あに)だと? ふざけているのか。俺は断じて、享夜以外の、兄になる予定は、今の所無いぞ」
「昼威先生、なんだかんだいって、ブラコンだもんね」
「黙れ」
「俺は一人っ子だから、羨ましいです、そういう感覚」
「お前は一体何を見てきたんだ。俺が仮にブラコンだったならば、少なくとも藍円寺の光熱水費が、クラインの直筆原稿のオークションよりも注意されない日は無かったはずだ」
「それも贋作だったんだっけ?」
「……ブラックベリー博士の著作は、本物だったんだぞ」
「また市外のホテルにも行きたいね」
そんなやりとりをしながら、最初の信号までの間、暗い車内で過ごした。いつも通り――なのだろうと思う。これまでにも何度も何度も、昼威は侑眞と車で移動した事がある。雑談をするのも常だ。付き合って、既にひと月以上が経過している。同じ市の住民としての付き合いならば、さらに長い。
――だというのに、いちいち胸が高鳴って困る。
昼威は己の思考に、嘆いていた。恋は、いついかなる時も、人を子供にかえすのかもしれない。侑眞と過ごす全ての時が、初めての経験のように、鼓動を煩くさせるのだ。
「せっかくだし、スノボでも行く?」
「年末年始が多忙なのは、お互い様だろう。いつ行くんだ?」
ほぼ廃寺の藍円寺ではあるが、大晦日の除夜の鐘の時ばかりは、非常に多忙だ。時同じくして、初詣客の参拝に備えて、御遼神社も忙しくなるはずである。
「――まだ、聞いてないんだ」
「何を?」
「六条さんとも話していて、あちらからこちらの情報をリークされた形で非常に複雑なんだけれどね、なんでも玲瓏院結界を――予定日よりも早く再構築する計画が、玲瓏院一門と心霊協会の役員陣の間で進んでいると、俺は今日聞いたんだ」
「え?」
驚いて昼威が視線を向けた時、丁度信号が青に変わった。車を発信させながら、侑眞が嘆息している。
「昼間、その件を聞きたくて享夜くんを探していて――居場所が敵かも知れない相手の本拠地だったから、結局俺は何も聞けなかったんだけど、藍円寺にはまだ何も知らせはないんだ?」
「無いだろうな。あるとしたら、玲瓏院結界に関しては、享夜よりも先に俺に、なお言うならば、俺よりも先に朝儀に話が行くはずだ。そして朝儀に連絡が行くのと俺への連絡が、そう間があるとは思えないし、話があった時点で、朝儀から俺にも連絡があるだろう。斗望もいるからな」
静かに昼威は答えながら、考えていた。既に結界の再構築準備は整っていると聞いてはいた。だから、前倒しは不可能では無い。また、その年の状況により、二月か十月に張り直される事の多い結界ではあるが、時期が前後した記録は多々ある。どうしても特定の日時でならなければならないといった代物では無いからだ。より最適な日取りを都度選択していると聞いていた。
「六条さんの話が本当なら――年内に、再構築のための儀式が行われるみたいなんだよね」
「急だな。もう、二十日と少ししか残っていない」
「うん。事前に、一週間は準備漬けになるでしょう?」
「そうだな。玲瓏院も藍円寺も、大晦日の準備で、ただでさえ……――なるほど。この時期だけは、結界の再構築がありえない、と、推測させる事が可能な時期という事か」
「そうそう。そうみたいなんです」
「よほど、結界の外に逃したくない妖でも存在するのか?」
「そうらしいね。元々は、その調査もあって、六条さんは来ていたようだし」
それを聞いて、短く昼威が息を呑む。
「まさか、ローラか?」
「俺が聞きたいんです。だけど、あの人が良い享夜くんに、腹芸ができるとは思えないし、潜入調査って事は無いよね?」
「無い。断じてない。享夜に潜入調査が可能だというのは、明日から俺が、『日本のフロイト』と言われるくらいにない」
「えっと、それ、自虐?」
「違う。俺はフロイトほどには、理論に――……自虐?」
「ごめん、てっきり、先生は精神科医として有名にならないって意味だと思った」
「……別に、有名になりたいと思ったことはない」
ムッとして昼威が腕を組むと、その気配を察して、侑眞が喉で笑った。
そんな話をする内に、侑眞の車は、御遼神社に到着したのだった。