【1】絢樫Cafeの看板



 人間のする引越しというものを、僕達が妖(アヤカシ)ながらに行ったのは、梅雨が訪れる少しだけ前の事だった。現在は冬だから、もう半年以上が経過している。

 僕達――というのは、”覚”という妖怪である僕と、”狐火”という現象である火朽桔音カクチキツネさん、そしてみんなにローラと呼ばれている絢樫露嬉(アヤカシロウラ)の三人だ。妖なのに『三人』という表現が正確なのかは不明だけれど、一応僕達は現在、人間の姿を象っている。

 僕の名前は、絢樫砂鳥(アヤカシサトリ)だ。命名者はローラだ。火朽さんの名前を決めたのもローラだ。ローラは、キラキラした名前をつけるのが好きらしい。ただ、安直なものが多い。覚(サトリ)という妖怪だから、僕は砂鳥となった。そのままである。

 しかしローラは決めたら、譲らない。時に意見を変える事はあるが、自分が絶対だ。
 今回の新南津市への引越しを決めたのも、ローラだった。ローラは吸血鬼である。

「今はやっぱりさ、ほら、妖怪といえど、働いて食べる時代だろ? 葉っぱを小判に変える時代は終わったんだ」

 ある日ローラが、僕に告げたこの言葉が、既に懐かしい。

 そのまますぐに、僕達三人は引越しをし、火朽さんは大学に編入した。
 僕は――働く側の人手にされた。

 一体何をして僕達が働いたかといえば――看板を見れば分かる。
 ――『Cafe絢樫&マッサージ』である。

 僕には、マッサージのスキルは無かった。さらに言えば、お茶を淹れるセンスも欠如していた。だが、Cafe側には、お客様が滅多に来なかったし、マッサージ側ではローラがが人間の肩にのってコリをもたらす微弱な妖魔をパンパンと祓う事で大繁盛し、次第にうまく回り始めた。

 だが、ローラが言う、『働いて食べる』というのは、人間のお金を得るという意味合いではなく、食料の現物……つまり、血液を吸う事であり、ローラはお客様として来店した藍円寺の住職さんを餌と決めたようで、次第に働かなくなってしまった。

 現在のローラは藍円寺さんにだけマッサージをし(働き)、藍円寺さんからのみ報酬を現物で得ている(吸血)。なので閑古鳥が鳴いていたお店で、僕は最初、ぼんやりと過ごしていた。すると、ある日火朽さんに言われた。

「――何か趣味を作ってはいかがですか?」

 僕が、退屈そうにしていたからだろう。本当は、「友達を作ってみてはどうか?」と先に提案されたのだけれど、僕は苦笑してそちらには首を振った記憶がある。

 その後――僕は、しばらくの間、考えていた。

 僕が興味を抱いている事は、なんだろう?
 そんなある日、火朽さんから椿香の話を聞いたり、ローラが薔薇香を使うのを見た。

 花の名前に香とついた――各種の妖怪薬の存在を偶発的に思い出した瞬間だった。
 妖怪薬というのは、本来は妖のみが使う薬である。
 だが、人間にも使用可能だ。

 香りのみ――形が無い場合が圧倒的に多いが、口がある妖用には、飲み薬が存在する。これは、人間が好むフレイバーティに非常によく似ている代物だ。人間も摂取可能である。人間の方が何かと科学や研究が進んでいるのだが、時には妖怪の持つ知識や文化が先を行く場合もあって、例えば妖怪薬の効能は、その内の一つと言えるだろう。

 こうして僕は妖怪薬の勉強を始め、それに伴い、お茶の淹れ方を学んだ。最初は必要に迫られてだったのだけれど、今は人間の品も含めてお茶を淹れる事自体が好きになった。

 そんな中で、無人のお店を見て、僕もローラのように、趣味と実益を兼ねた仕事(?)をしてみようかな、と。マッサージと称してお祓いをするように、例えばCafeで特別な効果があるお茶を出して、その力でお祓いをしても――やる事は同じだと、まず考えた。

 同時に、メニューにほとんど何も書いていなかったので(お客様が来ないから)、それが少し寂しかったのもある。空っぽのショウケースを見て、ここに甘いケーキが並んでいるのも良いなと考えた。

 しかし、僕の腕前は上がったと思うが……自画自賛ではなく、僕のお茶を飲んでくれる限定四名からの評価だ……問題は、飲んでくれる相手が四名しかいない事である。それは、ローラと火朽さん、そして藍円寺さんと、火朽さんの大学の同級生の紬くんだ。

 マッサージを行わないので、最近ローラが店を開ける事は無い。だから、ローラのもとを訪れた藍円寺さんか、火朽さんと一緒に遊びに来た紬くんに振舞うしかない。折角だから誰かに飲んで欲しいし――僕も、趣味と実益を兼ねたいという考えもある。

 そう考えながら、マカロンを口に運んでいると、ローラが現れた。
 住居スペースのリビングにいた僕の、正面のソファに彼は座った。
 黒い髪に、どこか紫色に見える猫のような瞳をしている。

「砂鳥、最近、街の連中はこの店を『絢樫Cafe』と呼んでいる。誰も、『Cafe絢樫&マッサージ』とは呼ばないらしい」

 それを聞いて、僕は頷いた。

「だって、マッサージをしていないし。ローラは働いていないから、仕方ないんじゃない?」

「――そうじゃねぇよ。俺が言いたいのは、店の名前を分かりやすく、そちらに合わせるべきだという事だ」
「カフェをしっかりやるの?」
「おう」
「ローラならお茶も淹れられそうだね」

 ローラは一切家事をせず、火朽さんに押し付けているが、僕と違って出来ないわけではないらしい。僕はお茶の淹れ方こそ覚えたが、元来家事は苦手だ。

「ん? お前が働くんだ。どうして俺が働くんだ? 俺には、別の仕事が出来た」
「え、僕が?」
「ああ。最近、妖怪薬と人間の嗜好品の茶にこってるんだろう? 丁度良いだろ?」
「――うん。僕はやってみたいけど……ローラの新しい仕事っていうのは?」

 僕が尋ねると、ローラが唇の片端を持ち上げた。

「藍円寺と一緒に除霊の仕事をする」
「なるほど。僕も、それが良いと思うよ」

 本来、ローラもまた除霊される側の存在ではあるが、ローラのように強い魔は、より弱い魔を、殲滅・消失させる事が可能だ。それは、人間のいう浄化と同じ行為だ。人間である藍円寺さんの除霊よりも、よっぽど効果がある。

「そこで、看板を変えようと思うんだ」
「何にするの?」
「――絢樫Cafe……&藍円寺とかにしたかったんだけどな、藍円寺に拒否された」
「由緒正しいお寺の名前を勝手に付けるのは、僕もまずいと思うよ」
「だって、藍円寺に依頼が来るんだぞ? なら、ここを窓口にしても良いと思ったんだ」
「その辺は、藍円寺さんだって心霊協会に何か登録していたりするんだろうし、ローラは藍円寺さんから教えてもらえば良いんじゃないの?」

 僕が言うと、ローラが何度か頷いた。

 新南津市心霊協会というのは、この新南津市の独特の公的機関だ。除霊業者がバッティングしたりしないように調整したり、大規模なお祓い案件の際には協力して行動を起こせるように、設置されているらしい。

 そんな機関が存在するくらい、妖や怪異、心霊現象はこの土地に根付いている。人間という生き物は、「お化けなんかいない」と、何かと合理化という作業を心の中で行う事が多いのだが、この新南津市の人々は、「幽霊? いるいる!」と考える場合が多いようだ。

 というのも、紬くんのご先祖様が、この土地に結界を築いて、沢山の妖魔を閉じ込めて、定期的に浄化するようにして以来、妖と共に暮らす地域の人々に、霊に対する耐性がどんどんついていった結果らしい。玲瓏院結界というそうだ。

 それを最初に構築し、現在も貼り直す時に要の役割を果たす玲瓏院家はこの土地で非常に――霊能力だけではなく、人々への影響力や権威が強いらしい。玲瓏院紬くんは、そのお家の次の当主だという。

 ちなみに藍円寺さん――藍円寺享夜さんは、玲瓏院家の分家筋だという。お兄さんが二人いて、一番上は朝儀(アサギ)さんというシングルファーザーで、斗望(トモ)くんという子供がいるそうだ。二番目のお兄さんは、僕も何度か会った事がある、昼威(ヒルイ)先生というお医者さんだ。

 ただ、僕達三人のように力ある妖から見ると、人間の構築する結界なんて、有って無いようなものだから、実害は今の所無い。

「まぁ、そういうわけだから、砂鳥。お前がカフェを頑張ってくれ。既に、『絢樫Cafe』という新しい看板を発注済みだ。午後には届く」

 最初から決めていたらしく、相談では無かったようだ。ローラは、いつも自分で決めるわけであるし、今回もいつもと同じだったと言える。

 こうして――正式に、絢樫Cafeは始動する事に決まったのである。