【9】排除と処理



「ちょっと、トイレに行ってくる」

 歩きながら、さも思い出した風に、校門間近の場所で、俺は紗衣達にそう告げた。すると紗衣と朝儀が俺に振り返る。

「なんなら先に帰っていて」
「――うん。じゃあ、帰ろっかな」

 朝儀が素直に同意する。紗衣は、暫しの間、俺をじっと見ていた。露骨だっただろうかと思案する――吸血鬼の排除の為に姿を消す理由としては。

「迷子にならない?」
「子供扱いしないで」

 イラっとして俺が言うと、紗衣が吹き出した。

「モノレールもあるし、一人で帰宅する事も出来るよ」
「そう? 寂しいなぁ。縲くんと一緒に夕食を食べたかったのに!」
「紗衣さん、俺はモノレール代持ってこなかった。送って」
「車で来てるしね――しょうがないなぁ」

 朝儀が紗衣の腕を引っ張っている。それから彼はチラリと俺を見た。そして小さく頷く。ああ、なるほど。朝儀は俺の行動を察していて――賛成らしい。それに気が楽になった。朝儀は日本人ながらに、非常に俺と近い感性をしているように思う。だからこそ共にいて気が楽になるのだ。

 校門前で二人と別れた俺は、教授室へと真っ直ぐ戻った。中の気配を伺うと、人の良さそうな吸血鬼は、卒論指導を行っている。懐いている様子の何も知らない人間の生徒は、憧憬を滲ませた瞳を、夏瑪夜明の偽物へと向けていた。

 俺は、それが終わるのを待った。さすがに一般人の前で虐殺しようとは思わない。目を伏せ、時計の秒針の音に耳を傾ける。彼らの会話が終わったのは、夕方の六時を過ぎた頃の事だった。窓から差し込む西日が、俺を照らしている。

「――まだ、何か用かな?」

 学生が帰路に着いてから、先に声をかけてきたのは、吸血鬼の方だった。俺は小さく頷き、視線で教授室に入りたいと希望する。頷いた彼は、中へと踵を返す。入ってすぐに、俺は施錠し、ポケットの中のバタフライナイフの存在を指先で確認した。

「それで、どんな用事だい?」

 平和ボケしているらしいヴァンパイアが、微笑さえ浮かべながら俺に問った瞬間には、俺はナイフを取り出し、彼を押し倒していた。吸血鬼が目を見開く。

「随分と平和な頭をしているらしいね、この国の怪異は」
「っ、な、何を――」
「どうして排除されないと盲信しているの?」

 問いかけながら、彼の右目をくり抜くように、眼窩の下側にナイフを突き立てる。それをくるりと回すと、右の眼球が飛び跳ねた。人を喰い殺す罪をきちんと自覚させて屠るのは、人類の優しさだ。ナイフに力を込めると半分潰れて濁った眼球が垂れてきて、視神経が見えた。呻き声を上げ、それから絶叫した吸血鬼の首を左手で締めながら、俺は見下ろす。彼の艷やかな髪が、象牙色のソファの上で乱れている。俺は防音装置を起動し、この部屋の外には悲鳴が何一つ聞こえないようになる雑音処理をした。

 床へと零れ落ちた眼球は、床の上で、再び球体を形作っていく。視神経が蠢いている。次は、左目だ。今度は瞳にナイフを突き立てて、俺は吸血鬼へと冷めた眼差しを向ける。

「わ、私は――きちんと裏法律を遵守し、して」
「それが、何?」
「やめろ、やめてくれ、ああ!」

 続いて鼻を削ぎ落とす。特別な酸を放出するナイフのおかげで、すっと削げた。徐々に徐々に、彼の顔が無くなっていく。それが、心地良い。吸血鬼など、見たくもないからだ。そもそも視認してはならない存在だ。それこそが、怪異だ。唇の周囲をナイフでなぞり、そちらも剥いでから、俺はナイフを握り直す。そして絞めていた首から手を離して、ポケットから銀の銃弾が入る拳銃を取り出した。

「今俺が、楽に逝かせてあげるのは、善意からだよ。この平和な国に浸っていた吸血鬼を憐れむからだ。もしもこの土地でなかったならば、このように楽には逝けない」

 そう告げて、俺は彼の額に銃口をあてがった。そして銃把を握り締め、二発打った。脳漿が飛び散る。最後は声もなく、その吸血鬼は――死んだ。死体が透き通り始め、指先から透過していく。遺体が残らないのは、弱い吸血鬼の特徴だ。

 全てが、予定通りに完結した。俺はそれに満足しながら立ち上がり、そして踵を返した。その瞬間――眼前の光景に硬直した。そこには腕を組んでいる紗衣がいたからだ。目を見開いた俺は、最初に、考えてしまった。見られたくは、無かったと。両腕の上に豊満な胸が乗る紗衣。華奢なくびれもいつも通り。ただ、いつもと異なるのは、俺を見る二つの瞳だ。

「ダメだって、言ったじゃない?」
「……吸血鬼は、排除しなければならない」
「縲くんの気持ちは、分かったよ。だけどね、それは、プロフィールを見る限り、ただの洗脳結果だよ」
「だとしても、俺がなすべき事は変わらない」

 吸血鬼の排除は、既に俺の本能だ。ヴァンパイアに対する嫌悪、憎悪、人類の敵であるという感覚、それは、俺の全てを支配している。

「――この大学に、夏瑪夜明という教授は、もういない」

 その時、紗衣が言った。

「今夜から、特別な研究のために、海外へと旅立った。そうなっているよ」
「え?」
「処理は、私の大切なお仕事だからね!」

 俺は、今度は驚いて刮目した。すると紗衣が微苦笑した。綺麗な髪が揺れている。

「縲くんは、何も悪くないよ。縲くんの正義に従っただけだもんね。それが、ただ少しだけ、私とは相容れないだけだよ。だけどさ、もう私達は夫婦になるんだから、ちょっとずつ、そこの温度も合わせて行こうね! なんていうの、今回の処理は、内助の功かな? 褒めてくれる?」

 冗談めかして紗衣はそう言うと、俺に歩み寄ってきた。そして俺を抱きしめた。

「だから、そんな風に悲しそうな顔をしないで」
「悲しそう……?」
「苦しそう、でもあるし、泣きそうにも見えるよ」
「何言ってるの? バカじゃないの? 達成感でいっぱいなんだけど」

 けれど紗衣の腕の中にいると、その胸の柔らかさを感じると、なぜなのか俺は力が抜けていくのを感じていた。紗衣に拒まれなかったという現実が、嫌われなかったらしいという現実が、無性に俺に安堵をもたらした。

 ――この日。
 紗衣は、完璧に、後処理をしてくれたのだった。