【2】ひと時の幸せの終焉
――嫌な夢を見た。
俺は目を見開いて、玲瓏院家の天井を視界に捉えた時、今の光景が全て、『過去の出来事』だったのだと気づき、全身を震わせた。びっしりと汗をかいている。それが冷や汗なのか、それとも熱感を伴っているのか、一時的に意識できないほどに、俺は動揺していた。
そう……今の光景は、『夢』だ。
現在の俺は、玲瓏院縲(レイロウインルイ)という名の、一介の日本人男性である。ここは、フランスでは無いのだ。こめかみに張り付く金髪を、指でくしゃりと撫でるように持ち上げる。戸籍的には日本人であり、血縁的には、俺はクォーターである。金髪と一口に表しても、俺の場合は、祖母のプラチナとは異なり、ダークブロンドだが。
俺は祖母を、写真でしか目にした事が無い。
移民政策化で困窮していた元第二身分――白色人種と古の爵位を誇りとしていた我が祖母は、最も大切な誇りを、俺から見ると売り飛ばしたと言える。旧とはいえ、仏貴族社会にあっては蔑みの対象ですらあるが、金で家柄を売り飛ばしたのである。それも、婚姻などというような、生易しい階級移動の手法では無い。己の卵子を売り飛ばしたのだ。
購ったのは、DGSE――仏諜報機関に属する、対ル・ヴァンピール特殊部隊の研究班だった。そして、協力関係にあった、日本国CIRO――内閣情報調査室庶務零課から精子提供を受け、実験として、『日本で言う所の霊能力が強い子供』を生み出した。それが、俺の父だ。DGSEは、各国の『スピリチュアル』な力……国連定義の霊性とは異なる意味合いにおける、それこそ『能力者』を求めて、人工授精を繰り返したようである。
そうして生まれた――生み出された父は、第一身分……三部会の制度を引きずっていた、聖職者家庭に生を受けた母と恋に落ちた。母もまたプラチナブロンドだった。俺のこの、日本人離れした髪の色は、父の暗い髪の色と遺伝学を考えるならば、母譲りでは無いが――少なくとも、三歳まで、俺は愛を疑う事なく育ったはずだ。
しかしながら、実験体かつ戦力と、単体戦力であった、父と母は亡くなったと聞いている。死因は――吸血鬼に、喰い殺されたそうだ。今となっては、この事実関係すら、俺には不明だ。なにせ、俺の最古の記憶は、DGSEの面々が、幼い俺を迎えに来た光景なのだから。
以降俺は、ただひたすらに、吸血鬼を排除しなければならないとして、育てられた。どのようにして拷問し、どのようにして殺傷し、どのようにして人類を存続させていくか。それが俺にとっての全てであり、他の世界は存在しないと言えた。
愚鈍に歩く通行人を見る度に、俺は感じたものだ。
――吸血鬼という脅威がすぐそばにいるのに、知る事も叶わず、平和だと妄信している、愚かで哀れな存在だ、と。
『Il est au Japon』
――彼は、日本にいる。
少女らしい吸血鬼の声が蘇った。契機が訪れたのは、まさにあの『拷問』の頃だった。俺はあの頃、『オロール卿』と呼称される、ディフュージョンされている国際手配書『深緋』の吸血鬼を追いかけていた。Auroreは女性名詞であるが、歴とした男性型吸血鬼である。オロールは、この国では、黎明という意味だ。現在では、その者は、『夏瑪夜明』と名乗っているらしい。端緒、俺は、仏諜報機関より、オロール卿の討伐のために、この日本という国へと派遣された、祓魔師(エクソシスト)だったのである。
その後は、様々な事があった。
俺は妻と出会い、十三歳にして、人工授精で双子を儲けた。
絆と紬だ。
直接的な性行為を行ったわけでは無かったから、俺から力が消える事は無かった。
俺と妻、他には藍円寺朝儀が所属していた機関において、俺達は、『夏瑪夜明』を名乗る吸血鬼を”多数”退治した。が、本物のオロール卿に行き着く事は叶わず、志を半ばにして、俺の妻である玲瓏院紗衣は喰い殺され、それは後に朝儀の妻の望美も同様となった。
玲瓏院家から俺に連絡があったのは、紗衣の葬儀が終わる直前の事だった。
「帰って参れ」
それは、紗衣の父である、玲瓏院統真(レイロウイントウシン)の言葉だった。
俺には、拒否権は存在しない。
紗衣と初めて出会った時の事を思い出す。
――ねぇ、精子を売ってくれない?
穏やかな声が蘇った。
「ねぇ、精子を売ってくれない?」
初任日に、俺はそう声をかけられた。てっきり、仏での噂を、その日本人女性も耳にしているのだろうと考えた。聖職者(エクソシスト)である俺は、一度でも姦淫の罪を犯したならば、永劫、この身に宿る力を使う事が出来なくなる。大和撫子は過去の幻想だという言説が誠であり、現代の日本人女性が獣に成り下がった事を、俺は嘆こうとした。だが、彼女は言った。
「そうすれば、貴方の人生の借金の半分は返せるもの。人生は謳歌しないと勿体無い!」
……その言葉を聴いて、俺は初めて彼女の顔を正面から見た。
白い肌に、そばかすの痕が残る、俺よりも十歳年上の女性だった。
当時、俺は十三歳だった。
俺には莫大な借金があった。祖母が残したもの、両親がそれを返済しきれなかったもの。
「知ってるの、私。ルイくんは、大叔父様達の借金が終わるまでの間、DGSEで働かなければならないんでしょう? 大叔父様が、精子提供をしたと聞いたの。つまりルイくんと私は、またいとこ」
「それが、何?」
その時の俺は、目を細めて、無表情で返答した自信がある。
「DGESがね、私とルイくんの子供を作るならば、これからは、ルイくんを日本国籍にしても良いと話していたんだって!」
「――体の良い厄介払いか」
ポツリと、俺は返した記憶がある。移民政策への反対という世論が巻き起こって久しかった。いくら『能力』があろうとも、国策に合致しない人間など、存在価値は無いのだろう。別段俺は、驚かなかった。そもそもが、大別するならば基督教徒がしめる仏において、異教徒の血が混じっているにも関わらず、『敬虔』だとされる自身の方に違和すらあったからだ。
「……そんな事は無いと思うよ?」
「それで? この国で、俺を引き受けて貰う条件は?」
淡々と俺が聞くと、彼女は両頬を持ち上げた。
「まずは、私のお婿さんになってもらいます! いやぁ、玲瓏院家は今ね、私しか後継者がいなくて困っちゃってるんだ」
「婿? この国の戸籍制度について、俺は何一つ詳しくは無い。好きにして。後は?」
「……、……子供を、作ります」
「へぇ」
俺が適当に頷くと、彼女は笑みを強ばらせた。東洋人は若く見えると耳にした事もあるが、俺はそうは思わない。149cmの俺の身長と、彼女の身長は、ほぼ同じだ。しかしながら、肌ツヤを見る限り、俺は子供と表するに相応しいが、彼女は老化している。
「俺に、おばさんを抱けっていうの?」
「私まだ、二十三歳なんですけど」
「俺は十三歳だけど?」
「……ええと、人工授精します」
「生殖可能だけど――とすると、能力を遺伝させつつ、俺にも力を残したいんでしょう?」
「え、ええ、まぁ」
「採取してくるから、精液採取キットを」
慣れていたので俺が伝えると、彼女は呆気にとられたように目を丸くした。それから赤面した彼女を見て、その時になって俺は、初めて気がついたのである。見た事こそあったが、一応同僚である彼女の名前すら知らない事に。
「名前は?」
「紗衣(サイ)です!」
「俺は、ルイ・ミシェーレと言うんだ」
「知ってます! お婿さんになってもらった場合には、『縲(ルイ)』くんってどうかな!?」
「どうかなと言われても……」
掌に漢字を書いている紗衣を見て、この日の俺は、多分馬鹿にしていたのだった気がする。彼女というよりも、俺は女性を見下していた。卵子を売り払った祖母と彼女が重なったのだ。記憶に無い母だけが、俺の中で象徴的な女性だった。
――回想を終えた俺は、双子の我が子を腕に抱きながら、嘆息した。
借金を肩代わりしてくれていた紗衣が亡くなった。
今後、肩代わりをしてくれるのは、玲瓏院家のそれこそ統真氏となる。
戸籍的には、紗衣の主人として意外無関係だが、俺の大伯父に当たる人物だ。
その命令は、絶対である。