翌日から日常が戻ってきた。
 休暇の日は一日中、王立学院がある日は、送迎後、僕はラピス様のお世話をして過ごしている。定期的にやって来るエドガー様とシルクさんを追い返す以外は、特に何事も無い。

 穏やかな日々が――二週間ほど過ぎた。

 今日も今日とて王立学院へと迎えに行き、控え室へと向かう。扉を開けると静まり返ったのもいつもの通りだった。僕は端の椅子に座り、膝と腕を組む。

 物音がしたのは、その時の事だった。
 目を見開き、僕は轟音がした方を見る。
 壁が、崩れていた。それよりも向こうには、【空間の歪み】が見て取れた。不可思議な色に宙が割れていて、黒い亀裂が走ったようになっている。【空間の歪み】は、神出鬼没であり、出現条件も定かではない。どこに出現してもおかしくないのだ。

 その向こうからは、基本的に異世界人或いは異世界から来る魔獣が出現する。
 黒い炎を吐き出す、巨大な竜が出現していた。
 巨大で獰猛な爪で、東塔の壁を破壊したようである。
 禍々しい瘴気が周囲を埋め尽くしていく。

 僕は立ち上がった。控え室の内部にいた人びとは顔面蒼白になっている。それもそうだろう。基本的に付き人は、武力を持たないか、持っていても対人戦の技能に優れた者ばかりで、魔獣の討伐経験がある事は滅多にない。

 僕は校舎側に被害が無いのか、視線を向けた。僕がお守りしなければならないのはラピス様であり、魔獣である竜への対処は僕の仕事では無い。そうは思ったが――……竜はこちら目掛けて進み始めた。竜は人肉を特に好む魔獣である。僕はちらりと後ろを見た。みんな青褪めて、動けないでいる。瘴気は人体の動きを止めるのだ、耐性が無い場合。

 瘴気が出現すれば、王国騎士団の展開している監視結界が察知する。ここから王宮までは一時間もかからない。冷静にそう考えながら、僕は剣を抜いた。どのみち、この場の人肉を食べ終えたら、竜は校舎へ向かうはずだ。そうなればラピス様に被害が出る。

 それだけだ。どうせ戦う事になるのならば、この場にいる者が食べられる前に剣を抜いて、魔術を放っても、同様の結果となる。僕は床を蹴って、跳んだ。

 硬い竜の手首から先を剣でひとつ切り落とし、ランブルフィア帝国の魔術魔法陣を脳裏で想起する。同時に、僕と竜を囲む形で、隔離結界を構築し、展開した。あとは、騎士団の到着まで耐えれば良い。

 その時もう一方の竜の手が、僕の肩を掠めた。後ろに退避すると、黒い炎が迫ってきた。剣を手放した僕は、息を詰めてから飛びのける。すると再度振りかぶられた手が、僕の足を掠めた。右肩と左足の膝から、血が噴き出したのが分かる。痛いというよりも、熱いと感じた。しかしこれは痛みであるとも正確に判断していたから、痛覚を遮断する魔術を用いる。回復魔術の応用だ。そうしながら次の攻撃魔術を叩き込む。

 それから――どのくらいの時間が経過したのか。

「レイ」

 声をかけられて我に返った時、僕の正面には竜の遺骸があった。肩を抑えていた僕は、立ってはいたものの、一瞬意識を飛ばしていたらしい。緩慢に振り返ると、そこには駆けつけてきた第二騎士団――の、団長であるガイスが立っていた。

「大丈夫か?」
「……ええ」
「すぐに救護班へ――」
「結構です。ラピス様をお迎えに上がらないとなりませんので」

 僕は自分の仕事を思い出した。
 手を引かれたのはその時の事である。気づくと僕は、正面からガイスに抱きしめられていた。すると、ガクンと僕の体から力が抜けた。彼に触れられた瞬間、糸が切れたようになり、力が抜けてしまったのである。僕は、そんなに朦朧としているのだろうか? 自分では分からない。

「レイ!」

 叫ぶ声が聞こえたように思った。それが自分の名前だと認識した直後、僕の瞼が重くなった。ガイスに触れていると、全身が安心感に似た何かに包まれていく。そのまま僕の瞼は落ちきり――そこで意識が途絶したようだった。



 目が覚めると、僕は見知らぬ寝台に沈んでいた。
 ズキズキと肩や膝が痛む。僕が用いた痛覚遮断魔術は解除されていた。あれは意識を失っても一定時間は持つ代物であるから、第三者の医療魔術師が解除したのだと思う。僕は手の甲にある点滴を見て、ここは医療魔術院だろうと判断した。天井に、医療魔術を常時展開する魔法陣が刻まれているからだ。

「目が覚めましたか?」

 声をかけられて、初めて室内に、僕以外の人間がいると気がついた。起き上がろうにも、体に力が入らない。医療魔術の影響だろう。僕は客観的に考えても、大怪我をしていた。だから自身で回復魔術を用いていたのだが、それはこのエストワール王国でメジャーな医療魔術とは異なる。

 僕を覗き込んできたのは、シルクさんだった。

「助けてくれた事、まず礼を」
「……いえ。ラピス様をお守りする過程での事ですので」
「そうであっても助かりました。痛みはどうですか?」
「平気です。ラピス様の元へ行かないと――」
「ラピス様は、エドガー様と共に、王宮で暫くはお預かりします。貴方は怪我を治すべきだ。責任をもって王宮の侍従がお世話いたしますので、ご安心を。王立学院も暫く休校と決まりました。送迎係もお世話係も不要です」
「……」

 僕はどのように答えれば良いのか分からなかった。
 シルクさんはいつもとは異なり、優しい顔をしている。

「医療魔術師を呼んできます。横になっていて下さい。くれぐれも、無理に起き上がって、ラピス様の元へ行こうなどとは考えないように」

 僕に釘を刺すと、シルクさんは出ていった。僕は再び天井を見上げる事になった。
 暫くして、シルクさんと共に、医療魔術師がやってきた。

「ベアルと申します。ウィンスラート卿、暫くお世話をさせて頂きますね」
「僕はどのくらいで退院出来ますか?」
「――二週間は、安静に」
「……」

 いつも通り過ごしているのならばあっという間だろうが、ラピス様から離れると思うと、途方もなく長い期間に思えた。ベアルと名乗った医療魔術師は、その後、僕の点滴を追加した。するとすぐに僕は猛烈な眠気に襲われて、そのまま寝入ってしまった。

 翌日。
 僕は目を覚ますと、今度は起き上がる事が出来た。

「レイ」

 耳触りの良い声がしたと思って視線を向けると、椅子にガイスが座っていた。

「ガイス……どうしてここに?」
「昼休憩の時間だから、見舞いに来たんだ」
「そう」

 頷いた僕は、彼をまじまじと見た。あの時、彼に触れさえしなければ、僕の体から力が抜ける事は無かったように思う。不思議な感覚だった。

「見舞いも騎士団の仕事なのですか?」
「いいや。俺個人が来たかったんだ」
「……どうして?」
「お前の事が心配で、頭から離れなかった。あの時、お前を失っていたかもしれないと思ったら、全身が冷たくなったんだ」

 確かに知人の死が快いものでは無いだろうが、ガイスは大げさだ。

「竜は騎士団でも約十人がかりで、剣士と魔術師が共闘して倒す存在だ。よく対処したな」
「少し心得があっただけです」
「――大陸冒険者ギルドの登録戸籍保持者にSSSランクの冒険者として、ウィンスラートの名があった。ランブルフィア帝国の皇帝陛下の任務を遂行して、そのまま帝国に召し上げられて爵位を賜った人物に、ウィンスラートの名があった。お前で良いのか?」
「ええ。そうですか……医療魔術院の入院時は、戸籍を開示するのでしたね」

 僕が頷くと、ガイスが嘆息した。それから、じっと僕を見た。

「とにかく、命に別状が無くて良かった」
「有難うございます」
「そろそろ休息時間が終わる。明日も見舞いに来る」

 ガイスはそう言うと立ち上がった。それから、屈んで僕の頬に触れた。すると僅かにピリリとしたが、彼の指の温度を感じていたら、すぐに昨日のように体から力がカクンと抜けた。思わず僕は、寝台に沈む。何故なのだろう。ガイスに触れると体がおかしくなる。ただ決してそこに不快感はない。寧ろ――どこか、心地良い。

「早く快くなるようにな」

 そう口にすると、ガイスは帰っていった。
 そして宣言通り、翌日も昼間に顔を出した。それが三日ほど続いた時、僕は尋ねた。

「どうしてこのように見舞いに?」
「初めに言った通りだ。俺が来たいだけだ。お前に会いたくてな」
「何故?」
「迷惑か?」

 答えになっていない。僕は大きく吐息した。

「僕というより、ガイスに迷惑をかけているんじゃと思って。何か、お礼を」
「礼、か」

 とはいえ、僕個人に出来る事は非常に少ないのだが。
 そう考えていると、ガイスが身を乗り出した。

「ならば、お前の唇か欲しい」
「え?」
「キスがしたい」

 唇を触れ合いそうなほど近づけられて、僕は短く息を呑んだ。
 ゆっくりと瞬きをすると、その間にもガイスの顔が近づいてきた。

 ――ダンと、扉が開いたのは、その時の事だった。

「大丈夫か? 具合はどうだ?」

 入ってきたのは、エドガー様とシルクさんだった。僕がそちらを見る前で、ガイスは姿勢を正すと、両目を掌で覆ったのだった。