【一】
白い陽光が、その土手を照らし出していた。
一人、川辺で水の中の石を見ていた時だ。
「時雨。何をしているんだ! 危ないだろうが!」
「……」
しゃがんでいた時雨に、棗が声をかけた。茶色いランドセルを背負っている。棗はこの春、街の小学校に進学したばかりだ。幼稚園や保育所に行く事も無く、いない者として扱われている時雨は、ただ静かにその時川を見ていた。
「今日はラベンダーの花のお手玉をやるぞ。早く来い!」
土手を降りてきた棗が、時雨の手首を握る。そして笑顔を浮かべた。
「時雨」
◆◇◆
「時雨」
「ッ」
手首に触れられた瞬間、時雨は己が夢を見ていた事に気づいた。普段であれば、誰かに近寄られたら目を覚ますのだが――最近、例外として、棗の隣だと微睡む事がある。自分の胸の上に乗っている兄の端正な顔を見て、時雨はゆっくりと瞬きをした。左手で棗の後頭部を撫で、抱き寄せる。
「なんだ?」
「いや……寝ているお前を見るのは、珍しいと思って」
二人が恋人になってから、既に三ヶ月が経過している。確かにその間、夢を見るまで深く眠った事は無かったかもしれないと、時雨は考えた。
この三ヶ月の間に、棗は大分素直になった。何より、大人しく時雨の腕の中に収まっているようになった。昨夜も体を重ね、こうして迎えた朝は、どこか温かい。
「棗」
「ん……」
時雨が棗の唇をなぞると、薄らと棗が唇を開いた。軽く首を起こして、時雨はその唇を奪う。口腔に舌を差し込み、丹念に兄の舌を絡め取った。角度を変えて何度も貪る時雨と、その感覚に翻弄される棗。しかし棗もまた、次第に巧みなキスに慣れつつある。
「ぁ……」
棗の舌を、時雨が甘く噛んだ。ピクンと棗の肩が跳ねる。それから唇を離して、互いに見つめ合った。自分の胸板に顎を乗せている兄を見て、時雨が優しい顔をする。うっとりと蕩けるような瞳で、棗は時雨の顔を見ている。
その後二人は、もう一度唇を重ねた。
現在、透花院橘家では、使用人を除けば、棗と時雨が二人で暮らしている。時雨の部屋は昔のまま残っていた。それは当主になった後の棗が、頑なにそのままにしておくようにと命じていたからである。両親は既に亡い。
これまで物寂しかった家に、時雨が帰ってきたというだけで、安心感がある。棗はその事実を実感しながら、一度自室へと帰った。ここの所は、時雨の部屋で夜を共に過ごしてばかりだ。そこで新しい着物に着替えてから、階下の食卓へと降りる。時雨は軍服姿で席へと着いた。現在時雨は、下の街の軍本部に転属し、そこで国防軍の仕事をしている。時雨のために、国防軍が新しい職場を用意した形だ。そのくらい、軍にとって、橘少将である時雨の価値は高い。実力が評価されている証左だ。
この日、使用人が用意した料理は、焼き鮭と卵焼き、ほうれん草の味噌汁とひじきの小鉢だった。透花院橘家では、和食が多い。
「今日は何時頃帰ってくるんだ?」
棗が何気ない調子を装って聞く。毎朝の常の風景となった。しかし今でも、棗は時雨が軍に顔を出す日は、帰宅しないのでは無いかと心配している。その不安に、時雨は気づいているから、時に苦笑しそうになる。半分は嬉しさもある。棗からの好意が愛おしくて、求めらる事がたまらない。もう半分は、己の愛を信じてもらえないようで少しだけ苦しい。
「なるべく早く帰る」
「そうか……遅くなる時は、きちんと電話をしろよ。お前はすぐに泊まってくる」
「分かってる。兄さんは心配性だな」
「べ、別に! 心配なんかしてない」
最近では、夜は素直になったのに、昼は相変わらず素直では無い棗が、心底愛おしくてならない。時雨は日増しに、己が棗を好きになっていく事を理解していた。無論、幼少時から、ずっと大切ではあったが、その比重と内容が変化していく。『兄さん』と口にする事はあるし、確かに紛れもなくたった一人の兄だとも思うのだが、今では恋人としてしか見られなくなりそうでもあった。
食後は、鞄を持ち、靴を履く時雨を、玄関まで棗が見送りに出た。これも、時雨が街に降りる時は常の光景だ。立っている棗に、背の高い時雨が口づける。
「行ってくる」
これが、二人の新しい日常だった。