やる気が起きない。誰か助けてくれ……。
俺は、生徒会室で山のように連なっている書類を眺め、遠い目をしてしまった。
現在、夜の七時。とっくに下校時間は過ぎている。
しかし俺は、この書類が終わるまで、帰る事が出来無い。
何故なら明日、生徒会総会があるからだ……。
もう嫌だ……何度も俺はそう思った。そもそも、学生の本分は、勉強のはずだ。そう思い、抱きたい・抱かれたいランキングなる謎の代物で両方一位、総合一位になってしまった俺は、最初に理事長のもとへ、抗議に行った。
「どうせ会社を継いだら、もっと悲惨な書類仕事に従事する事になるんだし、これもまた、勉強だよ」
すると理事長は、笑顔で俺に対し、こう述べたのである。
そこで俺は、考えた。ならば、生徒会長を辞めよう――と。
けれど生徒会長になってしまった後、その任を降りるには、方法が二つしかなかった。
一つ目は、退学や休学するなどして、物理的に学園からドロップアウトする事だ。俺は、生徒会長になってすぐのGWに実家へ帰省し、転校したいと訴えた。
「馬鹿者。我が桐生家の、次期当主たるものが、青嶺学園を卒業しないなど、ありえぬ!」
父に一蹴された……。俺の生まれ育った桐生家は、この国で上位の旧財閥系の家柄だ。そして俺の通う青嶺学園とは、知る人ぞ知る名門校なのである。俺は幼稚舎から、山奥に隔離されたその学園の宿舍に放り込まれて、寂しい思いをしながら、ひっそりと生きてきた。
なお、ひっそりと生きていたので、初等部と中等部時代は、俺は生徒会長では無かった。当時の生徒会長は、「俺、音楽家になりたい」と言って、高等部には進学せず、留学してしまったのである……。
結果、謎ランキングというよりも、一番力のある家柄が、桐生の家となり、その経緯で俺はコネ作りの一環として投票されたらしく、やりたくもないのに生徒会長になってしまった。
「はぁ……」
溜息が止まらない。俺は虚ろな眼差しを、書類の山に向けた。
なお、二つ目であるが、俺はリコールしてもらえば良いと気がついた。
リコールされれば、生徒会役員は、一度全員解任されるからだ。
おりしも、GW明けに、青嶺学園には、転校生がやって来た。彼は、非常に濃いキャラをしていて、目が釘付けになるようなカツラをつけ、それこそ牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけていた――が、それらを取り去ると、たぐいまれなる美少年だった。
彼が原因で、彼を巡る恋と嫉妬の嵐が、学園を襲った。
俺はチャンスだと思った。俺も恋にうつつを抜かしたフリをして、リコールをしてもらおうと決意した。よって、俺は食堂で、転校生にキスをしてみた。すると蹴り飛ばされたので、死ぬほどの痛みに涙ぐみつつ、俺は言い放った。
「気に入った……」
今も思う。どこのドMの台詞なのか、と。
しかしそれから二週間で、転校生は、我が生徒会の副会長と相思相愛になった。
転校生は一途で、他の人々の求愛は全て断っていた。
副会長も、仕事はきっちりとする。
結果、リコールは発生せず、書記も寡黙に頑張っているし、会計も適度に仕事をしている。俺は……辞めるに辞められないまま、ここまで来てしまった。現在、高校二年生の冬だ。もう少ししたら、任期は終わる。だが、明日の生徒会総会が嫌だ……働きたくない。
残っているのは、俺がサインをしなければならない書類ばかりだ。腱鞘炎になってしまう。副会長達は、もう帰った。彼らは有能だから、とっくに自分達の仕事を終わらせているのだ。俺は、仕事が出来無い……向いていなさすぎる。
泣きそうになったが……幼い頃より、父に、「桐生の跡取りたるもの、堂々としていろ」と強く言われてきたせいか、俺は度々、『俺様』と言う評価を受ける。そんな俺は、人前で涙を見せる事など、決して許されない。しかし現在、生徒会室は、無人だ。
――ノックの音がしたのは、その時の事だった。
「誰だ?」
俺が言うと、静かに扉が開いた。顔を覗かせたのは、風紀委員長の匠馬だった。
「既に下校時刻を大幅に過ぎているが、生徒会の仕事が立て込んでいるのか?」
レトロな懐中電灯を手に、匠馬が俺を見た。嫌な現実を突きつけられて、俺の顔が引き攣りそうになった。何でも、伝統的に、風紀委員会と生徒会は仲が悪いらしいが、俺達の代は、現在に至るまで平和だ。
「まぁな。俺様にかかれば、大した事は無いが」
俺は見栄を張った。すると匠馬が腕を組む。
「その割に、目の下の隈が凄いな。俺が見回り中に確認した限り、昨日も一昨日も、生徒会室の電気は、夜の十一時半までは点いていた」
「貴様こそ、その時間まで見回りをしているというのは、随分と多忙だなァ」
「いいや。俺の寮の部屋の正面が、この生徒会室だというだけだ。勉強の息抜きに外を見たら、明かりがついていた」
「なるほど……」
「明日は生徒会総会だぞ? 少し、寝た方が良いんじゃないのか?」
匠馬の声に、俺は思わず書類を見た。匠馬は、そんな俺に歩み寄ってくる。
「――とても余裕には見えない、『未サイン』の箱があるようだが」
「……」
「バ会長」
「その呼び方を止めろ」
「俺の特技は、文体模写だ」
「は?」
「お前の字を模倣して、サインをしてやろうか?」
「えっ」
「仕事を手伝ってやろうか、と、言っているつもりだ」
その言葉に、俺は目を見開いた。本当に、俺の文字そっくりに、サインを書けるのだろうか? まず、その特技に驚いた。
「ちょ、ちょっと、この紙に、試しに書いてみてくれ」
「良いだろう」
楽しげに笑ってから、匠馬がペンを手に取った。そしてサラサラと綴られた文字は――どこからどう見ても、俺の字にそっくりだった。唖然とした。
「匠馬……誰にも言わないで、ひっそりと手伝ってもらえないか?」
思わず俺は、本音を放った。匠馬は喉で笑うと、俺の隣の椅子を引く。本来そこは、副会長の席だが、不在なので良いだろう。
「ただし、お礼はしてもらおう」
「礼? 貴様は、何をして欲しいんだ?」
「明後日――次の土曜日、丸一日、俺に時間をくれ」
「良いだろう。俺様の貴重な時間を割いてやる」
内心では、そんな簡単な事で良いのかと、歓喜していた。その間にも、匠馬が書類を片付けていく。俺は立ち上がり、珈琲を用意した。そして、二つ用意したカップの片方を、匠馬に渡す。そうして時折仕事を俺自身もしながら、どんどん片付いていく山を眺めていた。
書類の山が完璧に消えのは、午後八時五十分の事だった。感動しながら俺は、瞳を輝かせる。そんな俺を一瞥すると、匠馬が深く吐息した。
「以前から思っていたんだが、桐生は一見俺様だが……どこか純粋に思える」
「純粋?」
「素直というか……こちらの嫌味もことごとく通じないし、若干抜けているというか……たまに、子供みたいだな」
それを聞いて、俺は珈琲を飲みながら、複雑な心境になった。高等部に在学中の、同じ歳の相手に、子供だと言われると、あまり良い気分にはならない。だが、俺は嫌味を言われた記憶は特に無かったのだ。
「目が離せなくなる」
「俺様は問題行動をした覚えはないぞ?」
「そういう意味じゃない。もっと甘い意味合いだ」
「は?」
「――鈍いな」
深々と匠馬が溜息をつく。
しかし……甘い意味合い?
この学園は、閉鎖的な環境のせいで、同性愛者が非常に多い。
それも手伝い、『甘い』と言ったら、普通は恋愛を指す。
「匠馬は、俺様に惚れているのか?」
「……いきなり聡くなるな」
「鈍いと言ったり聡いと言ったり、我が儘な奴だな」
俺が唇を尖らせると、匠馬が喉で笑った。そんなやりとりをしてから、俺達は、揃って生徒会室を後にした。風紀委員長は、優しいなと感じた夜である。
――翌日の生徒会総会は、まぁまぁ上手く進んだ。
さて、土曜日。
匠馬が来ると言うので、俺は部屋の掃除をしておいた。
待ち合わせ場所が、俺の部屋だったのだ。
約束の時間――午前十時に、匠馬はやって来た。
「入れ」
「失礼する」
訪れた匠馬は、私服だった。普段はきっちりと制服を着ているから、ラフな姿が意外だった。洒落ている。簡単な服装の俺は、もう少々気を遣うべきだったと反省した。
「それで、用件は?」
「特に無い。お前と過ごしてみたかっただけだ」
匠馬の声に、俺は驚いた。俺は休みの日は一日中寝ているタイプの無気力な人間なので、この部屋には、娯楽品がほぼ何も無い。しかし変わった奴だなと思う。
俺は匠馬をソファに促してから、珈琲を差し出した。生徒会役員には、一人部屋が与えられている。カップを受け取った匠馬の正面の席に、俺も座った。すると匠馬が、手土産なのか、小さな箱を、俺の前に置いた。
「食べてくれ」
「悪いな」
受け取った俺は、簡素な白い箱を見て、特に賞味期限のシールなどが無い事を確認した。折角だし、この場で開けるか。甘い香りがするから、食べ物だと思ったのだ。
「お。チョコレートケーキか」
「ああ。作ったんだ」
「手作り? 器用だな……あ」
俺はそこで思い出した。昨日はバレンタインだった。生徒会役員には、専用のチョコレート受け取りBOXが玄関に設置されていたのだが、回収は本日親衛隊のメンバーがしてくれる事になっている。これは、もしや。
「俺様に対する告白か? 本命?」
「そうだな」
半分は冗談で俺は言ったのだが、淡々と匠馬が頷いた。焦った。少しだけ、汗が浮かんでくる。先日匠馬は、俺を素直だと評したが、素直なのは、匠馬の方だ。
「……」
俺は、面と向かって告白されたのは、実は初めてだった。それも相手は、俺に優しい風紀委員長だ……。男同士の恋愛が盛んなこの学園において、童貞だった俺は、不覚にも頬が熱くなってきた。
「……匠馬、ヤらせてくれたりするのか?」
「俺は上を希望する。しかし露骨だな。それは、告白を受け入れられたと判断しても良いのか?」
「そ、その……どちらかといえば、ただの好奇心だ」
「だろうな」
匠馬が吹き出した。俺は思わず俯いて、照れた。
「桐生、まずは、口約束でも良いから、恋人になってくれ」
「恋人って、何をすれば良いんだァ?」
「休みの日には、こうやって一緒にいたい」
「それだけで良いのか?」
「ああ。最初はそれで良い。俺はお前をもっと知りたいし、俺の事も知って欲しい」
こうして、この日から、俺達は付き合い始めた。
以後、週末になる度に、匠馬は俺の部屋へとやって来た。
そして何をするわけでもないのだが、雑談をしては、帰っていく。
匠馬は非常に、穏やかな性格をしていた。
これまでの間、学園で見ていただけの時は、どこか厳しかったのだが、話してみると気さくな部分もある。これは、モテるのが理解できる。風紀委員は、謎ランキングからは除外されるため、最新のランキングにも匠馬の名前は無かったが、彼には非公式親衛隊がいると、生徒会では確認していた。表向きは、風紀委員会専属ボランティアとなっている。
次第に俺は、考えるようになった。一体匠馬は、俺のどこが好きなんだろうか?
本日は、二人で料理をしている。手馴れた様子でパスタのソースを作っている匠馬を一瞥し、俺はスパゲッティの準備をしながら考えた。すると匠馬が、俺の視線に気がついた。
「どうかしたのか?」
「あ、いや……どのくらい食べる?」
「ああ。まぁ適度に」
匠馬は、いつも自然だ。段々、俺の方が意識するようになってきた気さえする。何せ、恋人なのだ。だが……改めて見ていると、匠馬には以前との変化があまりない。そこで、つい聞いてしまった。
「貴様は本当に、俺様の事が好きなのかァ?」
「ん? 何を今更。お前こそ、そろそろ俺を好きになったか?」
「う……」
言葉に窮しながら、俺は沸騰した鍋に、塩を入れた。穏やかに、本当に穏やかに、匠馬の存在感が、俺の中で大きくなっているのは、間違いない。これといったきっかけなどは無いのだ。なんとなく……好きになってきた気がする。
例えば、匠馬が隣にいると落ち着く。反面、胸がドキドキと騒いだりもする。
しかしこんな風に、染み入るように、恋心が訪れる事があるとは思わなくて、あまりにも匠馬の存在が自然になりすぎていき、俺は正直困惑していた。
匠馬は――俺に、甘い。とにかく優しい。
「貴様は……俺のどこが好きなんだ?」
「分からない。気がついたら、桐生の事ばかり考えていたんだ」
なんと、匠馬も俺と同じ気持ちらしい。こんな風に穏やかな恋が、この世には存在したのか。俺は漠然と、恋とは激情に身を支配されるのだと考えていた。しかし違う場合もあるのか。
その後、二人で食べたトマトクリームスパゲッティは、とても美味しかった。
午後は、二人で勉強をする事にした。俺達はリビングのテーブルに参考書を広げて、並んで座っている。距離が近い。匠馬は俺よりも頭が良いので、数学で詰まった俺に、身を乗り出して丁寧に教えてくれる。その真剣な横顔を見ていたら、俺の胸がドクンと啼いた。
「桐生?」
「ん?」
「顔が赤い」
――羞恥に駆られて俯いた。まさか匠馬に見惚れていたなんて、気がつかれたくない。
「襲いそうになる」
「……俺様が下なのか?」
「嫌か?」
「嫌だ」
「桐生……ああ、もう」
その時、不意に匠馬が俺を横から抱きしめた。驚いて瞠目すると、そのまま顎を持ち上げられた。
「俺と寝るのは良いという事だな?」
「っ、あ、ああ」
「それは、俺を好きだという意味で良いのか?」
「……」
「そろそろ言質が欲しい」
匠馬はそう口にすると、俺の髪を静かに撫でた。その優しい感触が、俺は好きだ。ドロドロに甘やかされている自信がある。俺は小さく唇を開いた。
「キスしても良いぞ」
「好きだ、桐生」
そのまま、匠馬の唇を重ねられた。触れるだけのキスだった。
結局その日は、それで終わった。
――以後も、匠馬は俺に、キス以上の行為を迫る事は無かった。
次第にそれが、気になるようになったのは、俺の方だ。最近では、部屋に訪れる匠馬を見ると、俺は色気を感じて、胸騒ぎがするほどだ。今ではもう、俺は上でも下でもどちらでも良い心境になっている。それくらい、匠馬が気になって仕方がないのだ。
「なぁ、匠馬」
俺は横長のソファに体を預けて、正面に座っている匠馬を見た。
「なんだ?」
「ヤろう」
「っ、唐突だな。下になる決意はついたのか?」
「不服だが、俺様が今回は譲ってやる」
大きく頷いて俺が言うと、匠馬が微苦笑した。そして鞄から、紫色のボトルを取り出した。同時にゴムも出す。それを見て、俺は目を見開いた。
「準備が良いな?」
「――あのな。俺はずっと、桐生に触れたかったんだ。ただ、な。欲しいのは心だったから、しまいっぱなしだったんだ」
それを耳にして、俺は赤面した。
そうして――俺達は、寝室へと移動した。
「ぁ……っ」
じっくりと慣らされた後、匠馬に挿入される。初めての衝撃に、俺はギュッと目を伏せた。シーツを握り締めながら、俺は後ろから貫かれている。交わっている箇所の温度が心地良くて、切なくも甘い快楽が、押し寄せてくる。
「あ、ああっ」
その時感じる場所を突き上げられて、俺は声を上げた。匠馬は、一度荒く吐息してから、俺の腰を掴む。そして屹立した楔で、激しく俺を突き始めた。皮膚と皮膚がぶつかる音がする。ジンジンと体の奥から、快楽が這い上がってくる。
「うあああっ」
俺は中への刺激で射精しそうになった。全身が汗ばんでいき、髪がこめかみに張り付く。そのまま果てた俺は、肩で息をした。そんな俺の呼吸が落ち着くのを待ってから、再び匠馬が律動を再開する。
「ン、あ、ああっ、ハ」
ゆっくりとまた体を昂められていった俺は、この優しい快楽もまた、俺達の恋に似ているなと感じていた。穏やかに、しかしじっくりと、俺は体を暴かれている。それは、匠馬の存在が俺の中で自然になった過程と似ていた。俺の体が開かれていく。匠馬の熱と硬度、形をはっきりと、刻みつけられていく。
そう考えていた時だった。
「ッ!!」
不意に匠馬の動きが激しくなった。動揺して俺は、声を上げる。
「待ってくれ、激しい、あ、あああああ」
「悪い、止められない。ずっと桐生が欲しかったんだ」
そこからは――俺が理性を飛ばすまでに、そう時間を要しなかった。俺はその日、匠馬に散々体を貪られ、快楽に喘いで涙を零してから、意識を失うかのように、眠りに落ちた。
その後の日々も、とても穏やかだった。
本当に、何気ない日常に、匠馬は現れたように思う。
俺は、今では思う。こんな風に穏やかな恋が、あっても良いのかもしれない。
【完】