「
小さい頃、僕が遊びに行くと、必ず祖父は、庭の雪に刻まれた巨大な足跡を見せた。
「ナマハゲの足跡だ」
「すごい……おじいちゃんの長靴の跡と、指のサイズが同じだ……人間の大人の足が、いっぱいの大きさ……」
「お、おう」
おじいちゃんは、僕を見て、今思えば悪戯に成功した子供のように笑っていた。僕はついぞ、気がつかなかったのだ。祖父が雪を、長靴で踏み固めて、巨大な足跡を作り、僕に見せていた事に……。
ナマハゲというのは、悪い子にしているとやってくる、鬼らしい。赤く長い鼻をしていて、天狗に似ているのだという。
実際の、無形文化財のナマハゲとは、若干違うのかもしれないが、祖父の家に、家族が帰省するたびに、僕はナマハゲについて教えられて育った。祖父が一人で暮らす若葉村に行くのは、毎年お正月の事である。年に一回だけ、僕は遊びに出かけていた。
そんな僕も、きちんとナマハゲの足跡が人工物だと見抜ける年齢――今年で、十五歳になった。来春からは高校生だ。だが今年は、若葉村に出かけなかった。祖父が急逝したのは、昨年の秋の事である。
滅多に会わなかった。もっと会いに行けば良かった。世の中には、後悔しても遅い場合があると、身にしみて初めて実感したのが、昨年だったように思う。もう一度、祖父に会いたい。しかしそれが叶わない事は、もう子供では無いから、僕にだって分かる。
スマホを片手に、僕は雪道を歩いていた。若葉村とは異なり、僕が暮らすこの街の雪は浅い。ただ、滅多に雪が降らない地域だから、こうして少し積もっただけで、様々な機能が停滞する。寒いから、早く家に帰ろう。
そう考えてスマホを見ながら歩いていた僕は――次の瞬間、落っこちた。
「え」
気づくと僕は、雪を処理するために開けてあった雨水ますを、踏み抜いていたようだった。落下する速度が増し、視界が黒く染まる。僕はスマホを握り締めたまま、怖くなってギュッと目を閉じた。きっと一瞬で雪にぶつかる――はずだ。その衝撃を想像して恐怖していた。
「ん?」
だが――いつまで経っても、僕の体は止まらない。ただただ真下に落っこちていく感覚だけがする。え? 一体これは、どういう事なのだろうか? 怖すぎて僕の感覚がマヒしているのだろうか? 焦りながら、僕は必死で目を閉じていた。しかし……その後も僕は、落ち続けていた。逆にそれが怖くなって、僕は、チラッと目を開けてみる決意をする。内心では、夢オチを期待し始めていた。落下する夢は、たまに見る。
「……っ、うわぁ……!」
しかし、目を開いたその瞬間、僕の体は雪原の上に投げ出された。雪のおかげで、僕は特に怪我をするでもなく、尻餅をつくんだけで済んだようだった――が……あれ?
雪の上に片手をつき、もう一方の手でスマホを握り締めたまま、僕は真正面を見て、二度ほど緩慢に瞬きをした。目の前にあるのは、杉の木だった。僕はその木を見た記憶がある。おじいちゃんの家で、若葉村において。
「へ?」
しかし僕は、学校から帰る途中だったのであり、若葉村にいたわけじゃない。しかも僕は、穴に落ちたはずだ。それから僕は、恐る恐る周囲を見渡した。一面の雪景色である。こんな風景は、僕が暮らしていた、かすみ市では、まずもって有り得ない。
「ありえない以前に、ワラ葺き屋根の家が、無い! 何あれ!」
思わず、勢いよく立ち上がって、僕は叫んでしまった。振り返った、若葉村において祖父の家が存在したはずの位置に、どう見てもワラ葺き屋根の小さな家が建っていたからである。驚きながらも、僕は人気を求めて、取り敢えずそちらへ向かう事に決めた。
「うわ、すご……」
どこからどう見ても、ワラ葺き屋根の家だ。これは、本物だ。ちょっと写真に収めておこう。僕は、半ば現実逃避をしながら、スマホを操作した。その後、110番と救急車のどちらを呼ぶべきか、冷静に考えながら画面を見た。
「え、なにこれ……」
すると、電波と電池を示すマークが本来あるはずの位置に、見た事の無い記号が出現していた。訳が分からない。試しに家族に連絡を試みたが――繋がらなかった。アプリも電話もダメだった。
「あ、検索は使える。アプリも、カメラは大丈夫……」
落下の衝撃は無かったはずだが、壊れてしまったのだろうか。そんな風に考えつつ、僕は目の前の家を改めて見た。助けを求めよう。そう決意し、僕は扉の前に立った。
「すみません! あの、どなたか!」
これまでの人生で、助けを求めた事など無い。声のかけ方からして、悩む事になった。
「助けて下さい!」
結果として、考えても分からなかったので、僕は直球で行く事にした。すると、少ししてから、小さな木の扉が開いた。
「はい? どちら様ですか?」
「おじいちゃん!?」
「は?」
出てきたのは、おじいちゃんが昔見せてくれた、若い頃の写真にそっくりの人物だった。三十代の時の写真だと聞いた記憶がある。
「確かに、俺のような年嵩の男はおじいちゃんだろうが……どこの子だ? 俺には、孫はいないぞ」
「声も似てる……!」
「しかしまた、変わった服を着てるな。南蛮かぶれか?」
優しいタレ目をしたその人は、僕を見ると、心なしか困ったように瞳を揺らした。その言葉を聞いて、僕は初めて、その人物が着物姿だと気がついた。和服だ……。黒い髪と目を見て改めて思うに、おじいちゃんの若かりし頃の写真にそっくりだったが、あの写真においてもおじいちゃんは、洋服を着ていた。さすがに、和装をするほどの昔には、おじいちゃんも生まれていなかったはずだ。
「南蛮って、チキンですか?」
「ちきん?」
「違うみたいだ……え? あ、あの、すみません、どちら様ですか?」
「俺が聞いているんだ。俺は、この家の主で、
「冬馬さん……おじいちゃんじゃなかったんですね……それはそうか」
僕のおじいちゃんの名前は、
「僕は……えっと……かすみ市立中学の三年二組の、
「シリツチュウガクノサンネンニクミ? どこの国の言葉だ? 清? いいや、ま、まさかあれか、噂に聞く、紅毛人の言葉か?」
「紅毛国という国は、聞いた事が無いです。僕は、日本から来ました。ここは?」
「ここは若葉村だ」
それを聞いて、僕は息を呑んだ。そして、混乱したままだった内心を鎮めるべく、ゆっくりと唾液を嚥下した。
「――今って、いつの時代ですか?」
「時代? それは暦の話か? 天保だ」
「江戸……僕の受験勉強知識が間違っていなかったら、ここは江戸だ!」
「いいや、ここは若葉村だ」
「そうじゃないよ! 江戸時代だよ!」
僕が興奮して叫ぶと、冬馬さんが、引きつった笑みを浮かべた。
「……ま、まぁなんだ。見て分かるだろうが、お世辞にも裕福な家では無いし、海外ゆかりの品を売るなら、武家屋敷にでも行くと良い。帰ってくれ」
冬馬さんの言葉に、僕は我に帰った。
「その……迷子になったんです。う、うん。迷子に!」
まさか未来から来たと言っても信じては、もらえないだろう。僕はそう確信し、必死で嘘をついた。すると、冬馬さんが呆れたような顔で笑った。
「俺の家までは一本道だ。この先には、ナマハゲが住む森しかない。誰も近寄らない。どうやって迷子に? この辺りの人間じゃないと言うのは、見れば分かるが」
「え? ナマハゲ?」
「……帰ってくれ」
「ナマハゲが実在するの!?」
「……」
「ナマハゲなんて、おじいちゃんの嘘じゃ……」
僕が目を丸くした時、冬馬さんが少し表情を引き締めたのが分かった。一気に緊張した様子で、右手の指先を、下ろしたままで握っている。
「誰にも言うな」
「う、うん……」
怖く変わった冬馬さんを見て、触れてはいけないのだと直感し、おずおずと僕は頷いた。なんだか悪い事を聞いてしまった気がする。
「――道に迷ったというのが事実ならば、ほら。今来た道を、杉の方向に引き返すだけで良い。そうすれば村に出る」
「ここは、村じゃないの?」
「……そこの杉からこちら側は、その……村だけど、村じゃないんだ」
「どういう事?」
「村の秘密だ」
「それじゃあ分からないよ……僕、取り敢えず、今帰る場所が無いんだ……冬馬さん、寒い」
「意外と図々しいな。分かった。中には入れ」
僕の言葉に、冬馬さんは呆れたように笑ってから、扉を少し大きく開けてくれた。
「すごい! 本物の囲炉裏だ!」
「……」
「喉渇いた」
「今、お茶を出すから待っていろ……」
冬馬さんの声は少し疲れているようだったが、僕は気にしない事にした。
「で? 名前は、何だったか」
「日和です。十五歳です」
「良い大人じゃないか。嫁の一人や二人、待ってるだろう? 早く帰れ」
「結婚は、十八歳にならないと出来ない……けど、彼女もいない……というのは、別として、ええと、江戸時代って何歳から結婚できたんだろう?」
「難解な独り言はやめてくれ」
静かに僕の前へと、冬馬さんが湯呑を置いた。僕はそれを受け取りお礼を告げてから、お茶を飲んだ。そんな僕を、まじまじと冬馬さんが見ている。
「日和か」
「冬馬さんは、何歳?」
「かぞえで三十だ。そろそろ寿命だ」
「え? まだまだ若いと思うよ? そんな事言わないで」
「お前は幼いな」
「そんな事無いよ!」
そんなやりとりをして――この日は、泊めてもらう事になった。
僕はその夜、ゆっくりと眠って、じっくりと帰る方法を考えるつもりだったのだが――思いつかなかった。江戸時代にタイムスリップした場合の、帰還方法は、検索しても出てこなかったのである……。
結果、僕は、その翌日も、さらに次の日も――一週間、一ヶ月……一年、二年と……冬馬さんの家にいる事になった。スマホで確認していた限り、僕がこの、江戸時代の若葉村にやってきてから、もう三年だ。
「日和も漬物が上手くなったな」
夕食の席で、冬馬さんが感慨深そうに、大根を見ている。僕は大きく頷いた。現在僕は、冬馬さんの家で、家事をしている。十八歳になった僕は、冬馬さんよりも背が高くなった。そして、冬馬さんの事を、ちょっとだけ知った。
冬馬さんは、普段は、畑仕事をし、長い冬の間はワラで籠を作っている。自給自足で、ごくたまに、買い物に出かけるだけだった。小さな川を、池のように庭に引いていて、そこで魚を飼っている。僕は、野菜を育てるのを手伝い、料理を手伝い、何とか役に立とうと日夜試みているので、多少の仕事は覚えた。
「もう一人前だな」
「ありがとう、冬馬さん」
「――まだ、帰る方法は、見つからないのか?」
僕が冬馬さんの前で、未来に帰る事が出来ないと泣き喚いたのも、もう三年も前の事となる。ボロボロと泣いていた僕を、冬馬さんは焦りながらも慰めてくれた。そして、僕の話を信じてくれた。元の現代に戻る事が出来る日まで、ここに居て良いとも言ってくれた。
「うん。だけど……」
正直な話、僕は最近、帰らなくても良いような気分でいる。ずっとこのまま、穏やかに冬馬さんと暮らしていくのも、悪くない気がするのだ。そう思う理由には、電池が切れないスマホの存在もある。仕事がない時間、唯一正常に動く(と、僕は感じる)検索をしたり、カメラをいじっていると、正直飽きない。仮に現実に戻った場合でも、僕は農家になりたい。現代の農家は、機械があるのだから、今よりも楽になると予想している。
「日和?」
「ごめん。なんでもない」
僕が笑みを取り繕って首を振ると、冬馬さんが苦笑した。
「もう遅い、眠るとするか」
この日僕は頷いた。そして二つ布団を並べて、静かに眠った。
冬馬さんが風邪をひいて熱を出したのは、翌日の事である。
この村には、風邪薬がない。
だから僕は、冬が来る前に、山で積んでおいた薬草の粉末を、検索画面でチェックしながら、混ぜ合わせた。最近では、こうして簡単な、医者の真似事をする場合がある。効果が出ているのかは不明だ……ただ、苦しんでいる冬馬さんを放っておくのは辛い。
「大丈夫?」
お湯と共に、薬草を持っていくと、冬馬さんが起き上がろうとしていた。慌てて支えると、冬馬さんが小さく頷いた。
「俺は、大丈夫だ。ただ、今日は――」
続けてそう口にすると、高熱なのに、冬馬さんが立ち上がろうとした。
「寝てないとダメだよ」
「――大丈夫だ」
「嘘」
僕は、軽く冬馬さんの体を押した。それだけで、冬馬さんは起き上がれなくなってしまった。まったくもって、大丈夫には見えない。
「……行かないと」
「ナマハゲの森に?」
「……」
冬馬さんが、横になったままで頷いた。冬馬さんは、三日に一度、必ずナマハゲの森に入っていくのだ。何をしているのか、僕には教えてくれない。必ず、食べ物を持って森に行き、帰ってくる時はそれが無い。お供えか何かに出かけているのだろうと、僕は考えている。
「僕が代わりに行くよ」
「それはダメだ」
「村の者じゃないから?」
少し寂しくなって僕が言うと、冬馬さんが目を閉じた。辛そうだ。
――最近では、村の人達は、僕の事を、冬馬さんの殊道相手……とても簡単に言うと、男のお嫁さんのような存在であると扱ってくる。直接言われる事も多いので、噂では無い。実際には、僕と冬馬さんの間には、一切何事も無いが――僕の中では、冬馬さんは、家族のような存在だ。今では、おじいちゃんという感じではないが。だから、ダメだと言われる度に、疎外感を覚えて悲しくなる。
「……違うんだ。ナマハゲがいるんだ」
「え?」
「正確には――ナマハゲ、として、この村で匿っている……流れ着いた稀人がいるんだ」
「どういう事?」
「峠を越えると、海がある。難破したらしくてな――追われて、逃げてきた異国の……確かに俺達とは外見が異なるが、人間の集団がいたんだ。露見すれば、打ち首だ。だから俺達、村の者は、ナマハゲとして扱ってる。決して余所者が近づかないように、怖い怖い鬼がいるんだという風説をを流してな」
僕は驚いて、その言葉を聞いていた。すると必死な様子で、冬馬さんが再び起き上がろうとした。
「そして万が一に露見した場合であっても、あの杉よりこちらの家は村と無関係だと言い張ると決めて――元々は、持ち回りでひと冬ずつ、世話をしていたんだ。お前が来た年は、たまたま、俺が当番だったんだ」
「そうだったの? じゃあ、ここは、冬馬さんの家じゃないの?」
「――今は、俺の家だ。俺が、お前とここで暮らしたいと願い出て、許可はもらってある。日和には、許可をもらっていなかったが、それは……いつか、お前は帰ってしまうかもしれなかったからだ。本音を言えば、ずっとそばに居て欲しい」
それを耳にし、僕は硬直した。純粋に、嬉しかった。
「だからこそ、日和を関わらせたくは無いんだ。お前に何かがあったらと思うと……」
「僕は大丈夫だよ。大丈夫じゃないのは、冬馬さんだからね!」
「……」
「食べ物を持っていったら、良いんだよね?」
「ああ。だが、やはり俺が――」
「待ってて。この薬を飲んで、ここにいて。僕が行ってくるから!」
決意して僕は立ち上がった。すると、冬馬さんが困ったように瞳を揺らしてから――笑みを浮かべた。
「悪いな……有難う」
軽く首を振って、礼は不要だと伝えてから、僕はナマハゲの森へと向かった。持っていく品は、いつも冬馬さんを見ていたから覚えていた。冬に入ってからは、漬けた野菜や魚が多い。
雪道を進んでいくと、杉林に突き当たった。その合間の獣道を進み、僕は正面にある洞窟を見つけた。細く煙が登っているから、火を使っているらしいと分かる。僕はスマホを握り締めて、翻訳機能が耐えてくれる事を祈りながら、少しワクワクしつつ洞窟を目指した。この三年間でだいぶ慣れたが、何せ同じ国の僕と冬馬さんの間ですら、伝わらない言葉は色々あった。この当時の先方の言語を、上手く翻訳してくれるのか、不安しかない。
入口からチラリと覗くと、まず布の敷物が見えた。そして、その上に、二人の青年が座っていた。
「トーマ……?」
すると一人が、怯えるように声を出した。僕は持参した籠を取り落としそうになった。
「冬馬さんは、風邪なんです。僕が来ました。僕は、日和です」
第一印象が肝心では無いかと考えて、僕は笑顔を浮かべた。しかし、自分でもひきつったのが分かる。海外の人に会った経験が、ほとんど無いというのが大きい。
「ヒヨリ……?」
「! トーマのヨメ!」
「え?」
その時、翻訳機能を使うまでもなく、二人の青年が僕を見て、日本語を喋った。
「トーマは?」
「風邪です」
僕はまず、右側に座っている金髪の青年に伝えた。すると、僕を『ヨメ』と呼んだ、左側の青年が、小さく息を飲んだ。
「ダイジョウブですか?」
「今、薬を飲んで寝てます。言葉が、分かるの?」
「もう十年もここにいますから。トーマ達が教えてくれました」
緑色の瞳を優しく細めて、左側の青年が僕に言った。すると、右側に座っていた青年も笑顔で大きく頷く。
「私達は、ナマハゲのフリをするために、セリフを覚えました」
「そうだったんだ……どこの国から来たんですか?」
すると二人が顔を見合わせた。そして大きく肩を落とした。その後、嘆くように右側の青年が続けた。露西亜からきたようだった。その後、雑談をしつつ、僕が持ってきた料理を振る舞い、彼らはそれを食べた。
「トーマは、よくヨメの話をする」
「名前は照れるから言いたくないと、話していました」
二人の口から聞く冬馬さんの話は、僕が見ている冬馬さんと何も変わらなかった。
――帰宅すると、冬馬さんが起き上がっていた。
「大丈夫だったか?」
「僕は大丈夫だし、二人とも、良い人だったよ」
「そうか」
僕の姿を見ると、ほっとしたように冬馬さんが優しく微笑した。僕はこの顔が好きだ。一緒にいると感じるのだが、冬馬さんは、根が優しい。時折口調はぶっきらぼうになるのだが、根底のお人好しさが隠せていない。三年も毎日見ていたので、僕はもうそれをよく知っている。
「僕の事を、ヨメだって言ってた」
「っ、そ、そうか……他に惚気る相手もいなくてな……あ、いや、その……村の連中には揶揄われるばかりだから……」
すると照れくさそうに、冬馬さんが視線を背けた。もう熱は下がったらしい。僕は歩み寄って、冬馬さんの正面に座った。
「……気を悪くしたか?」
「どうして?」
「まだ惚気けられるような具体的な事は何もしていないからな――その……俺ばかりが好きというか」
それを聞いて、僕は唖然とした。
「え?」
「……鈍い子供だとは思っていたが、俺の想いにやはり気づいていなかったか」
「待って、違うよ! どうして僕が好きじゃないと思ってるの?」
「好きの種類が違うという話をしているんだ……」
「知ってるよ? ちょっと待って。僕はそこまで幼くないよ」
「え!? 確かに外見は育ったが」
「なんで驚くの……」
僕はショックを受けた。泣きそうになってしまった。これでも、必死に働きながら、大人になろうと努めてきた自信がある。それは、無論、働かざる者食うべからず――という考えもあったわけだが、一番は、きちんと冬馬さんの隣にいられる人間になりたかったからである。そして、この土地の生活が思いのほか悪くないというのは後付けの理由に過ぎず、本音を言うならば、単純に冬馬さんのそばで暮らしていたいだけだ。これは、明確な好意だと僕は思う。
「僕は、きちんと冬馬さんが好きです」
「っ」
「もしかして、今まで僕に手を出さなかったのは……僕が分かってないと思っていたから?」
ムッとしながら僕は聞いたのだが、その時――冬馬さんがあんまりにも赤面していたものだから、意表をつかれて言葉を止めた。冬馬さんが、照れている。長いまつげが震えていた。
「良いのか……?」
「今はダメだよ、病み上がりだから、もう少し休んだ方が良い!」
「あ、ああ……」
その日は、風邪がうつらないようにと、別々の部屋で眠った。
なおその後――も、約半年の間、冬馬さんが僕に手を出す事は無かった。次第に僕はじれったくなってきた。冬馬さんはいつもそわそわするようになり、僕を見ると真っ赤になって、手で顔を覆って硬直してしまうのだ。非常に可愛いが、僕は可愛い冬馬さんを眺めているだけでは、満足できないのである。一歩進んだ関係になりたい――そう、即ち、キスをしたいのだ!
そしてこの日、決意した。僕は、僕から冬馬さんを襲ってみる事にしたのである。
「冬馬さん、この前、キスが何か教えたでしょう?」
「っ、あ、ああ。い、いきなりなんだ。口吸いの事だろう? キス、な」
「うん。今日こそ、キスしよう!」
僕は宣言してから、冬馬さんに抱きついた。冬馬さんはやはり硬直したが、最近僕が抱きつくといつもするように、腰に腕を回してくれた。長くて力強い腕だ。
「……本当に良いのか?」
「うん」
「この前のお前の講義だと、お前の中では、キスとやらが、夫婦の最終形態であるようだったが……その先は分かっているか?」
「子供扱いしないで欲しいのに……知ってるよ! キスの後は、ディープキスになるんだよ!」
「……」
僕が断言すると、何故なのか、冬馬さんが遠い目をした。ひきつった顔で笑っている。
「そのスマートホンとやらで、調べる事は出来ないのか?」
「何を?」
「だ、だから……本当に、キスの先が、別のキスなのかどうか」
「検索ワードが分からない」
「……」
「他にも何かあるの? 冬馬さんが僕に教えてくれれば解決だよ!」
「それは、そうなんだが……罪悪感が……どうして日和は、こんなに純真なんだ……そこに惚れたんだが……」
そう言うと――ぐいと冬馬さんが腕に力を込めた。そしていつもより強く僕を抱きしめた。そして、驚いて顔をあげようとした僕の顎を、指で持ち上げるようにすると、じっと
僕を覗き込んできた。いつになく真剣で、透き通るような瞳をしている。
「好きだ」
それから静かに言うと、僕の唇を奪った。初めは触れ合うだけの口づけであり、それが次第に深くなっていく。口腔を嬲られる内に、僕の体から力が抜けた。そんな僕を抱きとめるようにして、冬馬さんがその場で押し倒した。後頭部に、座布団が触れた。
「この先が、ある」
「う、うん……」
反射的に僕は頷いたが……想定していなかった。僕は、男同士の場合は、キスをしたら終わりだと信じていたのである。しかし、するりと和服の合わせ目から手を入れられて、胸の突起を弾かれた時、違うと確信した。
「ぁ……」
冬馬さんの指先が、僕の体に甘い疼きをもたらす。着物をはだけられ、すぐに帯を解かれた。一糸まとわぬ姿になるまで、そう時を要しなかった。もうすっかり温かい季節であるから、寒いとは感じない。
「……ッ」
僕の首筋に唇を落としてから、ゆっくりと冬馬さんが、僕の陰茎を覆うように握った。そしてゆるゆるとその手を動かした時、僕の背筋を快楽が駆け上がった。
「あ……ああっ、待って、あ」
気づくと僕の体は反応していて、今にも出してしまいそうになっていた。ゾクゾクと這い上がってくる快楽が怖い。
「挿れるぞ」
「ん、ッぁ」
その時、冬馬さんが香油を指にまぶして、僕の中へと進めた。指の感覚がダイレクトに伝わって来る。普通の指のはずなのに、異常な程大きく思えた。
「ぁ……ァ……っ、ン」
一本目が入り切り、少しすると、指の抜き差しが始まった。その指が、二本、三本と増えていく。その頃には、僕の体は熱を帯びていた。僕の内側を蠢く冬馬さんの指が、的確に甘い快楽を導き出していく。
「あ、あ……ァ……も、もう僕、ダメ、あ、ン――っ!!」
一際感じる場所を探り当てられて、僕は声を飲み込んだ。冬馬さんの楔が挿ってきたのは、その直後の事である。
「ァ、あ! ああっ、ぅ、ァ」
「悪い、余裕がない」
「あああああ!!」
そのまま激しく貫かれて、僕は思わず、冬馬さんにしがみついた。体が熔けてしまいそうなくらい、熱い。激しく硬い熱で突き上げられる度に、僕は気持ちよくてポロポロと涙をこぼした。
「出すぞ、っ」
「あ、うあ、あ、ア! ああああああ!」
中に飛び散る冬馬さんのものを感じた時、僕もまた放った。肩で息をしていると、僕の目元の涙を、冬馬さんが指先で拭ってくれた。
「無理をさせたな」
「平気……大丈夫」
「――悪い、止まらない」
「え、あああああ!!」
一度冬馬さんは楔を引き抜いてから――その後すぐに、再び硬度を取り戻した陰茎を、改めて僕に挿入した。
こうしてその夜、僕達は何度も交わり……僕は冬馬さんに、キスの先を教えてもらった。これが大人の階段を登るという事だったのかと、翌朝になって僕は、真っ赤になって悶え苦しんだものである。
その後も――結局僕は、戻る方法を見つけられず、冬馬さんと二人でナマハゲの森へと向かったり、畑仕事をしながら、若葉村で暮らしている。変化はといえば、最近では照れながらも、冬馬さんの方からキスをしてくれるようになった事だろうか。僕は非常に幸せである。
【終】