短い片想いと『酔いどれ』
俺が、『酔いどれ』という、この赤提灯のお店と出会ったのは、半年前の事だ。兎に角料理が美味しい。会社帰り、一人暮らしの寂しい自宅で夕食をとるのも億劫で、その頃の俺は、毎夜店を探していた。その中で、『酔いどれ』と出会ってからは、毎日この店に通っている。
俺の定位置はカウンターの端で、奥の厨房がよく見える。そこには、シンさんという名前らしい、この店の店主がいて――彼こそが、俺を魅了する料理の作り手だ。
店員さんの名前も覚えた。一人は瀬尾さん、もう一人は七海さん、時に来るバイトの大学生が上野くんだ。俺の座る位置と逆のカウンターの端には、酒の搬入をしているらしい、飛田さんが座っている。飛田さんも俺と同じで常連の、ガチムチのおっさんだ。
瀬尾さんが、その時、俺に料理を運んできてくれた。
「失礼します、どうぞー!」
明るい声が響くと、俺は朗らかな気持ちになる。瀬尾さんは豪快に見えて、俺は当初は安定感があると思っていたのだが、今では時に抜けている部分もあると知っている。その時、七海さんが溜息をつきながら追いかけてきた。
「瀬尾、忘れ物」
「へ?」
「失礼しました野義さん、柚子胡椒です」
「あ」
「なんで重大なものを忘れるかな」
「そんな言い方は無いだろ!? え、えっと、失礼しました!」
俺は笑って二人のやり取りを見る。気心の知れた様子の二人の軽い口喧嘩も、この店の名物だと俺は思っている。見ていると微笑ましいのだ。七海さんの方は少し癒し系に外見からは思えて、どこか気怠そうな空気を放っているのだが、瀬尾さんとのやり取りを見ていると意外と子供っぽい部分もある気がする。
野義英章――これが俺の名前だ。俺の名前も店員さん達は覚えてくれているらしい。
玩具メーカーの企画職について、今年で三年目だ。
今年からは、新人の……後輩指導も担当している。が、普段は本当に寂しいもので、料理を作ってくれる恋人もいない。恋人、と言うが、それは彼女ではない。俺は実を言えば、同性愛者だ。料理上手な、男の恋人が欲しい……というのが本音だが、俺は既にシンさんの料理の虜なので、欲を言うなら二人でこの店で食事が出来るような恋人が欲しい。
シンさんは黒髪に和服姿で、骨ばった指先を動かしている。俺が頼んだ鶏のタタキの盛り付けをしてくれているのが分かる。このお店の料理は、本当に美味だ。
酒も美味しくて、俺は特に、店の名物である麦焼酎の『酔いどれ』が好きだ。この店オリジナルだから、ラベルが入っているとの事である。一杯目は生ビール、二杯目からは麦焼酎を俺は好んで飲んでいる。
さて――実を言うと、俺にはもう一つ、この店に来る目的がある。恋人が欲しい俺ではあるが、男なら誰でも良いわけではないのだ。俺にも好みがある。そしてその好みのど真ん中にいる常連さんが一人存在するのだ。見ているだけで、俺は幸せな気持ちになれる。
「いらっしゃいませー!」
その時、瀬尾さんの元気な声がした。俺は時計を一瞥し、八時になったのを確認してから、チラリと扉を見る。そこには、いつも八時前後に訪れる常連さんの、塩原さんが立っていた。
「こんばんは」
低い声でそう言うと、塩原さんはカウンターへと歩み寄ってきた。そして、俺の二つ隣の席に座る。俺達の間には、椅子が一つ――適度な距離だ。そこへ七海さんが、おしぼりを運んでくる。
「ビールを」
「かしこまりました。瀬尾、ビール」
「もう用意してる。命令すんな!」
塩原さんも、いつも一杯目はビールだ。俺の場合もだが、客の好みを覚えていてくれる手際の良い店員さん達は、すぐにビールの用意を始めてくれるのが常だ。時々バイトの上野くんが戸惑いながら用意してくれるのも楽しいが。
「料理は、今日のオススメと塩キャベツを」
注文した塩原さんは、それから俺の方を見て、軽く会釈した。俺も笑顔で頭を下げる。この塩原さんこそが、俺の好みの相手だ。塩原さんが恋人だったら良いなと思いつつも、今は常連同士として、毎夜この店で会える事を楽しみにしている。
「どうぞ!」
そこへ、バイト時間が開始したらしく、上野くんが顔を出し、俺に鶏のタタキを持ってきてくれた。礼を言い受け取った俺は、ビールを飲み干す。
「七海さん、俺もホール入ります!」
上野くんは七海さんに懐いているらしく、朗らかに挨拶をしていた。その辺にいそうな大学生というのが適切な上野くんは、明るく染めた髪をしている。
「おぅ。上野、あれ、でもお前、テスト期間じゃなかった?」
「明日からは無いんだ。やっとバイトに出られた」
二人がそんなやり取りをしていると、一度奥に戻っていた瀬尾さんが、塩原さんにビールを持ってきた。そして七海さんと上野くんに言う。
「お前ら、働け」
「あ、はい! 瀬尾さん、俺、頑張りますね」
「上野は許す。七海は立ってるだけだろ!」
「絡むのやめろ」
こうして三人は、奥へと戻っていった。するとビールを飲みながら、塩原さんが小さく吹き出した。
「本当に仲が良いな、彼らは」
「ですね」
それを聞き、俺は何気なさを装って、返事をした。本当はただ、塩原さんと話がしたいだけだ。塩原さんは、烏の濡れ羽色の髪と目をしている。俺は企画職なので、暗めではあるが髪は染めている。今年で二十五歳なのだが、実年齢より若く見られる事が多い。塩原さんは、俺の一つ上で二十六歳だと聞いた事がある。いつもスーツ姿だが、仕事の内容は聞いた事がない。
「野義くんは、今日も鶏のタタキから、か。それと串焼きか」
「はい。その後は、俺もオススメを頼もうかなぁ」
「シンさんの料理は美味いからな。俺は何でも好みだよ」
「俺もです」
こんな些細なやり取りすら楽しい。俺は本日の会話内容を思案する。出会ってから一ヶ月だ。そろそろ仕事について聞いてみても良いかもしれない。
「塩原さんは、いつもこの時間帯が仕事終わり何ですか?」
「――いいや」
「あ、違うんですね」
その割に決まった時間に訪れるんだなぁと、俺は漠然と考えた。
「野義くんが、この時間はいつもいるから、話したいと思ってね」
「え?」
「野義くんと話しながら飲むと、酒が美味くてなぁ」
嬉しすぎる言葉に、俺は赤面しそうになった。だからグイとビールを煽って、そんな自分を誤魔化す。それから店員さん達の方に顔を向けた。
「キープしてる『酔いどれ』をお湯割りで」
「かしこまりました」
頷いたのは瀬尾さんだったが、今度は七海さんが先回りで用意してくれていたらしく、すぐに持ってきてくれ、ジョッキを下げていった。俺は麦焼酎が入る陶器のコップに口をつけながら、改めて塩原さんを見る。
「俺も、塩原さんと飲むのが楽しくて」
「そう言われると、嬉しいな。俺の毎晩の楽しみだからねぇ。野義くんは、いつもは何時頃から来てるんだ?」
「俺は大体七時半くらいです」
「じゃ、俺も今度から時間を早めようかな」
冗談めかして塩原さんが言い、くすりと笑った。その表情があんまりにも綺麗に思えて、俺の心臓が煩くなる。
「え、えっと……塩原さんは、お仕事は何をされてるんですか?」
俺は勇気を出して、聞いてみる事にした。すると塩原さんは、ビールをゆっくりと飲みながら、少しだけ考え込むような顔になった。
「いくつかの飲食店の経営をしているんだ。と言っても、ここに来るのは別に偵察じゃないよ。純粋に料理に惚れこんでいるのと、野義くんがいるからだな」
「経営者だったんですか……若いのに、すごいなぁ。どんなお店なんです?」
会話が途切れるのが嫌だったので、俺は続けて尋ねた。すると僅かに目を細めて、塩原さんが俺を見た。
「君が来た事のある店だよ」
「え?」
「野義くんが美人だったから、俺はよく覚えてる。丁度その時も、この距離で俺は店周りの最中に飲んでいてね。声をかけようか、その時も迷ったんだ」
それを聞いて、俺は首を傾げる。俺の方には悲しい事に、塩原さんと顔を合わせた記憶が、この店の常連になってからしかないからだ。逆に、覚えてもらえていたとしたら、非常に嬉しい――と、思いつつ、彼の言い方が気になった。
「び、美人って……俺、男ですよ?」
俺はわざと苦笑してみせた。同性愛者のネコで、この言葉に喜んでいるなんて露見したら、嫌われてしまうかもしれないと思ったからだ。するとビールを飲み干した塩原さんの所に、丁度瀬尾さんが、本日のオススメらしいエビと枝豆の厚揚げを運んできた。お通しの切干大根と、先ほど頼んでいた塩キャベツもある。塩原さんは空のジョッキを瀬尾さんに渡すと、続いて日本酒を頼んでいた。それを見守っていると、瀬尾さんが戻っていってから、塩原さんが俺を見た。
「美人は美人だ。性別は無関係だと俺は思うがね」
「は、はは」
俺は空笑いをしてしまった。その時、塩原さんが、俺の隣の椅子を見た。
「もう一つ、隣に行っても良いかい?」
「勿論です!」
寧ろ嬉しい。これまでも時折、塩原さんは飲んでいる最中に、俺の隣に来てくれる事があったが、毎回ではないので、今日は幸運な日だ。塩原さんが席の移動をしていると、今度は上野くんが日本酒の徳利とお猪口を運んできた。熱燗だ。
「それにしても、どこのお店ですか? 塩原さんと俺が会ったのって」
気になって俺が続けると、塩原さんは手酌をしながら、一度俯いた。それから顔を上げると、悪戯っぽく笑いながら俺を見た。
「Barだよ」
「え?」
俺は夕食を食べるのは、専ら『酔いどれ』であるし、過去に店巡りをしていた頃も、例えばこの店の正面にある割烹料理屋などの小さな居酒屋だった為、必死で記憶を思い返す。
「cloverというお店だ」
それを聞いて――俺は凍りついた。
俺は過去に一度だけ、勇気を出して、俗にハッテン場と呼ばれる同性愛者が集う店に出かけた事がある。その店の名前が、cloverだった。確かにあそこはbar形式だった。俺が硬直していると、塩原さんが喉で笑った。
「思い出したか?」
「……」
言葉が出てこない。経営者だというだけだから、塩原さんが同性愛者だとは限らない。だが、俺が同性愛者だというのは、知られているという事だ。
「俺が経営している店は、全てBarなんだけどね、色々な種類があってな。その中の一つにcloverもあってねぇ」
「……」
「よく覚えている。初めて来たらしい野義くんが、怯えるようにしながら、スカイダイビングを飲んでいた事をね。結局、誰に誘われても緊張しながら断って、すぐ帰っていったのを、俺は端の席で眺めていたんだ」
飲み物も、状況も、俺の記憶の通りだった。戦慄した俺は、恐る恐る塩原さんを見る。隣に移って小声で彼は言ったから、店の人々には聞こえていないようなのが幸いだ。
「ひ、ひいてますよね? も、もしかして……これまでも、ひいて……」
「いいや? 大切なお客様に、ひいたりしないさ」
「……」
「そもそも、俺は同性愛に寛容だ。俺自身もバイだしね。タチだ」
「え!?」
それを聞いて、俺は思わず声を上げた。すると店員さん達三人がこちらを見たし、厨房の方からチラリとシンさんも俺の方を見た。慌てて口元を片手で押さえ、座り直す。飛田さんとも目が合ったが、さらりとかわして、俺は俯いた。
「俺がバイじゃ変か?」
「い、いえ……」
「じゃあ、美人の野義くんが好みで、この時間に会いに来ていると話しても――君こそ、ひかないか?」
口角を持ち上げて、塩原さんが言った。今度こそ、俺は真っ赤になってしまった。
「一度で良いから、野義くんを啼かせてみたいな」
「か、からかわないで下さい……」
「からかってない。いつ誘おうか、迷っていたんだよ。俺は一目惚れだったんだ。だから先に心が欲しくて、いつもこの店で君と話していたんだよ。勿論――体も欲しいけどね」
頬が熱い。つまりは――両想いという事だ。それとも、まだからかわれているだけなのだろうか? 体狙いの睦言なのだろうか? だが、それでも良いと思っている俺もいた。
「あ、美味いな。今日のオススメも」
「……俺も、料理と酒が大好きだけど……正直、塩原さんに会いたくて通っているのもありました」
「知ってるよ。俺は、熱っぽい眼差しを向けられる事が多いから、君の瞳に艶が宿っていくのをこの一ヶ月見ていて、心を躍らせていたものだ」
バレていたらしい。羞恥に駆られて、俺はコップを置くと、両手で顔を覆った。
「野義くんに、俺の恋人になって欲しいなぁ」
「……良いんですか? 俺で」
「勿論」
俺達は、小声でそんなやり取りをしながら、酒と料理を楽しんだ。
その後俺達は店を出た。
夜風に当たると、酔いが少し醒めてきた。心地良い夏の風に浸っていた時、塩原さんが不意に俺の手を握った。
「っ、あ、あの」
「恋人同士なんだから、手くらい良いだろう?」
俺は嬉しいやら恥ずかしいやらで、小さく頷いた。そうして一緒に歩きながら、俺は気になる事を尋ねた。
「俺のどこを好きになってくれたんですか?」
「入口は外見だよ。一目惚れだからね――その後は、偶然『酔いどれ』で顔を合わせて、最初は口説くつもりは無かったんだ。綺麗な美人と少し話しをながら、お腹を満たしたいという感覚だったんだが――毎日君の話を聞いていたら心が絆されて、肉欲だけではなくなってしまった」
「俺の話?」
「子供用の面白い貯金箱作りについて、悩みながら七海さんに愚痴っている所を見たり、小学生の女の子の気持ちが分からないと瀬尾さんに泣きついていたり――まだ俺と話をするようになる前から、頑張っているんだなと感じたものだよ」
聞かれていたのかと考えて、俺は目を瞑って照れた。俺はあまり酒が強い方ではない為、時に飲み過ぎると店員さんに絡んでしまうのだ。
「仕事を頑張って、努力して、そうして美味しそうに料理を食べる顔を見ている内に、目が離せないと思って、毎日会いたくなったんだ」
それを聞いて、俺は空いている方の手で唇を覆った。すると塩原さんが苦笑してから、俺に言った。
「君は? どうして俺の恋人になってくれたんだ?」
「雰囲気が好きで……いつも穏やかな声で優しく笑っている姿を見ていたら……その……」
「つまりは、外見か?」
「それだけじゃないです。話も楽しくて、え、えっと……」
「外見からでも俺は構わないけどね。ただ――俺は決して優しくない」
「え?」
「今から君を襲いたいと思っているからな」
「!」
「俺の家に来ないか?」
俺はおどおどしながら頷いた。まだ経験は無いが、一度で良いから同性と体を重ねてみたいという欲求があった事は否定しない。その相手が塩原さんなら嬉しいというのは、外見からの判断なのかもしれないとも思う。俺は、ただ舞い上がっていた。
こうして俺は、塩原さんのマンションへと連れて行かれた。途中でタクシーを拾って着いた先は、非常に高級そうなマンションだった。エントランスホールを抜けて、エレベーターへと乗り込む。
緊張しながら、俺は到着した家の前で、塩原さんが鍵を開けるのを見ていた。
中へと入ると良い香りがした。いつも塩原さんから香ってくるのと同じ匂いだ。
香水では無さそうだ。
塩原さんはネクタイを引き抜いて首元を緩めながら、ソファを見た。
「座って」
「は、はい!」
促されたソファは、人が二人くらい眠れそうなほど巨大だった。その背後には、綺麗な夜景が見える窓がある。こんな風に高級なマンションに入ったのは、初めての事だ。塩原さんは、俺の前に冷たいお茶を用意してくれた。コップの隣にはローションのボトルとゴムの箱を置いていた。そして隣に座ると、塩原さんは俺の肩を抱き寄せる。その感覚に、俺は緊張して、体を強ばらせた。
「可愛いな」
「……」
「緊張してるみたいだ」
「……はい」
「脱がせても良いかな?」
その言葉に、俺は小さく頷いた。それから立ち上がり、自分で首元に手をかける。緊張しながらネクタイを取っていると、塩原さんが俺のベルトを引き抜いた。ボクサーごと下衣をおろされて、一気に俺の緊張感が強くなる。
「ソファの上で膝をついてごらん」
「っ、はい」
素直に言われた通りにすると、ローションを指に垂らしてから、塩原さんが俺の菊門に触れた。
「ン」
そしてゆっくりと、一本の指先を中へと進めてくる。第一関節、第二関節と進んできた指が、無性に大きく思えた。ローションのぬめりのせいか、痛みは無い。塩原さんは指を根元まで入れると、振動させるように動かした。その後、かき混ぜるようにして俺の中を広げてから、抜き差しを始める。
最初は異物感が強かったのだが、次第にその指先が焦れったく思えてきて、俺は荒く吐息した。二本目の指が入ってきたのはその時の事だった。
「あ、あ」
「きついな」
「塩原さん、俺……あ、ああ!」
二本の指が根元まで入った時、俺は感じる場所を刺激された。塩原さんが指先を軽く折り曲げるように動かす度、ジンジンと全身に快楽が響いていく。知識だけで知っている、前立腺だとすぐに分かった。
「ぁ……ァ……」
「可愛い声で啼くんだな。想像通りだよ」
「っ、あ」
その内に激しく前立腺を刺激され、俺の陰茎が反応を始めた。どんどん前が張り詰めていき、すぐに先走りの液が漏れ始める。すると塩原さんがゴムを手に取り、封を破った。
「まだキツいかもしれないが、もう俺も我慢が出来ない。感じている君の声を聞いているだけで、俺は体が熱くなるらしい」
「ン――っ、あ、あああ!」
俺の中に、塩原さんが押し入ってきた。初めて受け入れる陰茎の熱と硬度に、俺の背がしなる。体が汗ばんでいき、大きく俺は喘いだ。繋がっている箇所から体が蕩けそうになっていく。
「動くよ」
根元まで挿入してから、軽く塩原さんが体を揺さぶった。それから律動を始める。次第にその動きは激しさを増していき、俺は無我夢中でソファに手を付いた。
「あ、ああっ、ン――うあ、ァ!」
「ここが好きなんだったかな?」
「ン、ぁ、そ、そこ、そこは――あ、あ、あああ!」
「出そうか?」
「う、うん」
「俺もだ。悪いな、余裕が無くて。ずっと欲しかったものだからね」
「あああ、ア!」
そのまま激しく突き上げられると同時に、塩原さんに陰茎を擦られた。その衝撃と手の感覚で俺が放った時、塩原さんもまた達したようだった。
ぐったりと俺はソファに体を預ける。すると俺から体を引き抜いて、塩原さんが立ち上がった。
「お風呂を沸かしてくるよ」
そう言ってバスルームへと向かう塩原さんを、俺は気怠い体で見送っていた。
……初体験を、してしまった。
その事実に頬が熱くなってくる。
それからお風呂を借りて、俺は体を綺麗にした。俺の後に塩原さんが入浴し、その後は、隣の寝室へと向かった。そこにある巨大なベッドに二人で寝転がり、視線を合わせる。
「もっと君が欲しいけど、初めてでこれ以上無理をさせるのは気が引ける」
「塩原さん……」
明日は土曜日だ。週末だが――確かにまだ体には違和感がある。それに、無性に眠気が襲ってきた。この夜俺達は、穏やかに抱き合って眠った。代わりに、翌日は、朝からずっと交わっていた。俺の体は見知らぬ快楽を教えられ、塩原さんの虜になっていく。
そうして夜――俺達は、『酔いどれ』へと食事に向かう事にした。
今日は、最初から隣り合わせに座る。すると、瀬尾さんが珍しそうな顔をした。そして何か言おうとした時、ポンと七海さんが瀬尾さんの頭を軽く叩いた。
「何すんだよ?」
「瀬尾、おしぼりを一つしか持って行かなかっただろ」
「え、だって――」
「お二人で来店されたんだから、普通二つだろ」
「……それもそうだな」
七海さんの声に、俺は照れそうになった。『お二人』という言葉に意識してしまったのだ。そんな俺の前には瀬尾さんが、そして隣に座った塩原さんの前には七海さんがおしぼりを置く。お通しもそれぞれ置かれた。本日は揚げ出し豆腐がお通しらしい。
「ビールを二つと、本日のオススメを一つ。鶏のタタキも一つ。お願いします」
塩原さんが注文した。俺が言う前から、俺のいつも頼むものを注文してくれた。覚えていてくれたのだと思うと、無性に嬉しい。
「かしこまりました」
七海さんが答え、瀬尾さんは笑顔で頷いている。戻っていく二人を見守ってから、俺は塩原さんに視線を向けた。
「塩キャベツは頼まないんですか?」
「今日は茄子の煮浸しが食べたい気分でね。野義くんは、他はどうする?」
「厚焼き玉子が良いな」
そんなやりとりをしていると、まずはビールを上野くんが持ってきてくれた。
「乾杯」
塩原さんに言われて、俺は慌ててジョッキを持つ。乾杯をするのは初めてだ。
なお――この日から、俺と塩原さんは、毎夜二人で、『酔いどれ』の暖簾をくぐるようになった。そして二人で料理と酒を味わってから、塩原さんのマンションに帰っている。引っ越してこないかとも言われている。同棲をする日が来るのを、俺は実を言えば楽しみにしている。予定は来月だ。
ちなみに、塩原さんは料理が出来ない。俺も出来ない。だから夜は、『酔いどれ』で決まりのままだ。泊まった日の朝は、お互い簡単にトーストなどを食べている。昼はそれぞれ職場でとる。そうして『酔いどれ』に入る前に合流するのだ。トークアプリで連絡を取り合い、駅で顔を合わせてから、『酔いどれ』に向かう事が多い。だから時間は、七時半から八時とは限らなくなった。
こんな毎日が、俺は幸せだ。まさか叶うとは思っていなかった塩原さんとの恋は、順調である。俺達の間を繋いでくれた『酔いどれ』には、感謝の念しかない。
◆◇◆
「あの二人、もしかして……」
賄いの唐揚げを箸で皿に取りながら、客が皆帰った店内で、瀬尾が呟いた。自問自答するような声だったが、その『二人』が誰を指すのかすぐに理解し、七海が視線を向ける。既に上野はバイトを上がっていて、この場にはいない。店には、瀬尾と七海、そして賄いの用意をしてくれた大将のみだ。大将は皆に、シンさんと呼ばれている。
カウンター席に並んで座っている瀬尾に対して、七海が視線を向けた。
「最近、二人で来る事が多い、か――前から、仲が良いとは思ってたけど」
「だよな? つぅか、仲が良いというか……」
言いかけてから、瀬尾は口に唐揚げを運ぶ。冷奴を食べながら、大きく七海が頷いた。
「付き合ってるんだろ」
「やっぱ? 七海も、そう思う?」
「二人きりの甘い空間が、あの席には広がってる気がする」
「俺もそう思う」
「瀬尾にしては鋭い」
「おい、どういう意味だ」
瀬尾と七海が言い合いながら賄いの味を楽しんでいると、カツオのタタキを差し出したシンさんが瞳を揺らした。
「短い両片想いだった」
「!?」
滅多に口を開かないシンさんの感想に驚いて、瀬尾が勢いよく顔を上げる。七海は手酌で麦焼酎の『酔いどれ』を、陶器のコップにつぎたしている。七海は酒好きで、さらに強い。賄いの時にもいつも飲むため、自分のボトルもキープしている――が、飲み干してばかりだ。
「別々に来てた頃――最初に店に来るようになった時は、塩原さんはあんまり笑ってなかったですよね」
七海が言うと、頷くように視線を動かしてから、シンさんが料理に戻った。そして漬物を新たに二人の前へと置く。店の名物でもあり非常に美味であるため、いつも賄いでは二皿目が出てくる。すぐに七海と瀬尾が食べてしまうからだ。
「あざす」
瀬尾が言い、七海は頭を下げた。七海の柔らかそうな髪が揺れる。
「それが、野義さんと顔を合わせるようになった――つまり、一ヶ月ちょっと前くらいから、すぐに笑うようになった」
「確かに七海の言う通りだな。逆に野義さんは、よく笑ってたけど――全然、最初に来た頃は、塩原さんが視界に入ってる様子は無くなかったか?」
「無かった。仲良くなったのは、常連さん同士だからだと俺は思ってた」
「俺もだ。意外だよなー!」
「まぁ、そうだなぁ。今じゃ、瀬尾が気づくレベルで甘い空気を醸し出してるし」
「だからどういう意味だよ? お前な、俺を鈍いと勘違いしてないか?」
「勘違い? どこが?」
言い合いながら二人は、それぞれ顔を見合わせる。
箸を置き、よく日焼けした腕を組んだ瀬尾が、七海を軽く睨んだ。七海はコップに口をつけたまま、その視線を受け止める。黒い眼鏡をしている七海は、その奥で、僅かに目を細めている。喧嘩するほど仲が良いとはよく言ったもので、二人は揃うとこうしたやり取りをする事が多い。
それから瀬尾が、溜息をついた。耳元ではピアスが輝いている。それが店の正装の和服と共に視界に入ると、非常に洒落て見える。瀬尾はそれからビールのジョッキを片手に取り、ゆっくりと飲み込んだ。瀬尾は酒が好きだが強いわけではない。七海はその点、うわばみだ。
その後は、賄いを食べ終えるまで、時折口喧嘩をしながら、瀬尾と七海は酒を飲んでいた。それから賄いの皿を片付け、二人は私服に着替える。そしてシンさんが鍵を閉めた時、それぞれ帰路についた。
――飲み足りない。歩きながら、七海はそう考えつつ、『酔いどれ』の前の割烹料理屋の前を通り過ぎた。それから少し歩いた時、トークアプリの通知が来た。
バイトの大学生、上野からである。
『七海さん、これから家、行っても良いすか?』
トークアプリを七海は気怠げな表情で見た。
『今、家のそばのコンビニに行く所。くれば?』
軽い調子で、一人頷きながら七海は返信した。
そして歩きながら、上野について思い出した。上野は大学三年生の二十一歳、バイトだ。由緒正しい『酔いどれ』では、あまりバイトは募集しない。だが、ホールを飛田というオッサンが手伝うと言い出した頃に、「一人雇う」とシンさんが言った為、募集したら上野が来たのだ。上野は、偶然にも、七海が卒業した大学に在学中だった。
二十五歳の七海は、『酔いどれ』で、もうずっと働いている。厨房を仕切っているシンさんの料理に惚れ込んでもいる。
「今日の賄いも美味しかったな」
呟きながら、七海はコンビニに到着した。
「七海さん!」
すると上野の姿があった。上野は七海に懐いている。上野から見ると、七海は大人びていて頼りになる先輩だ。七海は酔うといつもよりは多く笑うようになるから、上野はそこが好きで、バイト帰りや暇な夜に、七海に声をかける事が多い。一人暮らしの家に帰るよりも、七海の家でダラダラ過ごしてから大学に行く方が楽しいと上野は感じていた。
「お前、大学の課題は大丈夫なのか?」
自然と合流し、コンビニの中へと入りながら、七海が上野を見た。二人でコンビニへと入るのは、一緒に飲む時のいつもの流れだ。真っ直ぐに酒類コーナーへと向かう七海を追いかけながら、上野は頷いた。
「まぁ、なんとかなりますよ!」
「無理するなよ。バイト、ちゃんと事前に、シフトを変えておけ」
気怠そうな声音で、七海が言う。七海は発泡酒の缶を二つカゴに入れていた。口調こそ気が無い様子だが、色々と七海は上野を気遣っている。それが上野は嬉しい。上野から見ると、七海はいつも余裕があるように見える――ただ、瀬尾と口喧嘩をしている時は、少し子供っぽく思える時もある。上野は瀬尾の事も好きだ。
上野はスミノフの瓶を二本手に取りレジへと向かった。それぞれ別に会計を済ませてから、二人は店の外で再び合流する。それからコンビニ袋を手に歩みを再開した。暗い夜道を照らすように、等間隔に街灯が並んでいる。
その後到着したマンションで、エレベーターホールを抜け三階までは階段で登った。そこで七海はカードキーを取り出して、家の鍵を開けて上野を中へと促す。既に上野は慣れてきた七海の家で、自然と靴を脱ぎ、勝手に冷蔵庫を開けて、瓶の片方を中にしまった。そしてもう一本は手にしたまま、リビングの座布団の上に、あぐらを組んで座る。
七海は、全ての缶を冷蔵庫に入れ、最初から入っていたビールの缶を手に、上野の正面へと座った。七海は一本目はビール、二本目からは発泡酒、その後は焼酎が多い。上野はスミノフを二本飲んでから、薄めの焼酎をご馳走になったりする。バイト先で飲むのと、宅飲みは、また違う感覚がする。七海は仕切り直すように、ビールから飲み始めた。
「分からない所があったら、教えて欲しいな。課題」
瓶の蓋を開けながら上野が言うと、缶のプルタブを開けながら、七海が喉で笑った。骨ばった長い指で、500mlの缶を手にしている。七海の、柔らかそうなふわふわの髪が揺れた。その仕草や動作が、いちいち大人っぽい。上野もこう言う人物になりたいと、七海を見る度に考えている。
「俺に分かる範囲なら、な。レポートの参考文献程度は、その辺にある」
缶を傾けながら、七海が言った。上野は自分で文献を買ったりしないので、七海は真面目だなと考える。一見やる気が無さそうで、本当に気怠そうだが、七海は根がしっかりしている。上野はまだ将来についても――就活についても漠然とか考えていない為、働いている七海や店のメンバーをすごいと思っている。シンさんも大好きであるし、瀬尾も大切な先輩だ。
「頑張る。あー、でも、俺も『酔いどれ』に就職したいな」
「上野がいてくれると楽だけど」
七海はそう言ってから、ビールの缶を飲み干した。ペースが早い。自分がいると楽だと言われて、上野は嬉しさで胸が満ちた気がした。それからふと思った事を口にする。
「七海さんの家って、良い匂いがする」
「加湿器を買ったら匂いつきだったんだ」
自発的に選んだわけではないと七海は伝える。よく説明を見ずに、一番安いものを選んだ結果だった。七海は比較的自由に生きている。現状に満足もしている。大人になるというのは、そういうものだろうと考えていた。
それから立ち上がり、二本目の発泡酒を取ってきた。やはり飲む時は、それが飲み直す場合であっても、一本目は、普通のビールを飲む方が落ち着く。しかし、貯金中なので、常にビールを飲んでいるわけではない。それゆえの発泡酒だ。店でもビールと焼酎を飲んできたわけではあるが、まだまだ足りない。
酒を手に取りつつ、七海は上野の言葉を思い出しながら、己について考えた。大学を卒業して、そのまま『酔いどれ』に就職したのは――店長のシンさんに惹かれたからであるのは間違いない。その他に、いつか自分の店を持ってみたいという思いもあって、修行を兼ねているという事実もある。だが、シンさんや瀬尾、上野や常連さん達との空間が心地良くもあって、今のまま働き続けたいようにも感じている。
リビングに戻り、七海は座り直した。大学生の上野は、七海から見ると若い。何より元気だ。だが、変な所で気遣いをする場合もある。バイトの仕事もすぐに覚えた上野を、七海は可愛がっている自信があった。その為、懐かれて悪い気もしない。
前髪が短めの上野は、ごく普通の、その辺にいそうな学生だ。身につけている小物が学生らしく洒落ている。
ビールの炭酸を楽しみながら七海は、上野を見る。上野は目を閉じて両頬を持ち上げた。明るい後輩の表情を見ていると、疲労感が飛んでいく。だから、遊びに来たいと言う上野を、七海はいつも家に上げるのかもしれない。
こうしてその日は、飲み明かした。
翌朝、大学へと行く上野を見送り、少し寝てから、七海は『酔いどれ』へと向かった。中に入って着替えてから顔を出すと、シンさんが下ごしらえをしていた。それから少しして、瀬尾が来た。七海が欠伸を噛み殺したのを見て、瀬尾が嘆息する。
「また遅くまで飲んでたのか?」
「まぁ。上野が来ていったんだ」
「あんまり大学生を付き合わせんなよ、大変だろうし。大学は」
「向こうから来たんだけど」
そんなやりとりをしてから、席の番号を確認する作業を始める。メニューの位置なども確かめて、その後はおしぼりの用意をしたり、箸の位置を確認したりした。
こうして開店時刻になる直前、酒の搬入に、飛田がやってきた。頭にタオルを巻いている筋肉質の飛田は、近くの酒店のオッサンだ。体格の割に、瞳は可愛らしい。
「毎度! お疲れさん」
そう言って飛田は、この日は早く帰っていった。本日は正面の割烹料理屋である『吉祥』へと出向くらしい。普段は飲んでいく時も多く、かつ暇らしく、本気で以前には店を手伝うと話していた人物だ。
「ん」
シンさんは短く頷いている。こうして『酔いどれ』は開店した。
この『酔いどれ』の客層は、圧倒的に男性が多い。九割が男性と言って良いだろう。
そこには、様々な人間模様がある。
中には――恋も広がっているというわけだ。
七海と瀬尾はホールでそんな人々と直に触れ合う。シンさんは厨房の奥で、実は店内をよく見極めている。常連さん達も気の良い人が多く、一見さんも様々な人が来る。
こうしてこの日も、『酔いどれ』の夜が始まった。
一方の――『酔いどれ』の正面の店、『吉祥』。
こちらは、実に流行らない……。それは繁盛店の『酔いどれ』が目の前にあるから、ではない。店主である前長が、気まぐれだからだ。度々店を閉めては、自分もまた『酔いどれ』に出かけるほどである。一応理由は、『敵の観察』であるが、彼もまたシンさんの料理のファンである。
「よぉ」
そこへ飛田がやって来た。前長は、飛田と同じ小学校の出で、歳も近い。二人のオッサンは、どちらも筋トレが趣味なので、度々スポーツクラブでも顔を合わせている。本日も日中に遭遇し、その流れで、飛田が本日は『吉祥』に顔を出すと言ったので、早めに前長は店を開けておいたのだ。
「芋をくれ」
カウンターの椅子をひきながら、飛田が言った。頷いて用意をした前長は、己の分も用意する。その後は、客が来ない中、二人で酒を飲んだ。二人の話題は、専ら『酔いどれ』についてだった。
その『酔いどれ』はといえば、本日も大繁盛である。混みすぎて、急遽上野にヘルプに来て欲しいと要請したほどであった。
◆◇◆
――この日も、俺は塩原さんと共に、『酔いどれ』の暖簾をくぐった。
まさか自分達の関係が、店の人々にバレているなんて、全く考えていなかった。
幸いな事に、俺はその事実には気づかないで終わる。
END