【酔いどれ】の店員


 夏――八月三十一日。
 真っ盛りなのか、夏の終わりなのか。
 少しだけ遠出をして、七海はバイクで海へと訪れた。夜の海辺では、水面の漣はあまり目視できない。柔らかな彼の髪を海風が攫っていく。

「……昨日は、上野と瀬尾は飲みに行ってるのかな」

 呟いたのは、昨日のバイト先での光景を思い出しての事だった。
 上野は、七海の可愛いバイト先の後輩の大学生である。
 瀬尾は、ひとつ年下の二十四歳で、身長も1cm低い。

 二人に飲みへと行くようにと促したのは、七海だ。
 七海由隆は、『酔いどれ』という居酒屋で働いている二十五歳の青年で、洒落た黒縁のメガネをかけている。今時の若者――というには、少し年が行っているのではないかと本人は考えている。

 上野は、そんな七海の家に、ちょくちょく飲みに通ってくる、バイトの大学生だ。そして――明るいがちょっと(いい意味で)馬鹿な所がある瀬尾。そして店主のシンさん。それが、現在の七海の世界である。

 職場――『酔いどれ』というあの店が己の世界であるというのは、少し寂しくもあり……同時に嬉しくもある。七海はシンさんの料理に惚れ込んでいるのもあるが、あの空間が好きだった。

 名物の漬物、美味しい各種の料理、典型的な串焼きや刺身から、郷土料理風の一品まで全てが美味で、オリジナルラベルの焼酎もある。そして、個性的な店員と、客達。

 ただ、時に我に返ると、自分がそこに適応できているのか不安に駆られる事もある。七海は無理をして笑う事は無い。だからこそ、時に、もっと表情筋を動かすべきなのではと悩む。それは――恋をしているからなのかも知れない。

「……」

 上野は、七海の家に来るたびに、店の話ばかりをする。特に、瀬尾の話だ。半ば直感めいたものとして、上野は年上の瀬尾に惹かれているのだろうなと七海は思っている。

「……三角関係なんて、面倒くさすぎる」

 七海は、七海で、瀬尾の事が好きだった。その好きの種類を、上野がバイトとして訪れるまでの間は考えた事も無かったし、考える必要もないと思っていた。なにせ自分達は男同士だ。しかし上野がバイトに来るようになり、部屋に来て話す機会が増えてから、その状況が変わった。世界に雑音が混じった瞬間でもある。決して上野の事が疎ましいわけではない。瀬尾の事が大切だと気づいてしまったというだけだ。

「譲る。決定、確定、譲る。いや、譲るっていうのか? 俺は何も始まってないのに」

 ポツリ、そう呟いてから、七海はバイクにまたがった。本日はバイトが休みであるが、行き先は決まってる。『酔いどれ』だ。バイクは飲んでも、店の駐車場に置かせてもらえるのを知っていた。いつもとの違いは、店の和風の制服ではなく、私服という程度だろう。

 こうして――赤提灯が彩る『酔いどれ』へとバイクを、七海は走らせた。

「いらっしゃいま――って、なんだよ、七海か!」

 暖簾をくぐると、声をかけてきたのは瀬尾だった。顔を見るだけで、ズキリと胸が痛む。諦めると決めたばかりだからだ。

 仮に告白などして振られて、この平穏な世界を崩すよりは、今まで通りが望ましい。
 そもそも鈍い所がある瀬尾は、自分の好意になど気づいてすらいないだろうと七海は思う。日に焼けた瀬尾の顔を見て、無愛想な無表情で、七海は顎だけで頷いた。

「いっぱい目は、とりあえず――」
「ビールだろ? そのくらいわかってる」
「……お通し出すの遅い」
「うるせぇ!」

 そんなやりとりをしていたら、上野も七海の姿に気がついた。

「わー! 七海さん! 今日、お休みだから寂しいっす」
「おー」
「終わったら、今日も行っていいすか?」

 大型犬のような笑みで上野が言った。それを聞いて、小さく七海は頷く。


 ――さて。
 上野が瀬尾を好きだというのは、七海の勘違いである。いつも上野が瀬尾の話ばかりするのは、七海が瀬尾の名を聞くと、幾ばくか表情を変える事に気づき、ついつい上野礼都は、名前を出すようになってしまっただけだ。家に頻繁に出向くのもそうであるが、上野はどちらかといえば七海の方に懐いているし、相応に好意もある。

 だから――応援したいようにも、上野は思っている。上野の方こそが、七海の気持ちを知っていた。そのため、それを確信しようと、冗談めかして過去に「好きです」と告げてみたこともある。七海に対しての敬愛を。無論、出来心だ。そしてそれは七海も察する所であり、その時七海は言った。

『そういうことは、本当に好きな奴にだけ言え』

 ――それは、己にはできない事であるから、七海は口にしたのかもしれない。
 実際、瀬尾は鈍い。男同士であるから、好意を抱かれているなんて思わない可能性だってそれはあるだろうと七海は思ったし、七海自身感情が表に出る方ではないため、伝わっていないのは覚悟の上でもあった……というより、隠し通したいというのが本音だ。

「ほら、お通し! で? あとは、漬物だろ? シンさんの! 俺のおごりだ」

 そこへ瀬尾が料理を運んできた。上野が笑顔で下がっていくのを見ながら、七海は嘆息しながら瀬尾から皿を受け取る。

「おごり?」
「おう」
「――じゃ、メニュー全部」
「馬鹿じゃねぇのか、お前は!」
「じゃあ、瀬尾」
「は?」
「冗談。いらね」
「おい」

 そんなやりとりを交わしてから、ぐいと七海はジョッキを煽る。いっぱい目はビールだが、二杯目は何にしようか。そう考えていた時だった。不意にグイと瀬尾が七海の首に腕を回した。

「なぁ、ここだけの話なんだけど」
「ん?」

 顔を上げた結果――不意に七海は至近距離にある瀬尾の顔を見つけてしまった。目が惹きつけられる。心臓に悪すぎると思いながら硬直していると、瀬尾が七海に耳打ちをしようとした。今日も店内で盛んな、客達の恋の話題を彼はするつもりで、勢いよく七海に顔を近づける。ビクリとして七海が体をひこうとした。だから瀬尾がさらに顔をちかづける。

「おい、近い……っ」
「七海は遠すぎる!」
「ちょ――ッ、お、おいって……――!」

 その時、瀬尾の背後を上野が慌てた様子で通り過ぎた。注文を聞き違えたらしい。結果、ぶつかった瀬尾は体勢を崩し――そのまま七海の頬に唇が当たった。頬にキスされた形になり、七海は刮目した。触れるだけの柔らかな感覚。しかし胸の動悸は激しくなり、ドクドクドクドクと心拍音が七海の全身を絡め取る。

「……あ。悪ぃ」
「最悪」
「……俺も吐きそう」

 素直な瀬尾の声に、七海は泣きたくなった。本当は、キスされてしまった現実が死ぬほど嬉しかったからだ。

「と、いうほどでもなかった」

 その時瀬尾が言った。驚いて七海が息を呑む。

「お前、結構肌すべすべなのな」
「女に言ってれば?」
「――別にいいだろ。素直な感想だ……何、顔赤くなってんぞ?」
「ビール飲んでるからな」
「お前、俺と違って酒ざるだろ?」
「まぁな」
「じゃあなんで赤くなってんの?」

 揶揄するように瀬尾が言う。それを聞いて、ジョッキを飲み干してから、七海が眉を顰めた。

「お前が好きだから――」
「へ?」
「――って、言ったらどうするわけだ? 二杯目、ロックで芋!」
「待て待て待て、聞き逃せないぞ」
「逃せよ。早く持って来い」
「持ってきたらまた聞く」

 瀬尾はそう言うと一度酒を作りに行った。そして、戻ってくると、七海の隣の席の椅子を引く。

「瀬尾、バイト中っしょ? 何どうどうと座ってるんだよ」
「聞き逃せないから、シンさんに休憩許可もらってきた」
「は?」
「俺も、比較的七海の事好きだぞ?」
「お前仕事中なのに酔ってる?」
「酔ってない! だ、か、ら! え? どうしたら信じてくれる?」
「からかってるんだろう。俺もだけど」

 そんなやりとりをしているだけで、七海は幸福感と辛い胸の疼きに、同時に駆られた。だが、これからも、こんな空間が続くならば、それで良いようにも感じる。

「なぁ、七海」
「ん?」
「俺もさ、上野みてぇに、たまにはお前の家、行ってもいい?」
「いつでも。なんなら今日も二人でくれば?」
「や。二人きりで」
「なにそれ」
「――だから、どうしたら信じてくれるんだよ?」

 嘆息した瀬尾の姿を見て、意味が分からず七海は片目を細めた。瀬尾の本心を知るまでには、もう少し。




【完】