時東の頭で鐘が鳴った日。



「――時東、先生急変です!」
「馬鹿野郎、どこのヤブ医者の処置だ!? D8Neを300ml投与!」

 激しい檄を飛ばしながら、時東が険しい顔をしていた。
 ここは、医療院――PSY医療院である。
 医療院には総合院とPSY医療院が存在するのだが、時東はそのPSY医療院でも一番の腕前と評判の優秀な医師だ。そもそも限られた選ばれた医師しかここへと所属する事は不可能だ。そんな中、時東はスカウトされた程でもあるし、本人もPSY医療が一番好きである。凄腕の二十代の若き天才医師は、現在――ゼスペリアの医師と呼ばれている。

 最高学府や医療院、各研究施設の医療関係資格は全て所持しているし、総合科の側も産婦人科からホスピスにおける終末医療まで、全てに対応できる、全診療科の専門医だ。ゼスペリアの医師とは、元々は新約聖書の黙示録に出てくる、使徒ゼストの写し身と呼ばれる再来した救世主の使徒となると言われる医師のことなのだが、あまりにも凄腕すぎて、いつしかそう呼ばれるようになったのだ。

 普段は、大抵はゼスペリアの医師の評判を聞きつけて予約したがる貴族――は、全く診ないで、PSY血統関連疾患の重病患者や、PSY関係兵器事故にあった患者などを担当している。それ以外にはPSY融合医療装置や医薬品を復古したりと研究活動が多い。

 そんな時東は、いつもはやる気のなさそうな気だるい顔か、檄を飛ばす時の険しく厳しい激怒の表情のどちらかなのであるが、2パターンだけ異なる場合がある。一つ目は、相手が天才と呼ばれるような高IQの人物の場合。もう一つは、外見が時東の好みの患者。この場合のみ、時東ロイヤルスマイルという作り笑いが炸裂し、非常に優しそうで頼りになりそうな優秀な医師になる。それ以外は、余程親しく無いと微笑を引き出すのも困難だ。

 だが、時東はそうであっても死ぬ程モテる。高砂に教わって、伊達眼鏡を着用し、Otherにより気配を、PSYが使用できない一般人と同一にしてすらモテる。それだけ、白衣を翻して真剣に仕事をする時東は格好いいし、顔面造形も秀逸なのだ。だから誘われたら適度にSEXしたりもするが、正直な話、結婚願望はゼロだし、恋愛だとか鬱陶しいとしか思えない。単純に突っ込んで肉体的快楽を得るのは健康に良いしストレス解消になる程度の意識だった。

 ストレス。これは大きな問題だった。
 ちょこっと使えるのは、過去に暮らした最下層の孤児院街出身の政宗のみ。
 まぁまぁ精神科方面のみ許容できるのは、法王孫の一人のラクス猊下だけだが、この人物は医療院に常駐しているわけではない。そして何より頭にくるのは、無能な医療院の上層部の連中だった。使えない。書類にハンコすら押せない。教授戦だのにしか興味ゼロの馬鹿共が、時東は大嫌いだった。そしてある日、PSY医療院側の代表者を決める選挙が始まる事になった。

 実力的に誰もが時東を推したが、時東は臨床や研究に専念したいから断ったし、他の候補連中も『まだ若くて経験が足りない』だのと、歳だけとって経験が生きている様子がないのに言う。思わずそれに『うっせぇよハゲ。俺にそれを言えるなら、PSY復古医薬品の一つでもまともに作成しろ!』とブチ切れた結果、その人物が代表者になった瞬間、あっさりと時東は左遷された。

 それも――最下層という、医療院医師の墓場だとされる場所の慈善救済診療所にである。しかし、時東は、その人物が知らなかっただけで、元々幼い頃は、ここで祖父のザフィス神父と育ち、医学の勉強をしてきたから、別にいいやと思った。代表者は、すぐに嫌気が差して帰ってくるし自分に謝り部下になるだろうと思っていたらしいのだが、そのまま時東が帰ってこなくなったので、時期に解雇されたのだが、時東はそんな事は知らない。

 さらに時東は、普段、『時東修司』と名乗っている。
 これは医療院において、医師の貴族爵位等を気にせず『医師』として全てを扱うための配慮で、仮名を許可されているからだ。そうは言っても、自分の爵位の高さを自慢する医師は腐るほど存在する。だが、時東はそうしたことはなかったから、『一般階層出自』だと誤解されていた。だからこそ、あっさりと左遷されてしまったのである。孤児院育ちだという噂もそれに拍車をかける結果で、止めることが可能な人間がいなかったのである。

 さて、診療所で出迎えてくれた実の祖父、ザフィス=ハーヴェスト・ロードクロサイトは、溜息をついた。時東もちょっと気まずいかなと思い、作り笑いを浮かべた。

「元気そうに戻ってきて何よりである」
「おう。ザフィスも元気そうだな」
「――だが私も、もう良い歳である。それに左遷理由の一つに、一般階層出自であるという誤解が広がっていたのもあったからと聞いたゆえ、今度という今度こそ、時東よ、きちんと貴族爵位を継承するのだ」

 普段はザフィスは時東に並ぶ程の医学中毒だが、最近はこれを言い出す事が多い。理由は基本的に二つだ。時東――これはそもそも、タイムクロックイーストヘブン大公爵家の短縮華族系名称なのである。時東は、実を言えば、国内でもごく限られた数しかない『大公爵家』の跡取りなのだ。ザフィスが未婚時に人工授精で儲けた長男と、タイムクロックイーストヘブン大公爵家の人間が結婚して生まれたのが、時東の父である。だからザフィスが正式に結婚して生まれた子供は、ザフィスの父であるハーヴェスト侯爵家を継いでいるが、その前にザフィスは、医学の徒であるロードクロサイトの血を絶やしてはならないとして、子供を事前に設けていたのだ。

 というか、そもそもは、ザフィスにも結婚願望がなかったらしく、たまたま、本当にたまたま長男がロードクロサイトの虹と呼ばれるOtherを持っていたため、ロードクロサイトの最新直系と決めただけだという経緯があるらしい。そしてこの人物と結婚したタイムクロックイーストヘブン大公爵家というのは、時東のそちらの片側祖父は王族だから王家の分家だし、ロードクロサイト大公爵家がゼスト・ゼスペリア家の担当医師を代々行ってきたとすると、あちらは代々花王院王家の担当医師の家計だったから、時東は筋金入りの医者の家に生まれたのだ。しかも王家の分家だし大公爵家当主で既に本人も大公爵だし、さらにはロードクロサイト大公爵家の筆頭でもあるのだ。

 これが公表されていたならば、出自が高貴すぎて左遷などありえなかった。
 だが――時東は、正直な話、結婚願望ゼロなのと同じくらい、貴族の社交だのにも興味がない。かつ、ロードクロサイト家というのは、大昔のロードクロサイト文明の皇室の血を引いていて、旧皇帝末裔家と今でも呼ばれていて、さらにそこにはゼスペリア教に連なるゼガリアというらしい古代宗教の名残があるらしく、生まれた時には勝手にゼガリア特別枢機卿だのという聖職者にされてしまっている。宗教院の規則らしい。だが、筋金入りの無神論者である時東には、その現実すら、面倒くさい。

 だから、普通の時東修司として生きていきたいのが本音だ。

 けれど、ザフィスの言葉も分からなくはないのだ。ロードクロサイトたるもの医学の徒であれ、という祖父の言葉があったから、医学を始めたというのもある。それになにより、医学の基礎を教えてくれただけでなく、ずっと小さい頃育ててくれたのはザフィス神父なのだ。実の孫や家族が他にいるのに、時東を最優先で育ててくれた。ザフィスは、時東がロードクロサイトの虹を持っている上医学の才能があるから伸ばさなければならなかったからだと言っているが――……タイムクロックイーストヘブン大公爵家が襲撃されて、ただ一人だけ生き残った時東を守り育ててくれたのだと理解できる程度には、時東ももう大人だ。襲撃時の悪夢に悩まされた幼少時、一人で眠れない時東といつも一緒に寝てくれたし、逆に他の孤児院には大勢人がいて、それもまた襲撃時の大人数を思い出すから眠れなかったのを、診療所に引き取って、二人で暮らしてくれたのだ。感謝していないといえば嘘になるし、今でも唯一の師だと思っている。

 だから楽にさせてあげたいし、恩返しをしたいという思いもゼロではない。
 だけど、ザフィスが言うように子供を作れとか、貴族をやれとか、そういうのは面倒だから絶対に嫌なのだ。幸せな家庭とか思い描けないし、考えただけで家族とか邪魔なのだ。

「まぁ、考えとく。荷物整理もあるしな」

 時東がそう言って苦笑すると、ザフィスが諦めたように溜息をついて帰っていった。
 その神父服を眺めながら、時東は腕を組んだ。
 ザフィスもまた、無神論者である。だが、現在は、ハーヴェストクロウ大教会という一番大きな孤児院で筆頭牧師をしていてラファエル=ゼスペリアを名乗っている鴉羽卿と結婚している。あちらが国内でもう一つの宗教である院系譜の僧侶でもあるから、という理由で、最下層ならば牧師ならば前任者指名でなれるにも関わらず、ザフィスはわざわざきちんと神父の資格を取得した。ゼルリア枢機卿の地位があるにも関わらず、別にきちんと学んできたのだ。その理由は、たった一つだ。

 その二人の初孫が、特異型PSY-Other過剰症という病気の中でも重い部類に入る体調だから、死を覚悟して取得したらしい。ラフ牧師が寺で祈れるから自分はゼスペリア教を、という考えだったらしいのだ。そこまでする程心配な上、人工授精ではなく愛ゆえに生まれた孫が居るというのに、ザフィスは時東をそれ以上に可愛がってくれた。その事実も時東は辛いのだ。なんともやるせない。

 だから幼い頃は、ザフィスを取られたくない、みたいな独占欲もあって、いじめた事もある。一見気が強いその従兄弟は、自分と同じ年齢なのだが、誕生日が少し遅い。あちらは十一月の終わり頃の生まれの射手座のO型で、時東は水瓶座のB型だ。よって学年だと時東が一つ上となるが、同じ年の生まれである。しかもそいつは、時東と全く同じ医学部関連の学歴で、資格も唯一、時東と同じ全ての医学系免許を持っている。勿論大学院の複合資格や、医療院の専門医免許も、である。しかもあちらは三歳から五歳で全部取得で、時東は七歳までかかった。劣等感みたいなものが無いといえば嘘になるだろうなと当時を振り返って思う。なのに話をすると、頭がすごく悪く感じるのがまたいらだたしいのだ。自分を抜いて国内で一番IQが高いらしいという話なのに、その気配を感じない。顔を合わせると『ライチジュースが飲みたい』しか言わなかった。だがキラキラした笑顔で、いくら時東が邪険にしてもそう言ってくるので、いつしか慣れた。

 幼馴染――そういう人間、それが時東にとってのゼクス=ゼスペリアだった。

 名前的にザフィスが祖父だとしても、救済戸籍の孤児なのだろうと思って時東は接してきた。何せ本人も、ゼスペリア教会孤児院で暮らしていたからだ。ただ、自分と違い五歳からもうひとり暮らしというのも、なんだか自分が子どもだと痛感させられるようで時東は惨めだった。しかも時東から見ると、意味のわからないことばかり言う、顔だけが取り柄のバカなのだ。喧嘩をしても、翌日には忘れている。殴り合いの喧嘩をしても翌日には忘れている。だがゼクスは腕が強いので、時東も対抗すべくこの部分だけはザフィスに護身術を直接習った。そしてちょくちょく教会をあけているゼクスが戻ってくるたびには、喧嘩をしたものである。最終的に、口舌戦では自分の圧勝だと気づいてからは、ゼクスが泣き出すまで罵詈雑言を放ったものである。この頃には、幼馴染兼喧嘩友達という感覚だったかもしれない。ただ一つ――時東は、ゼクスが医師として活動しない点が疑問だった。

 だからある日、告げた。十歳の時だった。

「なぁゼクス。ちょっと忙しいから、診療を手伝ってくれないか?」
「ああ、いいぞ」

 ザフィスも同意したので、三人で医療院の総合外科にある日向かった。
 新患受付だ。この頃には、既に時東はゼスペリアの医師と呼ばれ始めていたので、周囲の期待も大きかった。ザフィスは後ろを向いて薬をいじるフリをしながら観察していて、時東もモニターを眺めていた。ゼクスには臨床経験が無いから、いざという時は二人でバックアップしようとしていたのだ。

 そして一人目の患者が来た。入ってきた瞬間、時東とザフィスは息を飲んだ。
 頭痛を訴えて訪れた患者だったのだが、脳の血管が破裂直前だったのだ。
 ザフィスが薬を作り始め、時東が緊急処置の準備を咄嗟に開始した――その時だった。

「頭痛がするんですか!」

 にこやかな笑顔のゼクスの声と同時に、ESP-PKメスの気配を感じて二人は硬直したのだ。咄嗟にPSY復古ロステクモニターを見たら、非常に難しい脳に、繊細すぎるESP-PKメスが入っていて、さらにはPSY-Otherによる痛覚遮断コントロールが行われているらしく、患者は全く気づいていない。

「そうなんですよ。最近仕事が忙しくて過労かなぁって。けど、ほら、頭だからやばいかなあとか思って、念のため外科に。最近、転んで頭を打ったこともあるから」
「頭を打ったんですか?」
「土木作業が仕事なんです」
「体力も使うし、疲労もしますよねぇ」

 ゼクスは微苦笑しながら雑談しつつ――ザフィスと時東ならば、応急処置の後、三ヶ月は計画を練って行うだろうESP-PKメスによる大手術をサクサク行っている。その技量、しかも雑談しながらだというのに、集中力にも乱れがないようで、PKによるメスは完璧に鋭く、そのままOtherで血管の外枠を修正し、PKクリップを外して、あっさりと破裂しそうだった脳血管を治してしまった。見ていた二人はポカンとした。

「ただ、その頭痛は、脳の血管が破裂しかかっていたからだと俺は思います」
「――へ?」
「けどもう手術は終わりました! 緊急だったので同意不要手術でした。この封筒に病気の説明書があるので、じっくり読んでくださいね」
「は、はぁ……?」
「また頭が痛くなったり、疲れたらいつでも来てください」

 笑顔でそう告げて、ゼクスは見送った。
 時東とザフィスは顔を見合わせた。
 すると続いてすぐに、次の患者が入ってきた。そして再びやばいと二人は思った。
 肺に水が溜まっている。これは重度の肺炎だ。

「あ、あの……咳が出るから内科に行ったらこちらへ行くようにと……」
「それは不安ですね」
「ええ。もしかして悪い病気なんでしょうか? 肺癌とか……」
「いやいや、そんな事はないですよ! 見れば分かります!」

 ゼクスは満面の笑みだ。確かに見れば熟練の医師ならばわかるだろうが……ゼクスは違う。ヒヤヒヤしながらザフィスは救急時の薬の準備をし、時東は人工呼吸器の用意を開始した、その時だった。再び強いESP-PKメスの気配を感じたのだ。いいや、メスというのは正確ではなく、二人すら見た事のないチューブ形態だった。さらに痛覚遮断コントロールがやはりなされているようだし、治癒系統のOtherが今回も発動していて、今回は人体治癒効果の他、室内が集中治療室並に無菌室状態に変化していた。

「他に胸が痛いとか、胃が痛いとかありますか?」
「胃痛……そういえば、鰻と梅干を一緒に食べてから体調が悪いんですよねぇ。もしかして食べ合わせでしょうか?」
「うーん、俺はまだ経験が浅いのでなんともですが、鰻は美味しいと思います!」

 そんな笑顔の雑談をしながら、肺の水を綺麗に抜き取った後、ゼクスは医療院救急薬品庫から注射器とアンプルをひとつ、シートをひとつ取り出した。

「よし、ちょっとお注射をしますね! きっと鰻と梅干の食い合わせの悪さもこれでよくなるかもしれません! わからないですけど、この注射をすると息が楽になります! だから、胸は痛くないし、胃痛も多分ストレスでしょう!」
「ほ、本当ですか?」
「はい!」

 こうして、治癒OtherによるPSY医療で肺機能自体を回復させた上で、ゼクスは完全ロステク薬の最新版――肺炎を完全に消失させる薬を注射した。この薬等、最新の情報を仕入れていなければ存在すら知らないはずのものだった。

「先生は注射がお上手ですね!」
「よく言われます!」

 痛覚遮断コントロールのおかげであるが、ゼクスは笑顔のままだ。
 だが本来この技術だって自分への使用はともかく他者に使うのは時東やザフィスですら難易度が高いのだ。最後にゼクスは、患者の胸にシートを貼った。これは時東が最近復古したPSY融合医薬品であり、あらゆる感染症を防止する最先端の医薬品である。

「あ、診察結果なんですが、ええとですね、酷い肺炎だったから外科的手術が必要かなぁっていうことでこっちに回されたんだと思います」
「えっ」
「でも、もう手術も終わり、肺炎も治り、免疫が弱っている間の感染症予防もばっちりなので、不安だったらもう一回総合内科で確認してもらってください。緊急手術だったので同意書無しでしたが、病気状態の説明書とかはこの封筒に入ってます」

 最後まで笑顔でゼクスはその患者を送り出し、患者は走るようにして内科方面へと戻っていった。時東とザフィスはポカンとしているしかなかった。なぜ笑顔で、あんなに難易度が高い手術を、詳細な検査も手術検討も無しに雑談しながら行えるのか意味がわからなかった。腕を組み、二人が顔を見合わせていると、激怒している顔の看護師長が入ってきた。

「あんな難易度が高い脳の手術をこの短時間で出来るわけがないでしょうが! 元々脳の血管が無事だったとしか考えられない治癒レベルですし、誤診じゃないんですか!? このゼスペリアのヤブ! 患者さんが焦って問い合わせてきましたからね!」

 こうして看護師長が出て行くと、ゼクスが目を見開き涙を浮かべた。

「ゼスペリアのヤブ……」
「ゼ、ゼクスよ……完璧であった。わしと時東が見ていた」
「ぶ、ぶは。ゼスペリアのヤブ」
「これ時東よ、笑うでない。確かにあのレベルで治癒していたら元から病が無かったと誤解されてもおかしくはない――が、ゼスペリアのヤブ、ぶは」
「二人共、ひどい! 俺、ちゃんと見たのに! しかも総合外科は簡単な診察だけだって言うから来たのに、難しい手術を二個もやったのに! ゼスペリアのヤブ!」

 ゼクスが泣き出した。時東はツボに入って笑ってしまった。
 ザフィスはかける言葉を探しつつ、やはり笑いをこらえている。
 こんな風にザフィスが笑うのは珍しい。

「つぅかお前さ、なんであの難易度の手術をさらっと笑顔で鰻と梅干について語り合いながら出来るんだよ」
「へ? 気が紛れるかなぁって。それに鰻は美味しいだろ?」
「「ぶは」」
「なんで笑うんだよ! もう良い! 俺二度と医者やらない!」

 その後、医療院のモニター解析で、ゼスペリアのヤブは名医であると大評判になったし看護師長も謝ったのだが、二度とゼクスは医療院には来ないといって、医師活動をしていない。なんだかこの一件が境目だったのかは不明だが、時東の中で、最早ゼクスは好敵手だとかザフィスを奪い合うような存在ではなくなり、大天才なんだけど何だかバカで、面白いやつという認識になっていき、仲良くなっていった。従兄弟というか兄弟みたいな感覚に近かった。榛名達三人を連れて遊びに出かけたりもした。

 そして時東が十一歳の頃、医療院での仕事に専念するからとそちらの寮に引っ越すことになった時、ゼクスが時東に言った。

「時東、行っちゃうのか?」
「ああ。けど、ま、たまには帰ってくるしな」
「……俺、時東が好きだ。結婚してくれ!」
「は?」
「俺、お前の顔がこの世界で今のところ三番目に好きだから、結婚してくれ! 横に置いて眺めておきたいんだ!」
「ぶは」

 時東は爆笑した。三番目というのもなんともだし、眺めておくために結婚とは何だ。

「悪い、俺、バカは嫌いなんだ。せめてゼスペリアの医師と呼ばれる俺レベルになれ」
「俺だってゼスペリアのヤブと呼ばれている! 今でも医療院で有名だそうだ!」
「ぶは」

 しばらく笑いが止まらなかった時東だが、ゼクスだけは恋愛対象外だと確実に認識していたので、苦笑した。

「悪い。お前はいいやつだとは思うが、俺、もっとこう色っぽい奴が好きで、俺はお前を横に置いときたくない」

 ゼクスはこの世の終わりのような悲しそうな顔で目を見開いた後、小さく頷いた。

「初恋は実らないというしな……俺は新しい恋を探す!」
「立ち直り早ぇな」

 こうして笑って別れたのが、結局最後であり、時東は左遷されて舞い戻るまで、一度もゼクスと顔を合わせる事はなかった。あのバカは一体今頃何をしているのだろうか。そんなことを考えながら荷解きを終えて、時東は煙草を銜えて外へと出た。久方振りの孤児院街は懐かしい。しばらく歩いて噴水前のベンチに差し掛かった時、そこの灰皿で、立っている青年を見つけた。牧師服姿、黒い髪に綺麗な青い瞳。一瞬時東は見惚れた。気だるげな表情だった青年は、時東に気づくと顔を向け――満面の笑みを浮かべた。

「時東か。久しぶりだな。今、丁度お前の所に行こうと思っていたんだ」
「……ゼクス?」
「ああ」

 二次性徴前しか知らなかった幼馴染――背が伸びていて、自分よりは少しだけ低いがあまり変わらない。だが、そんな理性的な分析や、笑顔は昔と変わらないなんていう理解を吹き飛ばすような――カーンという鐘の音が時東の頭の中で響いた。最初、それがなんなのかわからなかった。呆然としてゼクスの微笑に見惚れたまま、時東は冷や汗をかき、そして相変わらず間を置いてカーンと鳴り響く鐘の音を聞いた。

「お前、帰ってくるとか言って、一回も帰ってこなかったんだからなぁ。過労死するなよ? ロードクロサイトは医学バカっていうのが、ゼスペリアの医師なみに、最下層にまで聞こえてくるからな。主に政宗から」
「ああ……気をつける」
「ライチジュースは無いのか?」
「ある」

 やった、と、嬉しそうに時東が復古した超カロリーの飲料をゼクスがコクコクと飲み始めた。本来ならば一口でお腹がいっぱいになる程なのだが、高IQの持ち主の中にはゼクスのようにカロリー消費が激しい人間がいるのだ。それにゼクスの病気も時東は詳しいことは聞いていないが、貧血や栄養失調を伴う場合があるというのも知っていた。

 冷静にそう考える理性と、胸の動悸、ジュースのストローを銜えるゼクスの唇の色気、艶やかな黒髪にも瞳にも、目が釘付けになっていて、相変わらず頭の中では鐘が鳴っている。そういえば――ザフィスに聞いたことがあった。ハーヴェストの血は、恋愛をした時に、頭の中で鐘の音が響くのだと聞いたことがあったのだ。恋愛に興味がゼロだったザフィスもそれで恋に気づいたとかなんとか聞いたことがあった。普段、ロードクロサイトの血ばかり意識しているが、思えば自分にもハーヴェストの血は流れているのである。

 だが、相手はあのゼクスだ。
 子供だ。ガキだ。バカだ。ついついいじめたくなるレベルのお子様だ。
 なのに、目が離せない。中身に変わっている気配はゼロだ。
 それがすぐにわかったのに、なのに何故なのか胸の動悸が止まらない。

 その再会以来、時東はゼクスを観察した。
 というよりも会いたくて仕方がないような不可思議な感覚だった。
 そんな自分が奇妙だった。

 これが恋であるのか、そこからして時東は悩んだ。
 なにせこれまでそういうのは面倒だった。
 だから肉体関係を持つ相手も遊人だとか、どちらかというと恋愛玄人ばかりであり、ゼクスのような、のほほーんとしたタイプは好みの範疇外だったのだ。なのに今は、ゼクスのことが頭から離れない。だが、これが、万が一、恋だったら?

 時東は思案した。現在でも、ゼスペリアのヤブの名は頻繁に聞く。
 何やら軍法院で橘と仕事をする場合があるらしく、主にその橘大公爵から聞くのだ。
 超理論で捜査をしているだとかで、爆笑しながら近況を聞いていた。
 ただ――その過程で、緑羽万象院若御院かつ朱匂宮当代の若宮だという出自を聞いていた。考えてみれば、ラフ牧師を名乗る鴉羽卿の初孫なのだから、それぞれの最新当主で当然だ。さらにザフィスの孫なのだから、ハーヴェスト侯爵家の長男である。どころか、クライス・ハーヴェスト侯爵は、ゼスペリア十八世アルト猊下の配偶者で、二人の間の長男がゼスペリア十九世なのだ。そこから考えていくと、ゼクスは、救済戸籍だからゼスペリア姓を名乗っているのではなく、救済戸籍保証家であるから、孤児の他に唯一略称でゼスペリアを名乗ることが許されているから、ゼクス=ゼスペリアと名乗っている可能性が高い。そこまで考えて、時東は決意した。

 まだこれが恋愛感情かどうかはわからない。
 だが、準備をしておくこと、これは時東の通常の行動だったし、今ならば、誰にも怪しまれずにそれが可能だと判断した。

「なぁザフィス、それにラフ牧師」

 ハーヴェストクロウ大教会の筆頭牧師室に、二人がいるのを見計らい時東は向かった。

「確かにザフィスが言う通り、今後について考えて、タイムクロックイーストヘブン=ロードクロサイト大公爵家を正式に継承して、後、ついでだから、ゼルリア特別枢機卿位ももらっておこうかと思うんだ。この辺で暮らすなら、教会も多いから」
「時東よ……! よく決意してくれた!」
「ああ、ただ、公表タイミングは俺に任せてくれ」
「わかった」
「それとな、どうせなら全方向で隙無しにして、左遷だのをされないようにしたいから、華族籍の、匂宮特別分家の黒曜宮家当主と、それって万象院特別分家の緋緑万象院家となるはずだろ? そっちも欲しいから、ラフ牧師、お願いできないか?」
「い、いや、別に構わないが……貴族や宗教院と違って儀式だのお参りだのがあるぞ?」
「ああ、その程度は問題ねぇよ」
「そうか! 時東がやる気を出してくれて俺もすっごく嬉しいから、すぐに準備する!」

 時東は微笑して頷いた。これで、大公爵家だからハーヴェスト侯爵家は抑えたし、特別枢機卿だからゼスペリア猊下との婚姻事例もあうし、万象院と匂宮もクリアだろう。時東のそんな考えなどつゆしらず、目の前の二人は普通に喜んでいた。


 これもまた、時東が最下層にいついた一つの理由だったのかもしれない。
 だがその事実は、まだ誰も知らなかった。