雪楼閣と旅人
一年中が冬の世界――雪が降る世界。
異常気象というのは、簡単だった。言っていたテレビも、映らなくなった。
全てが埋まって行く。
僕はソリに木箱とスコップを載せて、埋まってしまったショッピングセンターへと向かった。
嘗ては駅ビルだった場所だ。
もうこの区画にいた人々の多くは、南に退避してしまった。
数人はこの日野と多摩の間の街に住んでいるんだろうけど、僕は足跡以外見かけたことはない。今日は雪が降ってはいないが、白い空の中で光る太陽はどこかぼけていた。いつものことだ。
僕は雪をスコップで掘り、窓ガラスを叩き割って、中へと入った。
着地するのには最初こそ勇気が必要だったが、もう三年だ。
中へ入ってから見上げれば、雪で潰れた硝子もあれば、誰かが随分と前にガラスを割ったらしい痕跡もあった。僕がここに来たのは、初めてだ。
僕はめぼしいものをスポーツバッグに詰めて行き、最終的にはショッピング用らしいカゴを手にとってそこに品を詰めて行った。
僕は家に帰った。
帰宅すると猫がすり寄ってきた。
頭を撫でると、短く鳴いた。
どうしてこんな世界が訪れたのだろう。
僕はそう思っていつも眠る。
するとそこには、一人の青年がいて言うのだ。
「今日は火の魔術だ」
夢の中で僕はいつも、切れ長の瞳の青年と出会う。
僕の何かの象徴なのかもしれない。
だとしてもともかく、夢の中で青年はいつも言うのだ。
青年の名はイチジクだ。
「旅人が来るまでに、魔術を覚えろ」
今日もまた言った。
青年は僕の師匠を名乗っていて、僕を魔術師だと言うのだ。
皆南に逃げるのに、こんな雪が降る場所に旅人が来るなんて馬鹿げてる。
もしかしたら僕が誰かに会いたいからそんな風に思うのかもしれない。
だからこんな夢を見るのかもしれない。
とりあえず朝になり目が覚めるまでの間、僕は火の魔術の勉強をした。
そして目を覚ました。
僕の家は積もる雪を階段状にして、降りた先に、地下へと続くように作ってある。
イチジクはこの細長い地下を、雪楼閣と呼んでいる。
僕からすれば、僕の家だ。
勿論、雪で埋まってしまった、何らかの建物に勝手に住んでいるだけなんだけど。
僕は南に逃げなかった。
探していたからだ、無くした十字架を。
亡くなった弟が僕にくれたものだったから。
雪の中で落としたから、きっともう見つからない。
それでも今も僕は探している。
今日も外へと出て、雪かきを始めた。
昨夜は大雪だったが、今は止んでいる。
それを見計らって、僕は外へと出てきたのだから。
ため息を尽きながら遠くを見ると、高幡不動尊の屋根部分が盛り上がって見えた。
丘みたいになっている。
いつかあそこが雪で平らになったら、僕はもう雪楼閣の地上と地下を遮る扉の、つまりこの場所の雪かきを永遠にやめてしまおうかと思ってるんだ。
どうせ旅人なんて来ないから。
そう思っていたその時だった。
ザクリと、雪を踏む音が聞こえた。
慌てて視線を向けると、黒い髪が見えた。
それからすぐに、一人の青年が現れた。
「――こんな雪の中に人?」
青年が言った。
僕は、驚いて目を見開く。
「……旅人……?」
「ああ」
大きなリュックを背負った青年の姿に僕はうろたえていた。
――本当に、夢で見た通り、旅人が来たのかな?
まさか、そんなバカな。
「リクノというんだ。お前は名前は?」
「歩雪」
「アユキか。高校生か?」
「中学時代に雪に埋れたから、そのくらい」
「……そうか。図々しい話だけどな、少し泊めてもらえないか? 家、あるんだろ?」
「う、うん」
本当に旅人がきた。
僕の夢の通りだけど、これ自体も夢かもしれない。
それでもいい。
他者と話をするのは久しぶりだから、僕は幾ばくか緊張していた。
夢の中では別だけど。
僕の家の最上階――……窓を歪めて作った入り口から入ってすぐの部屋は、コンクリートの上に僕が板を張ったので、木造りだ。コンクリートは寒い。そして、小さな暖炉、木で作った簡素な机、椅子が二脚。家具と言えるのかはわからないけど、これしかない。暖炉はもともとあった。屋根裏部屋だったらしいから、しまわれていたんだと思う。床板の一角をあげて降りれば、下へ下へと続いている。
こうなるまでは一度も来たことがなかったけど、キリスト教がそれなりに普及し始めた時期に、高幡不動尊よりも少し低い、縦長の塔みたいな教会ができたから、その中が、この雪楼閣なんじゃないのかなって僕は思う。塔型の教会なんて始めて見たけど。それが日野と多摩の間だったんだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
僕が暖炉でお湯を温め淹れたコーヒーを、旅人さんが手にとった。
旅人ということは、何処かを目指しているのだろう。
僕はその時ハッとした。
ならば旅人さんは、ここに泊まったあと、また何処かへ行ってしまうのだろう。
僕はこれまで多分旅人を待っていた。
だけどもう待つ必要はないのだ。
これからどうすればいいんだろう?
だけど、旅人さんの目的を、何と無く応援したくなった。
「どこを目指しているんですか?」
「……笑わないか?」
「はい」
「夢を見るんだ」
「夢?」
「俺は探してる。独りぼっちの……魔術師を」
僕は首を傾げた。魔術師なんていない。白いヒゲの生えたおじいちゃんだろうか?
そもそも日本には、陰陽師はいるかもしれないけど、魔法使いなんていないんだ。
思わず苦笑してしまった。
「ーー笑わないって言っただろう」
不貞腐れたようにリクノさんが横に立っていた僕から顔を背けた。
なんだかそんな様子が少しだけ可愛かった。
黒い髪に少したれ目。童顔というわけではないのかな。
背は僕より頭ひとつ分高い。
大学生くらいに見える。
「見つかるといいですね」
「まぁな。夢を信じて旅をしてるなんて馬鹿げてるかも知れないけど……夢で見るんだよ、一人で十字架を抱きしめて泣いている姿を。そうしたら、いてもたってもいられなくなって」
十字架を無くしてしまった僕は、少しだけその魔術師が羨ましかった。
「十字架は見つけたんだ。俺は多分、魔術師も見つけたんだと思う」
「そうなんですか……」
「ああ」
じゃあ彼は魔術師に会いに行くのだろう。
ただ、十字架を見つけただなんて、矛盾した夢だなと思った。
ただ僕だって似たり寄ったりの夢を見ているんだから、何も言えない。
「そのために、俺は剣士になろうと決意した」
「剣士?」
「今じゃ、俺が出てきた南では、TSYウイルスの感染者は、人間ではなく、魔族と呼ばれている」
TSYウイルスとは確かにニュースで見た限り、それこそゲームに出てくる魔物みたいに人間や動物の体を変化させ、理性を失わせるものだったと思う。過去の記憶だから、あっているかはわからないけど。
それにしてもわざわざ南に逃れられたのに、ここまで来るなんて。相当魔術師に会いたいんだろう。
「だから、剣で倒してるんだ。銃弾はすでに尽きて、誰も作れない。文明は退行しているんだ。このままじゃすぐに滅びる。俺はそんな未来は許容できない」
「そうなんですか……それで、剣を……刀じゃなくて?」
「鍛治師の趣味なんだろうな。それから、YーER72ウイルスの罹患者……ようするに超能力者は、剣士や魔術師と名乗ってる」
こちらは人間の潜在能力を引き出すと言われるウイルスだ。
南は随分とRPGな世界になっているだなぁと思った。
「じゃあ、本当に剣士なんですか」
「ああ。イチジクという名の賢者に、夢の話をしたら旅に出るようにと言われたんだ」
「え?」
イチジクは、僕が夢の中で会う青年の名前だ。
僕に夢の中で魔術を教えてくれる、自称師匠と同じ名前だ。
「この十字架に見覚えはないか?」
そう言うとリクノさんが一つの十字架を机の上に置いた。
思わず僕は目を瞠った。
それは――僕の弟の十字架だったからだ。
「え、あ」
「あるんだな」
「う、うん」
「手に取れ」
僕はその言葉とほぼ同時に、手に取り抱きしめていた。
握りしめ、胸にその手を引き寄せたら、気づけば涙が出てきていた。
「もう、泣くな。俺はこの光景を何度も何度も、何度も夢に見たんだ。まさか自分が拾うとは思わなかったけどな。泣かないでくれ、辛いんだ、けどな――」
その時僕は旅人に抱きしめられた。違う体温に、苦しくなった。
自分以外の体温だなんてもう随分と前から、感じていなかったから。
すると強く抱きしめられて、頭を撫でられた。
「一目で分かった。お前が魔術師だって」
「だけど僕……」
「魔術師じゃなくてもいい。お前が泣いてると、毎夜毎夜、すごく辛くて胸が苦しくなるんだ」
それからしばらくの間、僕は抱きしめられていた。
そして一週間くらい、旅人は泊まった。
そんなある日だった。
「一緒に南へ行かないか?」
僕は、体をつなげた彼のことが、多分もう好きになっていた。
リクノさんしかここにいないからかもしれないし、彼の気持ちなんてわからなかったけれど。
たった一週間なのに、一緒に食事をして、僕が自作したチーズやベーコンを褒められて嬉しくなった。魔術を夢の中で習った時に、その場所でイチジクが教えてくれた通りに作ると、なぜなのか次の日、冷蔵庫にその品が入っているのだ。
ーーだけど。
これ以上一緒にいてもっと好きになって行くのが怖い。
同じくらい南に行くのも怖かった。
だって僕はもう何年もここで暮らしてきたからだ。
「……」
「行かないっても連れて行くけどな」
「!」
そう言った旅人に深く深く口づけをされた。
そうして僕もまた旅人になった。もう選択肢なんてなかった。
これが雪楼閣のおとぎ話だ。
二人がそれぞれ、剣士の祖、魔術師の祖と呼ばれるようになるのは、もう少し後のことである。それは異常気象が終わり、雪が消えた頃のお話だった。