【*】黒猫




 ――黒猫が目の前を横切ると、不吉だと聞く。

「可愛いな」

 しかし、そんな迷信を俺は信じない。比較的、俺は動物が好きな方だ。なのに動物達は俺を避ける。けれど――特にこの黒い街猫は率先して俺の前を横切っていく朝が多いから、俺の心の癒しの一つだ。

 そんな事を考えながら、葬儀の帰り道、和装姿でそっと俺は屈んで手を伸ばす。
 俺の指先を舐めた後、猫は静かに通り過ぎていった。

 横切るというより、俺の後方へ。視線だけで振り返り、それを見送ってから、俺は歩みを再開した。

 そして、俺の中の天使であるローラがいる、絢樫Cafe&マッサージへとまっすぐ向かった。繰り返すが、『天使』だ。

 その天使に対して、俺は邪な思いを抱いている(多分)――なにせ最近のオカズ……夜のネタは、ローラばかりだ。

 ……俺って、同性愛者だったんだろうか?

 断じて違うと思う。慌てて首を振ると、髪が揺れた。そろそろ切りに行こうか。
 やはり、見た目は重要だ。特にローラのような美青年(天使)の隣に立つならば。
 って、あれ、いや、違う、隣に立つって俺の思考、止まれ!

 これじゃあ、完全に恋煩いだ。

 客と店員の恋は、世の中にはありふれているのかもしれない。だが、同性同士の客と店員の恋は、決して多くはないというか……想われている側が困惑すると、俺は確信している。きっと俺の気持ちを告げたら、最悪出禁――ローラは俺を避けるだろう。

 嫌だから待て、俺。俺の気持ちって……。

 思わず俺は、頭を抱えた。完全にこれは、恋だ。
 そう考えると、酷い胸騒ぎに襲われ、体が震えた。
 ドクンドクンと煩い心臓、ローラの天使のような笑を思い出すだけで熱くなる俺の頬。

 ――反して、嫌われたくないから、この気持ちは絶対に一生しまっておかなければならないとも思ってしまう。

「恋って辛いんだな……あ」

 ついに俺は、口に出してしまった。完全に、『恋』と口走っていた。
 ここまで来たら、認めるしかない。
 俺は、ローラが大好きらしい。

 すっかり恐怖が消えた絢樫Cafe&マッサージに到着した俺は、いつもより別の意味で緊張しながら、少しだけ憂鬱な気分と、けれどそれを越えるローラに会える嬉しさを、同時に胸に抱きながら、扉に手をかけた。

「いらっしゃいませ、Cafeですか? マッサージですか?」

 すると砂鳥くんが、いつもと同じように声をかけてくrた。
 俺はこの店で珈琲を飲んだ事は無い。
 だから俺もいつもと同じように、『マッサージ』と答えようとした。

「藍円寺さん、いらっしゃいませ」

 ローラが顔を出したのは、その時の事だった。ひょいと店の奥から顔を出したローラを見た瞬間――俺は口走っていた。

「好きだ、ローラ!」

 ……え?
 ……あれ?

 押し殺すはずだった恋心を、俺は明確に口に出していた。告白していた。
 俺の言葉に、ローラが猫のような瞳を丸くしている。

 その時、何故なのか、最近毎朝俺の指を舐める黒い街猫の瞳が、俺の脳裏をよぎった気がした。

「――そこまで俺のマッサージを気に入って頂けて嬉しいです。さ、こちらへ」

 するとローラが柔和に微笑した。
 ……。

 ま、まぁ、普通はそう捉えるよな――そう考えたら、俺は思わず真っ赤になってしまった。気づかれなくて良かったという思いと、口に出した途端これまでよりも募ってきた恋情で、俺の頬は非常に熱い。表情を見られないように、俯いて誤魔化す。

「――俺の事が好きなんだろ? 『そうだろ?』――早く来い、『命令』だ」

 その時、ローラの声がした。
 すると、何故なのか俺の思考がぼやけた。
 これは――”いつもの事”だ。ああ、いつもの夢が始まるらしい。

 奥の寝台へと手を引かれながら、これから俺は、『いつもの通り』の夢を見るのだと、直感的に理解していた。マッサージが終わると、必ず忘れてしまう、幸せな夢だ。

 ローラが俺を抱きしめる。
 ――その時、砂鳥くんの声を聞いたように思った。

「ローラって、本当に悪魔だよね」
「ん? 俺は吸血鬼だ」
「性格が」
「――どういう意味だ? 俺以上に優しく巧みな愛撫をする吸血鬼はいないと思うぞ」
「藍円寺さんが、僕や他のお客様がいる、公衆の面前で、いきなり告白するなんて……一体何をしたの?」
「別に? 俺は吸血鬼だから、猫にも変身可能ではあるが、それが何か? 他の客は、何も聞いた記憶が無いらしいが? そういう『暗示』をかけてやった」

 ニヤリと笑ったローラが、俺の顎を持ち上げる。

「藍円寺が歩いている所に通りかかったのはたまたまだ。確かに、『俺に気持ちを伝えろ』とは『思った』けどな」
「ローラが強く思ったら、自動的に暗示が発動するんじゃないの? ああ、けど」
「なんだよ?」
「――気持ち、かぁ。気持ちは変える事が出来ないし、藍円寺さんも、本当にローラの事が好きみたいだね。外見からは想像もつかないけど」
「外見からも想像できる。俺を見ると、真っ赤だろうが?」
「ローラのそこまで嬉しそうな顔は、僕久しぶりに見たよ……お幸せに」
「言われなくてもな」
「天使の外面の中身が悪魔ってバレないようにね」
「うるさい」

 二人のやりとりは、曖昧模糊とした意識の俺の耳には、上手く入っては来ない。
 ただ、ひとつだけ、強く理解している事がある。
 俺は――……。

「ローラ……好きだ」

 ……――ぽつりと俺が呟くと、ローラが不意に動きを止めた。
 短く息を飲んでいる。
 それから――俺の腕を引き、ローラが俺を抱きすくめた。

「俺はあんまり言わない。だから、一度だけ言う。とりあえず、一度だけ」
「……」
「俺も好きだ。二度目は――悪魔の俺を受け入れた頃、きちんと意識がある時に言ってやるよ」

 耳元でそう囁かれた後――そこから、俺の意識は完全に不清明になった。


「終了です」

 いつもの通り、肩をバシンと叩かれて、俺は我に帰った。
 また夢を見ていたように思うが、それがどんな内容だったかは思い出せない。

「またのご来店をお待ち致しております」

 そう口にしたローラに見送られ、俺は店を後にした。
 しばし歩きながら――ふと、脳裏に声が響いた。

『俺も好きだ。二度目は――』

 確かにローラの声だった。これは、何だろう?

「いやいやいや、俺ってまさか、恋煩いが酷すぎて、妄想か? 幻聴か?」

 焦って、一人恥ずかしくなり、片手で唇を覆う。
 再び赤面した自覚があるので、長めに目を伏せて瞬きをした。

 次に目を開けると、マッサージに出かける前にも俺の前を横切った黒猫が、再び俺の前を横切った。そのどこか紫味がかかって見える瞳が……よく見ると、ローラによく似ている。緑色だと理解しているのだが、どことなく菫のような色彩の光が入り込んでいるように見える。

「やっぱり、可愛いな」

 屈んだ俺は、それから猫を暫しの間見据え、その後、空を見上げた。
 真っ青な空は、快晴だ。

「いつか、ローラに告白できたらいいのにな」

 そう無意識に呟いた時、何故なのか告白した自分の姿が脳裏を過ぎったが、そんな現実は存在しない。


 ――この時の俺は、まだ、ローラが人間であると疑っていなかった。