名案






「どう思いますか?」
「いやね、どうと言われても」

 試験管を片手にしていた雲中子は、申公豹の問いに、気だるげに返答した。申公豹はこのようにして、時折雲中子の洞府を訪れる事がある。それは申公豹が許由と呼ばれていた頃を、雲中子が知っているからかもしれない。

 申公豹が持ってくる話は、主に二種類だ。
 退屈な話か、すごく退屈な話である。

 前者は申公豹が熱心な古代の残滓に纏わる事柄で、雲中子は聞き流している。
 ――同様の推測を生態学的に行った事もあるが、どちらかといえば雲中子は過去よりも、現在目の前にいる人間の体に大しての方が興味深かった為、すぐにその研究は中止した。元始天尊から釘をさされたという理由もあるが、そちらは特別記憶してはいない。

 後者は、太上老君に関する話だ。
 申公豹の師である老子の事は、雲中子も知っている。なにせ、三大仙人の一人だ。それ以外にも、怠惰スーツが理由で、ごく稀に、夢を伝ってメンテナンスを頼まれる事がある。八割くらい、『太乙に頼んで欲しい』と心の中で念じているが、生命維持装置部分に雲中子の技術がいるので、仕方が無い上、断れない。

 自分の道を進んでいる雲中子ではあるが、それでも一応気を遣う場面は存在する。

「老子は、私を一体なんだと思っているのでしょうか」

 本日は、『すごく退屈な話題』の方だった。試験管を置きながら、傍らのコーヒーサーバーを見て、雲中子は珈琲が入った事を確認する。

「弟子だろう?」
「ですから、それはそうなのですが、ええと……」

 申公豹が言いたい事は、よく分かっている。手を洗ってから、サーバー脇のプラスティックのカップを二つ手に取り、取り出したポットから珈琲を二つ分淹れる。それを台を挟んだ向こうにいる申公豹の前に一つ置いた。

「有難うございます」

 勝手に丸椅子に座している申公豹であるが、基礎的な礼儀はしっかりしている。幼少時には、そこそこは老子も修行させたのだろうと雲中子は判断している。ただ服装指南をしなかった点は、頭を疑っている。雲中子はシンプルな道服の方が好きだった――が、この崑崙山には、一風変わった様相の者など大勢いるから、それすらもどうでも良い。

「どういたしまして」

 雲中子は回転椅子を申公豹と対面する位置まで動かしてから、そこに座って膝を組んだ。そしてカップを傾けながら、嘆息する。

「老子が何日起きないって言ったっけ?」
「もう三日です」
「私が知る太上老君という人物は、平気で数百年単位の睡眠を取るけれどねぇ」
「でも今までは、私が桃源郷へ戻れば、目を覚ましてくれました」
「ふぅん」
「そうでない場合は、夢を介して言葉をくれました」
「そう」

 気のない返事をする雲中子の前で、申公豹が続ける。

「なのに今回は……三日前に私が、『お揃いの服が着たい』と、『だから私と同じ服を着て欲しい』と、そう述べた結果、『無理』と言われて、趣味が悪いと指摘された気分になった私が、思わず苛立ち、雷公鞭を揮った結果……怠惰スーツが僅かに汚れ、老子は明らかに苛立った顔をしたのです……以来、三日。出てきてくれません」

 痴話喧嘩である。

「ああ、そう」

 ――申公豹とのペアルックがお断りであるというのだから、老子には相応の服装センスが備わっているのだろう。実際洒落ている道着だ。そんな事を、雲中子は考えていた。

「雲中子」
「なんだい?」
「私がこの説明を繰り返したのは、ここへ来てからもう三度目なのですが?」
「ああ、ね。さすがに三回目だから、こうして実験を中断して、真面目に聞いてみようと座ったんだよ」

 嘘だ。単なる息抜きに、珈琲が飲みたくなっただけである。

「それで、どう思いますか?」
「あの怠惰スーツに汚れをつけるなんて、雷公鞭の威力はやはりすごいね」
「そうではありません。そこではありません」
「今日は、黒点虎は?」
「久しぶりの崑崙山ですから、玉虚宮に顔を出しに行きましたよ」
「なるほどねぇ」

 頷いてから、雲中子は珈琲を口に含む。申公豹は深々と溜息を吐いた。

「そのような些細な事で怒るなんて、老子の心は狭すぎると思いませんか?」
「結論が出ているじゃないか。申公豹は、自分のせいで老子が怒っていると思っているんだろう?」
「それは……そうですが……やはり、そうなのでしょうか? 客観的に、そう思いますか?」
「客観的に言えば、眠いだけじゃないかと私は思うけどねぇ」
「眠くても、老子はこれまで起きてくれたのです。ですから三日前――」
「私も確かに聞いていなかったけど、申公豹もしつこいくらいに繰り返すねぇ、その話題」

 辟易しながら雲中子は、ひきつった顔で笑った。申公豹はカップの中身をじっと見て、唇を尖らせている。本当に奇抜だよなぁと雲中子は、その服装を眺めていた。老子がこの格好をする姿……ちょっと上手く想像出来ない。では、逆ならば?

「申公豹。老子と同じ道着を身につけてみたら?」
「何故ですか?」
「それだってお揃いとなるじゃないか」

 我ながら名案だと雲中子は考える。道化のような化粧も施さず、すっぴんの方が、申公豹は美人だ。化粧をしていてなお、それなりに見られる顔であるほどなのだから。老子も大概美形であるが、申公豹も良い線を行くだろう。

 別段面食いでは無いが、顔面造形の審美眼くらい、雲中子にもある。

「仮にそうしたとしても、老子が目を覚まさなければ、見せる機会が無いではありませんか」
「いつもと違う君の気配を察知したら、起きるんじゃない?」
「私が思うに、怠惰スーツが元通りになれば、目を覚ますと思うのです。よって雲中子、メンテナンスをして下さいませんか?」

 申公豹が深刻そうな顔をした。そして涙ぐむような顔をわざと作りながら、それとなく雷公鞭を持ち上げた。明確な――脅迫である。

「……あ、うん。ま、まぁそれは構わないけれどねぇ」

 実験設備を壊されては叶わない。雲中子の同意を得ると、笑みを浮かべた申公豹が珈琲を飲み干した。



 その日の午後、雲中子は桃源郷へと向かった。靄を抜け、里を見る。長閑な羊の群れを目視し、怠惰スーツの橙色を眺めた。遠くから見る限り、怠惰スーツに汚れなど見えない。

「近くで見てくるから、とりあえず申公豹は着替えたら?」
「嫌です」
「たまには、君側が合わせてみるというのも、重要なんじゃないかい?」
「っ……た、確かに老子は、いつも私に合わせてくれるといいますか……それ以外が面倒である様子ではあります……でも……」
「仲直り、したいんでしょう?」
「……」

 申公豹は暫しの間、思案するような顔をしたが、最終的に渋々と頷いた。それを確認してから、雲中子は怠惰スーツのそばへと歩み寄る。よくよく見てみれば、ほんの僅かに傷がついていて、そこに土が入り込んでいるようだった。機能には、異常が無さそうである。

「雲中子」

 その時、太上老君のホログラムが出現した。一瞥した雲中子は、『なんだ、起きてるじゃないか』と、無駄足だった事を確信した。

「すぐに申公豹を止めてきてもらえる?」
「何故ですか?」
「貴方は大きな勘違いをしているよ。申公豹の服装センスを咎めない事には、私なりの理由がきちんとある」
「一体それは、どんな深遠な理由でしょうか?」

 一応丁寧に雲中子が問うと、老子が細く長く吐息した。それから答える。

「――申公豹は、美人なんだよ? 素顔を目にしたら、皆が惚れてしまうかもしれないでしょう? 雲中子はそうなった時、責任を取ってくれるの?」

 その言葉に、雲中子は思わず半眼になった。

「惚気は午前中にも充分聞いて、もう満腹なんですが。そんなに大事なら、老子が申公豹と同じ格好をしてあげれば良いのでは?」
「……」
「まぁ、事情は理解したので、老子が起きた旨と、着替えは不要という件、伝えてきますけどねぇ」

 沈黙してしまった老子を置き去りにして、雲中子は先ほど申公豹と別れた邸宅前へと戻った。そして扉を開けて中へと入り、そこにいた黒点虎に伝言を頼む。老子が起きたという知らせに、黒点虎は既に知っていたようで楽しそうな顔をしながら頷いた。まだ申公豹には伝えていなかったらしい。

 そのまま雲中子は、何度か足を運んだ事がある為、勝手が分かる室内で、テーブルの前に座る。するとすぐに上階から、申公豹が降りてきた。何気なく視線を向けた雲中子は、肩目を細める。

「申公豹」
「なんですか? 今、急いでいるのですが」
「いつもの化粧姿を老子は、お望みみたいだよ」
「――え? どういう事ですか?」
「普段の申公豹が好きみたいだったんだよねぇ、老子は」
「す、好き? 貴方にそう述べたのですか?」
「どうだったかなぁ、忘れてしまったよ」
「肝心な所です、思い出して下さい」

 申公豹が雷公鞭を握り締めたのを見たが、雲中子は目を伏せて、見なかった事にする。脳裏に、老子の声が響いてきたからだ。

『さっきの話、全てそのまま伝えたら、私は貴方を許さない』

 ……。
 きっと、照れくさいのだろう。しかし申公豹を敵に回すのも恐ろしいが、老子はそれ以上だ。腕を組み、雲中子は言葉を探す。

「……恋愛感情かまでは、聞いていないよ。ただ、自然体の弟子が、自由な格好をしているのが好ましいというニュアンスだったかな。それよりも、急いでいるんだろう? まだ怠惰スーツを直していないから、私も行くよ。とりあえず申公豹は、顔を元の通りに」

 雲中子は必死に換言した後、話を変えた。そして立ち上がり、先に邸宅を出た。申公豹のメイク時間に僅かに好奇心を抱いたが、修理に来たと言った手前、相応に行わなければならないだろう。

 羊の群れのそばに戻れば、生身の老子の姿がそこにはあった。

「よろしくね」
「ええ。終わったら、お知らせしますか? 帰っていいですか?」
「帰って良いよ。申公豹と一緒にいるから」
「そうですか。所で、どのように仲直りをするんですか?」
「良い考えを三日かけてひねり出したんだ」
「参考までにお聞かせ下さい」
「お揃いの格好なら、お互い脱げば、同じじゃないかと考えたんだ」
「そうですね。人体の構造は、多くの場合、皆腕が二本で足も二本、頭部や胴体がありますからね」

 頷いた雲中子は、確かに己の導出した案より良さそうだと判断したが、恋人同士らしき二人が、果たしてその姿で対峙して、それだけで済むのだろうかと漠然と思った。だが、知った事ではない。他者の夜に、興味は無い。

 邸宅へ向かい浮遊し進んでいく老子を見送ってから、雲中子は怠惰スーツを修理した。
 そうして黒点虎に送ってもらい、終南山へと帰宅したのだった。




 【END】