普賢による楊戩の観察
哮天犬の背に乗り、その白い毛並みを楊戩は撫でた。
艶やかな青い髪を後ろでまとめてはいるが、仙人界の風が彼の髪を揺らしている。
穏やかな昼下がり、楊戩は師である玉鼎真人の使いを終えて、少しの間崑崙山の空を楽しむ事に決めていた。心に余裕を作る為には、穏やかな時間を持つ事も大切だと、教えてくれたのは他でもない玉鼎真人である。
――そうは言っても、意識的な息抜きとは難しい。
根が真面目な楊戩は、実際には玉鼎を心配させないように、このように時間を潰しているだけだとも言える。
「ん?」
その時、一枚の紙が風に乗って流れてきた。反射的に掴んだ楊戩は、何気なくそこに記されている数学的な設計図を見て、小さく息を飲む。そこに記述されている内容が宝貝の設計図である事はすぐに理解したが、それはまるで一枚の絵、あるいは写真のように美しかった。達筆な文字で緻密に綴られている難解な数式。だがその全体像に目を留めれば、一種の芸術作品のようにさえ見える。
「これは……」
薄い紙が飛んできた方角へと、楊戩が視線を下ろす。
すると木漏れ日の下で穏やかに目を伏せている、一人の青年の姿が目に入った。
無論仙道の年齢は外見からは推測が難しいが、『人間』に照らし合わせるならば、という話だ。
――人間。
ふと思い浮かんだ言葉を、楊戩はすぐに脳裏から抹消した。それから再び紙に視線を戻す。すると先程の鮮烈な印象とは異なり、急にその図面が色褪せて見えた。宝物が手の内で朽ちていくような錯覚に襲われた為、楊戩は頭を振る。
その後そっと、哮天犬の頭を撫でて、地へと降りる事にした。
陽だまりの中で眠っている人物を起こさないように、気配を殺して、その横顔を窺う。傍らにはスケッチブックが広がっていて、そこにもまるで絵画のような宝貝の草案が広がっていた。鉛筆が緑の茂みの上に落ちている。
「ん……望ちゃん……?」
響いてきた名前を聞いて、起こしてしまったかと、内心で僅かに焦る。しかしそれからすぐに、また健やかな寝息が聞こえてきたから安堵して、楊戩はスケッチブックの間に、飛んできた紙を挟んだ。早く、帰ろう、と、楊戩は考える。
「あれ?」
しかし不意にぱちりと青年が目を開けた。
「――こちらの紙が飛んできたもので、もしやと思い」
「そうだったんだ、有難う」
穏やかに微笑んだ青年は、それから優しい色を瞳に浮かべた。
「初めまして。僕は普賢真人」
「玉泉山は金霞洞門下の楊戩です」
普賢、という名前を音に出さずに舌に載せ、楊戩もまた笑顔を浮かべた。同時に思考を素早く巡らせて、師である玉鼎から話を聞いた事がある、十二仙の一人だと考える。楊戩の出自に関しては秘匿されているから、十二仙といえど知っているとは思えない。理性的にそう判断した楊戩だが、それでも露見したらという嫌な不安に囚われそうになる。
「どうかした?」
「いえ……折角記した設計図が無駄にならず済んで良かったなと考えていただけです」
「本当に?」
「え?」
「なんだか思い悩んでいるように見えたから」
何気ない普賢の一言に、内心を見透かされたように感じて、楊戩は居心地の悪さを覚えた。他者に弱さを、見せたくは無かった。
「心配して頂く事は有難いですが、僕に問題はありません。少し――日差しが暑いのかもしれませんね」
話を変える事を選択した楊戩が、それとなく空を見上げる。すると普賢もまた、天を仰いだ。
「お礼とお詫びをさせて欲しいから、日が沈むまで洞府に来ない?」
「礼は不要です、が……お詫びですか?」
「いきなり不躾だったかなと思って。ごめんね」
するりと普賢は謝罪した。いよいよ居心地が悪くなり、楊戩は目を伏せて軽く首を振る。
「結構です。気にしておりませんので。それでは、普賢様。またどこかで」
「うん。また、いつでも来てね」
これが、楊戩と普賢の最初の出会いだった。
この日普賢は、哮天犬の背に乗り空へ消えていく楊戩の姿を、いつまでも眺めていたのだった。
風を感じ、気配を感じ、日の温かさを感じ――普賢は、時に木陰に立っては、木漏れ日に触れる。大自然を感じる時ほど、そこに働く規則性、専門分野の物理学への造詣が深まるような感覚になる。両手を広げて、酸素をゆっくりと吸い込み、木の葉の合間から零れてくる光を愛でる時、そこに流れる緩やかな時間を愛おしく思う。
「もう、来ないのかなぁ」
空を眺めていた普賢は、結局あの後、一度も楊戩が通りかかる事すら無かった為、それを時折思い出していた。確かに寂しそうな顔をしているように見えた道士の表情が、心に焼き付いている。
――あの時、楊戩は……本当は何を考えていたんだろう?
知りたい、と。
普賢はそう感じている。初対面の人物に心情の吐露を迫るのは、余計な気遣いだとも感じはしたが、それよりも強い衝動が働いていた。ただ、知りたかったのである。単純な好奇心では無い。だが、研究対象へ抱く知識欲とも異なる。放っておいてはいけないような、そんな気がしていただけだ。放っておいたら、一生後悔するような予感があった。
「僕が会いに行ってみようかな。不要だとは言われたけれど、お礼をするというのは、とても良い口実だとは思わない?」
一人、囀るように普賢が言葉を紡いだ。その流麗な声音は、風に溶けていく。
普賢が玉泉山へと向かったのは、翌日の事だった。
黄巾力士を降りてから、普賢は金霞洞の玄関へと向かう。昨夜の内に、白鶴童子に伝言を頼んでいたから、待っていた玉鼎は自然と普賢を出迎えた。
「楊戩と会ったそうだな」
「うん。お礼がしたくて」
柔和に微笑んだ普賢を見て、玉鼎は頷いて中へと促す。静かに玉鼎の洞府を進んでいくと、お茶の用意をしている楊戩の姿が視界に入った。楊戩の表情は明るく、先日見せたような翳りは無い。それを目にして、気付くと普賢は、思わず長く吐息してしまった。先日の表情が気のせいだったとは、決して思わないが、今憂いが晴れているのであればそれは幸いだと感じる。
「ご無沙汰致しております、普賢様」
「この前は、有難う」
「普賢、かけると良い」
玉鼎の言葉に、普賢が頷く。それから玉鼎へと振り返った。玉鼎は立ったままだからだ。
「すまないが、諸用がある。外せないものでな。応対出来なくてすまない」
「ううん、気にしないで」
「楊戩、失礼が無いように」
「はい」
こうして玉鼎はその場を後にした。
玉鼎なりに、友達らしい友達がいない楊戩への来客に対して、気遣いをした結果の『諸用』でもある。その配慮を知らないまま、普賢と楊戩は再び顔を合わせた。
「逆にお気遣い頂いてしまいまして」
「ううん。そうだ、これ。お礼の仙桃なんだけど、良かったら」
「有難うございます」
お互い笑顔だった。だが普賢は、決定的に、自分達の間に壁があるのを悟った。楊戩は師に言いつけられた通りに、『礼を欠かないように』しているだけであり、己もまたそもそもの用件を解消出来そうに無い。あの表情の理由を、尋ねる事も知る事も出来ない。そんな空気感の中、白々しい雑談と上辺だけの笑みが室内にある。
しかし楊戩に距離を取られている理由が分からない。
――いいや、誰に対しても、線引きをしているのかもしれない。
このようにして、普賢による『楊戩の観察』は始まった。
まずは、話をしてみよう。楊戩という人物を、深く知ってみよう。内心で、普賢はそう念じ、その為の話題を考える。普段であれば、自然と言葉は零れてくる。けれど明確な距離が、それを許してはくれない気がしていた。
「何か?」
暫く話した所で、普賢が沈黙した為、楊戩は首を傾げた。隙の無い笑顔を浮かべたままで、当人としては、普段通りの自分を演出しているつもりだった。会話を振り返ってみるが、当たり障りの無いものばかりであったし、普賢の機嫌を損ねたとも思えない。
「緊張」
「え?」
「違うな……潜在的敵意……これも違う」
「普賢様?」
「萎縮では無いようだし……怯え、怯え? そうだ、それかもしれない」
普賢がブツブツと呟くのを見て、楊戩は目を眇めた。慌てて、露骨になってしまった事を後悔し、表情を取り繕う。
「まさかそれは、僕の話では無いですよね?」
「どうして?」
「質問に質問を返さないで下さい」
「僕は常に、『どうして?』のその先の『どうして?』を探して生きているんだ。ごめんね」
「今度は何に対する謝罪ですか?」
「勝手に、君の事を知りたいと思ってしまった事に対しての謝罪だよ」
普賢が不意に、ふわりと笑った。その言葉と表情に、虚を突かれて楊戩が息を飲む。
楊戩にとって、『自分を知られる事』は、回避すべき忌むべき事柄であり、恐怖の対象ですらある。そのはずだった。だが、初めてこの瞬間、他者に『知りたい』と告げられて、それがあんまりにも自然と心に響いてきたものだから、思わず楊戩は胸を掴まれた心地になった。
「どうして、僕の事を?」
「知りたいから、それが理由ではダメかな?」
「僕は残念ながら、『どうして?』への回答は、更なる疑問では無く、明確な言葉を欲する方なのですが……」
答えながら楊戩は、自分の頬が若干熱い事に気がついた。
「今言える事としては、楊戩の事が気になるから、かな」
それを耳にし、今度こそ、楊戩は照れずにはいられなかった。片手で口元を覆う。
これではまるで、愛の告白だ。真っ直ぐに、こんな風に好意を向けられた記憶が薄い。楊戩はモテこそすれど、どこか近寄りがたく、ファンは多くとも特定個人と親密になれるタイプでは無かった。だからこそ、動揺せずにはいられない。これでは、逆に自分の方こそが、普賢真人という人物を気にしないではいられなくなってしまうと、嫌でも思わされた。
「僕は、君の事が好きみたいだ。だから、もっと話がしたい」
無論、普賢にはこの時、恋愛的な意図など一切無かった。
ただしこの一言が、その後の二人の関係を変える契機となる。
――以後、普賢は時折金霞洞へと顔を出すようになった。そんな時は、決まって玉鼎は玉鼎なりに気を利かせて、席を外す。結果として、普賢と楊戩は二人きりで言葉を交わす事になる。
当初楊戩は、それが煩わしくもあった。無難な世間話は、そこまで多いわけでは無かったからだ。
なお、ゆるやかに、普賢は楊戩に対して、零れてくる言葉を自然と放つようになっていった。目で見える場面はあまり変化しなかったが、普賢には、少しずつ距離が埋まっている事が理解出来て、純粋に嬉しかった。
「嬉しい」
だからある日、自然とそれを、言葉にした。すると楊戩が不思議そうな顔をする。
「何がでしょうか?」
「楊戩と話せる事が」
「だからどうして貴方は……その……」
楊戩もこの頃になると、普賢の側には恋愛的好意が介在していたわけではないと、明確に理解していた。寧ろ、やはり気になるようになってしまったのは自分の側だったと嘆く日さえある。天然のタラシとでも言うしか無い、と、心の中で毒づいてみる場合さえある。
だが天使のような普賢を目にしていると、そんな自分の内心の方が、誤っているといつも自覚し、逆に自己嫌悪する日もあった。
「僕はやっぱり、楊戩の事が好きみたいだよ」
ある日、そう聞いて、こら切れなくなってテーブルに音を立てて楊戩は手を突いた。乱暴な楊戩というのも珍しい。驚いて普賢が眺めていると、歩み寄った楊戩が屈んだ。
「僕も、貴方の事が好きです」
「本当? 好きになってくれて有難――」
楊戩が普賢の唇を掠め取るように奪ったのは、その時だった。普賢が目を見開く。
「ただし、僕と貴方では意味が異なります。僕の方は、こういう意味です。もう、分かりましたよね?」
先に陥落したのは、楊戩だった。
唇を両手で押さえた普賢は、まじまじと楊戩を見上げた後――瞬間的に真っ赤になった。
「それって……」
「……」
「……楊戩は、僕の事、あの、その……そういう意味で……」
想定外の出来事に、普賢の心臓がドクンと啼いた。羞恥に駆られ、楊戩の顔を見ていられなくなり、普賢はギュッと目を閉じる。それが更なる口付けを強請っているように見えたが、気のせいだと理性的に理解し、楊戩は顔を背けた。またキスをしたくなってしまう自分を制する。
「……」
普賢は長い間沈黙していた。真っ赤のままで、僅かに肩を震わせながら。
それからゆっくりと双眸を開ける。
――考えてみれば、最初から気になっていた。今ならば、その理由が理解出来る。ただ寂しそうな表情の理由が知りたかっただけ、では、きっと無い。空を見上げる度、楊戩の事を思い出していたのも、きっと……惹かれていたから、と。
普賢は己の内心に結論づける。恋は理屈では無い。最初から、直感があった事も想起する。喪ったら後悔するという、確かな直感が。
「これ以上ここにいるというのであれば、容赦なく襲わせて頂きます。どうぞ、お帰り下さい」
「どうして?」
「どうして、って……」
「両思いだって気がついたのに、どうして帰らないとならないの?」
勇気を出して、普賢が声を上げた。すると驚いた顔をした後、楊戩が苦笑する。
「僕は、貴方の『知りたい』にも『どうして?』にも、答える事が出来ません。普賢様、貴方は隠し事をする恋人でも――……」
……良いのか、と。付き合ってくれるのか、と。言いかけてから、楊戩はそんな己に戸惑った。自分の出自を明かす事は決して叶わない。でも、自分を知って欲しいという感情もある。過去には、普賢と関わる前には、決して無かった情動の変化だった。
「僕はそれでも構わないよ。自分で、この手で、この目で知る努力をする。だって、楊戩の事をきちんと好きになったんだから」
結論を出した普賢は、強い。
その優しげなのに力強い瞳を見て、楊戩は――彼もまた、頷く事を決意する。
「絶対に教えてあげませんけどね」
「安心して。僕はずっと、楊戩を見ている事に決めたから」
「では、勝負ですね」
そう返答し、楊戩は両頬を持ち上げた。そこに浮かぶ笑みは晴れやかで、普賢はもっと見ていたいと心から願った。
こうして二人の関係が始まった。
封神計画が始まるまでの間、その穏やかな逢瀬は、続く事となる。
――そしていつの日にか、神界にて、二人は邂逅を果たすだが、それはまた別のお話だ。
(終)