誘蛾灯
「なんで焔紀なんか信用したんだよ」
間宮に首を締められ、床に引き倒されたのは、父なる天に帰還して暫くしての事だった。務は、自身の首の骨が折れたのを聞いた気がした。
けれどその時全身を包んでいたのは虚無感で、痛みとそれ以外を感じられない。
だから間宮の憤怒なんてどうでもよくすら思った。
結局僕らは死ねないまま、この腐り切った世界で生きていかなければならないという絶望。それから腕を掴まれ反転させられて、務は額を床に激突させた。静かに痛みと衝撃が広がって行く。
「っ、ぁ」
その時、首のしたにナイフを突き立てられたのがわかった。
それを背骨に沿って引かれる。
刃が触れている骨が悲鳴を上げる。
切り裂き開かれて行く背中。
きっとそれは解剖によく似ているにだろうと、一歩引いた理性で考えた。
「あああああああああ」
気づけば痛みから叫んでいた。
だらだらと、体の横側に血液がぬめりを伴い落ちて行くのがわかる。
血の臭気と、傷口の熱に務は泣いた。
「今度俺よりもあいつを信じたら」
「うあああああ」
「今よりも悲惨な目に合わせるからな」
そのまま手を突っ込まれ、背骨を握られた。肉がぐしゃりと音を立てる感覚に、体が震えて冷え切った。なぞるように何度も骨をなぞられ、意識が揺らぐ。
ナイフで切り分けられて行った時よりも直接的な感覚に、目を見開いた。
ーーいっそこのまま殺してくれればいいのに。
死ねない体を呪うしかできない。
自分自身の骨の輪郭なんて知りたくはないのに、間宮のなぞる手は止まらない。
だが、約束なんてできなかった。
この腐った世界で、口約束なんて一体なんの意味を持つというのだ。
そのまま務は意識を失った。何も答えないまま。
目を覚ました時はベッドの上に寝ていた。もう傷は塞がっていた。
どれほどの時、眠って過ごしたのかはわからない。
ただ、一つだけわかることがあった。
間宮の存在は、もう氷の破片のように、取り除けないほど細かくなって自身に全体に突き刺さっていて、決して溶けない気がしたのだ。
間宮ーー間宮、間宮、間宮。
きっとそれはもう誰もいない己がすがっているに過ぎないのだとよくわかっている。ただ、それでも、もう、それでも良かった。いくら背中に爪痕を残されようとも、間宮の傍にしか、もう自分の居場所なんてないのだ。
それは酷く悲しい現実で、ひどく優しい現実だった。
「起きたのか? これに懲りたらーー」
「僕は約束できない」
「……なんだって? しれなら、もう少しーー」
「仮に焔紀に、間宮に何かあったって聞いたら僕は多分行くから」
「っ」
「そうする僕を責めるとしたら、君こそ僕に何の心配もかけないことだね」
こんなやりとりが、歪だってことを務は良く良く理解していた。
もはや自分たちの間にあるものは友情でもなんでもなくて、おそらく執着みたいな名前をした何かだからだ。
ああ、きっと加速した時間が僕らに関係を歪ませたのだ。
それだけ不死の長い時間は、過ぎるのが早い。
もう僕らは囚われたこの世界からは抜け出せない。
務はいつか喰われた蛾が体内から飛び出して行くような幻覚に襲われた。
羽をもがれた蛾は、僕の視界の片隅でもがいている。
ーーああ、まるで僕のようだ。
ならばさしずめ、間宮は誘蛾灯だ。
嗚呼全てが幻想であったのならば、どんなに世界は優しかったのだろう?