知人・友人・恋人の境界線




 機会――あるいは余程の収入が確約されていなければ、動かない。

 それが『プロ』であると、出版社エルエルフ・ガーデンの代表取締役である彼は、常々考えている。バジル=レッドライム、それが本名であるのか否かを知るのは当人のみではあるが、少なくとも公的にはそう周知されている。

 バジルは、大陸統一新聞を発行しているエルエルフ・ガーデンの代表として、地上で広く、『一般の人間』にも知られている。同時に、知る人ぞ知る凄腕の魔術師でもあったが――どちらかといえば彼は、”情報屋”として高名だ。

 大抵の事柄を、彼は知っている。
 それは決して噂ではなく、紛れもない事実である。
 バジルは、出版社があるエメラルドグレイ連邦を拠点に働く情報屋でもある。


 豪奢な代表取締役室の執務用の椅子に、深々と腰をかけて、じっくりと背を預ける。
 そろそろ髪を切ろうかと、漠然と考えながら、バジルは前髪をつまんだ。

 僅かに赤味が入っているが、遠目には狐色に見える髪をしている。
瞳の色は、より赤を感じさせる深い茶色だ。
 まるで――狐のようだと揶揄される事もあれば、狸のようだと言われる事もある。

 後者は、バジルが人の良い笑顔で、実に人当たりよく近づいて来るのに――食えない人物である事を知る者からの評価である。

 彼の息のかかる者は、この大陸各地に存在し、情報網は今尚広がりを見せている。

 それは例えば、木と藁で出来た三角形の住居が並ぶ僻地の村から、各都市の宿屋に至るまで――果ては、本来潜入困難な各国の王侯貴族のごく近距離に。


 現在は、まだ早朝である。
 バジルは、優雅な仕草で紅茶を嗜みながら、本日自社が発行した朝刊を広げていた。
 ノックの音が響いたのは、その時の事である。

「バジル様、こちらを」

 入ってきた部下が、バジルに簡素な封書を差し出した。
 深々と腰を折ってからの事である。

「ありがとう」

 微笑して受け取り、くるりと回転椅子を回して、背後の窓側を向く。
 その背後で、部下が出て行く気配を確認してから、バジルは蝋印を見た。

「――これはまた、懐かしい」

 そこには、白色の蝋燭で、木の葉の模様が刻まれていた。

 これは、特定の所属の者が使う蝋印ではなく――バジルのごく個人的な友人が、『面倒な頼みごと』をする時にのみ用いる封蝋だと、彼はよく知っていた。その個人的な友人――ラーゼ=ルイードの事を、バジルは思い出した。

 彼は現在、魔術樹の街でアトリエマスターをしていたはずであるが……その、街の異変に関しては、既にバジルは掴んでいた。だが、街の人間が自ら情報提供者として接触してくるとは考えていなかったし、ことラーゼに限っては、それは有り得ないとバジルはよく知っている。

「一体どんな面倒事が記されていることやら――まぁ、頼られていると考えるならば、あるいはそれは一興で、非常に楽しいことかもしれないがね」

 ひとりきりに戻った代表取締役室で、バジルは封筒を開ける。
 そうしながら、過去の事を思い出していた。





「ニコの痕跡を、全て消去して欲しいんだ」


 これは――久方ぶりに、直接的に依頼された際の記憶である。

 当時のバジルにとって、ラーゼ=ルイードという人物は、面倒な頼みごとを時折もたらす『知人』といってほかならなかった。だが、金払いがよく、腕も確かで、自分側からの『面倒あるいは困難な依頼』も適度に引き受けてくれる、互いにメリットのある関係性の相手であったから、無下にしようと感じた事も無かった。

 そもそもバジルは、友人の定義など求める方では無い。
 よって、知人であっても親友であっても、等しく『友人』と公言する事に躊躇いも無い。

 また、この時は、ローゼンクォーツの女王国の女王陛下が亡くなられたという、大きな事件がそこにはあったし、それにラーゼが深く関わっている事も知っていた。憐憫を覚えていなかったわけでもない。バジルは、よく知っていた。ラーゼが、その急逝した女王陛下に恋をしていた事は、情報屋でなくとも知る者は多かっただろう。

 好きな相手の忘れ形見を腕に抱き、自分に依頼をしてきたラーゼを見る。

 ――あちらの側は、己を友人だとは感じていないだろう。
 バジルはそう理解していたが、別段それを寂しいと感じた事は無かった。
 友情とは、一方的なものでも構わないのだ。

「ああ、承知したよ」

 頷いたバジルは、すぐに手配を終えた。それが完了する頃には、魔術樹の街の大司教が、ローゼンクォーツ女王国の王子殿下を、街へと連れて行ったと聞いていた。


 崖の上。

 人目を避けて、二人。
 淡々と己の行いをバジルが告げるのを、ラーゼは静かに頷きながら聞いていた。
 黒い柔らかそうな、僅かなくせ毛のラーゼは、非常に端正な顔をしている。
 ただし、穢痴族と称される、彼の出自特有の赤い瞳は――特に綺麗だ。

 バジルは、迷信や偏見など、くだらないと思いながら生きている。
 それでもこの地上において、ラーゼの生まれた一族は、忌み嫌われている。
 事実であり、変えることは決してできない。

 ただ思うのは、そんな外見的特徴よりも、仄暗い仕事で手を汚す風潮よりも、まず変えるべきは、その鉄壁の無表情であると、バジルは友人(という名をした知人)に対して考える。ラーゼの表情は、お世辞にも豊かとは言えない。

「――という事で、もうニコ殿下は安全だ」

 バジルが最後にそう告げて報告を終えると、ラーゼもまた静かに頷いた。

「僕の方でも――ニコは無事な場所に保護してもらったから、安心してる」

 その安全な場所が、『魔術樹の街』であるとバジルは知っていたが、素知らぬふりで、曖昧に頷くに止めた。

 ――不意に、ラーゼが儚い眼差しで微笑を浮かべたのは、その時の事である。

「あとは、行き先を知る僕が消えれば、完全にニコは無事だ」
「――それは、念のため問うが、私を屠るという意味合いかね?」
「まさか。バジルさんには、感謝しているよ」

 ラーゼはそう言うと、崖の下へと視線を向けた。
 つまりは――己の死を偽装し、『知る者が不在の状況』を作り出すつもりなのだろうか?
 この時、バジルは漠然とそう考えていた。

「もう、僕には思い残す事は何もないし、心残りも無い。あるのは、そうだな――祈りだね。どうか、これから、ニコには無事に、健やかに、幸せに、生きていってほしいなぁ」
「まるで遺言に聞こえるがね」

 バジルがそう言って苦笑すると、ラーゼが振り返り、今度は実に明確に笑顔を浮かべた。

「――魔術樹の女神は、昔僕に言った事がある」
「ああ、【呪い】かい? 確か、ラーゼ君の場合は、『貴方は死にたくても死ねません。寿命の老衰でポックリ逝くまでは』だったかね? 私が知る知識において、魔術樹の女神の【呪い】の話は、相応に有名ではある」
「さすがによく知ってるね」
「仮にも私もまた魔導師だ。玄人の集う、魔術樹の街には、それなりに興味も関心もある」

 世間話としてバジルが続けると、ラーゼが笑顔のままで、小さく頷いた。

「本当に死ねないのかな」
「――どういう意味だい?」
「いつか、試したいなと思っていたんだよ」

 ラーゼの口調もまた、世間話のようだった。
 だが、状況が状況である。バジルは地面に視線を落として、かける言葉を探した。
 目には見えずとも、ラーゼが憔悴している事は分かっているつもりだった。

「ラーゼ君――……え?」

 慰めの言葉をかけようとして、顔を上げたバジルは、目を見開いた。
 正面にいたはずのラーゼの姿が消えていた。

 後方に立っていた自分側に歩み寄ってきた気配はないが、ラーゼの前方にあったのは崖だ。切り立ったその崖の下は急流で、激突すれば常人であれば死ぬような岩肌も見える。

「……」

 飛び降りる以外に、魔力を感知させずに、この場から消える手段などない。

 ――己の死を偽装し、『知る者が不在の状況』を作り出す。

 先程考えた己の仮説を思い出し、バジルは腕を組んだ。暫しの間、無人になった正面の崖の上を見る。視線を素早く走らせるが、魔力の痕跡はどこにもない。これならば、どこからどう見ても、『恋する相手を追いかけて、崖から飛び降りた』――つまりは自死を選んだように見えるであろうし、状況的にその虚偽情報を流す事には、何ら問題はない。

「困るねぇ。明確に依頼してから、消えて欲しかったものだけれど」

 無論、己にも生存を知られたくないという意図なのだろうと、バジルにはわかっていた。
 ――だが。

「……まさか、ね」

 一歩、二歩、と、バジルは崖の先へと歩み寄る。

 情報屋と名高いだけあり、彼は魔力の痕跡を探る術にも長けていたのだが……どこにも、何もない。まるで、その場から消えてしまったかのような、そんな不思議な風景が正面には色がっている。魔術無しに、この場から消えるなど、それこそ、崖から飛び降りるしかない。

 ラーゼの言葉が、脳裏をよぎった。それは、まとめると、こうなる。

『ニコは無事な場所に保護してもらったから、本当に死ねないのか試す』

 ……ざわりと、嫌な予感が胸を占めたのは、その時の事だった。

「い、いいや、まさかね。ラーゼ君に限って、自殺なんてあるはずが無い」

 そう呟いてから、無意識にバジルは空笑いをしていた。
 乾いた自身の笑い声に、なぜなのか全身へと震えが走る。

「そう、そうだ。これはあくまでも友情に厚い私なりの――気遣いだ」

 バジルは、自分自身に言い訳するようにそう言うと、崖の下を改めて見た。
 ここから落下したならば、余程幸運でなければ、魔術無しでは助からないだろう。
 もしそうならば、早く助けなければならない。

「まぁ、大切な友人なのだからね」

 半ば無意識にそう口にした時に、バジルは気がついた。
 ――ああ。

 既に、自分の中でラーゼは、友人と言う名をした知人の一人ではなく――紛れもなく大切な”友達”だ。

「念のため、万が一のために過ぎない。どうせ自殺偽装の逃亡ならば、いずれかの国からは、安否情報を買いに来る私の顧客も多いだろうしね」

 ――こうして、バジルは、ラーゼの所在を探し始めた。
 そしてあっさり数日後、バジルはラーゼを発見した。



 病院の寝台の上で。

「……」

 寝入るラーゼをいつ別しながら、バジルはかたわらの席に座り、膝を組む。

「死を望むほど苦しかったのならば、一言で良いから、相談が欲しかったな。そうなっていたならば、私は全力で引き止め、説得に成功していた自信がある」

 ラーゼが意識を取り戻したのは、数日後の事だった。



 ――今でも、あの時の生気を欠いたラーゼの眠る姿を、時にバジルは思い出す。
あれは、知人と友人の境界線を明確に引いた出来事だ。

「次は――……友人と恋人の境界線であると願おう」

 ポツリ、そんな事を呟き、バジルはその日の仕事を開始した。