事案No.xxXY0101zx:黒い聖母像の涙





【報告書】提出した報告書

【報告者】川嵜緋砂

【報告本文】
 現地調査の結果、事案No.xxXY0101zx【黒い聖母像の涙】は終息しました。
 原因は《コンバート》による《ゲーム》の一環だと推察されます。

【現象の概要】
・コンバチャンネルの視聴者の周囲で、最も傷ついている人の前に黒い聖母像が出現する。
・【黒い聖母像】は、“可哀想な人を哀れんで”いるがゆえ、涙を流している。
・【黒い聖母像】の涙を止めないと、傷ついている可哀想な人物が歩けなくなる。
・傷ついている人を癒やすと、黒い聖母像の涙は止まる。
・涙が止まると【黒い聖母像】は消失する。
・傷ついている可哀想な人を癒やす方法は、接吻(キス・口づけ)である。

【補足】
 今回、コンバチャンネルを視聴していたのは雨宮颯人宅でした。その結果、草壁広親の自宅マンションに、涙を流す【黒い聖母像】が出現しました。雨宮颯人が草壁広親に接吻し、草壁の声が出るようになり、【黒い聖母像】は消失しました。本件では、コンバチャンネルにおいて《コンバート》が解決方法の明確な条件を配信していたため、解決への難易度は低いものの、接吻する両者の関係性においては、ある種難易度の高かった案件と推察されます。





【001】“コンバチャンネル”の視聴者



 至極あっさりと昼食を買いに行くと言って予想通り帰らなかった草壁のことを、《ナイトメア・トリップ》という《ゲーム》の後、時折雨宮は思い返していた。朝霞の回復は順調で、朝霞自体に関しては公安部からも定期的に観察へと赴き報告する者がいるので、己の記憶にはないが――“のっぺらぼう”という現象あるいは存在のことを、疑うでもなくなった。それよりも、あの日朝霞の手を握りしめて、目を覚ました彼に向かい嬉しそうに涙を零した草壁のことが気になる。だからなのか、時折見に行ってしまう。

 怪異、超常現象。
 名称など問題ではなく、とかく人の世の理を外れた存在だということは明白で、雨宮はその一連の事象を巻き起こしている《コンバート》が配信しているとおぼしき“コンバチャンネル”を定期的に確認するようになった。動画だ。

『おはこんばんは〜! やぁやぁ! 今回は、【黒い聖母像の涙】、みんな遊んでくーれたァ? まだだよねーっ、だって! 今日からはじまる《ステージ》だからねっ☆』

 新しく配信が始まった動画に気がつき、雨宮は目を眇めた。

『“涙”を止めたらクリアだよぉ〜。えっ? どうやったら泣き止むのかなってぇ? そ・れ・は! 黒い聖母は、“可哀想な人”を“哀れんで泣いている”から、“可哀想な人を癒やしてあげる”と泣き止むんだよねー☆』

 軽快な声音が流れてくる。しかし漠然としているなと、雨宮は考える。

『【黒い聖母像】は、“可哀想な人の家”に急に出現するのー、わかるー? それで、ねっ? “癒やす”っていうのは、アハハ、“チュー”することなんだよねぇ。そーしないとどうなるか? 知ってるー? “可哀想な人が歩けなくなっちゃう”――癒やされるまでねっ☆ 癒やされると聖母像は消えるよ! さぁさぁ、これを見ているみんな! 涙を流す【黒い聖母像】は、これを視聴している“キミ”の周囲で、一番傷ついている人のところに現れるからぁァ――心当たりがあったら、ザッツ・チュー! なにせキミのせいで、その人は“巻きこまれる”んだからねーっ☆』

 配信はそこで終わっていた。




【002】嫌か否か。


 風呂上がり。シャワーで濡れた黒髪が、いつもより落ちている。
 草壁広親は、タオルで拭きながら、ダイニングキッチンへと向かった。先日の【神隠しの部屋】の件を漠然と思い出しながら、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。プルタブを開けて、一口。喉を心地の良い炭酸が流れていく。

「……雨宮のやつ。なに考えてるんだろうな」

 ぽつりと呟いてから、ぐいっと缶を呷る。
 煙草が吸いたくなった。
 公安時代は匂いで存在が露見するからと控えていたが、退職後は時々吸う。
 テーブル上にあった赤マルのボックスへと視線を向け、歩み寄って缶を置いてから、一本抜き取り唇で銜えた。オイルライターで火を点ける。吸い込めば、肺の輪郭を際立たせるかのような煙の感覚に、無性に身体が満たされた気がした。

 嘗ての後輩である雨宮颯人は、《ナイトメア・トリップ》のあとから、時折草壁の前へと姿を現すようになった。大抵の場合、険しい顔をしている。一見すれば、自分を嫌いだろうと思うのだが、その割に会いに来られるものだから、反応に困る。しばし煙草を吸っていた草壁がそれを黒い丸灰皿に置いた時のことである。

「!?」

 リビング側に、草壁は異変を見て取った。そこに、黒い聖母像があったからである。長く紙を垂らした女性の彫像。黒石を削り出して造られた様子だ。流れるような衣、片手を持ち上げた手。両手で斜めに、子を抱いている。乳を与えている姿だ。ラファエロ・サンツィオの大公の聖母に、どことなく面影が似ている。ただし、全てが黒である彫刻だ。だが――ツツ、っと、その両方の眼窩から、透明な雫が流れていて、口元や表情はどこか寂しそうだ。

「な、なんだこれは……?」

 煙草も缶も置きっぱなしで、足早に草壁は歩み寄る。
 しげしげと見ていると、精巧に彫られた聖母と目があった気がした。

「こんなものを買った覚えも置いた覚えも……」

 狼狽えていると――カクンっと膝の力が抜けた。目を見開く。腰から下の感覚が無い。

「なっ……なんだこれは?」

 無理に手を近くのソファについて立ち上がろうとしたが、上手くいかない。焦った草壁は、まさかこの程度で酔いすぎということはないだろうと困惑しながら、そばにあったスマホを手に取る。救急車か、いいや……だが、F機関の連絡先などしらない。あきらかに不可思議な現象に巻きこまれているのだと直感したが、どうしようもない。

 その時、エントランスのインターフォンの音がした。
 スマホで解錠可能だが、誰なのか分からない以上、この状況では危険だと思っていた時、雨宮からのメッセージに気付いた。

《元気か? 今、家の前にいる》
《立てない》
《俺のせいかもしれない》
《どういう意味だ?》
《とりあえず入れてくれ》

 それを聞いて、草壁はロックを開けた。すると家の中に入ってくる気配があった。

「……やはりな」
「自己完結するな。なにが? どういうことだ?」
「《コンバート》の《ゲーム》だ」
「今度はなんなんだよ?」

 辟易した思いで草壁が眉間に皺を寄せると、雨宮が草壁をソファにきちんと座らせた。

「草壁さんは」
「ん?」
「――俺から見てもだが、俺が思う以上に傷ついていたのか」
「なんの話だ?」
「無自覚というのはタチが悪いな」

 そう言うと雨宮は、草壁の顎を持ち上げて、顔を近づける。
 そして目を伏せ顔を少し傾けた。近づいてくる端正な唇を、目を丸くして草壁は見ていた。すぐに、柔らかな感触がした。己の唇に触れた、雨宮の唇。虚を突かれて硬直した草壁から、顔を話して、雨宮が微苦笑する。

「立てるようになったか?」
「……試す」

 そう言って、草壁は雨宮の両肩を手で押してから、立ち上がった。無事に腰から下の感覚も戻っている。

「一体何だったん――」

 そして聖母像に振り返ろうとしたのだが。
 そこにはもう、涙を流す黒い聖母像の姿は無かった。

「……、あれは、一体……」
「気にするな」
「いや、気になるだろうが……」

 雨宮に向かいなおして、草壁が呆れた声を放つ。それから、手の甲で唇をぬぐう。

「だ、大体、いきなりキスするなんて、なんなんだよ」
「特に。意味なんてない。F機関にでも聞けばいい」
「つまり不可思議な現象ってことだな? だとして……好きでもない相手に……」
「嫌だったのか?」
「は?」
「嫌だったのか?」
「繰り返すな……そういう、お前こそ」
「俺は、言い訳を必要とするのであれば、責任感や義務感を持ち出すことが可能だ。でも――俺は嫌では無かったからな」

 雨宮はそう言うと、エントランスの方を見た。

「今日は帰る。明日は早いんだ。“この前”とは違ってな」

 そのまま雨宮は出て行った。
 見送った草壁は、片手で唇を覆うと、少ししてから赤面する。

「なにが、“この前”だ……」




【003】瞳の残滓。


 帰宅した雨宮は、はぁっとため息をついた。
 実際嫌ではなかったが、何故、素直にそれを告げたのかは、自分でも分からない。自分が巻きこんだから? いいや、答えはNOである。

「あの寂しそうな目」

 草壁のことを思い返す。キスをしたときだけ、驚いたようにあどけなく変わった瞳を。

「一体どうすれば、本当に癒やせるというのだろうな」

 キス一つで、人の心の傷を癒やせるとは、雨宮には思えなかった。
 それでも。
 いつか草壁を、抱きしめてやりたいと考える。この腕で。己の温もりで。

「――俺は何を考えているんだか」

 雨宮が自分の気持ちに気付くまで、ある意味少し。雨宮は、この日見た草壁の不安げで悲しそうな瞳が脳裏に焼き付き、暫くの間忘れることが出来ないでいたのだった。




 ―― END……? ――