【一】一目惚れ



 僕は、天井のシャンデリアを見上げて、思わず動きを止めた。学食に来るのは、今日が初めての事である。入寮したのが、本日の日中の事で――僕はこれから三年間、この、高嶺学園で生活を送る事になる。

 高嶺学園は、初等部から高等部までの、一貫校で、幼稚舎と大学・大学院も別の敷地にある。多くの生徒は、初等部に入学した時から、高等部を卒業するまで、高嶺学園の敷地からは出ないで、寮生活を送るらしい。

 僕の場合は、高等部の一年になるというタイミングで、外部入学する事が決まった。僕の家の場合は、稽古事が多いため、幼少時は実家で過ごす事が多いらしい。父も祖父もそうだったと聞いた。

 僕の家は、伊澄財閥という、旧財閥の一つの流れを汲んでいる。ただ、今では会社は外部の人に任せきりであり、創業者一族である伊澄家は、そこまで表に出る事は無い。代わりに、古き良き伊澄家の伝統を守るようにと説かれ、小さい頃から一通りの礼儀作法や伝統芸能を覚えさせられるのである。茶道とか、華道とか。

 大体それは、中等部までで習い終える。その後は、社会勉強のために、大きな学園に進学するようにと勧められる。僕も勧められて、今回、高嶺学園に来た次第だ。

 これまでの僕は、近所の私立中学に通っていた。だが、あそこにはシャンデリアは無かった。学食も、中学までには無かった。物珍しい気分で、僕は正面へと視線を戻す。明日は入学式であるし、既に多くの生徒が入寮しているらしく、学食は混雑していた。見渡す限り、男子生徒しか存在しない。高嶺学園は、男子校だ。

 友達……出来るだろうか。
 僕はそこからして、まず、不安だ。まだ、寮の同室の生徒も来ていない。入寮してから、受付の人としか話をしていないのである。中学までは習い事に明け暮れていて、僕はあまり同世代の人々と話をした事も無かった。これから、不安しかない……。

 今日は、早く食べて早く戻ろうか。そう考えて、僕は天ぷら御膳を静かに食べた。一人だ。時折、チラホラと視線が飛んでくるように感じる。外部入学生は少ないらしいから、目立つのかもしれない。

 黙々と食べながら周囲を眺め、僕は席を立った。
 そして外に出た丁度その時――何かを叩きつけるような音がした。

「?」

 首を捻った時、目の前から椅子が飛んできた。誰かが放り投げたらしい。廊下で? 何で? 動揺のあまり僕は、壁にぴたりと背をあて、左に避けた。すると僕の右側の壁に、椅子が激突した。間一髪だった……。

「……」

 怖くて声が出てこない。

「大丈夫か?」

 そこへ声がかかった。真っ青な顔で、僕は視線を向けた。すると、腕に『風紀』という腕章をつけてた生徒が一人、僕へと歩み寄ってきた所だった。そちらを見て、僕は別の意味で衝撃を受けた。

 近づいてきた先輩――(この学園は、学年でネクタイの色が違う)が、あんまりにも格好良かったからである。僕は最初、きょとんとしたと思う。目を真ん丸にして、ポカンとしてしまった。

「よく避けたな。武道の心得があるのか?」

 僕の正面に立った先輩は、烏の濡れ羽色の髪と瞳をしている。切れ長の目は凛々しくて、彫りが深い。僕よりもずっと背が高い。綺麗だ、と、思った。声まで耳触りが良い。その造形美と雰囲気、声に、僕は動揺していた。今までの人生で、こんなにも格好良い存在を見た事が無かったのである。僕は、必死で頷いた。確かにちょっとした武道は、習い事で覚えた。ただ、本当にちょっとしたものであり、僕はそちらの腕前はからっきしである。

「怪我が無くて良かった。一年だな? 名前は?」
「あ、あの……、伊澄詩乃です……」

 必死で名乗っていると、他の生徒がやって来た。

「委員長!」

 数人の生徒達も、やはり腕に、『風紀』という腕章をつけていた。なんでも、部活勧誘用の机を運んでいる最中に、階段の上で誰かが手を滑らせて、僕の方に椅子が飛んできたらしい。その場で簡単にそう説明を受けた。あんまりにも麗しい、委員長(?)の顔と、初めての先輩生徒達との会話でド緊張していた僕は、ぎこちなく頷く事しか出来なかった。

 なんとかそれを乗り切り、僕は部屋へと帰った。
 ――何の、委員長なんだろう?
 一人きりの寮の部屋で、僕はそればかり考えていた。終始厳しい顔をしていた委員長は、瞬きをする度に、僕の脳裏に浮かんできた。世の中には、同性に対して、このように『顔が好きだ』と思う場合もあったのか……。それもまた、僕としては衝撃的だった。

 ――翌日。
 僕は入学式に臨み(結局、同室の生徒はまだ現れていない)、僕は、委員長が何の委員長かを知った。

「風紀委員長挨拶――二年S組、七折晴臣」

 司会の先生がそう述べると、壇上に、昨日会った委員長が登ったのである。そして流麗な声音で挨拶を述べ始めた。僕は目を見開いて、委員長である七折先輩を見ていた。きちんと制服を着ている先輩は、やっぱり非常に格好良い。声も好きすぎた。視線が時折会場の中を見渡す度、その視線の動かし方にさえ、なんだか見惚れてしまった。

 なお、挨拶の内容はさっぱり頭に入っては来なかった。
 長かったようで一瞬で終わってしまった気もする挨拶の場面を、その後何度も回想しながら、僕は入学式を終えた。風紀委員というのは、中学時代には存在しなかったから、活動内容は不明だ。この学園の事は、まだまだ分からない事が沢山ある。

 入学式後は、本日はもう何も予定がない為、僕は寮へと戻る事にした。本格的に始まるのは明日からであるそうだ。解散となったので、僕は人ごみから少し距離を取り、ゆっくりと歩く。僕は、人ごみに慣れていない。中学時代までは、限られた児童・生徒しか入学できない超少人数の学園だった上、移動は全て家の車だったからだ。買い物などにも行った事はない。家に来てもらっていた。そのため、人ごみに酔いそうになったので、遠目に見つけたベンチへと歩み寄る。

「……」

 なんだか疲れてしまった。そう思いながら、座った時だった。

『助けて……やめ……』

 そんな声が聞こえてきた。僕は硬直した。狼狽えながら、ベンチに座ったままで振り返り、茂みの向こうを見てみる。するとそこでは、一人の一年生が、四人の上級生に囲まれていた。これは、あれだろうか? ぞ、俗に言う、いじめ? 暴力? 僕のこれまでの人生では、概念でしか聞いた事の無い代物である。

『怯えちゃって』
『可愛い』
『ここ、俺達のたまり場なんだよなぁ』
『何かってに入ってくれちゃってんの?』

 僕は唖然とするしかなかった。これは……見なかった事にしたらまずい気がする。僕はスマートホンを取り出した。そこには、入寮時に入れたアプリが出ている。この学園独自のものだそうで、『緊急通報アプリ』なのだ。通報先は――……『風紀委員会』となっている。風紀委員会がどういった委員会なのかは未知だが、このままでは正面でまずい事態が勃発しそうだ。僕はこそっと画像をスマホで撮ってから、それを通報アプリで送信した。位置情報も自動で送られるらしい。そして……いざとなったら、叫び声を上げて人を呼ぶべく待機していた。

「!」

 音もなく肩をそっと叩かれたのは、それからすぐの事だった。見れば、『風紀』という腕章をつけた生徒が二名、僕の後ろに立っていた。二人は僕を見ると、小声で言った。

「通報者か?」
「伊澄詩乃くんだね?」
「は、はい!」

 片方は、先ほど挨拶していた委員長だった。もう片方は、昨日はいなかった先輩である。僕は必死で頷き、指で茂みの向こうを示した。すると二人が踏み込んでいった。良かった……助かった……。そう考えながら正面を見守っていると、囲んでいた四人を、二名の生徒が――倒していた。僕はまるで警察官のように取り押さえてしまった風紀の人々を見て、すごいなと驚くしか出来なかった。

 僕は、暴力は好きじゃない。ただ、手際よく取り押さえた七折先輩は、尋常ではなく格好良かった。

 その後は、事情聴取が行われるとの事で、僕は風紀委員会室へと連れて行かれた。そこで、僕が発見したまでの経緯を伝えると、風紀の先輩達が頷きながら聞いてくれた。なんでも、僕の通報で駆けつけてきたのは、風紀の委員長と、副委員長の、桜海先輩だったらしい。

 こうして解放された僕は、被害者や加害者の生徒と直接顔を合わせる事はせずに、寮へと戻った。すると――玄関に靴があった。同室者が来ていたらしい。

「……」

 共有スペースから、僕はもう片方の部屋の方を見た。すると向こうも顔を出した。

「……」
「……あ、あの、伊澄です」
「……へぇ」

 同学年のはずの生徒は、顎で頷くと、退屈そうな顔をして、すぐに部屋に戻ってしまった。名前を聞く事も叶わなかったが、僕は疲れていたので、自室に戻る事にした。その内、話す機会があるかもしれない。

 こうして、僕の高嶺学園での生活は始まった。