【二十五】夢の恐怖と導き手




 当初は受け入れがたいと思ったが、その内に俺は、ストンと納得した。

「じゃあ……全部俺が、自分で手放してきたという事か」
「その理解で限りなく正しいだろうな」

 結局、ミネスの手を離したのと、それは同じ事なのだろうと、俺は理解すると決めた。

「今が平穏で幸せだというのだから、それを甘受すれば良い」
「そうだな。結局、俺が間違って――手を離したのが、全ての始まりで、原因は俺だ」
「気に病む必要は無い。自分の人生に責任を持つことは重要だが、本人の力ではどうにもならない事もある」

 エガルが二杯目のお茶を淹れてくれた。それを味わいながら、小さく俺は頷いた。それから、気を取り直して尋ねた。

「脳を支配するという力は、俺の自由には行使出来ないのか?」
「それは……可能だろうな。お前もまた神の代理なのだから」
「ならば、全員が幸福だと感じる世界を、視せる事も出来るんだろうか」
「……大多数の人間が幸福だと感じる世界という意味か?」
「いいや、全員だ」

 俺の言葉に、エガルがじっとカップの中を見た。

「例えばそれぞれに、幸せだと感じる夢を見せて、永遠の眠りにつかせてしまえば、ある意味でそれは叶うだろう。しかしそれは幻想を視ているだけに過ぎず、実際の肉体的な幸福は伴わない」

 そう述べてから、エガルは小首を傾げた。

「それよりよほど簡単なのは、全ての人間が幸福になったという夢を、自分に視せて、眠ってしまう事ではないかな」
「……俺が眠る……そう言われると、死との区別が曖昧で、やる気が失せるな」
「馬鹿な事は考えるな。生きていれば、辛い事もあるんだ」
「今日のエガルは説教が好きだな」
「ネルスこそ、不穏な冗談は止めろ。心臓に悪い」

 苦笑した俺は、それから静かに目を伏せる。

「俺は自分を被害者だと思っていた。だが、違うんだな」
「いいや? 確かにネルスは被害者だっただろう。けれどな、今は解放されたんだ。もう忘れると良い」
「忘れない。それでも俺は、愛していたと思っているからな。例え俺に宿る力が、魔王を屠ったのだとしても、それでもな」

 頷きながら俺が語ると、エガルが複雑そうな色を瞳に浮かべた。

「確かに愛に理屈は無いし、きれい事だけが全てではないが……もっと幸せな未来を見据えてはどうだ? 次の恋を見つけても、きっと魔王は咎めないと思うぞ?」
「黄泉の国からは、見通せるらしいからな。俺は浮気はしないんだ」

 体の熱さえ無ければ、それは実に簡単な事だった。今、俺は収入も、魔法薬作りで得ている。少しずつ、エガルから魔術や薬学を習ったのだ。魔王の魔力を注がれた俺には、ある程度の魔力が戻っていて、手の甲には青い魔法陣も再び浮かんでいる。

「このように想われているのだから、魔王も幸せだろう」
「どうだろうな。今でも、愛など俺の錯覚だとして、嘲笑しながらこちらを見ているかもしれない。ただな、それでも良いんだ。俺は、信じるから」

 自分の導出した答えに、俺は満足した。それから、カップの中身を飲み干して、静かに立ち上がる。

「少し、外の風に当たってくる」
「そうか」

 頷いてエガルが見送ってくれた。既に慣れた廊下を進み、玄関から外に出る。
 また、秋が来た。俺にとっては、忌々しい季節だ。秋風は、俺から様々なものを奪っていった。しかし俺は、秋を嫌いにはなれない。

 少し歩いて、川の前の道に出た。色づいた木々が並んでいる。その内の一つの幹に手を当て、思いっきり息を吸い込んだ。

 俺の横を、街の子供達が、笑いながら駆けていった。それを一瞥してから、空を見上げる。

 この世界には、幸福が溢れている。しかし、不幸も同じくらいの数、存在するのだろう。悲嘆にくれて全てを消してしまうよりは、季節が巡り時が傷を癒やしてくれるのを待つ方が、俺にはあっているように思う。

 少しずつ、学び、覚えれば良いのだろう、と、俺は太陽の沈む方角を眺めながら考えた。

「もう、手放す事を、俺はしない」

 決意し、俺は目を伏せた。

 しかし人生とは上手くいかないもので、その後も俺は、ことある毎に樹の神の力を発動させてしまう事となる。だが、そちらも学んで、少しずつ制御を覚えていったから、今では国が滅ぶような惨事は無い。指導をしてくれたのもまたエガルだ。

 そんなエガルが、ある日じっと俺を見た。

「そろそろ俺が教える事は無くなったな」
「? まだまだ、エガルには習いたい事ばかりだぞ?」
「これほど教えてやったというのに……自力で気づかないのか」
「?」
「――ほぼ正解に近い大ヒントまで出しただろう」
「何の?」
「伝えただろう。自分に夢を視せる事が易いんだと、きちんと」
「それが?」

 嫌な動悸がした。ハッとして俺は目を開く。すると、俺は木の幹に手を当てたまま、秋風に吹かれていた。呆れた調子で、俺の肩をエガルが叩いた。

「すぐに飲み込まれるとはな。夢に干渉するのは魔力を消費するから非常に疲れたぞ」
「……どこからが夢だったんだ?」
「安心しろ、お前は俺の家から出かけて、そこで突っ立って、目を閉じていただけだ。その一瞬の間の夢だ」
「子供達は、駆けていったか?」
「ああ」

 力強く頷いてから、エガルが道の先に視線を向けた。

「きちんと夢では無い道が続いているんだ。お前が迷わないよう、俺もついていてやるから、しっかりと立て」

 その時俺は、確かに頷いたのだと思う。
 以後、幸いにも樹の神の力が発動する事は無かった。だから、俺の心を傷つけたエガルが惨殺されたというのも、多分俺がまた不覚にも見てしまった夢なのだろう。

 墓石の前で、俺は冬の風に吹かれている。
 これは、誰の墓なのだろう。俺はそれを知らない。
 人は、最後には、結局の所一人なのだ。だから、俺は不幸などではない。

「今度は俺を夢で殺したのか……まったく、よくやるよ、ネルスも」

 背後から苦笑交じりに言われ、俺は振り返る。夢は、夢なのだ。もう俺は、現実と区別できる。

「どうやら俺は、不幸を求めているみたいだ」
「ああ、そうらしい――一つ提案がある。その力、もう潔く封じてしまったらどうだ?」
「そんな事が可能なのか?」

 俺が目を丸くすると、エガルが腕輪を一つ取り出した。そして、結婚指輪がはまったままの、俺の左手を取った。

「樹の国の遺跡を探してきたんだ。ただし、これを身につければ、二度と外れない。願ってももう夢は視られなくなる」
「構わない。幸せな夢も、辛い夢もいらない。誰かの精神を操るような事もしたくない」

 腕輪を奪うように受け取って、即座に俺は手首にはめた。
 変化は、特に感じない。

「どうだ?」
「とりあえずエガルが生きているのが夢では無いと分かって心底安堵した」
「それは何よりだが、これで俺は、心置きなくお前を黄泉の国へと送る事が出来るようになったという事態でもあると理解しているか?」

 溜息をついたエガルは、呆れたようにそう言ってから、クスクスと笑った。
 それを見て、俺は笑った。

「試してみると良い。きっと俺は返り討つ」
「強気だな」
「俺は臆病だから、自ら死を選んだりはしないんだ」
「それは臆病とは似て異なる。生への執着は、命ある者の本能のようなものだ」

 エガルの声に頷いてから、一緒に帰る事にした。歩きながら、ふとエガルを見た。

「エガルは不思議だな。何でも知っていて、何でも出来る。不死者だとは分かったが……元々は何者なんだ?」

 するとエガルが、小さく吹き出した。

「ただのネルスの友人だ。それで良いだろう?」

 深く追求する事はせず、俺の速度に合わせてくれるエガルと共に、帰路につく。その後、何気ない話をしながら、俺達は帰宅した。

 そのようにして、その後の毎日も続いていった。俺達は、死が無いから終わらない。だが、俺の中の記憶の一頁は、既に閉じられ、別の頁が始まっている。そこには、もうエガル以外の懐かしい名前は一つも無いが、それは別離の結果ではなく、時の経過のせいだ。

 腕輪と指輪を時折眺め、俺は日々を過ごしている。

「そういえば、あの墓標は、誰の墓だったんだろうな?」

 ある日何気なく思い立ち、一人で墓地へと向かった。そして俺は、名前を確認した。そこにはラッセルと記載されていたが、俺は聞き覚えがある気がしたものの、誰の事なのか思い出せなかった。

「……もう、魔王の事以外は、あまり思い出せないな」

 悠久の時が、廻っていく。次々と、歴史が紡がれていく。もう、俺は夢を見ない、それだけが、明確で――他の物事は、風化していく。

「会いたいな……」

 俺の声が、空に溶けていった。
 その後俺は、数年を経て、黄泉の国へと向かう決意をした。終始エガルは呆れていたが、俺を止める事は無かった。