9:志望動機
学校に平穏な時間が戻ってきた。それは、ルカにとって喜ばしいことだった。
ここのところはラファエルに遭遇することもない(今まで以上に全力で避けている)。それはともかく、何よりもルカにとって嬉しかったのは、エルが意欲的に授業に臨んでくれるようになったことだった。
筋トレの時間は短縮し(だが、必ず取り入れている)、座学の他、まずは初歩的な結界の貼り方の講義を開始した。
「やっぱり僕の見る目に狂いはなかった! エルは魔術師に向いてる!」
エルもエルとて最近ではそう言われて悪い気はしなくなっていた。
むしろ嬉しい。
ワルターはといえば、傍らの石段に座り、手のひらの上で魔力を収束させている。球体に魔力を練り込み、自在に操ることができるよう訓練しているのだ。筋トレの執着地点は、魔力造形に行き着く。最近エルはそのことを知った。
「魔術って知れば知るほど奥が深いですね」
「ワルター聞いた? エルがわかってくれて、僕はすごく嬉しいよ」
ルカの言葉に、ワルターが顔を上げる。
「そうだ、騎士団から魔術師枠での面接の知らせが来たんだった」
思い出すようなその声に、ルカが動きを止める。
「おめでとう、え、そういうことは早く言おうよ」
「忘れていたんです。それで、志望動機なんですがーー……いえ、そもそもどうして魔術師過程にすすんだのかって聞かれるみたいで。強引な勧誘に会いました、じゃまずいからな。聞きたかったんです、参考までに。ルカ先生はどうして魔術師に?」
ワルターの声に短く息を呑み、ローブの奥で、ルカは曖昧に笑った。
ーー契機は、冥界の扉の事件だった。
全てを失ってから一週間、自分がどこで何をしていたのかすら曖昧な状態で我に返った時、オルカは一人、雨に濡れて路地に立っていた。
白い雲に低く低く圧迫された空からは、豪雨が降りしきっていた。
思い出せるのはただの白だ。水に濡れ続けていた白だ。
オルカ・ヒルフェという外角だけがかろうじて保たれていたけれど、ドロドロに溶解し溶け出てしまった内側の感情や理性思考は、もはやどこにもなく、抜け殻、だなんてそんな表し方が適切な状態だったのではないかと思う。
当てもなく歩いていたオルカは、その時音を聞いた。
じゃり、そんな砂を踏む足音だった。ずっと地を見ていた視線を気だるげに上げる。すると正面には、紫色のローブを纏った好々爺が一人立っていた。
白い顎髭をしていて、傘を持っていた。
「ヒルフェか。久しぶりじゃな」
「……」
緩慢に向けた視線で捉えた人物に、オルカは見覚えがあった。
神学校時代に幾度か見かけた、魔術科の教諭の姿がそこにはあったからだ。
レイノルド・バイエルという変わり者の魔術科教諭は、立ち止まったオルカのことを見据え、やはり足を止めていた。
「信仰を捨てたという顔をしておる」
「……」
何か答えようという気力すらその時のオルカにはなかった。声帯を震わせることすら億劫だった。ただ、その時十字架を握りしめたのは無意識のことだった。
「捨てきれぬ、か。安心した」
「私は、」
ようやく自然に声がこぼれた。
ーー信仰を捨てる?
明確化しどちらか一方を選ぶほどの興味すら尽きていた。ゼーレは、いくら願い信仰しようとも、信仰などしなくとも、己に興味などないのだろうとオルカは悟っていた。ゼーレなど、ホントウニソンザイスルノカ。いないのではないのかと。そんな風に考えていたら、嗤っていた。だが同時に双眸からは温水が溢れ出し、雨と交わっては流れて行く。
「蒙昧したわしの勝手な見解だ。否定も肯定もいらぬ。ーーついて来るがいい。これもゼーレのお導きじゃ」
レイノルドはそう言うと踵を返した。
「疲れているんじゃろう? 少し休んで行くと良い。なぁに、誰も来はせん。相変わらず魔術過程の教務室は閑古鳥が鳴いている」
恐らくオルカは、レイノルドの後をついて行ったのだろう。
気づけば魔術課の教務室のソファの上に座っていた。ずぶ濡れだった衣類も髪も、部屋に入ると同時にレイノルドが杖を一振りして乾かしてくれた。
ホットミルクの浸るカップの中を見つめながら、オルカは俯いていた。
「騎士団は辞めるのか」
無言のままだったが、今度はオルカが小さく頷いた。
「次の当てはあるのかね?」
死ぬのだから当てなど不要だ。そう思えば、オルカは奇妙な笑みが浮かんできて、なのに表情の中で動いたのは、涙をこぼす双眸だけだった。
「ーー聖職者と御遣いの関係はある種の主従だ。魔術師にはそれがない」
自分の分のミルクを手に、レイノルドが座った。砂糖を三杯入れている。
「何があったのか仔細は知らんが、もし仮に御遣いと相対していたのが魔術師だったのならば、また違う結果になっていたかもしれぬな」
「魔術……」
「胡散臭いと思っているのであろうな。まぁ、良い。これからちと研究で多忙になるゆえ、雑用係をしてくれる助手を探しておったのだ。そこに用意したローブで顔を隠し、身元を隠し、手伝ってはくれぬか? 身の振り方を決めるまでの間で構わんから。オルカ、オルカかーールカにしよう。ルカ・バイエル。わしの遠縁」
「レイノルド先生……」
「実務実践を離れ、一度座学に戻ると良い。見たくないものよりも、見るべきものはたくさんあるのだから」
以来、しばらくの間、オルカーールカは、レイノルドの助手をした。
そのうちに魔術への造形を深めて行き、いつしか"ルカ・バイエル"となっていた。
レイノルドが死ぬ少し前に、養子になって戸籍も得た。
「そう、世の中悪いことばかりじゃないもんさ」
そう言って亡くなったレイノルドの後を引継ぎ、今ではルカは教師になっていた。
研究の助手をしていた期間、あれはーーまぎれもなく魔術師としての教えをこうていたのだと今ならばわかる。
おそらく魔術師になりたかったわけじゃない。
あの時差し伸べられた救いの手の名前が、魔術だったのだ。
「先生?」
ワルターの声でルカは我に返った。
「素晴らしい魔術師にであったんだよ、ここの教諭の。初めは魔術の知識なんてほとんどなかったけれどね、教えをこううちに魅了されて行ったんだ。うん、僕は優秀な教員との出会いが、魔術への第一歩だったと考えているよ」
「ーー俺に、ルカ先生と出会ったから魔術に魅了されたってかけって?」
ワルターが呆れたように目を細めた。
「ルカ先生って本当自信家だよなぁ」
後頭部で手を組み、エルが吹き出しそうになっている。
「ちょっと待ってね君たち、これは僕の昔ばなしだから。だけど、僕とであったから魔術やってくれてるんじゃないの?」
慌てたようにルカが言うと、ワルターとエルが顔を見合わせた。
「強引な勧誘があったのは間違いないな」
「ですね」
「それでも今は魔術のことちゃんとーー」
「好きですよ」
「俺も。ワルター先輩と一緒」
二人の生徒の答えに、ルカが安堵の息を吐いた。
こんな日常風景が、魔術過程の輝かしい日々だった。