【九】



 三年生になり、最初の週――放課後、珍しいことに三葉君が俺に会いにやってきた。教室で待っている存沼に振り返ると、驚いたように目を見開き、何度か瞬きをしている。俺も驚いているから当然だろう。

 三葉くんはといえば、いつもの通り(株関連以外の)無表情で、俺の名前を呼んだっきり、扉の前へと立っている。教室中に緊迫感が漏れた気がした。まぁ俺はもう気にならない。

「どうかしたの?」
「前に一緒にサロンに行こうって言っていたから」

 そう言えば紅葉狩りの時にそんな話しをしたなと思い出した。その声に、存沼が立ち上がって、鞄を持って歩み寄ってきた。

「お前も行くのか?」
「うん。誉くんと約束したから」

 三葉くんが淡々と言うと、存沼が瞳を輝かせた。

「連れて行ってやる」
「誉くんに連れて行ってもらうからいい」

 しかしきっぱりと三葉くんは断った。存沼の表情が目に見えて悪くなった。眉間に皺を刻み、目を細めて三葉くんを見据えている。背は若干存沼の方が高い。教室中が静まりかえり、息をのんで二人を見守っている。それもそうだ。もし二人の両親がそれぞれ親ばかだったら、この国の社会が揺らぐ一大事件が起きる可能性が非常に高い。

「誉は俺と一緒に行くんだから、三葉のことはやっぱり、連れて行ってやるって事だろ?」

 底冷えのする存沼の声に、しかし三葉君は余裕そうに小首を傾げただけだった。

「一人で行けないの?」
「な」
「雅樹はサロンが怖いの?」
「怖いわけ無いだろうが! お前こそ一人で行け! 三葉こそ怖いんだろ!?」

 存沼が大きな声で言う。怒っているのは火を見るよりも明らかだ。
 だが、三葉くんは存沼のあおりに乗る様子もない。そして言い放つ。

「僕は怖いから、誉くんと一緒に行くんだ。先に行っていて」

 俺も適当に存沼を扱っている自信があるが、三葉くんはそれとは異なり、とりつく島もない。すごい。あの存沼を黙らせた。普段寡黙な分、一度口を開くと存沼は意気揚々もしくは怒気を含んでしゃべり出すのだ。

「……っ、分かったよ」
「じゃあね」

 その上存沼は自分の言葉を撤回できず、足早に教室を出て行き、三葉君は手を振っている。

 結局俺は立ってその光景を眺めていただけだった。すごいな、あの二人。流石は設定でも、存沼を止められるキャラだ……からなのか、俺には分からない。火と氷のようなのだ。だが三葉君の氷は決して溶けない。

「行こう」

 三葉君に言われて俺は我に返った。急いで鞄を手に教室中を見回す。

「また明日!」

 俺の声に、緊張がとぎれたように、何人かが脱力している。やはり小学生の心臓には、悪すぎるよな……。

 それから俺は三葉くんと並んで歩いた。思えば存沼と一緒に行かないのは、ほぼ初めてに近い。そう考えると、寧ろ俺が怖くなった。

「誉くん」

 歩きながら三葉君に名前を呼ばれたので顔を上げる。相変わらずの
 無表情だ。

「和泉の足にヒビが入ったんだ」
「え!?」

 唐突な切り出しとその言葉に、俺は思わず声を上げた。あの運動神経抜群の和泉がけが? 一体何があった。言われてみれば、三葉くんは無表情ながらも、どこか伏し目がちで、小学生とは思えない溜息をついている。しかし俺は聞かずにはいられなかった。

「なにがあったの?」
「僕が階段から落ちそうになったら、かばって代わりに落ちたんだ」
「階段から……無事で良かった。二人とも」
「和泉は無事じゃないよ」
「それは、そうなんだけど」

 俺が言いたいのは、頭部強打だとか、複雑骨折だとか、もっとスケールが大きい出来事である。ヒビだって勿論大変だが、命に関わるわけではないはずだ。

「僕のせいだ」

 三葉くんが泣きそうな声で言った。こんな声も出るのかと胸が痛んだ。考えてみれば、三葉君が用件もなしに俺を訪ねてくるなんておかしいじゃないか。

「三葉くん……そんなこと無いよ」
「僕が、株価に喜んで階段の上で、前方倒立回転飛びなんかしたから……」
「それは三葉くんのせいだと思うよ!」

 あ、つい言ってしまった。前方倒立回転飛びって、走って逆立ちして、一回転するような結構難しい技だと思う。階段の上で、そんなことをやっていたら危ない。何をやっているんだよ三葉君……その上こちらも案外運動神経良いな。

「それでね、和泉のお見舞いに来て欲しいんだ」

 だが三葉君に俺の言葉を気にした様子はない。

「言われなくても勿論行くよ、心配だよ!」
「有難う、誉くん。じゃあ僕帰るね。怪我が治る前なら、いつ来てくれても良いから。全治二週間」
「いや怪我が治る前って……今すぐ……いやごめん、週末にはおじゃまするけど……え? サロン行かないの?」
「和泉についてる」
「あ、そっか、ごめん……」
「代わりに今株買ってもらってるから」
「心配しようよ! 何やらせてるの!」

 俺は思わず(軽く)だが、三葉くんの頭を撫でるように叩いてしまった。すると三葉くんが驚いたような顔をした。当然だろう。だが、俺はその時は気がつかなかった。

「やっぱり今行くから! 今日の習い事は断るから! 安静にさせてあげなよ!」
「……両親にも殴られたこと無いのに」

 古典的な台詞を聞き、俺はやっと我に返ったのだった。


 はじめていく砂川院家は、マンションだった。別宅らしいが、高級マンションだ。意外だなと思っていたら、全フロア砂川院家だった……コンビニも病院もレストランも何でもあるマンションだ。一人ワンフロア貰っているらしい。和泉の部屋は五階、三葉くんは六階だった。

「あー、誉? 元気か?」

 かなり高級感が溢れるエレベーターをボーイさんに連れられてあがると、部屋の扉を開けたところで声をかけられた。一歩足を踏み入れた瞬間から、すごくすごく良い匂いがした。そうだった、和泉は香水収集が趣味なのだ。

「元気だよ。和泉こそ、大丈夫?」
「三日で動けるようになったんだけどな、兄貴が株見てろって」

 僕は思わず、三葉君をスッと目を細めて見た。笑顔はかろうじて崩さなかったが。すると無表情ながらもやはり気まずいのか、三葉君が思いっきり顔を背けた。

「和泉、今日からは見なくて良いよ。僕が今まで通り自分で取引するから」
「え、良いのか?」

 三葉君の声に、和泉が心底驚いたというような声を上げた。大変だ、和泉が毒されている。

 僕は再びじっと三葉くんを見た。三葉くんは、鞄を置いてくると言って、五階と六階を繋いでいる階段を上がっていく。

「今、飲み物出すから」
「いいよ和泉、気にしないで」
「株買ってやる代わりに、兄貴にドレイになってもらってるから、やらせる」

 僕はその言葉に思わず吹きそうになった。ドレイ――? 奴隷!?
 ポカンとしていると、降りてきた三葉君に、和泉が笑顔を向けた。

「兄貴ー! 俺、珈琲」
「……誉くんは?」
「じゃ、じゃあ僕も……」

 小学生がそろって珈琲を飲むというのもシュールだった。全員ブラックだった。三葉くんはそれを飲むと、静かに息を吐いた。和泉がそこに声をかける。

「三葉、コンソメ」
「まだ夕食の前だから、食べない方が良いよ、ポテトチップス」
「――!! 僕、すごく食べたい!」

 気づいた時には、思わず俺は叫ぶように言っていた。和泉が、三葉くんを兄貴と呼んでいないことなど忘却の彼方へと吹っ飛んだ。なにせ、ポテトチップス(コンソメ)だ。何故、何故何故、砂川院家にそれがあるのだ。高屋敷家では絶対に食べられないぞ!

「……そんなに食べたいなら」

 三葉くんが、無表情ながらも、若干困惑した顔をして、ポテトチップスを取りに行ってくれた。和泉は頬杖をついて、純粋にびっくりした顔をしている。

「ポテトチップスが好きなのか?」
「あ、その――食べたことがないから」
「ふぅん。ま、そうだろうな。普通コンビニ行かないだろうし。俺もこのマンションに来なきゃ、存在を知らなかったからな」
「マンションに来た? お引っ越し?」
「?生は、通学時間制限あるから、入学にあわせてマンションを建てて貰ったんだ」

 何億かかったのか、素直に疑問に思った。
 その後俺は、今世では初めてとなるポテトチップスの味と懐かしさに、悶えることになった。そんな俺の姿に、和泉と三葉くんが顔を見合わせている。

「株やってる三葉みたい」
「香水集めてる時の和泉みたい」

 そうした感想に、俺は我に返った。まずい、このままだと俺のイメージが瓦解する。あんまりにも庶民風でも絶対に浮く。

「自社製品だから、なかなか食べる機会が無くて。買ってくれて嬉しいよ」

 俺は菩薩になりきった。優しい笑顔を心がける。ゆっくりと目を伏せ、頬を持ち上げた。
 すると和泉が複雑そうな顔で息をのみ、視線をそらした。何故だ。
 三葉くんは、悩ましげな表情をしている。
 俺には二人の反応が高難易度すぎてよく分からなかった。しかし誤魔化すしかない。

「買ってくれて有難うね、二人とも」
「「……」」
「あ、そうだ、折角だし一緒に遊ばない?」

 話を変えなければと躍起になると、和泉が一息ついたようで、視線を巨大なデジタルテレビへと向けた。正確にはそのそばにある白い箱へのようだった。

「トランプとゲームどっちが良い?」

 ゲームなど高屋敷家でやったことは一度もないので、前世知識があるとはいえ、その分現在の最先端にはついて行けないだろうと判断し、俺は答えた、トランプと。きっとこれならば勝てるだろう。

「じゃあポーカー」

 しかし響いた三葉くんの言葉に嫌な予感がした。
 結果は三葉くんの圧勝で、勝負事の強さを見せつけられた一日だった。


 翌日登校すると、存沼が不機嫌そうに、俺を見た。周囲も伺うようにこちらを見ている。面倒くさいが、これは俺から声をかけた方が良いだろう。

「おはよう、マキ君」
「ああ」

 声も低い。確実に怒っているのが分かるが、理由が分からない。俺は何かしただろうか?

「昨日」
「え?」
「昨日何処行ってたんだよ、あの後。なんでサロンに来なかったんだ?」
「あ」

 そう言えば、すっかり存沼の存在を忘れていて、連絡しなかった。
 きっと待っていたのだろう、だなんて考えたら、存沼が愛らしく思えた。滅多にない奇跡だ。

「ちょっとね」

 だから、ちょっと意地悪してみたい気になり、俺は意味深に笑ってみた。
 悪戯心がわいてしまったのだ。

「……へぇ。じゃあこれからは、三葉と遊べよ」

 まずい、すねた存沼は非常に子供らしく可愛い。不覚にも、俺は胸が高鳴ってしまった。やっぱり良いな、子供って。

「どうして? 僕はマキ君と遊ぶの、大好きだよ」
「一番か?」
「うーん、十番目くらいかな」
「おい! なんだよそれ!」
「最近ね、猫と遊ぶのが一番楽しいんだ」

 それは事実だった。俺は両親に貰った子猫をブランシェと名付けて溺愛している。

「じゃ、じゃあ他の二から九は……?」
「一人で遊んだり、後は、三位がすごく沢山いるんだ。三位が六人いるから」
「……? え?」

 存沼は普段は頭が良いというのに、わざわざ指を折って数えている。

「その中でもマキ君は、限りなく二位に近い三位だよ!」
「それってどうなんだよ!」

 まぁ結局三位であるので、俺は笑うにとどめた。
 そんな話しをしているうちに、どうやら存沼の怒りは収まったらしく、教室中に安堵の息が漏れた。いつもおもうのだが、存沼の言動を遠目に見守るくらいならば、級友達も近寄って声をかけてあげればいいのにな。まぁ、存沼は一見怖いから仕方がないのだろうか。それとも家柄のせいなのだろうか。最近俺には分からない。

「兎に角今日は一緒にサロンに行くぞ!」
「うん、そうしようね」

 なんだか保護者になった気分で、俺は約束した。存沼は、すでに俺様の片鱗を見せているが、けっして悪い奴ではない。

 それから授業が始まるまでの間、俺達は雑談していたのだった。