【番外】スーツ姿の(☆)



「――誉、起きろ」
「ん……」

 寝ていたつもりは無かったから、俺は声をかけられ何度か瞬きをし、ハッとした。周囲が明るい。白い上質なカーテン越しに陽光が入ってきている。朝だ。慌てて顔を上げると、そこにはスーツ姿の存沼がいた。アベーユ&アーヘンバッハ社製の洒落た深緑のネクタイに、銀色のタイタックをつけている。

 昨日俺達は、少し狭目の存沼の家で、本日開催のパーティについて話し合っていた。狭目というのは、存沼基準であり、1ヘクタールはある。つまり3000坪くらいはあるのだが……存沼に言わせると狭いそうだ。打ち合わせをするには、小ぢんまりとしていて丁度良いという。

 推薦で受験が無事に終わった現在、最後の高校生活を楽しんでいる俺達は――同時にお互いの家の仕事に駆り出されている。本日に関しては、若手の実業家や二世と、昔ながらの格式ある家柄や大企業の若年層を集めて、人脈作りの場として――『ひな祭り』が開かれることに決まっている。

 だが、男女別の会場なので、ひな壇はあるのだが、来場者は全員男だ。最初、俺は疑問に思ったが、イベントを企画していた時に、西園寺が絶対当たるからといったので、会場には様々なひな飾りが配置されることになった。

 今まで、つまり俺の父の代までは、こういった企画は、高屋敷家が一挙に引き受けてきたのだが、現在――存沼と三葉くんも親しいし、西園寺や和泉も面白そうだというので、この『ひな祭り』に関しては、俺だけではなく、みんなで企画をする事になった。もっとも、「存沼に手伝ってもらえたら、心強いな」と言って、俺は菩薩の召喚をする事も忘れなかった。最初はひとりでやるようにと、さりげなく父に言われた。そのため、存沼に合う時間が減ると伝えて――そうしたら手伝ってもらえる事になったというのも一つだ。

 会場の手配は、今回西園寺が行ってくれた(一番簡単だからだろう)――そしてひな飾りの手配は、三葉くんと和泉がやってくれた。砂川院に、嘗てひな飾り収集をしたご先祖様がいたらしく、自前らしい。すごい。料理の手配は、存沼がやってくれた。では、俺は何をしたかというと――声かけである。一番きつい仕事である。本来ならば、これを周囲に押し付けたかったし、絶対に俺よりも和泉の方が向いているであろう。だが、父は俺にリストを渡し、やんわりと「これは誉の人脈を作るためでもあるんだからね」と微笑みながら釘を刺してきた。俺も手彫りの仏像を召喚して、なんとか表情筋を叱咤し、頷いたものである。その電話、トークアプリ、メール、手紙、SNSその他様々な連絡・交流手段でのやり取りで、俺は朝方まで机に向かっていたはずだ――が、現在俺は、ベッドの上にいた。

「っ……」

 既に着替えている存沼が、ひどく大人びて見えた。屈んで俺の額に唇を落とし、存沼が俺の髪に触れた。長い指が気持ち良かった。

「少し眠れ。先に会場に行っている。任せてくれ」
「ありがとう……ン」

 存沼は、今度は俺の唇に触れるだけのキスをすると、微笑してから部屋を出ていった。
 運んでくれたのだろうと考えて、俺はシーツを握り締め、それからまた微睡んだ。

 俺は何とか一時間前に用意を整えて、会場の入口に立った。

 眠ってすっきりしていたから、心の中で存沼に感謝しながら、自分でもなれないスーツを着た。俺のネクタイは濃い赤だ。存沼が昨年のクリスマスにプレゼントしてくれたのだったりする。会場には、至る所に本物の桃の枝と花が飾られていて、その合間に花びらの映像と照明が散っていた。幻想的な空間が出来上がっている、立食パーティの会場には、既に沢山の人がいる。開始前には、既に人脈作りは始まっているのだ。素早く俺は来場者の顔を確認して、頭に叩き込んだ。事前に全員を高屋敷家で調査していたから、写真付きでデータを貰い、俺は必死で暗記したのである。大丈夫、早く来ていそうな人々は全員いる。一人胸をなでおろしてから、一度頷き、俺は中へとはいった。

 するとざわりと人が動きを止めて、道を開けてくれた。
 主催者だからだろう。よし、良い感じだ。ここには、サロンの威光は届かないが、高屋敷家の輝きは、一応桃の花びらと同じくらいには舞っているらしい。頑張れ、俺。気合いを入れ直し、俺はモナリザを召喚した。グッと笑みを深くする。すると多くの人びとが頭を下げてきた。俺も会釈を返す。順調な出だしである。

 安堵しながら人垣の間を進むと、突き当たりには存沼がいた。なぜだ? これはよく分からなかった。俺の進路を周囲は、何故なのか存沼だと判断したらしい。決して俺は全世界に存沼との付き合いを公言していたりはしないからな! だが、道はひとつなので静かに進み、俺は存沼に歩み寄った。

「ああ、誉。この雛人形、どう思う?」
「――真多呂人形だね。木目が上品で僕は好きだよ。漆の台にも目を瞠る。マキくんは?」
「袖口や衿元に目が行く」

 何だかとてもどうでも良い雑談が始まってしまったため、俺は微笑しつつも周囲を何度も素早く見回し、きちんと交流が進んでいるかの確認に勤しんだ。その間も存沼は、やれ重ねがどうだだとか、本金蒔絵が云々と語っている。しかし存沼の蘊蓄になど興味がない俺は、生返事をしながら、周囲をひたすらチェックした。していた。していたのだが――……気づいたら、その声が無くなってた。

 首を傾げてから、俺は存沼へと視線を向けた。すると存沼は、まじまじと俺を見ていた。透き通るような黒い瞳に、小さく息を飲む。言葉を止めてじっと俺を見ている存沼は、目が合っても何も言わない。見据えられ――見つめられる内に、俺は落ち着かなくなってきた。なんで俺を見ているんだろうか? 俺は見世物ではないんだぞ?

「マキくん? どうかした?」
「お前を飾っておきたいと思ってな」
「え?」
「そして一年中眺めていたい」
「出したままにしておくと、行き遅れるんじゃなかったかな?」
「……」

 俺の言葉に、再び存沼が沈黙した。そして細く吐息してから、俺に一歩近寄った。思わず背の高い存沼を見上げ、何だか今日の存沼は変だなと思った。――腰に手を回されて、抱き寄せられたのはその時のことである。

「誉」
「ちょっと、マキくん、ここ、会場だから……」
「我慢できない」
「え?」
「お前に話しかけようと躍起になっている周囲にも、そんな周囲に気づかず人脈作りだと信じきっているお前にも、お前が俺を見てくれないことにも、全部だ」
「何言って――」
「ちょっと来い」

 そう言って存沼が俺の手首を握った。歩き出したから、腕からは解放されたが、俺は少し低かった存沼の声を脳裏で反芻して困惑するしかない。途中で西園寺と和泉にすれ違ったのだが――「存沼、もっと早く避難させろ」と西園寺が言い、和泉は「誉、しばらくは三葉にピアノを弾かせておくから心配するな」と口にして俺達を見送った。

 一体何だというのか、確かに三葉くんのピアノはプログラム通りだけれど。そう思いながら、隣の控え室に入るとすぐに、存沼が扉を閉めて施錠した。

「っ、ぁ」

 そして俺を唐突に抱きしめて、唐突に激しいキスをしてきた。舌を追い詰められて、俺はすぐに息苦しくなった。息が苦しくなると、巧みに角度を変えられ、そして何度も何度もキスをされた。甘い快楽に浸っていると、気づけばネクタイを緩められていて、俺は我に返ってすぐに焦った。

「マ、マキくん、ちょっと――ぁ……ッ」

 ベルトを外され、一気に下衣をおろされた。こんな事をしている場合ではない。確かにここのところ忙しくて、こういう事をしていなかったが、それは全て今日という本番のためであり、何もその直前に――と、抗議したかったがその前に、咥えられた。

「っ、ッッ、ぁ」

 施錠したとはいえ、ここの壁は防音仕様では無い。慌てて俺は両手で口を押さえた。すると、存沼が意地悪くゆっくりと口を動かし、音を立てて俺の陰茎を嬲った。

「ァ……ま、待って……」

 制止する俺の声が震えた。ジンと体が熱くなってくる。中心に熱が集まり始め、立っているのが辛くなる。穏やかに昂められていき、そのまま俺は放った。肩で一度大きく息をすると、存沼が抱き留めるように俺に腕を回した。その温もりが好きで、俺はぐったりと体を預けた。そうすると静かに床に下ろされて、二人で座り込んだ。存沼の腕の中で、俺は相変わらずぼんやりとしていたのだが、手際良く存沼が服を整えてくれた。乱したのも存沼なのだけれどな……まったく、何を考えているんだろうか。次第に冷静になり、俺は怒りを覚えた。

「マキくん、どうしてよりにもよって今、こういう事を――」
「緊張していたんだろう?」
「え?」
「いつもよりも気弱そうで隙がある誉を見て――俺は自分が抑えられなかったし、同じ思いの人間も沢山いたと思う」
「いるわけが――」
「どうだろうな? とにかく常に俺のそばを離れるな」

 そう言って存沼は、再び俺を抱きしめ直した。
 何というか――独占欲のようなものを感じて、少しだけ嬉しいと俺は思ってしまった。
 それから二人で会場に戻り、俺は丁度終わった三葉くんの演奏に対して賛辞を述べてから、主催者挨拶を行った。幸い、俺達の不在には、特に誰も言わなかった。

 だが――俺はその後、気が付くと存沼のことばかり見ていた。存沼が変なことをしたから悪いのである。意識してしまってイベントどころではなく、俺はずっと存沼を見ていた。どこで誰としゃべっているのかまでチラチラ確認しながら、必死で笑顔を浮かべ続けた。


「誉、さっきよりは良いけど、今度は存沼を見すぎ」
「和泉……違うよ、そんなことはないよ、存沼の後ろの白い梅の花を見て、花言葉を思い出していたんだ――気品、まさにあの花は――」
「誉、無理がある。どうせなら、西園寺と三葉みたいに一緒にいたら良いだろう?」
「……――そうだね」

 俯いて、俺は溜息をついた。もう和泉は、俺と存沼の付き合いを熟知しているのである。誤魔化しても仕方がないだろう。こうしてその後、俺は素直に存沼の隣に行き、そのパーティが終わるまで、並んでいた。

 ようやく終了したと思っていたら、三葉くんが俺と存沼の所にやってきた。
 三葉くんの後ろには、西園寺と和泉がいる。

「誉くんと存沼は、お雛様みたいだったね。二人で並んでいたから」

 その言葉に俺は盛大に咽せ、何故なのか存沼は照れ、西園寺と和泉は笑っていたのだった。このようにして、慣れないスーツを着ての家の仕事を何とかこなした高校最後の冬だった。もうすぐ春が来る。それが俺は、待ち遠しかった。