【番外】浮気(本気)?





「マキ君、次の土曜日なんだけど、空いてる?」

 俺は、存沼の返事が『YES』だと確信していた。そもそも過去、存沼が俺からの誘いを断った事は無いからだ(そもそも、いつも誘われるばかりで、滅多に俺は誘わないのだが)。それに……何より、次の土曜日は、俺達が付き合ってからの、一年目の記念日である。

「悪いが、その日は予定がある」
「え」
「別の日にしてくれ。暫く週末は予定があって埋まっているから、なるべく放課後が良い」
「そう……うん。忙しいなら仕方が無いね」

 存沼にだって、手伝い始めた家の会社の仕事などが、色々あるのだろう……。
 特に三年生になってからは、ちょくちょく存沼は仕事を任せられているらしい。
 将来の夢は政治家らしいけどな!

「頑張ってね」

 俺は笑顔を取り繕いそう述べた。正直、胸の奥がズキリと痛みはした。いつだって存沼はこれまでの間は、俺を優先してくれたからだ。だが俺はそれに甘えていたのかもしれない。だけど……存沼は、記念日を忘れているのだろうか? そう思えば、一人で浮かれていた自分が馬鹿みたいに思えて悲しくなる。

 こうして――その週の土曜日、俺は一人で過ごす事になった。机の上の小箱、存沼にプレゼントとして購入した、アベーユ&アーヘンバッハ社のハンカチは、渡す機会が来るのだろうか?

「まぁ、今度また。忙しいのは、仕方ないよね」

 一人呟いた俺は、引き出しにその小箱をしまった。


 ――翌、月曜日の放課後。俺は存沼と、ローズ・クォーツのサロンへと向かった。中は閑散としていた。テスト前であるから、みんな家庭教師の指導を受ける為に、早く帰宅しているのだと思う。

「ねぇマキくん。この後は、空いてる?」
「ああ」

 無表情で存沼が頷いた。だがその表情がいつもより硬いように思えて、俺は続ける言葉に窮した。機嫌が悪そうというか――どこか、鬱陶しそうにされた気がした。なんだか、誘う空気感じゃない。こんな風に、存沼から距離を感じたのも初めての事だった。

「ただ、何か用事があるなら、今言ってくれないか?」

 椅子に座り、スマホを取り出してから、存沼が俺を見た。俺は軽く首を振る。

「ううん。別に特別な用件があるわけじゃないから。まだ忙しいの?」
「――そうだな。放課後ならとは言ったけどな、暫くは放課後も忙しいかもしれない」

 それを聞いて、俺は下ろしたままで、手をきつく握った。明確ではないが、拒絶された事が、胸に重くのし掛かってくる。

「そっか。頑張ってね」
「そうだな」

 スマホの画面を見ながら、存沼が生返事をした。隣り合った豪奢な椅子に座りながら、俺は存沼の横顔を見る。やはり、存沼は、『声をかけるな』というオーラを出している気がした。だから俺はそれ以上は話しかけなかった。結果、帰宅しようという話を存沼が切り出すまでの間、俺達の間に漂っていたのは沈黙だった。

 明日こそは、話せるだろうか?
 帰路につきながら、俺はそんな事を考えていた。
 しかし――その翌日も、更に翌日も、一週間、二週間と時間が経ち、テスト期間が終わっても、存沼の態度は変わらず、ほとんど俺達の間に会話は無かった。

 そんなに多忙なのだろうか? だとしたら、応援すべきなのは明らかだ。確かに寂しさはあるが、俺の我が儘で、存沼を困らせる訳にはいかない。俺は、存沼の事を現在、しっかりと好きなのだから、応援したい。

 西園寺に廊下で遭遇したのは、そんなある日の事だった。教室でも顔を合わせる事は勿論あるが、話をするのは、久しぶりだった。

「誉」
「何?」
「良いのか?」
「何が?」
「――存沼の事だ」

 意味が理解出来ず、俺は首を捻った。すると溜息をついた西園寺が、一枚の写真を取り出した。そこには、存沼と……着物姿の美女が写っていた。

「これ、何?」
「風紀の調査の一環で手に入れた写真だ。部外秘だが、気になってな。存沼とその見合い相手――婚約者候補筆頭の、長崎製薬のご令嬢だ。実奈美というらしい」
「婚約者……?」

 その言葉に、俺は目を見開いた。考えてみれば、存沼の生家ほどの格式ある家柄ならば、婚約者や許嫁がいるというのは、道理だ。それに、俺は男であるから、存沼の後継者を儲ける事も出来ない。そもそも俺自身だって、いつかは女性との結婚を家族に望まれるだろう……。

「毎週末、ホテルのラウンジで会っている。平日も高頻度で食事をしている。上手く話がまとまりそうなのかもしれない。お前達、別れたのか?」
「ううん。まさか……」

 愕然とした俺は、冷や汗を掻いた。存沼の『忙しい』というのは、彼女に会うため、婚約者候補との時間を作るため、それを理解し、俺の背を嫌な汗が滴っていく。

「このまま行けば、、二人の婚約は確定すると思うぞ。早めに行動した方が良いんじゃ無いか? 好きならな」

 教えてくれた西園寺は、最後にそういうと歩き始めた。残った僕は、西園寺から受け取った写真を片手に、暫くの間、硬直しているしか無かった。

 その日の放課後――俺は陰鬱な気分で、サロンへと向かった。すると、存沼が窓際に立っていた。無表情で、窓の外を見ている。その眼差しを見ながら、俺は、ああ、存沼が好きだと、再実感した。

「マキ君」
「ん?」

 声をかけると、存沼が俺に振り返った。それから面倒臭そうな顔で嘆息した。

「少し、話があるんだけど」

 嫌な動悸に襲われながらも、俺は聞いた。勇気を出す事に決める。

「なんだ?」
「最近忙しいのって、家の仕事?」
「いいや。違う」
「……婚約者候補筆頭と、会ってるの?」
「誰に聞いたんだ? ああ。テスト前の頃の土曜日に見合いをしたんだ。その相手と、定期的に会ってる。今週末も水族館にクラゲを見に行く。再来週は、クラシックのコンサートに行く予定だ」

 何でも無い事のように、存沼は答えた。
 ……俺との記念日に、見合いをしていたらしいと気がついて、俺は双眸を伏せる。

「婚約、するの?」
「誉には関係ない」
「……マキ君。僕の事、好き?」
「ああ……そうだな」

 溜息をついてから、沈黙を挟み、存沼は呟くようにそう言って、ごく小さく頷いた。だが鬱陶しそうな顔をしているのは明らかで、俺には存沼の言葉が酷く薄っぺらく聞こえた。

 これまで俺は、存沼の好意を疑った事など無かった。ずっと舞い上がっていた。
 けれど……全てが偽りだったような気分になる。

 それ以上は、何も尋ねる気力が無かった。この日俺は、自分がどうやって帰宅したのかすら、覚えていなかった。一人きりの我が家の自室で、俺はソファに座り、クッションを抱きしめる。存沼が俺よりも、彼女を優先しているのは明らかだ。泣きたくなってきたが、思わず俺は笑った。自分がどれだけ存沼を好きだったのか、思い知らされた気持ちだ。彼女が羨ましい。心にぽっかりと穴が空いた気分になる。

 どんな相手なんだろう?
 気づくとそればかり考えていた。完全に――やきもちだ。嫉妬である。

「ダメだ。気になる」

 翌日の放課後、本日も予定があると口にしていた存沼の後を、僕はつけた。
 すると高級ホテルの高層階のラウンジに向かった存沼が、写真で見た女性と合流し、微笑を浮かべた。最近、俺には向く事のない笑顔である。切れ長の目をした美人は、本日は洋装だ。背が高く痩身だが、豊満な胸が見える。

 俺は存沼に気づかれないように、彼らの後ろの席に陣取った。そしてメニューで顔を隠しながら、二人の会話に、必死に聞き耳をたてる。暫く和やかに話している二人を、紅茶を飲みながら、俺はチラチラと見ていた。

「存沼様、場所を変えませんか?」
「ああ。今日も上の階のホテルの部屋を取っている」

 それを耳にした時、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
 俺が相手でなければ、勃たないと言っていた癖に……。
 部屋を取っているという事は、これから二人は……。俺は嫌でも存沼が彼女を抱く場面を想像させられてしまった。ジクリと胸が痛む。辛い。

 最近、存沼は、俺を抱きたいとは言わない。それは、彼女がいるからなのだろうか?
 きっとそうなのだろう。気づくと俺は涙ぐんでいた。その時二人が立ち上がったので、俺はメニューで顔を隠す。幸い気づかれず、そのままカフェから出て行く二人を、俺は見送った。二千五百円のマロングラッセを食べる気力も起きず、俺は暫くの間、呆然としたままで座っていた。

 存沼は、きっと彼女が好きなのだろう。そして恋人であるとはいえ、俺には存沼の結婚を止める権利は無い。深々と背もたれに体を預けて、無力感を抱く。何も考えられなくなりそうで、吐き気がしてきた。

「……存沼は、僕の事を好きって言ってくれたのにな」

 過去の日々が、脳裏を過る。温かい思い出ばかりであるから、逆に辛かった。
 気づけば俺は涙を浮かべていた。


 ――翌日のサロンで、俺は存沼と一緒の席に座ったのだが、笑う事に必死になっていた。俺は作り笑いは得意なはずなのだが、モナリザも菩薩も降りてこない。表情筋が凍り付いてしまったようになっていたから、必死で両頬を持ち上げて、存沼に雑談をふっかける。しかし存沼の反応は薄く、やはりどこか面倒臭そうな面持ちだ。

 それが、酷く辛い。
 最終的に、俺は顔を上げていられなくなって、俯いた。
 すると会話は途切れた。存沼は、何も言わない。

 そんな日々が続いていく内に、夏休みが訪れた。会う約束もしていない。俺は何度か存沼に連絡しようとしたが、それも思いとどまった。

 ――存沼から連絡があったのは、夏休みの三日目の事である。

『話がある』

 簡潔な一言だったが、俺は振られるのだろうと確信していた。存沼に愛される彼女の事を思うと、羨ましくなって、胸の内で激情が渦巻く。

 それでも存沼を困らせたくは無かったから、その夜俺は、待ち合わせをしたレストランへと向かった。店員さんに存沼の名を告げると、特別室へと通された。俺は少し悲しい気持ちだったが、無理に笑った。これが、最後に二人きりで会う機会かもしれない。だから俺は小箱を持っていく事にした。折角だから、ハンカチを渡したかったのだ。俺の事を、今後の人生でも、少しで良いから覚えていて欲しくて。

「何か用?」

 料理が届いてから、単刀直入に切り出す。すると存沼が目を細めた。

「お前は、本当に俺の事が好きか?」
「……好きだよ」
「そうか。ならばどうして――俺に婚約者が出来そうだと知っても、いつも通りの態度と表情なんだ? その上、俺に一度も連絡する事も無い。正直俺の機嫌は最悪だ。拗ねてる」
「え?」

 予想していなかった言葉に、俺は目を丸くした。

「マキ君こそ、最近僕に素っ気なかったじゃないか」
「お前が変わらないから拗ねていただけだ」
「でも……え、拗ねて? マキ君は、婚約者候補の人を……その、好きになったんじゃないの?」
「は? 俺が誉以外を好きになるはずが無いだろう」

 その言葉に、俺の胸がドクンと啼いた。

「本当? でも休日も、放課後も、かなりの頻度で会ってて、ホテルにも……」
「ホテルには確かに行った。彼女とは密談があったからな。お互いの利害が一致して、打ち合わせのために何度も顔を合わせていたんだ」
「どういう事?」
「俺も彼女も、心に決めた相手がいる。俺の場合は、お前だ。だから破談にしたかったが、家同士の付き合い、会社の取引があるから、それに問題が起きないように、二人で根回しをしていたんだ。昨日、無事に破談とする事に成功した。それで今日は、誉に聞こうと思って呼び出したんだ」

 これが、事実ならば、今までの切なかった気持ちや、辛かった想いは杞憂だったという事だ。存沼がじっと俺を見ている。視線を合わせて、思わず俺は微苦笑した。

「マキ君、僕の事好き?」
「何を当たり前の事を聞くんだ」
「――一周年記念も忘れてたくせに?」
「覚えていた。だがどうしても家の都合で見合いはしなければならなかった。それからも忙しかったから渡せていなかったが、これを」

 存沼はそう述べると、足下の鞄から小さな封筒を取り出した。僕も慌てて小箱を取り出す。

「こ、これ、僕からの記念のプレゼント。本当に今も俺を好きなら貰ってくれる?」
「嬉しい」

 僕達はそれぞれ品を交換した。

「開けても良い?」
「ああ。開けてくれ、今すぐに」
「うん」

 しかし封筒? 手紙でも入っているのかと考えながら中を開け、取り出して、俺は絶句した。折りたたまれた結婚届が入っていて、片方には存沼の名前が書いてある。男側の欄だ。

「必ず将来、俺は同性婚が可能なように法律を変える。だから、サインをして持っていてくれ。俺の婚約者になってくれ」
「!」

 俺はそれを聞いて……小さく頷いた。存沼の言葉が胸に突き刺さってくる。

 こうして。
 浮気(本気)疑惑は、俺の勘違いだったらしいと分かった。あんまりにも嫉妬していた俺だが、今は心が穏やかだ。この事件をきっかけに、俺は存沼への愛を再確認した。俺は、存沼が大好きだ。

「来年こそは祝うぞ」
「うん、そうしよう」
「何が食べたい?」
「カップ麺のやきそばとか……」
「そういう品を選ぶ、お前の庶民的な所も俺は好きだ」

 誤解も解けて(俺はその後存沼の問いに答え続けた。どこが好きなのかだとか、いろいろだ)、そうして仲直りをした俺達は、個室で誰もいないのを良い事に、最後の料理を食べてから、キスをした。俺へと歩み寄ってきた存沼が、俺を抱きしめた。

 その腕の温もりに泣きそうになる。

「面倒臭そうな顔をしていたのは、さ。その……」
「家や企業への根回しが大変で、それを考えるのが億劫だったんだ」
「でも僕には関係ないって――」
「俺の家の事に巻き込みたくなかったという意味合いだ」
「……そっか」
「ちなみに西園寺に聞かれて、写真を誉に見せてくれと言ったのは俺だ。知らんぷりをしたけどな。誉に――嫉妬されてみたかったんだ」
「え?」

 やはり存沼は、策士である……。まんまと俺は嫉妬した。

「誉こそ、写真を見ても、俺の口から婚約者候補がいると告げても、態度は変わらなかったし――最近、俺といても黙ったり、連絡をくれなかったり……正直、距離を置かれているのかと悩んで、それで俺は、本当に不満ばかりで人生が面倒臭くなりそうだった。誉がいない人生なんて考えられないからな。だからこれからも、俺の隣にいてくれ」

 このようにして、その後も僕達の関係は、続いていく事となった。
 ちょっと切なかったけれど、今では良い思い出だ。