(0)畦浦雪野の見様







 絹賀崎の次期社長で、主席の研究員。この上辺だけで、寄ってくるオメガは数多存在する。それが、億劫だった。

 絹賀崎雪野は、幼少時は礼儀作法を両親と祖父の元で叩き込まれた後、十歳にして海外の大学へと飛び級で進学した。そちらでも何度もスキップし、僅か十五歳にして修士課程までを卒業、十六歳になる頃には、海外にある絹賀崎製薬と提携している研究所にて、研究員として働き始めた。

 最先端の医薬品を開発し、実績を確かにし、名声を手に入れた。それは絹賀崎家に付随するものだけではなく、本人の実力でもある。中でもオメガ用の発情期抑制剤の改良版及び、それまであまり着目されてこなかった、アルファ用のラット抑制剤の開発研究は、世界的にも着目された。

 しかし、どこか乾いていた。

 この世に蔓延るオメガ差別も、アルファへの羨望の眼差しも、そして大多数のベータによる賞賛も、いずれも雪野の乾いた心に水を垂らすものでは無かったのである。

 帰国したのは、父が病を患ったからだった。手術により今では回復したが、二十代になった雪野に、早くに社長の座を譲りたいとして、経営に携わる事を父は求めた。現在会長をしている祖父も乗り気である。アルファの女性だった母は、雪野が大学へと進学する少し前に、やはり病で亡くなっていた。元々体が弱かった。

 両親が男女のアルファである――男女であればアルファ同士でも子が成せる、そんな家に生まれた生粋のアルファ。それが絹賀崎雪野である。周囲は幼少時より期待したが、それを裏切らず、アルファと判明した雪野は、次々と成果を残していった。

 そんな中で、帰国後も経営学と帝王学を学ぶ傍ら研究を続けていた雪野の元に、政府から新たな研究の打診があった。それは、これまであまり着目されてこなかった『運命の番』研究である。本能的な直感以外では、それまで判別がつかないとされてきた。だが、運命だと述べる人々のフェロモンを解析した結果、特定の規則性が見つかったのである。

 国は、名だたるオメガやアルファのデータを収集し、血筋の研究を行っていた。絹賀崎製薬にも、治験者や被験者のデータが揃っていた。その中から、運命と考えられる組み合わせを導出し、確認する実験が行われる事となった。

 雪野は、興味があった。これまで、オメガに心を惹かれた事は無かった。それはラット抑制剤を服用しているからなのかもしれなかったが、本能を揺さぶられた経験が無いという事でもある。絹賀崎家の後継者であるから、雪野は結婚し子孫を残す事を常々求められていた。だが、恋をした事が無い。

 運命など、存在しないかもしれない。だが、仮に存在するならば?
 燃えるような恋に、恋という概念に、雪野は興味があった。
 本当に本能的に直感出来るのかも知りたかった。

 だから己のフェロモンを用いて、運命の番を探した。すると政府から提供されたデータの中に、合致する人間がいた。十六歳――稲崎学院に通う生徒だった。未成年であるし、僅かに年の差もあるが、会ってみようと考えた。

 一般的なオメガと差異が無いのならば、ただの子供だとしか考えられないはずだと確信していた。こうして、過去に取得していた教員免許を用い、研究を理由に、稲崎学院の教師として赴任する事に決めた。

 前任者からの引き継ぎの日には、学院生活とは陰湿な側面もあり大変なのだなとも感じたが、何より、生徒名簿の写真を見て――綺麗だなと感じていた。

 運命の番だと判明した生徒は、杉井涼介という名前をしていた。

 線が細く、僅かに茶色が差した髪色をしている。色白で、端正な顔立ちだった。

 いざ、教室に入り、実物を見た時には、その繊細な少年らしい美に圧倒された。いいや、気配に、フェロモンに、飲み込まれかけた。涼介は発情しているわけでは無いというのに、明確に甘い香りがする事に気づいた。雪野もまたラット抑制剤を服用しているというのに、視界に涼介が入った瞬間、本能的にうなじを噛みたいと思ってしまった。

 すぐにそんな煩悩を振り払い平静を装ったが、終始動悸がしていた。

 直接、出席確認で名を呼び、返答があった時には、異様な胸の高鳴りを感じたものである。その日から、涼介の事しか考えられなくなった。

 ――杉井家は名門だ。稲崎学院の生徒達は、在学中に婚約する事も多い。その相手は、運命の番だとは限らない。どうしても涼介が欲しかったが、研究をしなければならないと念じ、教師の顔をしながら雪野は毎日を過ごした。

 婚姻自体は、絹賀崎家の名前を出せば可能なはずだと確信していた。

 絹賀崎家は、日本屈指の大企業の創業者一族だ。戦後に、旧華族だった曾祖父が後を引き継ぎ、今では世界展開している。旧華族という事で血筋も確かであり、財力もまた、日本屈指で大富豪と言われる。本人の名声もある。

 これまでそういった外郭に興味が無かった雪野だが、この時初めて生まれを感謝した。まずは外堀を埋めてしまいたい。しかし涼介はまだ学生だ。直接杉井家に知らせるべきでは無いかもしれない。何より自分は運命の番だと確信しているが、涼介の側の気持ちはまだ分からない。

 そこで雪野は提携企業である杉井コーポレーションの関連企業の、栄養食品会社代表取締役を務める、涼介の兄、海(かい)都(と)に連絡を取った。

「涼介を、伴侶にですか?」

 会議終了後、料亭に呼び出して、二人きりの場で雪野は伝えた。既に家族関係の調査は済んでいて、海都が涼介とのみ親しく実家とは距離を置いている事は知っていた。

「ああ。どうしても涼介君が欲しい」
「……番研究のお話は分かりました。ただ俺は、弟の気持ちを尊重したいので、見合いの打診は引き受けかねます」
「俺も即座に見合いをしたいというわけではないんだ。ただ――在学中に、そしてその後も、誰かと強制的に涼介君が結婚してしまう事が怖い。俺も彼の気持ちを尊重するつもりだが、せめて……卒業し、成人してから、俺の気持ちを伝えるまでは、結婚を待って欲しいんだ」

 素直に雪野が告げると、杉井海都は、少し思案するような顔をしてから、小さく頷いた。

「もしも見合いの打診があったとしても、実家から俺に連絡があるとは思えません。そういう事でしたら――……そうだな。涼介には、SPがいるんです」
「ああ。放課後、迎えに来ている姿を見た事がある」
「そのSPの要であれば、杉井家に動きがあれば、即座に分かるはずです」
「なるほど」

 その日の接待を装った密談は、そこで終了した。以後、涼介の兄である海都とは、何度も雪野は食事を重ねる事となる。次第にその話題は惚気に変わっていき、海都が辟易するほどなのだが、雪野はそれを気にしなかった。

 惚気。

 それは、涼介が明らかに己を目で追っていると、雪野が気づいた事が始まりだった。例えばテストで好成績をおさめた涼介を褒めた時など、普段はあまり変化の無い表情に、明確に歓喜の色が浮かぶ。相思相愛……かもしれないと考えるには十分だった。

 平行して雪野は、徹底的に要(かなめ)勇吾(ゆうご)の事も調べた。要家は、代々杉井家に仕える家柄であるが、果たしてそれだけが理由で忠誠を誓っているのか。少し調べただけで、他の理由も見えてきた。杉井家は、要家に、給金以外にも援助をしている。それは、要の妹が病弱だからだった。高額の薬代を肩代わりしているらしい。それもまた絹賀崎製薬の薬であり、雪野が開発した品の一つだった。雪野の母と同じ病であり、母が亡くなった事を契機に開発しようと雪野が意気込んだ薬でもある。

「要君」

 ある日の夕暮れ。校門へと、雪野は足を運んだ。暫く涼介は教室で自習をしているはずだと既に知っていた。雪野の帰りを待っていた要に、雪野は切り出した。

「頼みがあるんだ」
「……貴方は?」
「涼介君の担任だよ」
「頼み、ですか?」

 首を傾げた要に対し、雪野は優しい顔を取り繕って、頷いた。

「もしも、涼介君が結婚する事になったり、好きな人が出来たという話を耳にしたら、俺に教えて欲しい。俺は――ここでは畦浦雪野と名乗っているベータの教師……だが、実際の素性は別なんだ」
「どういう事でしょうか?」
「海都君から君を紹介された。政府機関の調査の関連で、涼介君が、俺の運命の番だと判明したんだ」
「えっ……で、でしたら、早急に杉井家にご連絡なさっては?」
「涼介君の気持ちもあるし、まだ研究の途中なんだ。ただ――俺は涼介君に惹かれているんだ。内密にして欲しいが」

 雪野はそう言うと、白い大きな封筒と名刺を取り出した。

「この番号に連絡が欲しい」
「……」
「それと、妹さんが大変らしいな」
「……何故それを……」
「ここに、絹賀崎製薬傘下の大きな病院への紹介状と最先端の治療の許可証が入っている」
「!」
「医療費を保障する書類も同封してある」
「な……」
「今、転院すれば、現在の病院で告げられている余命の、倍は生きられる可能性が高い」
「事実ですか?」
「ああ。その代わり、涼介君に変化があれば、教えて欲しいんだ。出来れば、婚姻にまつわる事以外にも」

 絹賀崎雪野は、したたかな人間である。機転も利き、頭脳は明晰だ。だが、これまでに買収などした経験は無かった。それでも、涼介を手に入れるためならば、何だって出来ると考えていた。汚い手法を用いる事すらも、躊躇しない自信があった。それだけ、涼介が欲しかった。

 要はこの日は、何も答えなかったが、雪野は連絡が来ると確信しながらその場を後にした。

 涼介が過呼吸を起こしたのは、その数日後だった。抱きしめた涼介の体は華奢で、涙ぐんだ瞳に、思わずキスをしてしまいそうになったが、必死に堪えた。涼介の事だけは、大切にしたい。涼介の前でだけは、誠実でいたい。それは何でも出来ると考えた心境とは、著しく異なる。兎に角、涼介の事が大切で仕方が無くて、涼介には、本来の自分を知って欲しかった。

 ――そんな涼介に対する陰湿なイジメを認識した瞬間には、頭が沸騰しそうになった。絹賀崎家の権力を、躊躇無く用い、浅香家に連絡を取ったのは、その日の内の事だった。内容は、絹賀崎製薬傘下のある企業の代表が婚約者を探していて、稲崎学院にて素行調査を行う予定だというものだ。その候補の一人に内定した浅香の人間の素行調査を行うという趣旨だった。それとなく、イジメ等をしていた場合はこの話は消滅する事も伝えれば、ピタリと翌日から、クラスの被害者へのイジメは止まったものである。

 過呼吸を起こした涼介が数日休んでいる間――要から電話があった。

『涼介様は、どこにも異常がないそうでした』
「そうか」
『それと……無事に妹の転院が済みました』
「何よりだ」
『あの……僭越ですが、本当に涼介様に惹かれていて、涼介様が運命の番なのですか? とすると、畦浦先生は、その……アルファなのですか?』
「そうだ」
『――必ずや、涼介様を、幸せにして下さいますか?』

 淡々と電話から響いてくる声に、スマートフォンを耳に当てたままで、大きく雪野は頷いた。

「ああ、約束するよ。必ず、涼介君を幸せにする」

 明確な決意だった。
 この日から、要と雪野は協力関係となった。

 学院では涼介と距離を縮めていくようにし、そうして裏側では、学院外での涼介の動向を要から報告してもらうようになった。この話を料亭ですれば、海都は苦笑したものである。

 そんなある日の事だ。涼介に惹かれ始めて、激情が体の中を渦巻いていた頃――涼介が大学進学を希望したのだ。

『先生のような教師になりたい』

 涼介のそんな言葉。激しく胸を掴まれた瞬間だった。この頃には、教職自体にも力を入れていた雪野は、その声が嬉しくて仕方が無かった。同時に、涼介の視界に己が入っている事も知り、歓喜した。

 その後、涼介の卒業までは、あっという間だった。この頃には、涼介もまた己を好きなのでは無いかと確信するほどに、熱い視線を向けられている事を意識していた。努めて自分では涼介を見ないようにしていたのは、気持ちが露見してしまわないようにだった。

 そして――卒業式の日。

 涼介に呼び出された。公園へと向かいたくて、何度も時計を確認しながら、終了を待ち、残処理が終わってすぐ、雪野は公園へと向かった。そしてなけなしの理性を発揮した。涼介は、大切にしなければならない存在だ。だからせめて、二十歳になるまでは。

 その後の二年間は、担任の仕事には就かず、非常勤に形態を変えて学院の教師を続けつつも、再度研究と経営に時間を割くようになった。仕事に没頭していれば、涼介への想いを少しだけ柔らかく出来る。そうしなければ、激情に突き動かされて、すぐにでも会いに行きたくなってしまう。

 涼介と会わなかった二年という歳月の間には、何度も嫉妬でおかしくなりそうになった。ついに涼介も見合いをするようになったからだ。その度に要から連絡を受け、雪野は二人が乗り気の場合、それとなく妨害する準備をしていた。しかし涼介は幸い乗り気になる事は無かった。だが、何人ものアルファが、涼介に惹きつけられたのは知っている。

 涼介は、美人だ。どんな風に成長しているのか。

 そう考えながら、約束の期日が来た時、柄でも無く雪野は緊張した。本当に、涼介は公園へと来るだろうか? そんな不安を僅かに抱きながら向かった公園には、少しだけ大人びた涼介の姿があった。抱きしめてしまいたくなった。その衝動に抗えず、両腕の中に閉じ込めた涼介からは、心地の良い甘い香りがした。

 今年で二十歳。残り約二ヶ月の、涼介の誕生日までの時間が、永遠に感じられたが、新たなる約束を取り付けた。

 その後、雪野は、父と祖父を呼び出した。静かなフレンチ料理の店で、雪野は切り出した。

「結婚したい相手がいます」

 すると二人は顔を見合わせてから、どちらも笑顔になった。

「それは、誰だい?」

 父の言葉に、雪野は静かに述べた。

「杉井家の次男の、涼介君です」
「杉井といえば、オメガ家系の名だたる名家だな。絹賀崎の家にも相応しいだろう」

 祖父は微笑をたたえながらそう告げた後、僅かに首を傾げた。

「運命の番研究はどうなっているんだ? 家柄が不釣り合いであっても、気持ちや間柄が確かな方が良いのでは無いのか?」
「涼介君が運命の番だと、研究の結果明らかになり、見に行ったんです。その瞬間から、心を掴まれました」

 正直に雪野が述べると、再び祖父と父が視線を交わしてから、揃って笑顔で頷いた。

「雪野が決めた事ならば、反対はしない」

 この日の食事の時間は、そのようにして、穏やかに流れていった。

 ――六月六日が訪れた時、雪野は海都に連絡を取った。そして今日、気持ちを伝えるつもりだと明確に述べた。海都はもう、反対はしなかった。この頃には、雪野と海都は良き友人関係になっていた。要にも同様の連絡をして少しすると、返信で、今から公園に向かう所だと聞かされた。純粋に嬉しかった。

 こうして待ちに待ったその日。

 雪野はもう堪えきれずに、涼介を攫ってしまった。涼介を思う存分貪り、衝動のままにうなじを噛んで、抱き潰した。涼介が意識を飛ばしてしまってから、海都と要にまず連絡をした。海都は苦笑し、要は焦った様子だったが、今度こそ杉井家に連絡を入れると伝えれば、要もまた嘆息しただけだった。

 次いで、最も影響力がある祖父に、杉井家へと連絡を取ってもらった。涼介の気持ちを明確に聞くまでは素性を述べないで欲しいと――伝える場合は自分から挨拶に赴き伝えるからと祖父には言った。

「協力しよう。雪野の幸せのためならば」

 このようにして、涼介を攫った雪野は時間を得た。後は――涼介を決して逃さないようにするだけだ。優しい涼介ならば、子供が出来たとなれば、きっと一生自分の元から離れないだろうという打算。躊躇無く、雪野は妊娠を促進させる薬を用い、涼介を発情状態へと導いて、その体を何度も何度も貪った。

 真摯でありたかったはずで、優しくしたかったはずなのだが、もう抑制が効かなかった。激しく打ち付け、時に焦らし、様々な涼介の表情を目にする内、恋を知らなかった自分を既に思い出せなくなっていた。

 涼介だけが、全てだった。