【一】
今年も緋茅山には、藤の花の淡い紫が見えるようになった。雪害によるビニールハウスの破損の修繕状況を確認するため、葉宮朝希は畑へと向かった。十八歳で隣の仙鳥市の農業高校を卒業して以後、父親のトマト作りを受け継ぎ、朝希は農家として生計を立てている。
その父は一昨年に病を患い、仙鳥市で暮らす兄の家に、現在母と共に身を寄せている。弟は農業大学に通っており、都心で暮らしている。そのため朝希は一人暮らしで、二十四歳の今年も、夏はトマト、その他にはキュウリやピーマンも作りながら、静かに過ごしている。野菜の成長と土の状態を目にする以外は、刺激のない日々だ。
しかしそれが、心地良い。毎日が平穏である事を、朝希はなにより好んでいる。
「そろそろ苗植えに丁度いい時期だな」
そう呟いて、朝希は帰宅する事にした。畑から県道に出て歩いていくと、野菜の無人販売所が見えた。木製の箱に百円を入れて、そこに並んでいる本来廃棄されるはずだった野菜を持ち帰る事が出来るという仕組みで、この一帯には多数の無人販売所がある。朝希は本来一つ三百五十円ほどで流通しているトマトを見た。規格外が理由で商品にならず、十個入りが百円で売られている。自分はここに、野菜を並べたいとは思わない。その後細い坂道をのぼると、葉宮家が見える。江戸時代には既に農家だったという記録が残っている。靴を脱いで家に入った直後、居間に置いてある電話が鳴った。視線をそちらに向けて歩み寄り、電話機に表示された番号を確認する。そして内心で『またか』と考える。これは営業の電話だ。嘆息しながら朝希は受話器を手に取る。
「はい、葉宮です」
『お世話になります。私は眞郷と申しまして、フードロス関連の――』
「何度電話をもらっても、話を聞く気はない。もうかけてこないでくれ」
きっぱりと断言してすぐに、朝希は受話器を置いた。もう幾度も電話を受けているため、内容は分かっている。
朝希は歳若いながらに、この辺りで一番大きなトマト農家だ。勿論、規格にあうトマトを作っている。するとその過程で規格外のトマトが出来る事もあり、現在それらは廃棄している。その廃棄する規格外野菜を買い取りたいという、営業の電話だ。朝希でも名前を聞いた事がある大手の食品会社が、新しく新設したフードロス関連部門からの電話で、この緋茅町の多くの農家に連絡がきている。というのも、町おこしの一環として、規格外野菜の有効活用を推進していこうという風潮があるからだ。実際にいくつかの農家は、既に契約を結んでいる。だが朝希は、規格外野菜を売りたいとは思わない。それは無人販売所にすら置きたくない理由でもある。
居間から洗面所へと移動し、水を出しながら朝希は嘆息した。
「せめてトマトくらいは、規格内の品を作りてぇからな」
呟いてから、正面の鏡を見る。そこに映る己の顔が険しかったものだから、朝希は水を止めてタオルで手を拭いてから、片手で眉間の皴をほぐした。
「俺と違って、トマトはきちんと育てれば規格内になる。大多数は規格内になる。一定数規格外が出るのは……まぁ、人間にも俺みたいなのがいるんだから、仕方ねぇけどな……」
溜息を押し殺した朝希は、それから二階の自室へと向かい、服を着替えた。今夜は、農協が主催する集まりがある。壁にかけてある時計を見れば現在は午後四時半で、会合は六時からだったなと思い出した。
集合時間が間近に迫ってから、朝希は車で、集まりが行われる近くの温泉へと向かった。緋茅の里という宿泊施設だ。町に一つだけの宴会場でもある緋茅の里では、何かと会合や食事会が行われる事も多い。本日も酒や料理を交えての話となる。
指定時間の十分ほど前に会場に入ると、朝希を見て先に来ていた青年が笑顔になった。
「朝希、お前っていつも十分前に来るよな」
早すぎても遅すぎても迷惑だろうというのが、朝希の考えだ。声をかけてきた高校時代の先輩である山岡の手招きに応じて、頷きながら朝希はそちらへ向かう。そして山岡の横の座布団に腰を下ろしてから、朝希は改めて隣を見た。
「山岡先輩はいつも早いな」
「今日は特別だ。さっきまでここのレストランで、眞郷さん――ああ、営業さんとな、契約書をかわしてたんだよ。その後、風呂に入ってそのまんまここに来たんだ」
眞郷という名を、先程電話でも耳にしたなと、漠然と朝希は考える。
「あの人は、本当にいい人だよ。何より熱意がある」
「へぇ」
「全然興味が無さそうだな、お前」
「無いんで」
はっきりと答えてから、朝希は山岡がコップに手を伸ばすのを見ていた。まだ会合は始まっていないから、中身は普通のお茶らしい。
山岡が高校三年生の時、朝希は一年生だった。中学も小学も同じだったのだが、高校まではそれほど意識した事は無かった。けれど農業高校という専門性の高い進学先に通うのは、この地元の緋茅町からは二人だけだった事もあり、すぐに親しくなった。しかし山岡の『親しい』は、後輩に目をかけてくれるという優しさだったが、朝希が向けた目は違った。朝希は明確に、恋愛対象として山岡を見てしまった。それを自覚したのは、下宿先で山岡の夢を見て、夢精してしまった朝の事である。中学時代や小学時代も、女子を好きになる事はなく、それぞれの時に気になる男子がいた事を、その朝は嫌でも想起させられた。
(まぁ、昔の話だけどな)
内心で朝希は、その思考を振り払う。先輩への恋心は、山岡が結婚した日に忘れる事にした。当初は一人、部屋で泣く事もあったが、今では諦めもついている。だからこうして隣で話をしても、もう辛くはないし、妻や子の話を山岡が語っても、胸が痛む事はほとんど無い。
そうであっても山岡は、朝希がゲイだと自認する契機になった人物だ。今でもふとした時に、山岡の存在を思い出す事がある。
男なのに男が好きである事――それを朝希は、『規格外』だと考えている。『普通』の枠組みから外れてしまった、トマトであるならば商品にならない存在と同じだ。
(俺も『規格内』だったなら、今頃奥さんでもいたんだろうか)
漠然とそう考えていた時、会合が始まり、山岡が瓶ビールを手に取った。慌ててグラスを持ち、朝希はビールを注いでもらう。それからグラスを置き、今度はこちらが瓶を受け取って、朝希は山岡が傾けたグラスにビールを満たした。
「ええと、本日はですね、町おこしの一環としての、フードロス関連の事業への参画について、皆さんとお話がしたいんですよ」
農協の職員が、乾杯の音頭を取った後に、そう切り出した。ゆっくりとビールを飲み込みながら、朝希は耳を傾ける。既に何度も聞いている規格外野菜の利用についての話だった。特にトマト農家が緋茅町には多いため、レトルトのパスタソースやジュースにする案が、大手企業の新部門から提案されているという話が主体だ。
「他にもフードロスに焦点を当てたレストランなどもあるそうでして」
説明を聞いて頷いている同業者は多い。野菜農家の面々の内、三分の二程度の人間は、かなり前向きに考えている様子で、実際隣に座っている山岡も好意的だと朝希は知っていた。その後話が終わると、酒と料理を楽しみながら、意見交換を行う事となった。朝希は内心では反対していたが、口に出す事はせず、真面目な表情を保って酒を飲む。
すると山岡が、朝希の肩を叩いた。
「お前はどうなんだよ? 朝希のとこが、トマト農家の中じゃ、一番大きいだろ? その分廃棄野菜も多いんじゃないのか?」
「――俺は参加しない。先輩達で好きにやってくれ」
「なんで?」
「規格外は規格外だ。廃棄する」
「お前は本当に譲らないよな。頑固一徹っていうか。ま、農家らしい農家だといえばそうだけどなぁ。もっと柔軟に考えた方がいいんじゃないのか?」
「なんとでも言ってくれ」
「自分の意志をまげないって言うのが、朝希らしいけどな」
それを聞いて、内心で朝希は首を振った。本当は、己が規格外だと露見するのが怖いだけだ。だからいつも上辺では強く真面目な素振りをしているにすぎない。誰かに踏み込んでこられるのが嫌なだけだ。そのため静かに一人で野菜を愛でている時が、一番安らぐ。他者に同性愛者だと知られる事、内側を見透かされる事を、朝希は恐れていた。ただ、周囲はそんな朝希を見て、農家らしい農家だという。『規格内』だと考えているらしい。
(本当の俺は、『規格外』なのにな)
自分の外側を、人に踏み込まれないように武装すればするほど、真面目な人物だとして、周りは朝希を捉える。それこそ『規格内の見本』のような扱いを受ける。古き良き農家の考え方をしているのだと、人々は朝希に対して誤解をしている。
「ただな、眞郷さん――あ、営業の人、な? あの人と一回話してみろよ。考えが変わるかもしれないぞ? あの人は、本当に熱心だから。朝希に電話を切られたって、さっきチラっと聞いたぞ?」
「電話は切った。話す気がねぇからな」
「おいおい、そう言うなよ。眞郷さんは、新部門の代表なのに、自ら営業をして、電話だけじゃなく現地に足を運ぶほど、情熱をもって接してくれてるんだ」
苦笑している山岡が、再び瓶を傾けたので、朝希はもう一杯ビールを注いでもらった。
このようにして、会合の時間は流れていった。