【五】




 レストランに行ってから数日後。

 仕事を終えて帰宅した朝希は、大きく吐息しながらキッチンにいた。冷蔵庫の野菜室から取り出したのは、自分が作った野菜達だ。それらを切って簡単なおかずを用意し、夕食とした。居間のテーブルに料理を運び、手を合わせてから考える。

 キュウリとトマトのサラダ、おひたし、鮭だけはスーパーで買った品だ。朝希にしては珍しくないメニューである。このキュウリとトマトは、それこそ規格外野菜だ。これまでも今のように、廃棄しない分を、自分では食する事があった。味が劣っても、己が食べる分には構わないと考えていた。それこそ規格外でも大切な成果物であったし、自分と似たような存在であるこれらの野菜を見ていると、慰められるような気持ちにもなる。だが、本当に未来があるならば、その可能性を潰してよいとも思わない。静かに箸で野菜を口に運びながら、朝希は味を確かめる。

 翌日も仕事へと向かい、朝早くからトマトと向き合った。そうして昼休憩になりビニールハウスから外に出ると、眞郷の姿が見えた。本日もスーツ姿だが、不似合いなスニーカーを履いている。

「こんにちは、朝希くん」
「おう」
「これ、差し入れだ」

 本日も眞郷はトマトジュースを持参した。受け取りラベルを見ると、今度は品名がついていて、洒落たデザインに変わっていた。礼を受け取り飲んでみると、味は前回のものと同じだった。

「軌道に乗って、全国のレストランで提供と販売をする事になった」
「そうか」
「トマトが足りないくらいだ。と、言っても、限定品だときちんと書いてあるから、こちらのためにも量産してもらう必要はない」

 タオルで汗を拭きつつ、眞郷の言葉を聞いてから、静かに朝希は頷いた。その頷くという些細な仕草に、眞郷が目を留める。

「分かってくれているみたいだな」
「そりゃあ、まぁ……」
「結論を急かすつもりはないが、今の気持ちを聞きたい。今夜、仕事が終わってから、少しお話をさせてもらえないか?」
「少しだけならな」
「良かった。では、俺が泊まっている温泉のレストランに予約を入れておく。名前は――」
「この町には一軒しか温泉はない。緋茅の里だろ?」
「ああ、そうか。そこです。何時が良い?」
「六時には行ける」
「では六時に」

 そんなやりとりをしてから、朝希は土手に設置してある簡素な木のベンチを見た。いつも昼食はここで、簡単に作ってきたおにぎりを食べている。そばの水道で手を洗ってから、朝希がそこに座ると、自然な動作で眞郷も隣に座った。

「美味しそうな大根の味噌漬けだな」
「漬物は慣れると簡単だ」
「手作りなのか」
「まぁな。これもあんたの言う規格外の大根だよ。そこの無人販売所で買ったんだ。あそこに物を置く連中に、もっと率先して声をかけてまわってみたらどうだ? きっと喜んで、眞郷さんの話を聞くと思うぞ」
「そうか、それは良い事を聞いた。でも、今俺が心を動かしたいのは、君だからな。朝希くんに考えを変えてもらってからにする」
「まぁ確かにトマトハウスの規模は、俺のところが大きいかもな」
「規模だけの問題じゃない。俺はもっと朝希くんの事が知りたくなったし、俺の事も知ってもらいたいと思ってるんだ」
「ビジネスパートナーみたいなのが、俺にはよく分からねぇよ。俺は、農業しかやった事がねぇからな」

 そう告げてから、朝希はおにぎりを食べた。おかずは昨夜余分に焼いた鮭をほぐしたものである。朝希の昼食の間、ずっと眞郷は隣に座り、あれやこれやと雑談を口にしていた。食べつつ適度に頷きながら――距離が近いなと、朝希は考えた。時折眞郷の端正な横顔を見ては、距離感が分からなくなる。熱心に規格外野菜の活用方法から趣味にいたるまでを語っている眞郷を見ていると、何故なのか時に惹きつけられるような感覚になる。多分、自分とは違って明るいからなのだろうと、朝希は思った。どうしても己には、同性愛者だという事を隠している負い目がある。人々に見せているのは、所詮偽りの姿だという感覚がある。

 だが眞郷には、そんな迷いは微塵も見えない。同じゲイであるのに、やはり眞郷は『人間の中の規格品』に見えた。

 それが羨ましくもあり、眩しくもある。

 眞郷のようになりたいと思うわけではないが、考え方の違いを目の当たりにすると、自然と気持ちを動かされるから、惹かれてしまうのかもしれない。食べ終えてすぐ、そんな思考を振り払い、朝希は立ち上がった。

「じゃあ、六時に」
「うん。頑張ってな。応援しているから」
「どうも」

 こうして朝希は仕事へと戻った。

 熱中して農作業をしてから、朝希は四時頃本日の仕事を終えて、一度家へと戻った。そして洗面所で手を洗ってから、軽くシャワーを浴びる。汗を流してから、服を着替えた後、キッチンで水を飲んだ。その後居間で、車の鍵とスマートフォンを小さな鞄に入れて、時間が過ぎるのを待っていた。

 丁度六時の十分前に目的地へつくように、車に乗る。そうして緋茅の里に到着し、顔見知りの従業員にフロントで軽く頭を下げてから、奥のレストランへと向かった。すると既に来ていた眞郷が振り返った。給仕をしている従業員に案内され、予約席と出ているそのテーブルへと、朝希も向かう。ここは、メニューのあるレストランだ。

「何が食べたい?」
「そうだな、肉がいい。いつも野菜ばかりだからな」
「好きなものを頼んでくれ」
「お言葉に甘えて」

 こうして朝希はステーキのセットを頼む事に決めた。眞郷は天ぷらのセットにするらしい。その時注文を取られる前に、二人の前に地元が展開している米焼酎の瓶とロックアイス、そしてグラスが運ばれてきた。どうやら眞郷が先に頼んでいたらしい。それを持ってきた従業員に、料理を頼み、二人はグラスを合わせる事にした。

「乾杯。それで、朝希くん。聞きたい事があるんだ」
「例年のトマトの廃棄量か?」
「――それも知りたいけどな、残念ながらハズレだ」
「じゃあなんだよ?」
「前に、俺の好みを聞いただろう?」
「そ、それがなんだっていうんだよ?」

 まさかゲイだと勘づかれたのだろうかと焦りながら、朝希はグイとグラスを呷る。すると眞郷が喉で笑った。

「俺にも訊く権利があると思っただけだ」
「は?」
「朝希くんの好みのタイプ、教えてくれ」

 それを聞いて、朝希は息を呑んでから、瞳を揺らした。頬が熱くなった気がしたが、酔いのせいだという事にする。咄嗟に頭の中に浮かんだのは、誰でもなく、目の前にいる眞郷の顔だ。以前だったら先輩の山岡の顔が浮かんでいた気がするから不思議だと考えた直後、その理由に気づいて朝希は焦った。自分が眞郷を意識していると気が付いてしまったからだ。

「え」

 しかもその意識している相手に、好みのタイプを訊かれている。こんなのは緊張しない方が無理だと朝希は思う。一度気づくと、ドクンドクンと鼓動の音が煩くなり始めて、いやにそれが耳に障る。

「教えてくれないのか?」
「い、いや……そ、そんなの訊いて、どうするんだよ?」
「それは答えになっていないな。どうするかは俺の勝手だ。教えてくれ。俺にも訊いただろう? ずるいな、教えてくれないなんて」

 そう言われると、言葉に詰まってしまう。しかし眞郷本人に眞郷がタイプだなんて伝える勇気はない。

「えっと……だ、だから! 明るくて……自分に素直っていうか……隠し事をしないというか……自分に自信がある感じで……余裕もあって……そ、そんな感じだ」

 途切れ途切れに小声で朝希が答えると、眞郷が静かに頷いた。

「具体的だな。好きな相手がいるのか?」
「ち、違う! べ、別に好きじゃない!」
「好きじゃない、ね。『まだ』という事か? 誰かいるんだろう? 思い浮かべた相手が」
「……っ、どうだっていいだろ!」
「よくない。嫉妬する」
「は?」

 眞郷の言葉に耳を疑った朝希は、目を丸くした。するとグラスを傾けてから、眞郷が中の氷を見た。

「俺は我ながら、自分は明るいと思うし、自分には素直だと思うし、隠し事もしないと思ってる。自分の行いに相応の自負があるから、自分に自信がある方でもある。ただ、余裕は時と場合によってない。が、これはある場合もあるって事だ。つまりその条件の全てに俺は当てはまっている。という事は、朝希くんに思い浮かべてもらえたかもしれないだろ?」

 実際、思い浮かべたのは眞郷だ。動揺した朝希は、さらにグラスを呷った。

「朝希くんが思い浮かべたのが、俺だったら嬉しいと思ってな」
「な、何言ってんだよ」
「――ポジティブなのは俺の取り柄だ。もしかして、俺を思い浮かべたのか?」

 それを聞いて、朝希はあからさまに息を呑んでしまった。唇を震わせるが、否定の言葉はおろか、声が喉でつかえて何も出てこない。カッと頬が熱を帯びる。

「と、いうのは冗談のつもりだった――が、その反応……もしかして、もしかするのか? 顔が朱い」
「酔いがまわっただけだ!」
「酒に弱いのか? 水割りの方がいいか?」
「煩ぇ、放っておけ。黙れ、とにかく、黙れ」

 声を潜めつつも強い語調で朝希が言った。その時、給仕の人間が近づいてきた。慌てて朝希がそちらを見ると、二人分の料理を手に、従業員がやってきた。それらをテーブルに置かれた時、礼を告げる。そしてその者が去ってから、改めて朝希は眞郷を見た。眞郷はおしぼりで手を拭いている。

「ここの料理は、もう何度も食べたが、美味いよな」
「そ、そうだな」

 話が変わっている事に、朝希は心底安堵した。それからナイフとフォークを手に取り、牛肉を切り分ける。すると箸を手にしてから、眞郷が言った。

「しかし大進歩だな。規格外野菜にも廃棄以外の道がある事には、納得してもらえたんだから。それで? 本題だ。今のそちらへの考えは?」
「……本当に、規格外でも有効に活用できるのか?」
「出来る。出来るようにしてみせるし、実際既にいくつもの成功例がある。失敗したとしても、それを糧に新しい考えを導き出す事も可能だと思っている」

 眞郷はそう断言した上、強い口調で前向きな見解を述べた。朝希はそれを一瞥し、考えてみる。

 ならば、己にも有効な活用方法があるのだろうか、と。しかしすぐに、『無いな』と内心で思ってしまった。

「なぁ、朝希くん。規格外には規格外の個性、規格外の良さがある。俺だって、ある意味では規格外だが、それで困った事は一度も無い」
「完璧なあんたにも、なにか外れたところがあるのか?」
「俺が完璧? そう見えるなら、それはそれで嬉しいが――ゲイはまだまだ認知されていない。偏見は減ってきたかもしれないが、朝希くんも初めて会ったと話していただろう? 決して多い存在じゃない。それは、人間の規格として異性愛者が普通だという社会通念があるからだ。その外側にいる俺みたいなゲイは、ある意味で規格外だろ?」

 笑みを崩さないながらも真摯な目をした眞郷に言われて、朝希は手の動きを止めた。自分と眞郷が同じ事を考えていると知り、正直驚いていた。
「そう……だな。ゲイは規格外だと、俺も……べ、別に眞郷さんがそうだって言いたいんじゃなくて……客観的に男が男を好きだというのは、規格外だと思う……」
「だが、ゲイにはゲイの良さがある。個性もある。俺はそう思う」
「ゲイの良さってなんだよ?」
「自分の感情に素直だという事だな。それは異性愛者も変わらないかもしれないが、特に同性愛者は、愛に素直なあまり、性別を気にしない。これは、ちょっと簡単な気持ちでは真似できない事だと俺は思うんだ」
「普通は真似したいと思わないんじゃないか? 多くの男は女が好きだ」
「女性しかダメな男を否定するわけじゃない。ただ男性しかダメな男がいたっていい。そしてゲイは、社会通念上、自分で気づくのが本当に大変だ。自分にじっくり向き合わないと、そうか否か分からない。自分に向き合ってきちんと答えを導き出せるというのは、俺は素敵だと思う。自画自賛だけどな」

 朝希にとっては隠すべき恥ずべき事で悩みの種だというのに、眞郷の手にかかるとそれすら明るい事のように一変する。根本的に物事の見方が違うらしいと、朝希は気づいた。それこそが、眞郷を眩しいと思う理由でもあるのかもしれない。

 眞郷の言葉が、真実だとするならば。

(俺にも、なんらかの有効活用可能な側面があるのか?)

 朝希は漠然とそう思った。

 一度考え始めると、その可能性がぐるぐると脳裏を埋め尽くす。本当は、分かっていた。誰かに自分を受け入れてもらいたいのだと。そして否定せずに、理解してもらいたいのだと。だがそれは、ゲイである事を隠したままでは勿論困難だし、現状から一歩踏み出さなければ無理な話だ。野菜だってそれは同じで、トマトだってここで決断すれば――己が認めてさえあげれば、可能性が広がる。

 少なくとも、自分自身についてはまだ結論が出ないが、トマトに関しては、もう出ているようなものだった。

「眞郷さんの考えは分かった。だから……まず、トマトだけなら……前向きに考えてみてもいい」
「本当か?」

 すると勢いよく眞郷が立ち上がった。そして朝希の隣に立つと、屈んで強引に朝希の両手を取った。驚いて朝希が瞠目していると、ギュッと朝希の手を握りしめた眞郷が、満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。

「ありがとう、朝希くん」
「っ」

 触れている眞郷の大きな手から伝わってくる体温に、自然と再び鼓動が早鐘を打ち始める。動揺した朝希は、手を振り払う事も出来ないまま、暫く眞郷を見上げていた。眞郷は嬉しそうに今後の流れを語っているが、握られた手の方が気になってしまい、朝希の耳には半分も話が入ってこなかったのだった。