第七話
そこに立っていたのは、薄手の茶色いコートを着た青年だった。高級そうな革靴とネクタイ。一目で医療従事者でないことが分かった。
正確に言うのであれば、相応のステータスを持つのであろう、裕福層の人間だろうと直感した。冷静に観察する余裕があったわけではない。だが、瞬時にそう考えてしまっただけだ。
「亘理さんですよね? もしかしてそちらは、ご家族の方ですか?」
「……妹です。俺は確かに亘理ですが……貴方は?」
「遇津雪野と言います」
「遇津……?」
「ああ、この遇津総合病院の経営者の一人でもあります。そうですか、妹さんですか。まだ息がある。特別室に運びましょう。助かるかもしれない」
「特別室?」
「亘理さんのご家族ですから、特別です。この病院の最上階は、ワンフロア、特別室になっているんですよ。最先端の医療を保証します。特別な方に対してだけですが。いついかなる時も。例えば、こうした悲惨な事件の場合であっても。亘理さん、貴方は大変優秀な研究者だ。勿論貴方は特別だし、そのご家族ならば受け入れに否はない。さぁ、急ぎましょう。助かるものも助からなくなる」
そう口にした遇津は、柔和な笑みを浮かべて頷くと、迷い一つみせずに、沙月の体を抱き上げた。実の兄である亘理すら困惑と、そして認めたくはないが死臭が誘う恐怖から、触れることが出来なかった妹の体を、抱き上げたのだ。
そのまま駐車場脇の、職員専用入り口から中に入り、専用エレベーターに乗った。最上階まで、直通だった。沙月はそのまま手術室へと運ばれ、その後ICUでもある専用の部屋へと移された。亘理自身の理解が追いつく前に、遇津の手により、全ての手配は済んでいたし、沙月は高度な医療に預かれた。そして、一命を取り留めたのだ。
亘理は、その報せを聞くまでの間ずっと、廊下の黒い横長のソファに座っていた。
何事にも現実感が欠けてしまっているようなのに、瞬きをする度に、妹の姿が過ぎるのだ。
両親がやってきたと気がついたのは、車いすの音がした時だった。
視線を向ければ、父が車いすに乗っていて、母がそれを押していた。
「無事で良かった。大丈夫なのか?」
一気に安堵して、涙ぐみながら亘理は聞いた。
すると父は、僅かに顔を引きつらせた後、微笑した。すぐに見慣れた笑顔が浮かんだから、気のせいだろうかと亘理は考えた。――後に、父の表情が強張ったのは気のせいでなかったと知ることになるのだが。
母はと言えば、不機嫌そうな顔で、頬にはった大きなガーゼに触れていた。
「まったく。痕が残ったらどうしてくれるのよ」
それから母は溜息をついた。
亘理の母は、己の美貌に誇りを持っていた。確かに、自他共に認める美人だった。無論、人には好みもあるから、絶対的ではないが、多くの人間が美しいと認める容姿の持ち主なのは否定できない。豊満な胸に、細いくびれ。抜群のスタイルの持ち主でもある。
亘理は、目元こそ切れ長で父に似ているが、それ以外は母親似だ。妹など、母とうり二つ――……だった。では、今は? そう考えて、亘理は無意識に両腕で体を抱いた。
「まぁ、依月が無事で良かったわね」
母はそう言うと、漸く笑った。亘理もまた、思考を振り払い、笑って返した。
亘理は、母が自分のことを、それほど好きではないと知っていた。幼い頃は、頻繁に殴られもした。それが変化したのは、亘理が優秀な成績を残すようになってからだ。同時に、研究成果が莫大な報酬に繋がると知った頃からである。亘理の母は、非常にプライドが高い。そして自分にとって有益だと判断した物を好む。お金も好きだ。
大変わかりやすいそんな母親のことが、亘理自身は、嫌いじゃない。好成績を残して褒められれば純粋に嬉しかった。
一方の、亘理の父は、宇宙関連の会社を経営している。民間のロケットなどを製作販売しているのだ。一応社長だ。人当たりも良く、どちらかといえば思慮深い。優しい父だと、亘理は思っていた。
その日亘理は、母は頬に切り傷を負っただけ、父は腰と足を痛めただけだと聞いた。
面会謝絶の妹には、その日は会わず、だが帰宅する家も爆弾で大破していたため、顔を出した遇津雪野の好意で、特別室の一室を借りて宿泊した。
一週間後、妹が目を覚ますまでの間、豪華なホテルのようなその部屋に、亘理の母は夢中だった。
そして面会に行き――母親が凍り付いた。
驚愕で目を見開き、長い睫を震わせていた。
そのまま母は、何も声をかけることなく、病室を後にした。
沙月の瞼は焼き付き開かないままだから、母の姿を見ることは無かった。
亘理は名前を呼びかけたが、妹は小さく頷いた後、すぐにまた眠ってしまった。
だから父と二人で病室を出た。
――終始冷静だった父は、妹にも「無事で良かった」と声をかけていた。
実際には無事とは言いがたいと思いながら、亘理は車いすを押す。
すると、誰もいない二人きりの廊下で、父が苦笑混じりにポツリと言った。
「母さんには言わない事を前提に聞いてくれ」
「なんだ?」
「俺はな、もう歩けないんだ。下半身の感覚が一切無い」
「え?」
「下半身不随になったそうだ。今の医療じゃどうにもならないらしい」
「……」
「沙月にしても、現在の医療では、怪我自体が完治しても人工皮膚やクローン四肢の移植には、数十年単位の時間がかかると考えた方が良い。以前の通りに、元の通りに戻る事は、はっきり言って、期待しないべきだ」
亘理は、何を言えばいいのか分からなかった。
そうして、無言のままで、あてがわれた部屋へと戻った。
すると扉を閉めるなり、母親が足早に歩み寄ってきた。
そして亘理の襟元を掴み、涙のにじむ瞳でにらみつけた。
「何考えてるのよあんたは! どうして……どうして、どうして! どうして、どうして殺してあげなかったの? 死なせてあげなかったのよ! あんなになって、生きていけるわけないじゃないの! 誰が世話をするって言うの? 医療費はどうするわけ? 第一何より、気持ちが悪いじゃないの、あんなの……あんなのって。あんまりよ! 死なせてあげれば良かったのに。最低。本当に最低。酷すぎるわ!」
以後、数日の間、母からの糾弾は続いた。
亘理のせいだと、亘理が悪いのだと、母は何度も何度も口にした。
その涙を帯びた怒声を父が止めることも特にない。
その後両親は一度も、妹の見舞いには行かなかった。
父の体のことが母に発覚したのは、爆発事件の丁度二週間後のことだった。
結果として母は、亘理が妹の見舞いに部屋を出た後、父の体を果物ナイフでめった刺しにした。そして自分の首も切り、自殺を図った。
しかしここは病院だったから、二人ともすぐに処置をされ、命は取り留めた。
父の意識は戻らない。母はすぐに目を覚ましたが、死にたい死にたいと、ただひたすらそれを繰り返し、人形のようになってしまった。母はその後、窓から飛び降りた。やはりこの時も一命は取り留めたが、打ち所が悪く、全身に麻痺が残り寝たきりになった。
横たわったまま、母は憎悪の言葉を吐く。
結果として両親も入院しているわけだが、亘理はそろそろ、出て行くべきだと考えていた。いつまでも遇津に甘えているわけにはいかない。そう考えて、父の荷物を整理していた時、偶然手帳を見つけて、何気なく開いた。
そこに記されていた、歩けなくなってしまったことに対する悲愴――その遠因となった亘理への呪詛を見た。絶対に許すことが出来ないという言葉を目にした時、一生恨むと書いてあったのを認識したその時、亘理の体を絶望感が包んだ。
それから、毎日の日課だからと、義務的に妹の病室へと見舞いに向かった。すると妹は、掠れた声で、涙を流しながら、いつもと同じ事を言った。
「もう友達と遊べない」
「もう走れない」
「髪型も自由に出来ない」
「好きな服も着れない」
「全身が痛い」
「だけど心が一番痛い」
「もう死にたい」
「どうして死なせてくれなかったの」
「全部全部お兄ちゃんが悪いんだ」
亘理は、自分がいつの間に病室を後にしたのか、記憶になかった。