第十話



「これからは、仕事がなければいつでも会えますよ。出世して一人暮らしできれば、そこに専用モニターを運んでも良い。ただ、亘理さんは、よくご存じですよね? この国では、仮想現実の終末医療への利用は、まだ未認可である事を。露見すれば、悪くすればこの水槽は、叩き割られるわけです。ですがご安心を。全く運が良いというか何というか。この病院に実験指示を出したのは、国防軍なんですよ。勿論非公式ですし、国防軍の中の賛同者の派閥の指示というのが正確なところです。ねぇ亘理さん。妹さんとご両親を守るためにも、協力してもらえませんか? 軍の内部の協力者は、多ければ多いほど良い。ま、別段この実験のことを暴露しても構いませんよ。そうしたらご家族はあの世逝きですけど、なんていったら脅迫みたいだな」

 それは紛れもない脅迫だったのだろうが、亘理は断らなかった。
 断る言葉すら出てこないほどに、感情が溢れかえっていて、胸が苦しかったのだ。

 そして結果、現在に至る。

 今では大貫中佐と遇津コーポレーションの間で行われる取引の手引きなどをしている。

 遇津側は、亘理が大尉になるまで、特に何も行動を起こすことも接触してくることもなく、ただただ単純に、家族と連絡を取らせてくれた。出世を本気で待っていたのだろうか。だから亘理に指示が出るようになったのは、ごくごく最近なのだ。

 その指示も、大貫中佐の尻ぬぐいをするというもので、遇津関連に無関係の仕事の方が多い。遇津コーポレーションや総合病院、仮想現実のシステム的利用に関する仕事は、ごく少数だ。同時に、尻ぬぐいを幾度となくしてはいるものの、大貫中佐が漏洩している情報の内容も、亘理は知らない。純粋に、興味がないという方が正しいだろう。

 亘理は度々考えている。いいや、正確に言うならば、水槽に浮かぶ家族の脳を見たその時から、気がつけば考えている。遇津は、家族の命を人質に脅迫してきた。

 しかし彼は、それが亘理にとって、何の脅迫にもなっていないと言うことに気づいていなかったのだ。

 妹と直接会話をし、その笑顔を見て、優しい声をかけられた瞬間に、亘理は決意していた。


 ――この水槽を、絶対に銃で脳ごとぶち抜く。


 勿論水槽の機能を停止させたり、薬液を抜き取るだけでも、脳死を誘うことは可能だ。しかし、念には念を入れ、そして何よりきちんと死をこの目で見るためには、脳を撃って破壊したいのだ。

 そう、あんな笑顔も優しさにも、亘理はたえられなかったのだ。

 苦しく辛い現実にだって、やっぱりたえられなかったけれど、それでもまだその方が『現実』だから理性をギリギリの所で保つことが出来た。

 きっと今の妹は幸せだろう。そして妹と笑顔で話せることが、幸福じゃないとは勿論思わない。だけどやっぱり、それが本物だとも思えないのだ。個人が自由に好き勝手に形作った過去を土台にした幸せな仮想現実を、今となっても亘理は認めがたい。

 仮想現実の利用自体に批判的なわけではないのだ。
 仮想現実を仮想現実だと認識しないことが冒涜的だと思うのだ。

 それまでの生の記憶、外殻こそ保っているとはいえ、著しく改変してできあがるような世界が、虚構以外のなんだといえるのか。せめて、記憶を保持した状態で、そこが仮想現実空間だと理解できる状態にしなければ、利用すべき技術ではないと思うのだ。人間の尊厳への冒涜だ。

 ずっと妹の笑顔を見たかった。けれどそれは、己を憎悪していたあの妹のことであり、姿形がどんなに変わろうとも、最後までピアスをつけてくれていた、あの沙月の笑顔を見たかったと言うことなのだ。両腕で抱きしめたいたった一人の妹だ。

 恐らく、自分とは異なり、元気になった家族をモニター越しに見て、心から喜び涙する人間も多いだろう。亘理自身の涙にも、確かに歓喜だって含まれていた。

 同時に――仮想現実の中で幸せに生きている、脳だけになった妹を自分は殺すわけだ。
 沙月の幸せを壊すのだ。
 勿論そこに罪悪感がないわけではない。

 妹を手にかけたら、勿論責任を取るつもりでいる。
 亘理は、己の死をもって、そうしようと考えているのだ。


 ――そんな回想にふける内に、気づけば自宅の前へとたどり着いていた。

 ポケットを探って鍵を取り出す。
 声がかかったのは、鍵を回してドアノブに手をかけた時のことだった。

「ねぇ、ちょっとお話しない?」

 亘理は振り返り、そこに森永少佐の姿を認めた。
 彼が吐く白い吐息が空へと登っていくところだった。